インタビュー:開館当初は「信長でずっと特別展をやると、10年持たないよ」と言われていたのですが、おかげさまで30年は持っています。 滋賀県立安土城考古博物館 学芸課主幹 髙木叙子さん

三つの要望に応えて開館した安土城考古博物館

──安土城考古博物館の歴史をさかのぼると、その前身として、「近江風土記の丘資料館」があったそうですね。

髙木 風土記の丘」というのは、地域にある史跡を保存・活用しようという文化庁の構想をもとに全国各地に設置された歴史公園です。最初が昭和41年(1966)に宮崎県の「西都原風土記の丘」、翌年に和歌山県の「紀伊の国風土記の丘」、そして3番目が昭和45年の「近江風土記の丘」でした。国の特別史跡である安土城跡と史跡の瓢簞山古墳※1の間に位置し、それらの案内と出土品などを常設展示する資料館が、同年10月に開館しました。

近江風土記の丘資料館の外観と展示の様子

滋賀県立近江風土記の丘資料館の外観と展示のようす(滋賀県立安土城考古博物館提供)

 近江の歴史と風土にふれる場となるよう、その前年には、公園内に旧宮地家住宅(長浜市)、旧柳原学校校舎(新旭町)、旧安土巡査駐在所(安土町)という三つの歴史的建造物が、県内から移築されています。

 開設にあわせて、繖山にあった佐々木六角氏の居城である観音寺城跡も発掘調査されて、昭和57年(1982)に史跡指定され、近くの弥生時代の集落跡である大中の湖南遺跡も昭和48年に指定されたので、対象とする史跡は四つとなりました。

 この資料館の開館に先立って、同年4月に滋賀県と県内市町の出資で、財団法人滋賀県文化財保護協会※2が設立され、管理運営を受託しました。

──滋賀県文化財保護協会との関係は、風土記の丘資料館の時代からなのですね。

髙木 それから20年近く経った昭和63年(1988)に、滋賀県は風土記の丘の再整備計画を策定します。資料館のリニューアルですね。

現在の近江風土記の丘

現在の近江風土記の丘。写真中央が旧宮地家住宅(重文)

 また、昭和48年度に始まった水資源開発公団による琵琶湖総合開発にともなう埋蔵文化財調査で見つかった大量の出土品を整理・収蔵する施設も必要となっていました。昭和55年(1980)に大津市のびわこ文化公園内に設けられた、滋賀県埋蔵文化財センターの分室にあたるものです。

 さらに、平成元年(1989)から安土城跡では、県が調査整備事業に着手しており、その出土品の整理・研究・収蔵・展示の必要も出てきました。

──単に風土記の丘資料館の後継施設というわけではないのですね。

髙木 最終的には、先にあげた三つの要望に応えて複合的な役割を担う施設として、安土城考古博物館は誕生しました。計画段階では「安土城郭・考古センター」と仮称されていましたが、当時の稲葉稔知事が提案された名前に決まったと聞いています。

 昭和の末から平成の初めにかけて、滋賀県内には、彦根城博物館(昭和62年)、野洲町立歴史民俗資料館(昭和63年)、大津市歴史博物館と栗東歴史民俗博物館(平成2年)と、歴史系の市町立博物館が次々開館していた時期で、そのほぼ最後にあたりますね。

──髙木さんは開館の年からですか。

髙木 そうです。平成4年4月1日採用です。生まれは大阪ですが、父が近江八幡の出身だったので、小学校6年生の時に滋賀県に移ってきました。

──お城は好きだったのですか。

髙木 いいえ、特には。大学は史学科でしたが、大学院までは平安時代の文献史が専門でした。それに当時の安土城は大手道も整備されておらず、自然歩道をじぐざぐ登ると石垣がある本当に古城という感じで、むしろ摠見寺跡から下りてくる石段の方が立派だったぐらいの印象でした。


※1 瓢簞山古墳 近江八幡市安土町宮津にある県内で最古級、最大の前方後円墳。墳丘長162m。
※2 滋賀県文化財保護協会 滋賀県下の文化財を調査・研究・保護し、活用を図ることを目的に設立された財団法人(平成24年に公益財団法人に認定)。遺跡の発掘調査、県立施設の管理運営などをおこなっている。


考古と戦国の二本立てのテーマ館

──開館は、その年の11月1日だったそうですが、いかがでしたか。

髙木 開館当初はすごい人出で、1日3000人もの人が来館なさいました。最近は一つの特別展の会期全体で5000〜6000人ですから。翌年3月までの5か月で4万7000人程度。平成5年が7万8000人で、一番多かったのは平成6年で8万4000人。もとの風土記の丘資料館は年間1万人ぐらいでしたから、大成功といえます。

 当初から現在まで当館の傾向として、県外からの来館者が多いですね。開館特別展では、駐車場が埋まってしまって、進入路のカーブの向こうに路上駐車するような方もいて、職員が飛んでいって移動してもらうようお願いするなんてこともありました。

 ネックは最寄りの安土駅からは徒歩だと遠いことで、最初の数年間は駅から館まで1日4〜5本のバスも運行してもらっていました。ただ、安土駅は滋賀県内で唯一路線バスの発着がない駅だったので、路線の延長として館前をバス停に加える形はとれず、県民の利用者も増えなかったので、批判が出て廃止されました。

──県内の小学校が見学に来る数は、いかがでしたか。

髙木 開館当初はそれほど多くはなかったですね。学校関係は、学習指導要領の影響を強く受けます。平成12年(2000)ごろから総合学習が盛んになり、勾玉づくりや火おこし体験などに訪れる小学校を積極的に受け入れていた時期もありましたが、10年ぐらい前に指導要領が変わると、当館で半日すごすような学校の滞在型利用は、ほとんどなくなってしまいましたね。

──開館時のお仕事で特に印象に残っていることはありますか。

髙木 そもそも歴史系の学芸員の数自体が少なかった時代です。これは私だけでなく、当時開館した新設博物館で採用された学芸員の多くが経験したことだと思いますが、博物館のあり方や収蔵品の扱い方、他館との交渉の仕方というものを教えてくださる先輩学芸員がいなかったので、とても苦労しました。

 織田信長の時代について必死で勉強して、開館から2年後の平成6年(1994)10月の秋季特別展「残照─本能寺からの織田一族─」で、企画や交渉などすべてを任されました。その特別展がなんと行幸対象となったんです。天皇・皇后両陛下(現、上皇ご夫妻)がご視察になる場所の一つになったので、図録は1か月前には宮内庁に提出しなくてはなりませんでした。さらに展示の方も、県職員らが行幸当日の予行演習をするので、開催開始の3日前に完成してもらえないかと言われて(笑)。今は笑い話として語れますが、本当に大変でした。

天皇皇后両陛下のご来館

天皇皇后両陛下のご来館(平成6年、滋賀県立安土城考古博物館提供)

 開館初期には、平成元年から始まった安土城跡の発掘は、まだそれほど成果があがっていませんでした。当時は伝羽柴秀吉邸あたりを発掘している段階で、天主も大手道もまだ先という状況だったので、発掘品で展示できるものはあまりなかったですね。その後発掘調査が進み、10年ほどたつと成果も上がり、平成11年(1999)に秋季特別展を兼ねた「安土城・1999」という発掘調査10周年成果展を開催できるまでになりました。

──初期の特別展は、むしろ考古関係のものが華やかだった印象があります。

髙木 琵琶湖総合開発や住宅開発にともなう遺跡調査で次々発見もあり、展示の予算も十分にあったので、開館15周年目ぐらいまでは大規模な展示をおこなっていました。美術品輸送用のトラックを使って、関東方面の埴輪や九州の甕棺・銅鐸・青銅器などを2班に分かれて借りてきたり。

 職員や技師の人数も多くて、文化財保護協会の宴会では席の端っこの人の顔が見えないぐらいでしたね(笑)。

──開館以来の特別展は、春に弥生・古墳時代の考古、秋に戦国時代・城郭関係で、平成25年(2013)度から春・秋を入れ替えた形となっているのですね(7ページの表参照)。

髙木 もうご存じの方も少ないと思うのですが、県の基本方針として、当館はテーマ博物館であって、それとは別に滋賀県立歴史博物館が建てられる計画なんです。昭和60年(1985)に自然系と歴史系を合わせた総合博物館を建てる構想ができましたが、結局、自然系だけの琵琶湖博物館が平成8年(1996)に開館して、歴史系が置き去りにされている間に、市立や町立でどんどん立派な博物館がつくられていきました。かといって県は歴史系博物館の構想を撤回はしていません。

 当館にはテーマ館だからこその強みもあります。市町村立の博物館の場合、その市町村に関わるあらゆるテーマを扱わなければいけないので、全国有数のお城や古墳があるところの館でも、そればかり扱うわけにはいきません。戦国武将や城、古墳などをテーマに深く紹介している全国レベルの館は、ほとんどないように思います。

 幸いテーマが二つともファンが多い分野ですから、交互にバランスよくやってこれたという感はありますね。それらでフォローできない時代やジャンルについては、年2回程度の企画展で補うようにもしてきました。

 開館当初は博物館関係の先輩方から「信長でずっと特別展をやると、10年持たないよ」と言われていたのですが、おかげさまで30年は持っています。

文書を通して見えてきた織田信長の実像

──令和4年度春の開館30周年記念春季特別展は、「戦国時代の近江・京都─六角氏だってすごかった!!─」で、観音寺城城主の六角氏をテーマになさっていますね。

髙木 六角氏の特別展は、平成7年と14年にも開催していますが、ずっと偽系図問題がネックで、総花的な扱いしかできませんでした。それがこの10年ぐらいで、東京大学史料編纂所の村井祐樹さんなどの研究者が出てきて、ある程度、偽とそれ以外を分別できるようになり、六角定頼の位置付けなどの研究が格段に進んだんです。

 ですから、六角高頼・定頼・義賢の3代に絞ったものではありましたが、今回の展示が六角氏関係では初めての本格的な歴史展示だったといえます。

──戦国大名の中では誰がお好きなのですか。

髙木 よく聞かれるんですけど、好きになってしまうと盲目になって研究できませんから。でも、やはり織田信長は興味深いですね。残された文書などを通して、一般的なイメージとはまったく違う人間だと感じています。

 理想主義で人をすぐ信じては裏切られて。足利義昭にしても排除しようという気はなく、理想があると思っていた朝廷や幕府があまりにぐだぐだだったので、「何をやってるんだ」と諫めた資料が、権力を奪おうとしていると思われてしまった。どちらかというと自らは引いて、天下静謐を目指していたように読み取れます。

 対天皇や対幕府、宗教との関係、家族や一族との関係などすべて、一般に思われているものと実際はこのように違うんですよーというのが、私の展示の切り口でした。

 本来なら義昭を追い出したらすぐに将軍になれましたし、天正3年(1575)に官位を与えるといわれたときも、自分はまだ役目を果たせていないからと、家臣の秀吉らに官位などを授けてもらった。長篠合戦で武田に勝って表面的に歯向かう敵がなくなった天正3年11月になって、初めて官位をもらう。

 一般に思われているように、将軍も天皇も全部蹴散らして自分がトップに立とうと思っていたのなら、元亀争乱が終わった時点で征夷大将軍の官職につくこともできますよね。それを一切せずに、全部それを自分から拒否しているでしょう。

 そういう信長像は、中世は専門外だった私が、いくつもの展覧会を担当しながら勉強して、得た結論です。とくにそのきっかけとなった展覧会として印象深いのは、平成12年(2000)開催の秋季特別展「信長文書の世界」です。ですから、それ以前の図録では、私自身が今見直すと、「えっ」と思うようなことを書いているところもあります。

「信長文書の世界」展で扱った信長文書では、信長は古くからのマナーやルールに従い、その秩序の中で相手との関係性を視覚的に知らしめるような紙の使い方や書札礼※3などを徹底して実践する人間でした。そうすると、一般に言われていた「古い因習や文書の様式を打ち破る人物」といった信長像というのは、信用できないなと。

──それは来館者の方に伝わりましたか。

髙木 わりに、おもしろがっていただけていると感じています。延暦寺の焼き討ちは、一般に宗教嫌いの信長による所業ととらえられていますが、実は特定の宗教を嫌っていることはなく、キリスト教への接し方も他の寺社に対するものとなんら変わりません。よく引用されるキリスト教の宣教師側が書いた報告書は、本国に向けて日本の権力者に気に入ってもらって、よくしてもらったというPRのために書かれているので。

 一向宗(大坂本願寺)との対立にしても、一向宗すべてを否定しているわけではなくて、自分に反抗的だったり自分が掌握したい拠点を押さえている勢力が一向宗だった場合にだけ戦っています。平成15年度の秋季特別展「信長と宗教勢力─保護・弾圧そして支配へ─」で紹介した「近江国栗太郡・野洲郡村々住民等起請文」(国立歴史民俗博物館蔵、通称「元亀の起請文」)という文書があります。

 元亀3年(1572)に信長家臣の佐久間信盛が栗太郡・野洲郡の村々に三宅や金森(ともに守山市)を拠点とした一向一揆に内通しない旨を誓わせたものです。これなどは、なるべく平和的な解決を図った証拠だと思うのです。村ごと焼け野原にしてしまっては、しばらくは税金も取れません。支配者としては、無傷で住民や田畑を手に入れようとするのが合理的な判断ですよね。

──信長を取り上げる上での、難しさはありますか。

髙木 信長は満48歳で亡くなっているので、資料が少ないんです。秀吉や家康になると、文書も多く、文化的な遺産、美術品も肖像画も残っています。一方、信長の遺品だとされるものなどの中には、確実なものはほとんどありません。

 もう一つは、研究と博物館における展示の違いですね。いくら研究で信長がこれこれこうしてこうなのでと論を立てたところで、それを展示資料で見てもらうことはとても難しい。実物資料と解説を見て、じっくり考えていただければ伝わると思いますが、時代はむしろ逆を求めていますよね。本や映画もあらすじだけとか、倍速でとか、タイパ※4がとか言われると、実物をじっくり見て考えてほしいという博物館のあり方と相いれない部分があって。


※3 書札礼 書状を作成する際に守るべき儀礼。差出人と受取人の身分関係によって書き方や形態が細かく定められている。
※4 タイパ タイムパフォーマンス(時間対効果)の略。若者世代を中心に短時間でより多くの情報を得ようとする動きが高まり、三省堂の「今年の新語2022」で第1位に選ばれた。


予算の削減が一番の問題

──今後の館としての課題は、どの辺になるのでしょうか。

髙木 一番の問題は予算の削減です。現在の活動事業費は、開館の翌年度と比べるとどれくらい減っていると思いますか。

──4分の1とかになっているんですか。

髙木 どうしてわかるんですか。本当に4分の1以下になっています。

──小社は図録やポスターの入札にも参加してましたから。体感として、そんな感じかなと。つまり、県内印刷業者も影響を被っています。

髙木 県内の印刷業者さんには影響が出ていますよね。コストダウンのために、印刷物のうちポスター・チラシ・チケットなどは完全原稿を内部で作成して、印刷通販サイト等に発注するようになりました。それまで外注していた展示パネルなども内部で大型プリンターを用いて印刷・貼込・裁断までしています。その分、職員の仕事量は増えています。

 そうした状況は、令和2年(2020)に発行された金山喜昭編『転換期の博物館経営』(同成社)という本に「財団法人(公設)指定管理館の事例」の一つとして紹介させていただきました。1993年度の支出総額2億2800万円のうち活動事業費6500万円だったものが、2006年度には半分の3100万円になり、2016年にはそのさらに半分の1520万円になりました。この活動事業費で、展覧会やイベント、講座などすべてを賄わなければならないわけです。

 予算が減れば、全国から展示品を借りてこられず、お見せしたい展覧会の内容にすることは難しくなります。その一番大きな原因は、指定管理者制度です。当館は平成18年(2006)度から同制度が導入され、今期で4期目になりますが、最初は非公募でしたが、今回から公募になりました。ただ、受けることができそうなところは滋賀県文化財保護協会しか見当たりません。

 指定管理者となった団体は、館職員の人件費だけを下げるわけにはいかないので、総支出の減少以上に活動事業費に影響が出てきます。NPOや単体の財団の場合、職員の給料を削っているという話も聞きます。

 直営の公立博物館であれば、そうした財政状態の問題を市や県に直接訴えることができるのですが、指定管理の場合はそれができません。

──そのわりには、きちんと定期的に企画展も特別展もやっておられますよね。

髙木 もちろん指定管理者は、それをやるという条件で選ばれているのですから。なんとか維持しているのは、職員の努力や工夫でレベルを下げないように必死にやっているからです。

 開館30周年の令和4年度秋季特別展「里帰り!日本最大の銅鐸」展では、目玉として東京国立博物館から野洲市出土の大岩山銅鐸などが里帰りしましたが、これも国の「国立博物館収蔵品貸与促進事業」として採択してもらえたので、最大銅鐸をふくむ6点の輸送費などが支出されて可能となりました。そうした助成金はできるだけ活用しています。

──特別展や企画展のテーマ設定にも影響していますか。

髙木 テーマは5年計画を出します。指定管理者は、安さだけでなく企画した内容で選ばれます。ただ、その企画も、予算で可能な範囲かどうかをよく考えないと。選ばれなかったら元も子もなくなるというジレンマの中で動いていますね。

 ただ、これまでの活動のおかげで織豊系の資料がある全国の博物館とのつき合いは密になっているので、資料は借りやすくなりました。やっぱり10年くらい経てば、経験と人脈と信頼関係ができてくるので、予算が減った分をそれで何とかカバーしている感じです。

 また、指定管理者制度が採用されて以降、博物館の存在意義などを問われる場面が増えたのですが、地元に密着している市町村立と比べて、県立博物館というのは苦しい立場だなと感じます。「地元の博物館」として、市町村立館ほどの親密さを県民の皆さんとの間につくるのは難しい。

──連続講座などの状況はいかがですか。とても人気があると思うのですが。

髙木 それはジャンルによりますが、現在は新型コロナウイルスのせいで定員を半減しなくてはならないという問題があります。セミナールームに並べた椅子を1mずつ離すと、140人定員だった会場が50人しか入れない。今年の10月から大きな講演会は70人にまで増やしましたが。

 人気の講座は、固定客がすぐに押さえてしまうので、抽選をという要望もあって、春季特別展で初めて抽選方式にしました。そのおかげで初めての参加者を増やすこともできたのですが、早くに申し込んで落ちた人からは批判も頂戴しました。難しいところです。

──平成31年(2019)から三日月知事発案の安土城天主「復元」プロジェクトが進んでいますね。

髙木 県のプロジェクトですが、その一環で当館の修繕やリニューアルが進められそうなのは助かります。展示ケースの照明のLED化すらできていませんから。開館以来の30年、建物も設備も常設展示も、きちんと手が加えられていないので。そういう意味ではリニューアルを機に整えていただきたいところです。

 天主の復元については、検討の結果、デジタルでの復元を目指すことになり、その成果を発表するためのシアターを、第1常設展示室に設ける計画のようです。

 いずれにしても、リニューアル後は常設展示を「安土城と戦国時代」に特化するという方向を、県は打ち出しています。

──考古の部分はどうするんだということになりますね。

髙木 その方向性を危ぶむ声もあります。考古資料を常設展示できる場がなくなるわけですし、収蔵の考古資料には重要文化財も多く含まれていますが、これらはどこででも保存管理できるわけではありません。まだ、そこの落としどころは決まっていません。

 第1展示室を令和7年(2025)までに、第2展示室は令和8年以降の早期にリニューアルという計画のようですが、そうすると、第1展示室は今期の指定管理期間内ですね。どうなるのでしょうか。

 時代が変わっても、博物館は本物を展示し鑑賞してもらう場であるはずなのですが、その考えはもう古いのでしょうか。さらに言えば、博物館はいま生きている人たちだけのために文化財を保存したり、展示したりしているわけではない。将来に伝えていく義務を果たさなくてもよいのかとか……キリがないので、この辺にしておきます。

──お忙しいところ、本日は興味深いお話をありがとうございました。
(2022.10.6)

開館当初の第2常設展展示室

開館当初の第2常設展展示室(滋賀県立安土城考古博物提供)


編集後記

昨年4月から11月に大津市にある滋賀県埋蔵文化財センターで、「滋賀をてらした珠玉の逸品たち」と題して、1970〜2019年の50年間に県内の発掘調査で見つかった出土品各年1点ずつが展示されました。夏休み期間におこなわれた来館者による人気投票では、「縄文のヴィーナス」と称される東近江市相谷熊原遺跡出土の土偶をおさえて、大津市滋賀里遺跡出土の土坑墓(人骨)が1位に。わかりやすい本物の力が発揮されたようです。(キ)


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