インタビュー:数が少ないけれども、飛んでいることは確かなので、「復活した」とも言えます。

「ホタルのまち守山」の歴史

──守山市は、市のPRキャラクターもホタルなんですね。

古川 はい。守山市商工会議所がおつくりになった「もーりー」は、名前を言えば、お子さんでも親御さんでもみんな反応するぐらい市民に知られています。一応、当館独自でも「もぴか」というキャラクターがおりますので、両方ご愛顧ください。

──守山とホタルの関わりをたどると、いつぐらいからになるのですか。

古川 江戸時代の末期にはまず宇治川のホタルが有名だったそうです。そこが少なくなって次に有名になったのが瀬田川沿いの石山。その次に明治になって有名になったのが守山でした。東京帝国大学教授だった渡瀬庄三郎博士が明治23年(1890)に守山に来てホタルを観察し、明治35年(1902)に『学芸叢談─蛍の話』という日本最初とされるホタルに関する本を出版しました。この本には、当時の野洲郡守山村とその南の栗太郡物部村今宿(守山市今宿)はホタルがとても多く、出る季節に夜の田んぼ道を歩くにも提灯は必要ないといったことが書かれていたんですね。

 渡瀬博士が泊まった今宿の旅館の主人だった江畑栄太郎という人が本の出た年から皇室へホタルの献上を始めました。明治44年(1911)からは守山小学校でも小学生が集めてきた3万匹ものホタルを毎年皇室に献上するようになります。

 大正8年(1919)には守山町の青年団が宣伝のために大阪毎日新聞の本山彦一社長を招いてホタルが出る川筋を案内しました。本山社長は昆虫学者として有名だった名和靖に調査研究を依頼し、青年団にはホタルの保護を助言しました。

 大正10年(1921)には町と青年団によって第1回「ホタルデー」(昭和10年から「蛍祭り」に名称変更)が催され、大津や京都からの見物客向けに守山小学校の校庭に1万匹のホタルが放たれました。

➡日本で初めて天然記念物に指定後、設置された「源氏蛍発生地」の看板(『守山市誌 自然編』より)

──そして、大正13年(1924)には守山町のゲンジボタル発生地が国の天然記念物第1号に指定されるわけですね。

古川 皇室へホタルを献上していた地域は全国各地にあったのですが、新聞などの利用もあってタイミング的に一番最初に知れ渡ったのでしょうね。それと、天然記念物の申請は、観光客による乱獲に頭を悩ませていた青年団が名和靖から「捕獲禁止の法的な根拠になる」と助言されたことが大きかったそうです。

 そして昭和3年(1928)には「愛蛍会」という団体ができて、ホタルを減らさないよう幼虫の川への放流を始めました。この時、指導にあたったのが、大正時代に青年団の副団長として名和靖の調査に協力していた南喜市郎でした。醤油屋さんの息子でまだ20代後半の青年でしたが、独自の研究でこの年、人工孵化に成功していました。

──ゲンジボタルの幼虫の食べ物がカワニナ※1だというのも、南さんが初めて発見したそうですね。

古川 何を食べるか以前に、ホタルの幼虫が水の中にいるということすら学者も知らなかったんです。日本の昆虫学が黎明期だったということもあるのでしょうが、アメリカやヨーロッパなどにすむホタルの種類がほとんど陸生だったせいもあって、日本でもホタルの幼虫は陸にいて、カタツムリやナメクジを食べると考えられていたんです。

──伊吹山の山頂にいるヒメボタル※1などは幼虫が陸生のホタルなわけですね。

古川 南さんがヘイケボタル、ゲンジボタルの室内飼育に成功しなかったら、たぶんいま日本でホタルを飼っている人はいなかったでしょうね。なんにしても、大阪毎日新聞の本山社長に「お前、ホタルの研究をしろ」と言われたことをきっかけに、それに生涯を費やしたというかなり変わった人です。

──かなり早い段階で人工飼育という方向に進むというのも、すごいですね。

古川 南さんが研究を始めた大正末から昭和初期には、すでに守山のホタルが減っていたせいでもあります。ホタル問屋が何軒もあって県外からの注文も受けていましたから。「愛蛍会」の目的もそうでしたが、南さんも減少を食い止めるために、ホタルの増殖に取り組み、河川環境を守る必要性も訴えたんです。ホタルを通じた環境保護の先駆けみたいな人です。当時「環境」という言葉を自然環境という意味で使っている人はいなかったような時代に。

(左上)ホタルの人工孵化箱を作る愛蛍会の人たち。1932年 (左下)蛍祭りのため守山小学校の教室でホタル展示会を開いた南喜市郎。1935年 (下)自宅の研究室でホタルの人工飼育をする南喜市郎。1955年ごろ (3点とも『守山市誌 自然編』より)

──当時の写真を見ると、研究だけでなく、ホタルの生態に関する知識の普及にも努めておられて、博物館の学芸員のようでもあります。館の収蔵品には、南さんの研究資料や遺品も含まれているのですか。

古川 6年ぐらい前までは館内で常設にしていたのですが、可視光線などが入ってくる状態だったので、守山市公文書館の収蔵庫にすべて移しました。代わりに彼の功績については展示パネルで紹介しています。

──ホタルの名所というと山間部の田舎をイメージしてしまうのですが、守山の場合は中山道の宿場町として人家も多かった平野部の川であることが意外でした。

古川 県内最長の川である野洲川がすぐ北にあり、中流部から流れてきた川の水が下流では伏流水になるんだそうです。ですから守山は湧き水が豊富で、いくつもの細い川が流れています。それがホタルのすめる環境が多い理由だったと考えられます。

──南さんらの努力のかいもなく、戦後はさらにホタルの減少が進むわけですね。守山の都市化は、発展であったわけですが。

古川 戦後も昭和25年(1950)ぐらいになると、京都や大阪の料亭などから守山のホタル問屋にホタルの注文があるようになって、同年には「蛍祭り」も再開され、京阪神からの観光客で賑わいました。
 ところがそのわずか3年後にはホタルがほとんどいなくなり、「蛍祭り」も昭和31年(1956)を最後に開催されなくなりました。昭和35年には、とうとう天然記念物地指定が解除されてしまいます。


※1 カワニナ 東アジアの川や湖にすむ細長い巻き貝。ゲンジボタルの幼虫のエサとなる。ヘイケボタルの幼虫はタニシなど他の巻き貝も食べる。

※2 ヒメボタル ゲンジボタルやヘイケボタルよりも小型のホタルで、山地の水辺でみられる。幼虫は陸生で、陸生の小型巻き貝やカタツムリを食べる。


ホタル復活への取り組み

──ホタルがいなくなったのは、工業団地などができて、水質悪化が原因ですか。

古川 いえ、複合的な要因だと思います。河川の汚濁、人間による乱獲、農薬の使用、それから少し後になりますが、野洲川の河川改修と守山市の人口増加など。あらゆる要因がすべて関わっていると思います。これはホタルに限らず、タガメなど、いろいろな生き物が減っているので。

 ホタル復活に向けて、守山市が本格的に取り組んだのは、昭和54年(1979)に始まった「ホタルのよみがえるまちづくり事業」からです。

──琵琶湖も富栄養化が問題になっていた時期ですね。

 この事業の一環で、昭和55年に鳩の森公園というところに人工河川とホタルの飼育室や研究室が設けられ、いろいろな試みを始めました。市内各所の河川整備や幼虫の放流も始まっています。

 それから10年後の平成2年(1990)に当館が開館しました。昭和63年度から平成元年度にかけて竹下登内閣が全国の市町村すべてに使い道自由の1億円を交付した「ふるさと創生事業」というのがありましたよね。守山市は市民からの提案を審議した結果、この資料館と新たな人工河川を整備したんです。

 また、守山市は平成12年(2000)に「守山市ほたる条例」を施行して、もともと守山ボタルが見られた守山駅周辺の川と鳩の森公園内や市民運動公園内に設けたホタル河川など9つの川を保護区域とし、ホタルの幼虫と成虫の捕獲、幼虫のエサになるカワニナの捕獲、川を汚す行為を禁止しました。平成25年(2013)には条例が改正されて、保護区域が市内全域の河川になっています。

守山駅周辺の空中写真(国土地理院サイトより。昭和22年は米軍撮影)

──古川館長が理事を務められ、館の指定管理者になっているNPO法人びわこ豊穣の郷はどのあたりからホタル復活に関わってきたのですか。

古川 駅周辺の発展と人口増加にともない、守山市を流れる川の河口部にあたる赤野井湾は琵琶湖でも特に富栄養化が進み、アオコも発生するほどになっていました。平成8年(1996)に地域住民と行政、企業などによる「豊穣の郷赤野井湾流域協議会」が発足し、翌年から河川の水質調査と水生生物調査などをおこなうようになります。この協議会では琵琶湖や河川の水質改善とともに、守山のホタルの復活も目標に掲げていたんです。

 守山駅方向から運動公園の南東側の道をはさんだ向こう側まで流れてきている目田川は、市街中心部の水を排水するためにつくられた準用河川※1なのですが、当時、景観上もひどい状態になっていました。ここも協議会が20年ほど前から整備して、ホタルの幼虫を放流したりしてきました。

 この協議会が平成17年(2005)にNPO法人化して、「NPO法人びわこ豊穣の郷」となり、同年にこの館の運営に指定管理者制度が導入されたので入札に参加し、翌年度から運営しているという形です。

──古川さんは、もともとは水質改善のための調査などに参加しておられたのですね。

古川 はい、私は大学では雲仙岳など火山の研究をしていた人間で、理系ではありますが、ホタルなどの昆虫が専門というわけではありません。もともと一般企業に勤めていた時に理事になって、活動に参加していました。その会社をやめる必要ができた時に、「それなら、手伝ってくれないか」と言われて来た格好です。

 豊穣の郷は現在、個人会員が300名ぐらいいて、守山市内の人は約7割、それに守山市内70の自治会を含む101の団体が加入していて、年4回の水質調査などの活動をしています。

──館の活動は、どういった種類があるのでしょうか。

古川 資料館の活動は、まずホタルに関する文献や資料の収集、次にゲンジボタルの飼育研究です。幼虫や成虫を飼っています。それから運動公園内を流れる「ほたる河川」にホタルが居着いてくれるようにするための研究、幼虫の放流、市内自治会と市内の皆さんへの提供、それに環境学習などの普及啓発事業、あとは森の管理ですね。

──来館者は、市内のお子さん連れなどになるのですか。

古川 館があるのは、昭和56年(1981)に県下で開催されたびわこ国体の前年に整備された市民運動公園の中なので、球場やグラウンドを使ったソフトボールや野球、サッカーの大会などがあると、県外の人も来館なさいます。お子さんの試合が終わるのを待っているお父さんやお母さんが来館なさるのが平常の時期です。

 もちろん一番多いのはホタルの飛翔期間中で、コロナの前は外国からも来館なさっていました。

──予想外に宣伝効果がある立地ですね。

(左)赤野井湾流域の川の水質調査 (右)同じく水生生物調査

(左)赤野井湾流域の川の水質調査、1997年 (右)同じく水生生物調査、1999年 (2点とも認定NPO法人びわこ豊穣の郷提供)


※3 準用河川 一級河川及び二級河川以外の「法定外河川」のうち、市町村長が指定し管理する河川。


野洲川改修などで変化した水利用

──目標であるホタルの復活は成功したのですか。

古川 よく尋ねられるのですが、復活をどの程度のレベルに求めるかで答えは変わります。守山ホタルが有名だった100年以上も昔のレベルに戻ることを復活というのなら、人口が10倍以上に増えて、まちの構造、河川の構造も昔とは異なる現在、不可能ですし、そこまですることに意味があるのかという話になります。

 ですから、数の回復を目指すとすると、まったくできていません。昔は何百万匹という単位で発生していましたが、いまは1シーズンに1万匹にも届いていません。

 それでも、いなくなった時代に比べると、いまはどこでも数が少ないけれども、飛んでいることは確かなので、「復活した」とも言えます。つまり見る人次第ということですね。

──昔ほどではないにしても、復活した理由は何だったのでしょうか。

古川 一番簡単な説明は、下水道の普及によって水質が改善したためです。豊穣の郷による平成9年(1997)から12年までの水質調査でも、窒素とリンの値は明らかに減少していました。この間に市内で起こっていたのは下水道の普及率とトイレの水洗化率の向上でした。ですから、川の水がきれいになったのは事実だと思います。しかし、本当にそうなのかと言われたら、よくわからないんです。

──ホタルがすむ川は、単にきれいなだけでもいけないと読んだことがあります。

古川 それはすでに南さんが本に書いておられますね。ホタル復活のために井戸を掘って水を流すといったこともやられたのですが、掘られたばかりの地下水は何も栄養がふくまれていないので、生き物には不向きです。

 そうした例を除いて、守山の川はどこがきれいかといえば、滋賀県は富栄養化防止条例があるので全国的に見たら水質の面ではどこもかなりきれいなんです。

 昨年(2021)のホタルが飛ぶ季節1か月間に調査した守山市内の飛翔数をまとめたものが、こちらのマップ(下)です。ホタルが飛んでいることが確認されたのは、守山駅周辺から赤野井湾にかけての私たちが放流している地域です。

守山市内の2021年5月10日〜6月9日のホタルの飛翔状況

守山市内の2021年5月10日〜6月9日のホタルの飛翔状況 (認定NPO法人びわこ豊穣の郷作成)

──市街地より北の田んぼが多い農村部にも放流したら増えそうに思いますが。

古川 これは地域の水利用の形を反映していて、農村部の川は農業をやるときしか水が流れないからです。
 一番北の琵琶湖岸あたりはまた別なのですが、中部あたりまでは昔、野洲川の下流が北流と南流の2本に分かれていたころ、やはり湧き水が多くあったそうです。ですから、この辺にもホタルがいました。

 けれど、当時の野洲川は10年に1回ぐらいの割合で、家屋が流出したり死者も出るような水害が発生していたので、真ん中に新放水路をつくる大改修がおこなわれ、昭和56年(1981)に通水しました。

 そして、これにともない下流一帯では圃場整備と農業用水として琵琶湖の逆水灌漑を利用する改良事業がおこなわれました。

 ポンプで揚げた水を流している用水路には田植えから稲刈りまでの灌漑期にしか水が流れないんです。環境用水として少し水を流しているところもありますが、流量はしれています。

──野洲市から彦根市にかけての琵琶湖岸の田もほとんど逆水灌漑ですね。

古川 当館から南の一帯にしても、農業用水は野洲川の石部頭首工から供給してもらう形で、本来灌漑期以外は水がなくなるところをあえて一年中流してもらったり、少なくなった伏流水(地下水)をくみ上げるポンプを市がたくさん設置して、常時、水がある川をつくっているんです。多額の電気代を計上して。

──それはホタルのために。

古川 いえいえ。防火用水としてだったり、潤いのある河川景観をつくることが目的ですが、そのおかげもあって、守山市内でホタルは飛べるんです。
 私たちは逆水灌漑になった地域での聞き取り調査もおこなっています。お年寄りの中に、「確かに野洲川の南流を取って洪水で人が死ぬことはなくなったけれども、水はつくれないしな」とおっしゃる方がいて、確かにそのとおりだと思いました。

 こういう状況を話すと、「昔みたいな環境に戻せ」という人も出てくるのですが、先人たちはものすごく苦労して洪水や干魃がなくなるように圃場と水利用を整えてきたんです。それをひっくり返すのかという話ですよね。私はそれは現実的じゃないと思っています。

──ホタルの幼虫の飼育についも大変そうですね。

古川 どれだけの数を増殖するかというのが一番の問題なんです。当館の場合、何万匹という幼虫を抱えないといけない。それも、現状では完璧ではないので、生まれたとしても、多くが死んでいきます。その死ぬ要因も研究しないといけないのですが、生存率が上がったら上がったで、今度は獲ってくるカワニナの数が増えます。

 南喜市郎さんの時代に比べて道具や技術は段違いに向上しているので、1年で終齢幼虫という蛹になる大きさまで成長させられるんです。

 幼虫1頭が孵化してから終齢幼虫になるまでには、約20個のカワニナを食べるといわれています。ホタルの幼虫が1万匹だった場合、20万個のカワニナが必要という話になって、それをどこに獲りにいくのか。

カワニナとゲンジボタルの幼虫など

(右上)カワニナを食べるゲンジボタルの幼虫 (左上)館内で飼われているカワニナ。植物はエサとして置かれているもの (下)ゲンジボタルの幼虫が孵化してから終齢幼虫になるまでに食べるカワニナを並べた展示

──展示にもありますが、幼虫のサイズにあったカワニナを用意するのも難しそうです。カワニナは養殖できないのですか。

古川 それも当館の研究の一つなのですが、感覚的には、カワニナの増やし方は、ゲンジボタルを増やすよりはるかに難しそうです。そもそもカワニナの増殖を研究している専門研究者の論文は、見たことがありません。ホタル愛好家がカワニナの研究もなさる例はあるのですが、なかなか役に立つ知見というのは出てきません。

──自然にいるカワニナを獲ってくると、そこの生態系がという問題もありますね。

古川 はい。カワニナを大量に捕獲するということは、それだけホタルの増殖のためにカワニナがふだん存在する生態系に負荷をかけるということです。いまの守山市内の川で、1か所から何万個と獲れるほど発生している川はありません。正直なところ、「こんな状況でこれ以上続けるのは、問題だと思いますよ」というのが、いまの私の立場ですね。

 すると、「カワニナが川に増えたらいいわけですね」という意見も出るのですが、ここまで高度に治水と都市化が発達した都市河川で、それは無理です。カワニナを飼うために、川にエサを沈めればというアイデアも出ましたが、それって琵琶湖条例に反しているでしょう。

──それこそ富栄養化ですね。

古川 ですから、これはもう単にホタルを育てて放流する問題じゃなくて、まちづくりに直結する話なんです。滋賀県は環境先進県として進んでいるなかで、まちのイメージにも関わるし、時代遅れなことをするべきではありません。

 当館は市の施設で、私は雇われの身なのですが、ホタルの復活と言うけれど、「どこを目標にしているのかわからない」面があります。現状で満足するのであれば、これ以上の環境負荷は考えものです。

3年ぶりに「パーク&ウォーク」開催決定

──今年はホタルシーズンに開催されていた「守山ほたるパーク&ウォーク」が3年ぶりに復活するそうですね。

守山ほたるパーク&ウォーク

「守山ほたるパーク&ウォーク」のようす (認定NPO法人びわこ豊穣の郷提供)

古川 最初は平成16年(2004)に「ホタルパーク&ライド」という名前で始まり、3年後に「パーク&ウォーク」に改称されました。守山市内で一番大きな駐車場がある市民運動公園に車を停めて、あとは歩いてホタルを見に行ってくださいという催しです。守山駅前と市民公園などの指定区間にはシャトルタクシーも運行されます。

 そもそもこの行事を始めたのは、警察と自治会からめちゃくちゃ怒られたからでした(苦笑)。大量増殖が成功して、成虫が1万頭ぐらい飛んだ年があったんです。それが口コミで広がって、ちょうど帰宅時間帯の道路が大渋滞、「なんで自宅に帰るのに3時間もかかるんや」と、苦情が殺到しました。対策として、路駐は絶対禁止、見たい人は車を運動公園に停めて、あとはシャトルバス(当時)か徒歩で行ってくださいということになりました。

 当館にとっても最大の行事ですが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、一昨年と昨年は中止していたんです。

──ホタルというと、6月という感覚があるのですが、5月下旬の開催なのですね。

古川 昭和45年(1970)、いまから52年前に出版された南喜市郎さんの著書の中では、「わがまち守山のホタルの見頃は6月中旬です」と書かれています。ですから本来その感覚が正しかったのですが、この30年の温暖化でかなり前倒しになっています。いまは最盛期が5月の最終週です。つまり、この半世紀で半月早まりました。サクラと一緒です。

──開花予想みたいに事前に予想する必要もあるわけですね。

古川 これまでに当館が取ってきたデータから判断すると、ちょうどいま(取材時)、3月下旬から4月いっぱいの気温でほぼ決まります。生き物ですから他にも条件があるのか、完璧に見事な相関というほどでもないですが。

──守山にホタルを見に行く場合の注意点などございますか。

古川 ホタルを見るなら、明かりは最小限にしてください。スマホで撮影時にフラッシュをたいたり、懐中電灯を振り回したりするのはおやめください。それだけですね。

──本日はお忙しいところ興味深いお話をありがとうございました。
(2022.4.14)


編集後記

守山市ほたるの森資料館では「最終的には見たいときにいつでもホタルが見られるようになったらいい」という南喜市郎の思いを実現させるため、ゲンジボタルが羽化する時期をコントロールする研究も進めています。今年3月には通常より2か月半も早い羽化に成功しました。古川館長によると、「まだ半分ぐらい成功したという段階」とのことですが、館に行けば季節はずれでもホタルの光が見られる日が来るかもしれません。 (キ)


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