戦後まもなくの県内博物館──昭和20~40年代

八杉(進行) 滋賀県博物館協議会は昭和57年(1982)に設立され、今年度で40周年を迎えました。この節目にあたり、記念事業委員会が、当協議会の歩みを振り返り、今後どう発展させていくかを考える、この鼎談を企画してくれました。

 まず、滋賀県の博物館の事始めというと、大正10年(1921)に長浜の下郷共済会※1が鐘秀館を開館しているわけですが。

石丸 残念ながら同館は戦前に閉じてしまっているので、現在につながるスタートは、昭和23年(1948)の11月3日、第1回文化の日にオープンした滋賀県立産業文化館だといえます。もともとは県庁の隣へ昭和12年(1937)に建設された武徳殿という武道場でしたが、戦後GHQによって武道のための使用が禁止されたので、転用されたものです。館内の半分は県商工課が繊維製品や信楽焼など県の物産を展示し、半分は社会教育課が社寺などに依頼して仏像などの文化財を公開する展覧会を行うようになったんですね。

滋賀県立産業文化館

滋賀県立産業文化館:昭和30年以降は滋賀県体育文化館として、柔道や剣道の練習・試合場となるが、平成21年に閉鎖、平成30年に解体(滋賀県立琵琶湖文化館提供)

八杉 開館の翌年(1949)、展示室と収蔵庫を区切る壁に、杉本哲郎※2さんが「舎利供養」という壁画をお描きになりました。その後、次に述べる琵琶湖文化館開館にあたって、別館の壁に移設され、今度は計画中の文化館の後継施設にも移設されることが決まって話題になりましたね。

 ついで昭和25年には、彦根市の滋賀大学経済学部に附属史料館が開館しています。

石丸 彦根では、現在の彦根城博物館ができる以前に、天秤櫓に設けられていた井伊美術館が井伊家伝来の美術品や幕末の歴史資料を公開していました。

 現在の長浜市域では、昭和28年、伊香郡七郷村(長浜市高月町)に布施美術館ができています。開設した布施巻太郎は医者で、晩年の富岡鉄斎とおつきあいがあり、鉄斎の水墨画を中心に、中世の典籍や御経類も価値の高いものを所蔵なさっています。

八杉 甲賀郡で昭和30年頃から甲賀流忍術屋敷も内部を公開するようになりました。そしていよいよ、昭和36年(1961)に県立施設として琵琶湖文化館が開館します。

石丸 先ほどの産業文化館の開設が昭和23年ですが、「文化財保護法」ができたのは昭和25年、「博物館法」が成立したのが昭和26年です。つまり、最初に産業文化館で仏教美術を公開していたころは、まだ「文化財保護法」ができていませんでした。当時の展示品は、その後、重要文化財に指定しなおされていますが、旧国宝※3だったものがかなり多いわけです。そういう意味では、滋賀県の取り組みは早かった思います。

滋賀県立琵琶湖文化館の別館に移設された杉本哲郎「舎利供養」

滋賀県立琵琶湖文化館の別館に移設された杉本哲郎「舎利供養」 写真は昭和40年ごろの様子、滋賀県立琵琶湖文化館提供)

八杉 琵琶湖文化館の初期に石丸先生は勤めておられますね。

石丸 私が入ったのは昭和40年(1965)です。実際のところ、最初の産業文化館はあまり人が来なかったんです。「やっぱりたくさんの人が来る施設にせにゃいかん」というので、水に浮かぶ城という外観に決まったのだろうと思います。

 琵琶湖文化館はもちろん仏像などを展示していましたが、レストランもある、会議室もある、地下にはプールがある、県展などを開催する美術館の働きもある総合施設でした。何でもありだったため、本格的なものだったかというと苦しい面もあったのですが、当時としては精いっぱいやっていたと思います。

 琵琶湖上に建てられたものですから、国の文化財保護委員会の指示で1日3回、主な部屋の湿度を測って報告していました。当時、付近では一番高い建物でしたから、5階の展望閣からの眺めも売りでした。まだ、ずっとかなたまで黒い瓦屋根ばかりでしたね。

八杉 企画展などの面でも、「人が来る」ことを意識なさいましたか。

石丸 そうですね。特定の予算などもなくて、限度がありましたけれど。昭和39年に名神高速道路の県内部分が全通したりして、大津への観光客も増えていった時期です。私が入って数年は年間20万人程度の来館者数で推移していました。

八杉 昭和56年(1981)には「びわこ国体」がありました。

石丸 スポーツだけではなく、文化の展示を博物館施設を使ってやるということで、琵琶湖文化館に近江の代表的な文化財を結集した「近江の名宝展」という展覧会が、国体の芸術部門として催されました。それがおそらく大規模かつ本格的に滋賀県の仏教美術を紹介した初の展覧会だったと思っています。

八杉 木村先生は大津におられて、琵琶湖文化館をどのように見られましたか。

木村 本格的な博物館の機能を持った施設は、琵琶湖文化館がスタートだと思います。

 多くの県民は自分たちの住んでいる県にはどのような優れたものがあるのかということを、琵琶湖文化館の展示を通して知った、歴史や文化に開眼したのが琵琶湖文化館によってだったと思います。

八杉 滋賀県博物館協議会は昭和57年の設立から40周年であるわけですが、実はその前にも同名の組織ができているんですね。

石丸 最初は先ほどあげた布施美術館など10館ほどで、昭和44年(1969)に設立されました[下の地図参照]。

第1期(1969年ごろ)滋賀県博物館協議会の加盟館とそれ以前の2館

第1期(1969年ごろ)滋賀県博物館協議会の加盟館とそれ以前の2館

 中心になっておられたのは田上鉱物博物館の館長だった中司稔※4さんで、日本博物館協会の個人会員だったことからです。ほかの府県はみな公立の一番大きな館が協議会の会長と事務局を引き受けて運営されるものなのですが、滋賀県の場合は、日本博物館協会と個人会員がつながっていたものですから、年に何回か集まって情報交換をするなどの活動はありましたが、いつの間にか立ち消えみたいになってしまったんですね。

 昭和57年の再スタートは、琵琶湖文化館が事務局を務め、他府県同様のかたちとなりました。


※1 下郷共済会 長浜の実業家、下郷伝平(2代目)が設立し、困窮者の救済や学資援助、図書館や公園の整備などに取り組んだ。
※2 杉本哲郎 (1899~1985)大津市生まれの日本画家。インド古代壁画様式に影響を受けた宗教画で国際的な名声を得る。
※3 旧国宝 昭和4年(1929)に制定された国宝保存法によって指定された国宝。
※4 中司稔 (1902~1976)大津市森の善正寺住職。小学校長を定年退職後、田上鉱物博物館を開設。


自治体史編纂と民具の保存──昭和50~60年代

八杉 昭和50年代の動きとしては、県内各地域で市町村史が盛んに編纂されるようになってきます。その先駆的な取り組みが『新修大津市史』であり、最終的に平成2年(1990)の大津市歴史博物館の開館に至るわけですが、市史編さん室長から初代館長になられた木村先生のご経験をお話しいただけますか。

木村 大津市は、昭和42年(1967)に堅田町と瀬田町が編入されて、昭和40年代半ばには京阪神のベッドタウンとして人口が急増します。市内の風景も様変わりしました。昭和50年代になると、高度経済成長による変化の反省も含めて、自分たちの地域をもう一度見直そうではないかという声が市民の方々から市に寄せられるようになりました。

 そして、昭和51年(1976)から『新修大津市史』の編纂が始まり、2年後の昭和53年に第1巻、最終巻の10巻が昭和62年の刊行と、丸12年かかりました。

石丸 滋賀県の人口も昭和40年代初めで85万~90万人くらいだったものが、いま140万ですね。昭和の町村合併や新住民の増加に対応した自治体史は、滋賀では『新修大津市史』が先駆けだったと思います。たくさん売れたそうですし。

木村 市民の方々の協力を得て、撮影したフィルムの数は56万コマぐらい、調査した資料の数は4万点にのぼりました。その過程で、市史編さん室に寄贈されたり寄託される資料はべらぼうな数になっていきました。古文書と、明治以降の生活関係の資料に大別されますが、それらを市史編纂が終わったらどうするかが問題となったのです。これは大津市に限ったことでなく、全国各地で起こっていました。

 「市史に載ったものだけを保存して、それ以外のものは捨ててしまえ」といった極端な意見も出てきたものですから、編集委員の林屋辰三郎※5先生らが長期的な観点から保存公開施設である歴史博物館の建設を強く要望なさったんですね。

 館がつくられる前にかなりの量の資料が集まっていたのは、博物館にとって理想的だったと思います。

石丸 同時期に大津市よりも規模の小さな自治体では、国庫補助による歴史民俗資料館の建設が進んでいます。昭和45年(1970)から始まった歴史民俗資料館整備事業といって、暮らしの変化で破棄されるようになった民具を保存・公開することを目的に、滋賀県全体で10館が誕生しました。「歴史民俗」がつく館のすべてが該当するわけではないのでややこしいのですが。その中には、高月町や野洲町のように仏像や銅鐸といった町独自の歴史遺産を打ち出した館もありました。

木村 甲賀市の資料館にうかがったさい、地場産業であった売薬の道具などを展示なさっていたのが印象に残っています。甲賀市には、さらに売薬業に特化した「くすり学習館」が開館していますが、ああした地域のカラーを出すことができる施設は大事だと本当に思います。

八杉 「秀吉の城下町」ということを打ち出して、長浜市に長浜城歴史博物館が開館したのが、昭和58年(1983)です。

石丸 昭和50年代に長浜城歴史博物館の計画が持ち上がった当時、専門家からは「いまごろ城なんて古い」という意見があったように記憶しています。再び近年のような「お城ブーム」が訪れるとは誰も思っていなかったんですね。結果的には城の外観にしてよかったと思います。

 開館からまもなく黒壁ガラス館などがオープンして県内屈指の観光地として長浜が復活する過程で、独特な一つの文化圏でもある湖北の文化遺産の継承に市民が非常に熱心に取り組んでこられたのは、天守の形をした博物館がそのシンボルとしての役割を果たしたという面もあるだろうと思うからです。木村先生は、長浜城歴史博物館協議会の委員もなさっておられましたね。

木村 長浜城歴史博物館は、滋賀県の中で全国区的な博物館の一つだと思っています。NHKの大河ドラマで秀吉やお市の方が主役を張れば、例年の3~4倍もの方が全国から長浜城歴史博物館におみえになるわけですし。

八杉 先ほどの琵琶湖文化館も外観が天守の形でしたが、安土城考古博物館、長浜城歴史博物館、彦根城博物館のように、滋賀には名称に城を冠した館が多いという特徴があります。大津の場合は、どうですか。

木村 大津市内にも、坂本城、大津城、膳所城と、たくさんの城跡があるので、城関係の展覧会をするとやはり大勢の来館があります。日本人には、郷愁を誘うのでしょうか。城のないところは、城をつくろうと言う人があるというのを聞いたぐらい(笑)。

八杉 私がいる草津宿街道交流館のように、宿場や街道をテーマとした資料館・博物館はどうでしょうか。木村先生もご専門は街道であるわけですが。

木村 なかなか人は入らないですね(苦笑)。なるべく多くの市民の方に、実際に旧街道を歩く経験をしてもらいたいと思っているのですが。あるとき「この道を歩いていくと江戸へ通じるんですよ」と言ったら、「いまの時代に、なんで江戸へ歩いていくんですか」と返ってきて。道を展覧会の目玉にするのは難しそうですね。


※5  林屋辰三郎 (1914~1998)歴史学者・文化史家。京都大学教授・京都国立博物館長などを歴任。


県策定による文化施設の整備──昭和50~平成10年代

八杉 一方、県の文化政策としては、昭和47年(1972)に策定された「文化の幹線計画」によって、県民が文化芸術にふれる機会を増やすため、美術館・博物館もふくめ、図書館やホールなどの文化施設が、昭和50年代以降、整備されていきました。

 長浜、安曇川、八日市、水口、草津の5か所に県立文化芸術会館、昭和55年(1980)に県立図書館、昭和63年に米原に文化産業交流会館、平成10年(1998)のびわ湖ホールまで続きます。

石丸 博物館・美術館では、昭和59年(1984)の県立近代美術館、平成4年(1992)の安土城考古博物館、平成8年(1996)の琵琶湖博物館まで、この計画によるものですね。

 琵琶湖文化館から、近代美術館へ100点以上の近江関係の絵画が、安土城考古博物館(風土記の丘資料館)へは考古資料が、琵琶湖博物館へは魚類が移されました。

八杉 県内最大の博物館にあたる琵琶湖博物館は、まさに滋賀県の財産である琵琶湖をテーマにした館となっています。

石丸 昭和60年(1985)ごろの計画当初は、自然系と歴史系それぞれの県立博物館を建設する方針だったそうですが、2館を一つにまとめて総合博物館とした全国でも珍しい例です。研究活動も展示も、理系・文系の垣根を越えたセンスでやっておられますね。

木村 やはり琵琶湖は歴史的にも、自然史的に見ても、大きな存在ですね。

石丸 滋賀県の場合、中央に琵琶湖があるために、歴史遺産が一部に固まらず、わりあい県下一円に分散しているというのが特徴ともいえます。大津市のように大きな寺院があるところに集中している面もありますが。それが滋賀県の博物館・資料館の豊かさにもなっているのではないでしょうか。

八杉 琵琶湖の存在が滋賀県の多様性を生んだということですね。しかし、一方で、滋賀県はいろいろなところに文化財が点在しているので、交通のアクセスがよくないことが欠点だという意見も聞きます。それを逆手に取れば、各地の博物館・資料館を回ったり、文化財を見て回ることで、滋賀県全域を見て回れるというようなことにもつながってくると思うのですが。

石丸 江戸時代なんかであれば資料を写すのも全部筆写でしたから、必要とした人は、大坂や遠くは九州へ、1週間、1か月もかけて行って帰るということが当たり前でした。電車や車も利用した滋賀県内の移動程度であれば、苦にしないような考え方もあってよいのではとも思うのですが。

木村 少し話がずれますが、博物館協議会にも近江商人関係の博物館施設がたくさん加盟なさっています。それも単に「近江商人」とひとくくりにはできず、八幡や日野、五個荘、豊郷などの商人たちが、自分たちが扱う商品は何がよいか、どうしたら売れるかを、情報収集しながら決めて、売り出していたわけです。各地域でそれぞれの特性に合ったやり方という点で、博物館の場合も同じではないかと思いますね。

八杉 来館者側としては、ある館の展示だけを見て、「近江商人」を理解することはできないわけですし、それぞれの館の側は足を運んでいただけるだけの独自性や魅力を出していく必要があると。

私立美術館の開館と市町村合併──平成

八杉 平成に入ってからの流れとしては、民間の団体や企業による館として、平成7年(1995)に観峰館、平成9年にMIHO MUSEUM、平成10年に佐川美術館などの開館がみられました。こうした美術館の県域での役割、存在意義については、どうお考えですか。

石丸 そういう意味でも、平成23年(2011)にMIHO MUSEUMと県立近代美術館と大津市歴史博物館による3館連携特別展「神仏います近江」は非常に印象深いものでした。近江の仏像を中心とした宗教美術というテーマで、近代美術館は中世の仏像彫刻、MIHOは古代インドから平安時代、大津市歴史博物館は山王祭関係を扱われました。

 個人的にですが、山王祭(日吉大社)に関わる神像は仏像よりも公開が難しいところ、多くの男神像や女神像を見ることができたことが印象に残っています。

 本来は館ごとに会計のやり方も違うのですが、この時は会計から何から全部一本化して、やらせてもらいました。学芸員だけではなくて、庶務関係の方々やその上司の皆さんも理解して対応していただけたので、成功したのだろうと思います。

 協議会の存在意義からいっても、各館の展示の個性を生かしながら、一つのテーマを設定して複数の館が共催する企画展は増えてほしいですね。

八杉 公立館の立場からも、MIHO MUSEUMや佐川美術館のような知名度の高い私立美術館との連携は、検討していく必要があるかと思います。

石丸 そうした取り組みは、1館だけで孤立することを防ぐ意味もあります。これは私立館の場合もそうだと思うのですが、遠方からいらっしゃる来館者の方に満足していただくことと同時に、所在する地域の住民の皆さんとどうつながっていくかを館は考えなければいけないということです。

 平成の出来事として忘れてならないのは、市町村合併です。かつての50市町村は地域の特色を出した博物館・資料館が設けられていましたが、平成の大合併によって、複数の市町村が一つになり、市の中にいくつも館があることになってしまいました。協議会への加盟は、一つの市から一つの館だけでよいだろうというので、脱会なさった館もあります。これは、協議会、館双方にとって残念なことでした。

八杉 平成の初期、石丸先生が協議会会長になられた当時と、現在を比較してお感じになることはありますか。

石丸 平成4年(1992)ごろ、滋賀県立近代美術館の館長をしていたときに幹事館を担当していましたが、そのときに比べて、近年はいろんな事業に取り組まれて発展しておられると思います。

八杉 木村先生は、平成2年(1990)に開館した大津市歴史博物館の初代館長として、博物館協議会と関わってこられていかがですか。

木村 加盟館はそれぞれ、設置主体も規模も分野も、非常に異なっていますよね。ただ、現在は財政的な問題も含めて、非常に苦しい、大変な時代になっているというのは共通しているかと思います。けれど、滋賀県全体の文化を支えている、大きな役割を担っているのは、やはり各地域にある博物館・美術館などであろうと思っています。

県立館のリニューアルとコロナ禍──令和

八杉 さらに近年の動きとしては、琵琶湖博物館が開館20年を迎えた平成28年(2016)から令和2年(2020)にかけてリニューアルオープン、県立近代美術館も昨年リニューアルオープンして「近代」の文字がなくなりました。そして、休館中の琵琶湖文化館の後継施設も、令和9年度(2027)にオープン予定です。

石丸 仮称で「新・琵琶湖文化館」と呼ばせていただきますが、現在、文化館が所蔵している国宝・重要文化財は全国的に見ても多く、1か所で多くの文化財を見せる場所にすることもできるのですが、現在は、そういう時代でもなくなりつつあります。琵琶湖文化館への県内社寺からの寄託品は、休館となった平成20年4月以降も増え続けてきました。防犯対策のためであったり、地域の過疎化により保存が難しい社寺や自治会が増えてきたためです。
 それらの文化財は、できることなら寄託なさったお寺や神社など、現地のロケーションの中で自然や建築物とともに鑑賞していただくのがベストです。時代の流れとして、そのようなかたちでないと、もうやっていけないのではないかなと思うんです。

 すでに文化館では、県外もふくめた他館の企画展への出陳を行っておられますが、新・文化館は収蔵庫としての機能をメインに、さまざまな施設に文化財を貸し出すあり方がよいのではないかと思います。

八杉 新・文化館がいわゆるキーステーションとなり、県内各地の文化財をめぐるといったかたちですね。木村先生はいかがですか。

木村 難しい。

八杉 難しいですか(苦笑)。

木村 いまおっしゃったことは、お聞きするとまさにそのとおりだとも思うのですが……。滋賀県の文化を発信する新しい文化館については、「こうありたい」という意見がさまざまあります。多くの方が滋賀県を代表する施設になってほしいと期待している表れだと思いますが。

八杉 令和の出来事としては、令和2年3月から世界的大流行となった新型コロナウイルス感染症の問題があります。協議会の理事会などの場でも、私立の小さな博物館・資料館はコロナ禍で来館者数が減少し、経営も厳しいため、協議会として何か支援をという声もありました。

 しかし、当協議会もそこまでの財政規模があるわけではないので、結局は十分な支援もできないまま現在に至っています。

 各加盟館からは、「コロナの対応なども統一してできれば」という意見が出ましたが、それぞれの設置母体の方針も優先しなければならず、ままならない状況です。

 とはいえ、加盟館相互の連携なり協働は一層進めていかなければならないものと思います。最後に両先生に一言ずつお願いできますか。

石丸 博物館協議会が活動して40年とのことですが、平安時代の十一面観音像などは1000年以上経っているわけですから、それから見れば、これからだと思います。

 それぞれの館でのお仕事が忙しくて協議会の会合への出席も難しい面もあろうかと思いますが、「寄って知恵を絞る」というのは必要ではないかと思っています。「これをやったらもう大丈夫ですよ」という奥の手は誰も持っておりません。その都度、知恵を出して、「この館に行ってみたいな」と思っていただけるように、各館が協力していただければと思っています。

木村 特徴のある博物館・美術館がこれだけ一堂に会している県は、全国的に言ってもあまりないのではないかと思っています。

 知識を少しでも満たしてもらえるよう博物館はあるのですから、それをもっと大々的にPRしていただいて、連携しながら進んでいただければ、本当にうれしいなと思っています。

八杉 今後の変化も予想がつきませんが、協議会としてさまざまな活動を展開してまいりたいと思います。本日はどうもありがとうございました。 (2022.8.5)

滋賀県博物館協議会の加盟館(2022年4月現在)

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