インタビュー:地域との関わりが濃い日野商人の屋敷を、歴史と文化を伝える交流の場に


日野町教育委員会事務局生涯学習課
近江日野商人ふるさと館旧山中正吉邸

岡井健司さん 岡井健司さん
おかい・けんじ/1970年、滋賀県生まれ。日野町史編さん室事務局を経て、近江日野商人ふるさと館勤務。専門は日本近世史。
「私は八日市で生まれましたが、日野出身の妻と結婚するまで日野には来たことがなくて(笑)」
振角卓哉さん 振角卓哉さん
ふりかど・たくや/1969年、広島県生まれ。日野町立図書館等を経て、近江日野商人ふるさと館勤務。専門は考古学。
 「お城と武将が大好きで、三重県亀山市にある道場に通い、心形刀流剣術も習っています」

戦国期には蒲生氏の城下、江戸時代には市橋家仁正寺藩へ

──ここは昔でいう西大路村(仁正寺村※1)で、江戸初期に幕府領だった日野三町(村井・大窪・松尾)の東隣ですね。東西の通りでいうと、東のはずれにあたりますが。

岡井 当館がある西大路の歴史を見るなら、もう一つ前の蒲生氏※2の中野城(日野城)があった時代の武家地と城下町までさかのぼっていただいた方がいいと思います。

振角 中野城の回りに家臣団の居住地、いわゆる武家屋敷が配されていました。その外側に商工業者の居住地が配されたのですが、それ以前から商人・職人町があったと考えられます。つまり、室町時代までさかのぼると、商人・職人町の方がまずあって、それを支配下に置こうとした蒲生氏が近くに城を築いたという、普通の城下町とは逆の流れです。

岡井まず、市が立っていたんです。最も古くは、応永33年(1426)の文書に「日野市」という言葉が出てきます。はっきりした位置は不明なのですが、綿向神社の門前の宮市がベースなのだろうと思います。

振角 東近江の八風越えや千種越えは、中世には東海道よりたくさんの人が行き来したと言われています。東海道は険しくて山賊も出るというので。

──日野は、八風・千種街道と東海道のちょうど中間に位置するわけですね。

振角 当時はとても利便性のよい重要な地だったんです。信長の息子の織田信雄が伊勢に領地をもらった時期には、安土と伊勢を結ぶルート上でもあったり。

──江戸時代になると、藩の陣屋が置かれますね。

岡井 市橋家の仁正寺藩の領地となります。江戸時代の領主の分布をみると、日野町域は非常に入り組んでいます。仁正寺藩の領地はわずか5ヵ村で、それも飛び飛びにあって、彦根藩や膳所藩のような領国があったわけではありません。

振角 市橋氏はもともと美濃国守護の斉藤氏に仕えていましたが、織田信長の美濃攻め後、市橋長利は信長の家臣となります。信長の妹のお市の方が浅井長政に嫁ぐ時に仲介をした人物として有名な長利は、豊臣秀吉にも重用されました。

 長利の息子の長勝は、市橋家「中興の祖」と呼ばれる人物で、信長・秀吉に仕えた後、徳川家康のもとで関ヶ原の戦いや大坂の陣で戦功をあげ、越後国三条(新潟県三条市)の大名となります。ところが、長勝には跡継ぎがいなかったため、死去により領地が没収されようとしたのですが、家臣たちの嘆願によって、養子であった甥の市橋長政が相続することを認められました。これは異例中の異例で、徳川家が長勝の功績を高く評価していたことを物語っています。

 そして、元和6年(1620)、市橋長政が2万石の大名として仁正寺村に入ったのが仁正寺藩の始まりです。長政は大坂城の再建工事や多賀大社造営などにも携わっています。

──幕府にも重用された大名なのですね。

振角 戦国ファンに市橋氏はよく知られていますが、規模的には小藩ですから、一般にはあまり知られていないと思います。

岡井 歴代藩主の中では、7代藩主の市橋長昭が幅広い分野に通じた文化人として有名です。藩校を整備したり、地史の編纂を命じたり、自身で収集していた中国の宋と元の時代の本の中から特に価値があるものを文化5年(1808)に湯島聖堂※3に献納するのですが、それらは現在、国立公文書館の所蔵で、一部は重要文化財に指定されています。


※1 仁正寺村 幕末の文久2年(1862)に仁正寺藩が西大路藩と改称したことにより、仁正寺村も西大路村と改められた。

※2 蒲生氏 室町時代から近江の守護大名・六角氏に仕えたが、蒲生賢秀の代に六角氏が織田信長に滅ぼされると織田氏に属した。賢秀の子である氏郷は、信長・秀吉に仕え、その戦功により伊勢へ、さらに会津若松へ転封となった。

※3 湯島聖堂 東京都湯島にある孔子その他の聖賢をまつった廟。5代将軍徳川綱吉が建立、のちに幕府直轄の学問所となった。


富士山の麓で酒造業を営み成功した初代山中正吉

──市橋家と、こちらの山中家の関わりはどこから。

岡井 幕末の頃、初代山中正吉が市橋氏からこの土地を拝領したと、当家には伝わっています。山中正吉家は、現在、近江日野商人館になっている山中兵右衛門家の分家筋にあたり、二代兵右衛門の次男の与兵衛の八男が初代正吉(1809〜)で、行商から身を起こしたたたき上げの人物です。

──この土地はどんな場所だったのですか。

岡井 江戸時代中期まで、参道の両側に、蒲生氏郷が名づけた「会津若松」の由来である「若松の森」の名残の松並木があったのですが、枯れてしまいます。周囲には武家屋敷以外、人家はあまりなかった場所のようです。当家に伝わる吊り灯籠には安政年間(1854〜1860)の年記が入っているので、幕末期に、最初の本宅が整備されたものと考えています。

──初代正吉は、日野商人として成功するわけですね。

岡井 最初は合薬を、東海道筋で行商したようです。日野商人の行商には2つのルートがあって、東海道筋ならまず三重に出て、そこから東海・江戸をめざす、中山道筋なら北関東に向かい、蓄財するとその行商先で酒造や醸造業を起こしました。

 初代正吉も東海地方の静岡県富士宮市(駿河国)で、天保2年(1831)から酒造業を営みます(現在、経営は山中家から移りましたが、富士高砂酒造の名のまま老舗の蔵元として存続しています)。

富士山・綿向山と神社の位置関係

富士山・綿向山と神社の位置関係


 出店先は富士信仰の篤い地域で、富士山頂の薬師堂(現在の浅間大社※4奥宮に位置)にあった薬師如来像が明治の廃仏毀釈で廃棄されそうになった時、初代正吉が自分の店の酒蔵にかくまったのだそうです。いまもその蔵に薬師像が安置され、「薬師蔵」と呼ばれています。そんなことから浅間大社とつながりが深くなり、近江の人を富士登山に案内したり、馬見岡綿向神社にも富士浅間神社を勧請して、祭礼日には本宅で枇杷葉湯※5を町の人たちに振る舞われたりしたそうです。

──山頂に奥宮があるというのは、綿向神社の奥宮、大嵩神社が綿向山※6山頂にあるのと同じですね。日野と同じだという親近感が信仰心につながったのでしょうか。

振角 当時の富士山で案内している写真なども残っています。修験者が持つような錫杖もあって、最初は何に使われたのかわからなかったのですが、富士登山用でした。

岡井 日野のご高齢の方への聞き取りでは、戦後も富士登山の案内は続けていたそうです。日野商人は網の目状に出店を張り巡らすのが特徴の一つで、地域との関わりが相当に濃いように思います。


※4 浅間大社 静岡県富士宮市にある、富士山を信仰の対象とする神社で、麓に本宮、富士山頂に奥宮がある。駿河国一の宮。

※5 枇杷葉湯 乾燥したビワの葉を生薬とともに煎じたもの。暑気あたりに薬効があるとされ、浅間神社の門前で売られた。

※6 綿向山 鈴鹿山脈の甲賀市と日野町の境界にある山。標高1110m。古くから御神体の山としてあがめられてきた。


四代目の妻、園子は多くの逸話をのこす女傑

──代表的な当主をご紹介いただけますか。

岡井 初代は長生きでした。文化6年(1809)生まれで、明治29年(1896)に87歳で亡くなっています。日野商人の文化レベルを示す例ですが、博多出身の絵師、村田東圃に師事した画人でもあり、「松韵」と号していました。日野祭に出る西大路の曳山の見送幕「白茶地群仙図綴錦」は、初代正吉の下絵をもとにしたとされています。関東・東海の文人や絵師とも交流があり、あちらにかかっている掛け軸(「日野祭礼之図」9ページ参照)は、山梨県の画家、渡辺雪峰によるものです。仁正寺藩主市橋氏の好学の気風もあって、日野全体が文芸に親しむ流れにあったように思います。

振角 初代正吉は、当時の日野商人の経済面だけではなく、文化面のリーダーでもあった気がします。

岡井 内国絵画共進会に出品した作品を宮内庁が買い上げると、そのお金で村内の田用水の水路18ヵ所に石橋を架けたとも伝わっており、ちゃんと社会貢献もしています。

 三代目は、大正から昭和にかけて県会議員を3期(大正8〜昭和6年)、その間に県会議長も務めています。

──「だるま部屋」と名づけられた部屋で説明いただいた園子さんは、何代目の奥さんにあたるのですか。

岡井 四代目の奥さんです。もともと近江商人の妻は本宅で主人の留守をまもったわけですが、四代目は早く亡くなったので、五代目の若いうちは後見人として表に出なければいけなかったそうです。会社の代表として、あるいは地域の代表として寄り合いなどにも行かなくてはいけない立場にあり、多くの逸話がある女性です。

──あちらの額に書かれている強盗に入られても機転をきかして捕まえたという話は……。

岡井 事実どおりか、ちょっと怪しいですが(笑)。地域の記憶として、あのような一種の武勇伝が残るほど、おもしろい方だったようです。

振角 息子である五代目の手記にあるのですが、普段はだるまが好きだから、だるまの帯留めをしていて、男の人との会議の時には、「なめられたらいかん」ということで、般若の面の帯留めをしたとか(笑)。酒造業のかたわら設立された滋賀トヨペットの社員だった方にも強烈な印象を残されています。そこの火鉢の所にどかっと座っていらして……。

寺嶋白耀 謹賀新年の画

日本画家・寺嶋白耀が、昭和32年(1957)元旦に園子に贈った謹賀新年の画。中央のだるまは園子がモデルとされる

岡井 園子さんのご実家は、豊郷町の岡村本家(「金亀」醸造元)なんです。岡村家は、永平寺71世貫主の玉堂瓏仙(1876〜1968)とご縁があって、新座敷に飾っている「高砂」の額は瓏仙の筆によるものです。それから彦根市出身の日本画家、寺嶋白耀にだるまの画を描いてもらったり、社長の代わりや社員教育もしながら、そうした文化的なサロンの一員でもあったようです。

──その息子の五代目が、新たに自動車販売業を始めるわけですね。

岡井 五代正吉が、昭和32年(1957)に滋賀トヨペット株式会社を設立します。五代正吉さんの同級生だったという方も、もう80歳前後ですがかなりいらっしゃって、「学生時代に、洋館で(酒を)飲んだわ」とか(笑)。

振角 「正吉君は……」と思い出話をなさいますね。

岡井 五代目は、将来的に自動車販売がどんどん伸びていくのを見越した先見の明があったといえます。会社経営としては、やはり日野商人の家族的な従業員のつながりを大事にされていたようです。

振角 酒造会社で使うトラックの車検も、わりに最近まで滋賀県で受けていたといいます。

内閣府補助金で、都市農村交流の拠点として再生

──滋賀トヨペットの方が成長するなかで、こちらの本宅を手放されたわけですか。

振角 五代正吉が亡くなったことで、この家はいったん人手に渡り、その後、日野町が土地を購入し、建物はご寄付いただいた形です。そして、平成27年3月31日付けで町指定文化財になりました。この指定は、建物の保全のためはもちろんですが、綿向神社の参道、つまり日野祭のメインの通りに位置することから、景観保全という意味も含まれています。空き地や現代風の建物ばかりの中を曳山が行くのと、昔ながらの日本家屋の前を行くのとでは、大きく違いますからね。

──なるほど。そのため保存されることになった建物を、ふるさと館として公開することになったのは、どういった経緯で。

岡井 平成27年に完結した『近江日野の歴史』全9巻を編纂する過程で集まった資料が、古文書を中心に5万点ぐらいあり、その保管・活用場所が必要となっていました。

 そのような折、地域再生のための内閣府の補助金の募集があったので、この建物を町で取得・改修し、都市農村交流の拠点としても位置づけて、古文書などの文化財の保存・展示、地産地消食体験レストランの開設、景観保全などに活用するという町づくり計画を作成して申請したところ、認可され、整備の運びとなりました。

──ここの蔵が、古文書の保存場所に活用されているんですね。

振角 町指定文化財になった翌日の4月1日に、近江日野商人ふるさと館としてオープンしました。

新座敷で味わう「ふるさとランチ」も人気

──来館者はどんな方々ですか。

岡井 年配のご夫婦が一番多いですね。新座敷を用いて、先ほど述べた計画の中の地産地消食体験レストランの役割として、食体験事業も行っています。

 「ふるさとご膳」は、日野産の食材を用いた伝統料理を日野の塗り椀で召し上がっていただくもので、「鯛そうめん」や「鰤ぬた」は、祭礼の日のいわゆるハレの食事です。10名様以上からのご予約制で、ご利用客は若い方から年配の方まで幅広いですね。お住まいも近畿・中部にわたります。季節の食材を使った手づくりですので、日野菜も採れる時期にしかお出しできません。

 月に一度開催している「ふるさとランチ」は、「ふるさとご膳」に比べて価格も手軽で、お一人様からでもお申し込みをお受けしています。地元でも作られなくなってきている昔ながらの手作り料理を取り入れた献立で、気軽に利用できると多くの方にご好評をいただいています。

振角 設定された日以外にも、同窓会の集まりや、女性方の集まりでもご利用いただいています。ただし、お酒は出せません。

──入館者はどんな感想をもたれていますか。

振角 圧倒的に女性の方ですが、年齢層に関係なく、ステンドグラスや洋間を見て、「あーっ」と、声を上げられます。

──日本式の家具類でも、金具の取っ手などがかわいいですね。

岡井 そうなんです。建具に使われているモチーフや、細かいディテールまで見ておられますね。吊り灯籠の下のくりぬき穴がハートの形だということに気づかれたり。

特等席になる5月3日の日野祭

日野祭曳山

日野祭当日、ふるさと館前の参道を綿向神社へと向かう曳山(平成27年5月3日撮影、日野町教育委員会事務局提供)

──来館者が一番多いのは、やはり5月3日の日野祭の時ですか。

振角 紅梅が見ごろの3月初旬もお勧めで。

岡井 6月のサツキもなかなかいい。

振角 ……ですが、やはり人気は5月の日野祭ですね。桟敷窓に毛氈を敷いてセッティングします。そこに乗ってもらうわけにはいかないのですが、立派なカメラをお持ちの方が前に陣取られます。窓枠がちょうど額縁みたいな役目を果たして、おもしろい構図になるようです。

 西大路の曳山は、仁正寺藩9代藩主の市橋長富が寄進したと伝わっています。名古屋の職人の手による造りだとされ、16基ある曳山の中で最大です。武家としての威信をかけたものなのでしょうが、大きすぎるので見えない所に4つ補助輪を入れた8輪車なんです。

岡井 他の曳山と同じようにジャッキアップして方向を変えるのですが、本当に重く、なかなか動きませんでした。

振角 完成して初めての巡行では、道をはみ出して水路の石積みなどを壊し、時間もかかってしまい、一部の部材をはずして重量を軽減したことが記録に残っています。

 この曳山を収納している山倉が、大正時代に現在地に移転したときは、山中正吉家が協力したそうです。

──日野祭は神輿も巨大ですね。

岡井 私自身も、日野祭では神輿をかいています。担ぎ手はプロやセミプロの人も加わって約100人ぐらいが30〜40人ずつ交替しながらなんですが。初めて担いだときは感動して涙が……。本当に楽しいですよ。

──事前に練習などをするんですか。

岡井 大窪・松尾の神輿は6年に1回の神輿当番なので、「地渡し」といって、小さい神輿で地元を歩く練習日があります。私は、隣の曳山にも参加させてもらって、囃子もやっているのですが、お囃子は各町内で、口承で先輩が子どもたちに教えて伝承していきます。混じったら駄目だとされていて、町ごとに明らかに節回しなどが違います。

振角 純血主義というのか、昔は絶対に他の町に聞かれないようにしていたみたいです。祭当日、私はカメラを持って曳山について回っていますが、職業柄、傷んでいるところばかり気になって(笑)、車輪とか下ばかり見がちです。

岡井 1基を、20軒ほどで維持されているんですよ。

──日野以外でも、維持が経済的に大変だそうですね。本日はお忙しいところ、ありがとうございました。
(2016.12.1)


編集後記

長い長い板塀に囲まれた空間に入ると、NHKの朝ドラのヒロインが出てきそうというか、昭和初期を舞台にした2時間ドラマ1本ならこの邸内だけでほぼ撮影ができてしまいそうな、近江日野商人ふるさと館。表紙写真の左側、新座敷からの庭の眺めを撮影した後、カメラマンといっしょにガラス障子を閉めて、木枠についているネジ式のカギをキュキュキュと回していると、かなり久しぶりの手の動きと伝わる柔らかい感触に少し驚きました。(キ)


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