座談会:じつを言うと、「なんで、いまの時代に城を建てないといけないの?」といった気持ちでした。

市民の寄付から始まった「昭和の城普請」

──まず、長浜城歴史博物館との関わりを簡単にお話しいただけますか。

三山 長浜城歴史博物の建設にあたっては、長浜市の都市計画課、建築課、教育委員会がそれぞれ仕事を分担して進めていたのですが、それを総合的に調整する役割だった企画課で、私は課長補佐をやっていました。

吉田 私は建設当時は、長浜市の広報係長でした。平成12年(2000)から1年間、教育部長と博物館館長を兼務し、翌年に定年退職してからは館長専任で、通算4年8か月、館長を務めました。

太田 昭和61年(1986)から28年間、学芸員、平成26年(2014)から28年までの3年間、館長を務めさせていただきました。その後、5年間ほど市役所で働いて令和4年3月に退職しました。

福井 平成22年(2010)の合併にともない虎姫町教育委員会から長浜市に移りました。博物館友の会事務局の担当などを経て、令和3年(2021)4月から館長を拝命しております。

──まず、開館の頃のようすを、三山さん、吉田さんからお話しいただけますか。お二人とも当時は30代後半で、市役所内でも若手だったと思うのですが。

三山 私が20代後半の頃に市の方針が「お知らせ広報」から「政策広報」に変わって、もともと庶務課にあった広報係が市長公室という市長直属の部署内に移ったんです。私はそこで仕事をしていました。

 やがて、市が総合計画を立てる準備として市のあり方を市民とともに論じる必要があると言われ出した頃に、私は企画課の係長になって、広報係をやっていた吉田君といっしょに、市の施策が正式決定する前から広報で市民向けに問題と課題をどんどんお知らせするようになったんです。

吉田 総合計画の策定と連動させて、「広報ながはま」で昭和52年(1977)の1年間、「わがまちを考える」と題して長浜の歴史と現在の課題を記事にしたところ大好評で、「もっとほしい」と言われて1000部増刷したこともありました。

昭和52年に「わがまちを考える」というシリーズ記事を掲載した「広報ながはま」(右が1月号、左が4月号)

三山 地域の歴史や文化に対する市民の盛り上がりを感じていたなかで、昭和53年(1978)10月に長浜市は第2次総合計画を策定して「活力に満ちた風格のあるまち」を将来目標に掲げたんです。計画の中では、地域文化を見直し、再創造する拠点施設として歴史民俗資料館をつくることも打ち出されていました。

 すると、それを知った浜縮緬会社経営の長谷久次※1さんと、京都にお住いの弟の定雄※2さんが、「できれば、城郭型のものをつくってほしい」と言って、1億5000万円の寄付を申し出されました。

 それを受けて、正式に豊公園に歴史民俗資料館を建てるということが決定したわけです。それ以前は建設場所は決まっておらず、長谷ご兄弟のご希望にそって豊公園の中の城跡の近くに決まったという経過です。

 じつを言うと、私自身は最初は冷ややかだったんです。長谷さんの寄付後、募金委員会をつくるから事務局を担当しろと言われた時点では、「なんで、いまの時代に、城を建てないといけないの?」といった気持ちでした。資料館を建てることには賛成でしたが、天守型にする必要があるのかと。

 ところが、その年の雪の降る日、募金委員会が置かれた市役所3階に長いコートを着たおじいさんが上がってきて、握りしめたお金を差し出して「これで城をつくってほしい」とおっしゃるのを聞いたら、城に対する市民の思い入れの強さを実感してね。

 そうした例が他にもたくさんあって、私は当初の考えを反省しました。結局、市民からの寄付はのべ8200人、合計金額4億3000万円にのぼりました。

模擬天守の屋根に葺かれた瓦には、寄付者の氏名が墨書された(長浜城歴史博物館提供)

吉田 あんなことは後にも先にもないですね。私なども、市職員として寄付、自治会で寄付、仲間たちとでも寄付と、何回も小口の寄付をしたものですから、完成したときには、市民同様に自分のマイホームができたような喜びを感じたものです。

三山 昭和56年(1981)に建設工事に着手しました。市民からの寄付は多額とはいえ、建設費にはとてもたりなかったんです。そこで、まず都市計画課が、城郭型の展望台をつくるという名目で、建設省から豊公園施設整備事業2億円の国庫補助を引き出しました。

──だから建設中の工事現場の看板では、「展望休憩館」となっているわけですね。

三山 その一方で、教育委員会は資料館を建てる名目で県から補助金をもらったり、お金の出るところを探して、総事業費12億円を捻出したのです。


※1 長谷久次 (1910〜1992)長浜市神照町にある浜縮緬製造会社「南久ちりめん」の3代目社長。

※2 長谷定雄 (1915〜2006)久次の弟。京都で縮緬白生地卸問屋「長谷」を経営する一方、大阪で貸しビル業を成功させる。


博物館がまちの顔になっていたヨーロッパの都市

吉田 当初の総合計画では「資料館」だったのを、当時の片山喜三郎市長に「博物館でないとあかん」と直談判したのが三山さんです。ですから、三山さんなくして長浜城歴史博物館は存在しなかった。

三山 そうした行動の背景には、昭和54年(1979)11月に長浜市が姉妹都市提携をしているドイツのアウグスブルク市※3へ、初の市民親善使節団の一員として訪問した経験がありました。青年会議所の理事長を団長に28人のメンバーで、私は事務局長のような立場で市との交渉役、吉田君もいっしょでした。

 アウグスブルクの市民と接する中で、まちに対して誇りをもつ姿とともに、美術館や図書館では、建物自体の立派さはもちろん、そこの学芸員の活動に感動したわけです。その後、フランスのパリやイギリスも巡ったのですが、どこへ行っても、都市にはまちの顔となる博物館なり美術館がありました。それがまちの核になっているという印象を強く持って帰ってきたわけです。

 それで学芸員のいる博物館を建てたいという気持ちが高まって、片山市長に直談判したわけです。市長には、「そんなに言うんだったら」と納得していただけて。

──そのまま資料館の扱いだったらどうなっていたのですか。

三山 市の定年退職した人を2、3人置いて、ただ古い武具などが並んでいるだけの施設になっていたと思います。

 城郭型になると決まってから、唐津城(佐賀県)、小倉城(福岡県)、大多喜城(千葉県)など、全国の城を見て回ったんです。しっかりした展示のお城もありましたが、例えば会津若松城(福島県)へいっしょに行った、当時の開設事務局長で、開館時に初代館長になられる三原榮一さんは、「こんなもん、あかん」とおっしゃっていました。

 復元天守自体は、長浜城と同じ藤岡通夫※4先生が設計を手がけられたものでしたが、学芸員もいない単なる展示館になっていて、入場者もまばらでした。

──模擬天守の設計に関して、何かご記憶はありますか。

三山 設計のお願いも、私が藤岡通夫先生のお宅にうかがって交渉しました。藤岡先生は、「他の城を復元したところは、残っていた図面をもとにしているけれど、長浜は何もないからこそのおもしろさがある。天正時代に建った城を参考にしながら、論文でなく、小説を書くようなつもりでやらせてもらいます」とおっしゃっています。

 それと藤岡先生からは、城を建てると同時に、「長浜の文化財を見直すように」と強く言われた覚えがあります。それぞれの文化財と長浜城との関連から位置づけしなおす必要があると。

──当時の天守型の施設というと観光メインで、ちゃんと学芸員を置くようなところは稀だったわけですね。

三山 そうです。長浜城も初めの計画では、市や県、国指定の文化財を置けるような施設ではなかったんです。重要文化財を展示できる施設にしてほしいと、市長にやかましくお願いしました。

 当時の事情を説明しておくと、ちょうど滋賀県で国体が昭和56年(1981)に開催されることになっており、その事務に加え、先代の長浜駅舎改築、城づくりの調整、企業誘致など手に負えないほどの仕事を企画課が抱えていました。振り分けていくなかで、長浜城については、まだ若造だった私が実質的な責任者みたいになっていたんです。市の重要施策として市長自ら陣頭指揮を取られたこともあって、やりやすかったというのもあります。

 それと、吉田君もそうだったと思うのですが、市役所の内部だけでなく、市民に応援団がたくさんいたんです。商店街や青年会議所、ロータリーやライオンズクラブなどが、ことあるごとにゲストスピーチに呼んでくださって、よくうかがっていました。そうした後ろ盾があったから、内部の会議でも発言できた面があります。

 ただ、市が掲げた「活力に満ちた風格のあるまち」という将来目標については、市議会では「風格って、なんや? わからんぞ」と、質問の嵐でした。もっと具体的な方向性を示すために、市役所の職員でプロジェクトチームをつくることになって、そのまとめ役もやらせていただいていました。

吉田 私もそのチームのメンバーで、三山さんから薫陶を受けて、町の中に飛び込んでいって若い実業家の人たちとの接点ができたので、のちのち力になってくださいました。

三山 一方では、大学の先生にもずいぶんお世話になりました。一番影響を受けたのは京都府立大学の吉野正治※5という都市計画が専門の教授です。長浜城歴史博物館との直接的な関わりはないのですが、市の総合計画に企画・立案の段階からアドバイザーとして関わってくださった吉野先生にはいろいろな影響を受けたように思います。

──まちづくりの面でですか。

三山 はい。例えば市立長浜小学校の校舎を昭和39年(1964)に新築していますが、市にお金がないから、表の駅前通りに面した土地を滋賀銀行や日本生命に売って、建築費の一部にあてたんです。小学校の校舎から銀行や保険会社の建物を吉野先生がご覧になって、「三山さん、これは何ですか。表から見たらきれいだけども、建物の裏は打ちっぱなしじゃないですか。これを毎日、小学生が6年間見ているんですよ。これでまちづくりができますか」と言われたときは、ショックでした。

 文化というなら、そういった点にも気配りをして取り組むべきだということを教わりました。博物館の場合も、建物も大切だけど、そこにいる職員、そして発信する力がないといけないということは、吉野先生から教えてもらったような気がしますね。

──開館当初では、太田さんは何か記憶がありますか。

太田 僕は、昭和61年(1986)から3年間は臨時職員の形で入ったので、開館前や直後のことは知らないのですが、やっぱりいくつかの卓見といえるものがあったと思います。長浜の場合は、天守型の博物館にしたことが、その後の集客面で、非常に有利に働いた。それと同時に博物館施設にしてくださったことが、その後の方向を決定づけたと思います。

 いわゆる模擬天守にあたる施設は日本全国にたくさんあって、私もかなり行きましたが、学芸員がいてまともに博物館として稼働しているのは大阪城天守閣、それから上山城郷土資料館(山形県)、福山城博物館(広島県)ぐらいだろうと思います。名古屋城や広島城にも学芸員がいますが、鉄筋コンクリート造の模擬天守というと、多くは中に古い甲冑などを並べただけの施設で、長浜城もそうなる可能性がありました。

 最近も名古屋城の木造天守を再建する計画がありますが、個人的には冒険だと思っています。木造で復元された天守はいくつかありますが、成功している例はあまりありません。中を展示室にはできないので、企画の打ちようがないし、使い勝手も悪いと思います。
 むしろ近年は、復興天守や模擬天守が新たな文化財として扱われようとしています。昭和6年(1931)築の大阪城天守閣がすでに登録文化財になっていますからね。これらがまちづくりの核として見直される時代になってきている現在から見て、本当に卓見だったなと思っています。

──ただ、天守形5階建ての施設は、展示にあたって難しい面もあるのでは。

太田 展示をするには、四角い箱が一番やりやすいんです。展示は基本的に右から左に来館者を誘導するのですが、長浜城は真ん中に階段があって、動線をつくりにくいですね。

 また、入り口が狭いので、大きい資料が入らない。NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の特別展で、東京にある祐天寺所蔵の江の位牌を納めた旧崇源院霊屋宮殿を展示しようとしたら、大きすぎて入らず、第2会場の曳山博物館に展示したということもありました。


※3 アウグスブルク市 ヤンマーの創業者・山岡孫吉がディーゼルエンジンを発明したルドルフ・ディーゼル博士の出身地である当市に博士の記念碑を立てたことをきっかけに、長浜市と姉妹都市提携を結ぶ。

※4 藤岡通夫 (1908〜1988)東京工業大学名誉教授。建築史家。城郭・遺構研究の蓄積をもとに、小田原城、熊本城などの外観復元にたずさわる。

※5 吉野正治 (1929〜1996)工学博士。京都府立大学生活科学部教授などを歴任。『都市計画とはなにか』など著書多数。


長浜を変えた「博物館都市構想」

太田 話をもどすと、もう一つ重要だったのは、先ほど三山さんのお話に出てきた市役所職員のプロジェクトチームが昭和59年(1984)に策定した「博物館都市構想」です。以後も長浜市はいろいろな施策を打ってきましたが、「市民総学芸員」という目標を掲げて地域の歴史・文化を学び、市民と行政で町並み整備による個性あるまちづくりに取り組んだ、この構想に勝るものはなかったのではないでしょうか。

三山 先日、黒壁の現会長で、長浜のまちづくりにも貢献されてきた髙橋政之さんが自分史(12ページ参照)をまとめられ、そのお祝いの出版記念会が開かれました。その席で、知己の何人かから「長浜のまちづくりがうまくいったのは、博物館都市構想があったのが大きい」と、声を掛けてくださったのが、すごくうれしかったです。

吉田 博物館都市構想がなかったら、長浜を観光面で復活させた黒壁もなかったです。

太田 博物館と文化遺産がまちづくりの中心になることを確立してくれたという意味で、とても重要だったと思います。

──昭和58年4月5日の開館、それに続く記念行事は大盛況だったそうですね。

吉田 開館初日の入館者が7000人、4月29日から5月8日まで、ゴールデンウイークの10日間、豊公園を会場にして催された「第1回長浜出世まつり」には、約52万人の人出がありました。

 この成功の影にはマスコミに向けた三山さんの働きかけがあったのですが、とにかく湖周道路が大渋滞になるほどで。この年の全国のゴールデンウィークの人出では全国7位になりました。

開館を記念して豊公園でおこなわれた「第1回長浜出世まつり」のようす(長浜城歴史博物館提供)

三山 あとで、叱られたんですよ。

──混雑しすぎたからですか?

三山 いえいえ、50万人も人が来ているのに、町の中に人が行かなかった。「商店街のほうは閑古鳥が鳴いていた。どうしてくれるのや」と叱られて、まつりが終わると同時に商工観光課へ異動させられたんです。

──それは、三山さんの能力を見込んでということだと思いますが。開館当初の展示内容を見ると、旧長浜市域や戦国時代にこだわらず、湖北の歴史を古代から近代までたどった展示ですね。

三山 旧長浜市の施設でしたが、初めから湖北一帯の歴史を紹介することは決まっていました。

吉田 平成の合併以前から、文化圏や生活圏として「湖北は一つ」という住民意識はありましたからね。

博物館のレベルアップと市民との協力

──太田さんが学芸員として活動なさっていた時期に移ってよろしいでしょうか。

三山 私は、長浜城を博物館として育ててくれたのは、太田さんだと思っています。

吉田 私もです。太田さんの功績は本当に大きい。

太田 30年近く働いていたなかで、目指してきたことは二つありました。一つは博物館としてのレベルを保っていくこと。すでに建設の時点で、文化庁などと協議していただいて、重要文化財などが展示できる施設になっていたのですが、福井正俊さんという事務方のお力もあって、昭和62年(1987)に登録博物館※6となりました。

 それから、平成8年(1996)に文化庁が公開承認施設※7という制度をつくったんです。国宝や重要文化財の公開促進を目指したもので、公開にあたって、事前申請の必要がない施設を承認する制度で、長浜城は平成8年の制度発足と同時に承認施設となりました。

 事実上、この制度は博物館のランクづけになっていて、所蔵者によっては公開承認施設かどうかで貸し出しの可否を決めておられるところもあります。つまり、公開承認施設になっておかないと、よい特別展はできません。

 そのためには、学芸員が一定数いないといけないし、企画展・特別展も年に何回やらないといけないといった規定があります。施設内の空気環境面では、文化財活用センターが推奨する検査薬を用いて、コンクリートなどから出るアルカリや酸の濃度を測り、基準をクリアする必要があったり。

福井 公開承認施設の数が、現在、全国で約100館、そのうち滋賀県は8館※8と非常に多いんです。

太田 普通は県立の博物館と美術館の2館だけという感じなのですが、滋賀県は県立、市立、私立ともがんばって承認施設になっています。長浜城は、合併前で人口5万人規模だった市立博物館が承認施設になったのですから、手前味噌になりますが、誇っていいことです。

 ただ、そのレベルを保つために文化庁からの注文も多いので、私の後の秀平文忠館長や福井館長はとても苦労したと思います。

──長浜城の企画展には、全国向けのものと、市民向けのものと2種類があるように思いますが、意識しておられますか。

太田 両者がバランスよく開催できるように意識していました。全国向けの、特に戦国時代をテーマにした企画展はやはり入館者数が見込めます。一方、郷土性が高い企画展は、あまり人は入りませんが、市民のために必要という考えです。

 三山さんや吉田さんが目指された、博物館運営を市民にどうやって開いていくかという課題にも関わるのですが、長浜の場合、全国向けの入館者が見込める企画展やNHK大河ドラマに合わせて開催してきた博覧会4回によって、博物館友の会の活動がうまく盛り上がったという事例があります。

 平成8年に1回目の「北近江秀吉博覧会」、2回目が平成18年の「北近江一豊・千代博覧会」、3回目が平成23年の「江・浅井三姉妹博覧会」、4回目が平成26年の「黒田官兵衛博覧会」とあって、2回目の「一豊・千代博」の時に友の会の大改革をおこなったんです。

 それまでは、会員の活動が受動的だったので、入館者への展示案内をする「一門衆」というグループをつくってもらいました。その後は、ミュージアムショップの運営も友の会にお願いして、図書やグッズの販売収入が友の会の財政基盤の一つになっていきました。

 友の会会員が直接文化財に触れる部分に関わってもらうのは難しいので、講演会や見学会のサポートを担当してもらう「黄母衣衆」というグループもつくってもらいました。

──本誌138号で友の会の皆さんにお話しいただいた時もおっしゃっていましたね。

太田 それから、これは自慢話みたいになってしまいますが、平成9年(1997)の特別展「小堀遠州とその周辺」では、それをきっかけに長浜で遠州流の茶道が再興されました。特別展というのはどうしても自己完結的というか、学芸員が自分の成果を発表するだけの場になりがちなので、こうした動きにつながったことは個人的にかなり大きな思い出です。

 また、吉田さんが館長の時期では、平成15年(2003)の特別展「江戸時代の科学技術 国友一貫斎から広がる世界」と、それに関わる事業が、民間や大学との関わりという点で大きかったと思います(本誌145号参照)。

 企画展の5、6年前から京都大学の天文や工学の研究者の方たちとつながりができて、文科省のもとで進められていた全国的なプロジェクトに長浜城歴史博物館も関わっていきました。

吉田 当時、京都大学の先生や国立科学博物館の方の一貫斎への評価が、地元の私たちが考えていた以上に高かったんです。

太田 冨井洋一教授と松田清教授は、一貫斎が空気銃を製作した時に手本としたものと同型の現物が、オランダ・デルフト市の王立陸軍武器博物館にあるということを突き止め、現地まで行って、その空気銃を借りてきてくださったんです。輸送費などの経費も京大が負担してくださって、一応、銃ですから手続きもかなり難しかったと思うのですが。

 これを長浜城で展示するなんてことは、私たちだけではとてもできませんでした。


※6 登録博物館 博物館法で定義された事業をおこない、館長・学芸員を置き、年間150日以上の開館などの条件を満たして、博物館登録原簿に登録された施設。

※7 公開承認施設 条件を満たした施設と国指定文化財の公開実績を有し、文化庁長官の承認を受けて、国宝や重要文化財の公開手続きの簡素化が認められている施設。

※8 滋賀県の公開承認施設 滋賀県立安土城考古博物館、長浜城歴史博物館、野洲市歴史民俗博物館、彦根城博物館、大津市歴史博物館、滋賀県立美術館、MIHO MUSEUM、観峰館(平成5年4月現在)。


教育委員会から首長部局への移管

──平成18年(2006)と平成22年の合併で新長浜市が誕生しました。福井さんは、旧虎姫町の教育委員会におられたわけですが、いかがですか。

福井 虎姫町時代にも、資料調査や活動で長浜城歴史博物館と関わることはあったのですが、合併後に博物館への配属となって改めて思ったのは、長浜城歴史博物館は、市のシンボル的な存在であるということです。とくに館長になってみると、特別な存在として見られることをすごく実感しています。

──福井さんの就任時は、「初の女城主」といった報道もありましたね。

福井 お城の形をしているからというばかりでなく、開館以来、地域に密着した活動を続けてきたからなのでしょう。市役所内の職階はそんなに高いわけではありませんが、例えば青年会議所の新年会のような場に、長浜市長といっしょに館長も来賓として呼ばれることもあります。

太田 実際の職階をもっと上げてほしいぐらいです。長浜を代表する人物の一人として扱ってほしいですね。

吉田 私なども、初めてお会いした方には元長浜市助役という肩書きより、元長浜城歴史博物館館長の方が値打ちがあるように感じます。

──最近の変化として感じておられることはありますか。

福井 これは全国的な流れでもありますが、博物館の所管が教育委員会から首長部局※9に移ったことは大きな変化です。
太田 そう。私が館長になった平成26年(2014)に市役所内に「歴史文化推進室」がつくられて、館長はその室長も兼ねるようになったんです。2年後には首長部局の市民協働部に新設された「歴史遺産課」に所属することになりました。

福井 そして、今年度は産業観光部の文化観光課に「歴史まちづくり室」が設けられて、市内の博物館・資料館が所属しています。

 首長部局になったことで、市の政策に直接、関わりやすくなった一方で、求められることも多くなって、歴史のことを研究して、それを皆さんに成果として示すだけではいけなくなりました。

 もう一つの変化として、現在、豊公園の再整備計画が進められています。とくに駅から長浜城までのルートがすごくきれいになりました。長浜駅から見て、以前の長浜城は木々に隠れていたのが、今はしっかりと動線が確保され、目立つようになりました。

太田 いま話に出た首長部局になったことで、市のさまざまな施策に、博物館がどうやってリンクしていくか。さらには、市民の活動の場とリンクする機会を探っていくかが重要になっています。

 今年の長浜450年戦国フェスティバルも市民の動きとリンクして、歴史を活用した地域づくりの機会になったらよいと思います。

吉田 まちの活性化は、住んでいる者が自分の生まれ育った地域に対して誇りと自信を持つことから始まると思います。博物館の企画展や特別展が、そのきっかけになってもらえばと思いますね。

三山 最近はとくに、少子高齢化で地域に根ざしたいろいろな祭りや伝統行事の継承が難しくなっています。曳山祭はもちろん、小さな行事などの歴史にもスポットを当てていただければ、それが刺激になって、また新しい展開も起こり得るのではないでしょうか。ぜひ、お願いしたいところです。

──本日は興味深いお話をありがとうございました。
(2023.7.11)


※9 首長部局 地方公共団体の組織のうち、首長(市町村長)の指揮監督を直接受け、人事権が一般職員にまでおよぶ部局。教育委員会は首長から独立した機関と位置づけられ、これにあたらない。



編集後記

三山さんは、3ページの肩書きのとおり、米原市内の浄土真宗寺院の僧侶でもあります。先日、三重県総合博物館の企画展「親鸞と高田本山」を見てきたそうで、少し前に京都国立博物館であった特別展「親鸞─生涯と名宝」とは違うおもしろさがあったとのこと。太田さんによると、高田派は親鸞の弟子の系統ですが、血脈でつながる東西本願寺と同じく親鸞のものがよく残っているのだとか。地方には宝が眠っていると、改めて思ったそうです。(キ)


ページ: 1 2 3 4

連載一覧

新撰 淡海木間攫

Duet 購読お申込み

ページの上部へ