インタビュー:住民所蔵の資料を展示公開する場として「鉄砲のまち」に生まれたミュージアム

鉄砲研究会結成とともに始まった鉄砲の買い戻し運動

──まず、国友という町自体の立地や歴史からお尋ねしたいと思います。小谷城と長浜城の間を東西に流れる姉川の左岸に面した集落だったのですね。

吉田 当館の前を南北に通っている道は、米原と小谷を結ぶ「小谷道」といって、秀吉が長浜に城をつくるまでは旧の北国街道でした。

廣瀬 昔の国友橋は、この通りをまっすぐいったところに架かっていたのですが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で流れてしまったんです。本来は、こちらがメインストリート[下の写真参照]。

空中写真 左:昭和50年(1975)撮影/右:平成23年(2011)撮影(国土地理院サイトより)

吉田 銀行の支店やいろいろな商店が並んでいて、姉川を渡った旧東浅井郡側の人も買い物に来ていました。

廣瀬 戸数220〜230で、商店街もある農村部の町みたいなところだったんです。

──鉄砲に関わる店もあったのですか。

廣瀬 今も1軒だけ国友久太郎商店という火薬を扱う店があります。最近まで國友源重郎商店という銃砲店もありました。ともに江戸時代から鉄砲に関わってきたお店です。

──京都の寺町通りに國友銃砲火薬店※1というお店がありますね。

廣瀬 あのお店は、国友一貫斎※2の曾孫にあたる人が明治の初めに京都に出て始められたものです。

川上 幕末ぐらいから昭和初期まで、国友では花火の製造と打ち上げもするようになって、姉川の河原で打ち上げていたんです。依頼があれば、県内や全国各地に興行として出かけていました。

大正時代に姉川の河原で催された花火大会

大正時代に姉川の河原で催された花火大会。奥に見えるのが花火陣屋(国友鉄砲ミュージアム提供)

 打ち上げ場所では、「花火陣屋」と呼ぶ、木組みの門とその後ろの三方に幕を張った設備を設けました。花火の指揮所であり、桟敷(見物席)としての役割もあります。花火師組用の1基と町内を東西南北に分けた4組に各1基、計5基あって、打ち上げの際に姉川の河原に設置されました。国友村周辺には同じような花火陣屋を所有する村が10村以上あったそうです。

廣瀬 若い頃、八日市市にいたんですけど、仕事で能登川に出かけていっしょになった人が「坊主は、どっから来てんのや」と聞くので、「長浜の国友です」と答えると、「あの鉄砲のとこか」と言われたのを覚えてます。そういう歴史と文化のある場所という感覚も、自然に身についていました。

──廣瀬さんは昭和56年(1981)4月に国友鉄砲研究会を結成なさいます。この時、40歳ですね。

廣瀬 僕もふくめて若手3人と年配の方2人の5人で研究会を立ち上げたんです。若手の1人は僕の同級生で、先ほど話に出た国友久太郎商店の国友美丸さん。年配の方はもう亡くなられています。

──きっかけは、なんだったのですか。

廣瀬 その前年に長浜で天守閣の形をした歴史民俗資料館建設の計画が発表されて、その中に鉄砲コーナーもできると知ったからです。これはチャンスだと思って、周りに声をかけました。

──鉄砲の買い戻し運動というのも始まったそうですね。

廣瀬 会の発足と同時に始めたんです。当時、地元に残っていた鉄砲は10挺もありませんでした。全国各地に散らばっていた鉄砲を、古物商を通じて買い戻そうとしたわけです。長浜市内で営んでおられる古物商はみんな東京に行きますので、「国友産の鉄砲を探している」と触れ回ってもらったんです。そうすると、「うちもほしい」、「うちも」と、多くの家が買い始めて、現在は国友町内で100挺を超える鉄砲があります。そのうちの半分近くがこの館の2階に展示されているんです。

吉田 自分の先祖にあたる人の鉄砲が見つかったら、ほしいですよね。

廣瀬 先祖が鉄砲鍛冶だったという人は特別ですが、それほど多くはありません。ほとんどは自分の住む町が、もとは鉄砲鍛冶の町だったという意識のもとで始まった買い戻しでした。


※1 國友銃砲火薬店 京都市下京区に所在。明治34年創業。花火打ち上げの請負、射撃用銃・狩猟用銃・火薬などの販売。
※2 国友一貫斎 (1778〜1840)江戸時代後期の鉄砲鍛冶師、発明家。自作の反射望遠鏡で天体観測もおこなった。


種子島訪問を経て鉄砲隊結成

──その翌年の昭和57年5月に結成される国友火縄鉄砲隊は、どういった経緯で?

廣瀬 昭和56年8月の長浜花火大会で、国友にあった花火陣屋を50年ぶりに復元して公開しました。そのための寄り合いのときに、たまたま『家の光』※3という雑誌に種子島の鉄砲隊の写真が載っているのを見た川瀬貢さんが、「おまえ、鉄砲、鉄砲と言ってるけんど、種子島を知ってるんかい」と言うてきて、「それなら、みんなで種子島に行こう」という話になって。

 研究会以外の人にも声をかけたら、全部で25人に増えて。それを知った市会議長の中野戸ヱ門さんが、「市長に相談してこい」とおっしゃって。行ったら、片山喜三郎市長と、県会議員のあれは……。

吉田 小林実さん。

廣瀬 県会議員の小林さんも行きたいと言い出して大げさになってしまったんですよ。市長、市会議長、県会議員の3人も同行して、2泊3日総勢28人の訪問団が、昭和57年2月、鹿児島県西之表市※4に向かいました。種子島の飛行場に到着すると、横断幕が掲げられ大歓迎していただきました。

──目的の火縄銃の技術を習うのはどうなったんですか。

廣瀬 行く3日前に、「火縄銃を2、3挺持ってきてください」と連絡があったんです。3挺ほど持っていったら、市役所から1㎞ほど南にあるわかさ公園で、いきなり火薬を詰めて「ドーン!」って撃って、空砲を教えてくださった。警察の許可なしだから、いまだったら無理だな。

──鉄砲自体はちゃんと動いたのですか。

廣瀬 それは大丈夫、ちゃんと整備した使える鉄砲を持っていったから。すでに種子島訪問と同じ2月に日本前装銃射撃連盟の本部へ入る手続きをしていたんです。

 前装銃というのは、古い形式の筒先から火薬と弾丸を込める鉄砲、日本のいわゆる火縄銃です。日本前装銃射撃連盟は、火縄銃で実弾を撃つ砲術の継承をおこなっている団体なわけです。神奈川県伊勢原市にある連盟本部でも、製造元の国友から来たというので、それはもう大歓迎していただきました。会長や役員の方が、新入りの僕を「ちょっとお茶を飲みにいきましょう」と誘ってくださったり。会員の人たちにとって、種子島、堺、国友というのは特別な場所なんですよ。

 手順さえきちっとやれば、撃つ技術自体はそんなに難しくはありません。僕もふくめて、鉄砲研究会で国友鉄砲の歴史や仕組みを研究しているメンバーが、鉄砲隊でも火縄銃をあつかっています。

──結成翌年の昭和58年に催された大阪築城400年祭や賤ヶ岳400年祭などで、空砲射撃の演武を披露なさったわけですね。

廣瀬 そのためによかったのは、銃砲店の国友美丸さんが、最初に火薬使用の許可を取るときに、「学術研究」で取ってくれたことでした。普通なら1回ごとに許可を取らなければいけないのですが、ある期間まとめての申請で済んでいるんです。

「大阪城の秋まつり2020」での国友鉄砲隊による火縄銃の演武

「大阪城の秋まつり2020」での国友鉄砲隊による火縄銃の演武。大阪城天守閣前にて、左端が廣瀬


※3 『家の光』 JAグループの家の光協会が発行する月刊誌。農協を通じて農家に配布する形態で、最盛期には100万部以上を発行。
※4 西之表市 種子島北部にある市。昭和62年、国友鉄砲の里資料館の開館を機に、長浜市と友好都市の盟約を締結。


工業団地造成で弾みがついたまちづくり

──資料館の建設にもきっかけのようなものがあったのですか。

廣瀬 鉄砲の買い戻し運動が始まった頃に、町内で「国友鉄砲展」というのを催したら、各家に仕舞われていた資料や道具類、1000点以上が出てきたんです。

吉田 それらを常設展示できる場がほしいということで、資料館建設の陳情運動を起こしました。ちょうど事業費1億円のうち2分の1ずつ県と市町村が負担する「小さな世界都市づくりモデル事業」というのが始まったので、その一番乗りのつもりで手をあげたのですが、伊香郡高月町雨森(現、長浜市)の東アジア交流ハウス 雨森芳洲庵に先を越されて、国友鉄砲の里資料館は第2号として採択されました。

──同時期に姉川の向こうに工業団地が造成され、長浜キヤノン※5が進出してきたことも関わっているのですか。

吉田 これは大きく関わっています。

廣瀬 関わりますよ、それは。

吉田 あれは私が市役所の商工観光課で担当していました。昭和55年4月に北陸自動車道の米原─敦賀間が開通して、長浜インターチェンジも供用開始されます。

 昭和50年代の長浜市は、地域経済を支えていた繊維産業の斜陽化が止まらず、若者の地元定着のために就労場所の確保が一番の課題でした。そのために市は工場誘致を進めたのですが、青田を見せても来てくれませんから、土地を造成した工業団地を市がつくることになって、長浜市では国友町もふくめた3地域で着工されました。

廣瀬 着工前に、兵庫県の社町(現、加東市)にある工業団地を見学に行きました。

──古い地図を見ると、姉川をはさんで北の田地も国友町で、ここが工業団地になったわけですか。

吉田 姉川の右岸の堤防ができたのは明治時代で、ここは田地のように見えますが、もともとは河川敷のようなものだったのでしょう。北の宮部という集落が築いた霞堤※6があるので、洪水になっても他の集落の土地まで水が溢れないようになっていました。

──上流で草野川と姉川が合流する場所ですから、当然洪水も多かったのでしょうね。

廣瀬 そうそう。川向こうは「川北」と呼ばれていて、あまりいい田んぼではなかった。

吉田 表土が薄い、石ころガラガラの田んぼです。ですから、昭和56年に市が工業団地をつくりたいと申し入れた時も国友町は協力的で、翌年に川北開発推進委員会を設置、昭和59年には23‌ha、地権者114人の用地買収が完了しました。

──あまりよい農地ではなかったとはいえ、驚くほどのスピードですね。

吉田 その代替として、長浜市は姉川サイクリング道路、姉川緑地公園など、いろいろな事業を優先的に国友町に施してくれました。

──造成完了が昭和61年(1986)4月で、6月にはキヤノンの進出が決まりました。そして、翌年の昭和62年10月に「国友鉄砲の里資料館」としてオープンします。


※5 長浜キヤノン キヤノングループの企業。プリンターやトナーカートリッジを製造。
※6 霞堤 堤防のある区間に開口部を設け、本来の堤防の外側に堤防を築いて湛水地を設けたもの。洪水時には、下流に流れる水量を減らし、洪水が終わると湛水地内の水を排水する。


例のなかった自治会による資料館運営

──資料館の運営を、国友町自治会が担っているというのも大きな特徴ですね。

吉田 はい。市が建物をつくってくれたのですが、管理運営・経営は国友町自治会がやっています。自治会が運営委員を委嘱し、館長を任命、館長が運営委員会に諮って、館の運営・経営にあたっている形です。

──どこかの資料館などを見本になさったのですか。

廣瀬 見本になる所はなかったですよ。

吉田 本当は市営にしてほしいと要望していたんですが、市からは、国友町でそれをやると、次には石田三成の石田町でも、小堀遠州の小堀町でもつくってくれということになるからダメですと言われて(苦笑)。定額補助で、あとは入館料で賄わなければならないので、展示物もほとんど町内の各家の所蔵品を持ち寄っています。

廣瀬 館所蔵物は少なく、さっきの買い戻し運動で入手した個人蔵の火縄銃を借りて、2階に展示しているわけです。

銃床の製作工程と道具類

銃床の製作工程と道具類。未完成状態の銃床用材は、鉄砲研究会のメンバーの物置から見つかったもの。廣瀬さんは、この用材を一部もらい受けて銃床を復元し、壊れていた火縄銃の修理などをおこなった

──個人のお宅に置いておくより、全国からの来館者に見てもらえるし、保存管理も任せられるなら、願ってもない場所ですね。

吉田 自分の持ち物が展示されているので、資料館への愛着は高まり、住民から次々と新しいアイデアなり運動が起こるようにもなりました。結局、当館で一番自慢できるのはそこなのかもしれません。

銃床の製作工程と道具類

2階展示室に展示されている鉄砲に用いる道具類。資料には所蔵者名も付されている

──平成に入ると、町内の景観づくりが進められました。

吉田 平成5年(1993)に、県が「風あいのあるまちづくり事業」という制度をつくり、事業費5000万円で、半分は県が拠出して、半分は市町村が出すことになっていました。国友町では資料館という点だけじゃなく、面の景観環境整備を図っていこうということで、国友にちなんだモニュメントや案内板を建てたり、電柱を裏通りに移設する計画を立てたんです。

 ところが長浜市の場合は、全体事業費のうちの1割は地元負担、さらに電柱の裏通りへの移設は国友町が関西電力と直接交渉して、引き込み費用も負担する必要がありました。たまたま関西電力側が「キヤノンの工場への高圧電力を地下埋設で送りたいので、協力してほしい」と言ってきて、移設費用は関電持ちになったのですが、用地交渉や電柱からの引き込み線の工事費用400万円ぐらいは地元が負担しました。

 市の国友工業団地への協力金や個人の用地買収費がなかったら、全戸に自治会費以外の負担をお願いした資料館や風あい事業は、ここまではできなかったでしょう。

──いろいろな要素がよいタイミングでかみ合ったんですね。

廣瀬 やってる最中は先を考えてというのはなかったのが、偶然重なったんです。

吉田 当初は、「観光客なんか来ていらんやないか」「ゴミを残していくだけやろ」という意見もあったんですよ。ところが、ある女性の委員が、「お客さんが来るとなって初めて、家の中を片づけたり、花を生けたりするでしょう。町だって同じですよ」とおっしゃって。この言葉は、町づくりを進めるうえで、大きな力になりましたね。

 町内の景観がよくなると、みんな目障りなものに目がいくようになるんです。「あのさびた波板はみとみない(見苦しい)」と言われて、杉板に貼りかえたり。同時に、観光客からは、湖北の伝統的な民家の特徴であるベンガラ※7塗りの赤い柱などについて質問を受けるようになって、自分たちの住む地域の風土や文化に気づくようになってきますし。

──先日、打ち合わせにうかがった日は、入れ違いで名古屋ナンバーの車が駐車場にはいっていました。

川上 東海方面からの来館者は多いですね。北は福井・富山・石川からもお見えになりますし、もちろん大阪・京都からも。ただ、年間入館者数は、当初は平均して年に1万人前後だったのが、近年は5000〜6000人に減少しています。

吉田 NHK大河ドラマ「秀吉」にちなんで「北近江秀吉博覧会」が催された平成8年(1996)度が、1万8739人で最多ですね。その後も大河ドラマ「功名が辻」があった平成18年度、「江」があった平成23年度は1万1000人台の入館がありました。令和2年の「麒麟がくる」でも国友の鉄砲鍛冶が登場しましたし。

廣瀬 大河ドラマにからんでくると、やっぱりお客さんががっと増えますわ。

川上 大河以外でも、最近だと昨年直木賞を受賞した今村翔吾さんの『塞王の楯』で鉄砲鍛冶の国友衆と石垣積みの穴太衆が活躍したり、昨年10月にはNHK連続テレビ小説『舞いあがれ!』で、主人公に父親が江戸時代に飛行機の設計図を描いた国友一貫斎の話をするシーンが話題になったりしたので、そのファンの来館もあります。

──最近、館名を変更なさったのは、何か理由があったのですか。

吉田 私が館長を務めていた時です(平成29年度から4年間)。令和2年(2020)からの新型コロナウイルスの流行の前には、外国からの観光客もちらほら来館なさるようになっていました。また、来館者のほとんどが県外の方で、かなり専門的な知識を持っておられる方が多いため、そうしたお客さんに対応できるようにレベルアップを図っていこうと考え、館の名称も「国友鉄砲の里資料館」とともに「国友鉄砲ミュージアム」を使用することにしたんです。


※7 ベンガラ 漢字では「弁柄」もしくは「紅殻」。酸化第二鉄を主成分とする赤い顔料で、防虫・防腐効果があるとされる。


国友一貫斎の科学技術に関する研究

──関係資料が重要文化財に指定される国友一貫斎についても、館内にコーナーを設けておられますね。

吉田 一貫斎関係としては、当館開館の前年にあたる昭和61年(1986)に国立科学博物館にお務めだった天文学者の村山定男さんをお招きしてお話しいただきました。国友町会館竣工記念で催した講演会です。

 平成10年(1998)の春、現存している一貫斎製作の反射望遠鏡4基のうちの一つを所蔵している長野県の上田市立博物館で前年に始まった同望遠鏡の学術調査の一環として、調査団のメンバーだった京都大学理学研究科の冨田良雄さんが、長浜城歴史博物館所蔵の1基を見に来られました。

 当時、僕は長浜市の教育部長だったので、冨田さんとの知遇を得て、同年秋には、当館の主催で国友町会館を会場に冨田さんと国立天文台の中村士さんのお二人に講演していただいたんです。

廣瀬 その時、冨田さんがベルト旋盤でつくった天体望遠鏡を持ってきたんです。脚も何もない無垢の真鍮を10㎝ずつくりぬいて接合した単純な構造の望遠鏡で、それに刺激を受けて、よし、わしもつくったろうとなったんです。

吉田 そうして、反射鏡を研究する京都大学の先生方とのネットワークができました。一方で、廣瀬さんが立ち上げた「一貫斎科学技術研究会」にも、トヨタ財団から補助がもらえるようになったんです。

廣瀬 研究助成金が3年間もらえたので、望遠鏡とともに一貫斎製作の「玉燈」という灯火具などについても研究しました。

吉田 反射鏡の研究には、国立科学博物館の鈴木一義さんも加わっておられたのですが、国立科学博物館に預けられたトヨタコレクション※8などを対象に、文部科学省からの補助で「我が国の科学技術黎明期資料の体系化に関する調査・研究(略称:江戸のモノづくり)」が、大学などの研究機関と連携して、平成13(2001)〜17年度の計画で始まったんです。

──一貫斎の反射望遠鏡の中にある反射鏡に科学のメスが入ったわけですね。

廣瀬 すでに反射鏡の研究会の方では、大阪府堺市にあった三菱伸銅三宝製作所(2020年に三菱マテリアルに吸収合併)に依頼して、反射鏡に用いられた銅と錫の合金試料を製作なさっていました。

吉田 1830年代に製作されてから200年近く経ったのに、ピカピカでさびていない。冨田さんらは、その不思議を研究なさっていたんです。上田市立博物館蔵の反射望遠鏡の主鏡の組成を分析されたところ、銅67%・錫33%の金属間化合物※9であることがわかりました。

 ニュートンが発明した反射望遠鏡の場合は銅67%・錫22%・ヒ素11%、天王星の発見で知られるハーシェルは銅75%・錫25%、銀河の渦巻構造を発見したロス卿は銅70%・錫30%でしたが、これらは1年ぐらい経つと腐食して鏡面が曇るので再研磨しなければなりませんでした。

 ところが、現存する一貫斎望遠鏡は、4基とも今でも天体観測ができるほど、劣化していなかったんです。冨田さんは試作したそれぞれの割合の金属試料を2003年末から10年放置して2014年に反射率の比較をなさり、やはり一貫斎製作の金属反射鏡が、さまざまな銅・錫合金の中で最も耐食性にすぐれ、かつ光学的にもすぐれた性質をもっていることが明らかになったんです[下のグラフ参照]。

ニュートン、ハーシャル、ロス、国友の反射鏡復元試料の反射率劣化指数グラフ

ニュートン、ハーシャル、ロス、国友の反射鏡復元試料の反射率劣化指数(冨田良雄ほか「国友藤兵衛製作の反射鏡の耐食性について」掲載のグラフをもとに作図)

廣瀬 僕は、三宝製作所で実際に見てきたんですが、錫の割合が少しでも増えると冷めるときに砕けるんですよ。

吉田 銅が多くなると、緑青、いわゆる青錆が出るし、錫が多くなると、ざくざくと崩れやすくなるんだそうです。

廣瀬 ちょうど33%だと、もう永久にさびないのかもというぐらい。冨田さんの講演から1週間ほどして、「反射鏡の研究会が始まるんですが、参加しませんか」と言われてうかがったら、反射鏡用の合金を分けてもらえたので、轆轤を手作りして研磨したんですよ。そして、一貫斎製作の望遠鏡と同じものを2台つくって、1号機は自分で天体観測に使って、長浜市に寄付した2号機を当館に展示しています[下の写真]。

廣瀬さんが製作した復元反射望遠鏡

廣瀬さんが製作した復元反射望遠鏡

──外観がそっくりなだけでなく、実際に見えるんですか。

廣瀬 見えますよ。上田市立博物館蔵の望遠鏡をのぞいたことがある冨田さんが、僕の1号機の見え方もだいたい同じぐらいだとおっしゃっていました。黒点も観測できるし、月のクレーターもよく見える。2号機はさらに性能がよく、それを使ったワークショップが長浜城歴史博物館であった時にのぞいたら、もっとスカンと見えました。

──この反射望遠鏡と「国友一貫斎文書」は、すでに長浜市指定文化財になっていましたが、また改めて調査されたのですね。

川上 国友藤兵衛(一貫斎)家が保存しておられる資料のうち、これまでに調査されたものは限られていたので、長浜市が文化庁の補助金を得て、令和元年度と2年度に改めて調査なさったんです。すると、考案した飛行機の図面である「阿鼻機流大鳥秘術詳細図」をはじめ、反射望遠鏡用のレンズや製作道具などの新資料が見つかったので、これらを加えた953点が重要文化財に指定されることになりました。

吉田 今年4月か5月に官報告示されることで、正式に重文となるらしいです。


※8 トヨタコレクション トヨタ自動車が収集した江戸時代半ばから明治の初めにかけての日本の科学技術資料。
※9 金属間化合物 2種類以上の金属からなる合金の仲間だが、もとの金属とはまったく異なる結晶構造をもち、異なる特有の性質を示す。


情報を発信すると情報が入ってくる

──こうした大量の記録を残すようになったのは、江戸滞在中に元老中の松平定信から鉄砲製作に関する質問を受けたのがきっかけだそうですし、一貫斎の人生もいろいろな偶然が重なっていておもしろいですね。

廣瀬 一貫斎は江戸でいろいろな人と交流して、自分の技術や知識を公開したから、その後の活動につながったんです。やっぱり情報を発信すると情報が入ってくる。

 10年ほど前、「モノづくり」の話をしてほしいというので、刀鍛冶が有名な岐阜県関市などで講演したこともあります。職人の方々が聞きにこられて、とても熱心でした。京都府城陽市にも、江戸時代に淀藩が木津川の河原で砲術訓練をやった絵図があるというので砲術の話をしにうかがいました。そうすると、得るものもすごく多い。

──川上館長の世代はどうですか。上の世代の、こうしたまちづくりを見てきて。

川上 来館者の対応をしていると、反射望遠鏡の解説部分の誤りを指摘してくださった方がおられたり、火縄銃でも非常にくわしい方がおられたり、非常に勉強になります。なかなか私たちの世代になると、廣瀬さんや吉田さんほど熱心な人が地元からは育っていないのですが。

吉田 僕の息子たちの世代もまったく関心がない方だから、次の世代に伝えていくのが難しいのはよくわかります。

廣瀬 いまのところ、うちの息子も全然興味がない。まずは、興味がある人を探して、教えていかないと。

川上 今年、国友町が学区にあたる神照小学校が創立150年を迎え、5月には祝賀の催しもあります。神照小の学区内では最初の明治6年(1873)に国友村にできた小学校を始まりとしています。最初の校舎は日吉神社境内の蔵を改造したものだったのですが、何年かして、当館がある場所に開成学校という名前で小学校が建てられました。当館は小学校跡地でもあるんです。

 創立150年の催しでは、廣瀬さんらの鉄砲隊による演武や、国友一貫斎の紹介なども予定されていますので、興味を持つ子どもたちが現れてくれればと思っています。

──本日は興味深いお話をありがとうございました。
(2023.3.8)


編集後記

NHKのBSプレミアムで放送されている『コズミック フロント』という番組の令和3年(2021)11月18日放送回「江戸のダ・ヴィンチ 国友一貫斎」では、一貫斎製作の空気銃や望遠鏡、飛行機設計図に科学的な検証を加えています(現在もNHKオンデマンドで視聴可能)。俳優の眞島秀和さんが一貫斎を演じたドラマパートでは、さすがに本物は貸し出せなかったので、廣瀬一實さんが復元した反射望遠鏡が使われているのだそうです。(キ)


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