Archive for 2010

2010年 6月 30日

鳥居本村の成立

 明治維新後の廃藩置県によって鳥居本を支配していた彦根藩は消滅し、新たに彦根縣が設置され彦根知事に井伊直憲が任命されます。そして明治7年(1874)に百々、西法寺、上矢倉の3ヶ村が旧鳥居本と合併して鳥居本村が誕生し、明治22年(1889)には下矢倉、甲田、古西法寺、宮田、中山、荘厳寺、仏生寺、武奈、男鬼、小野、原の各村が合併して坂田郡鳥居本村になり、昭和27年に彦根市に合併するまで60年間続きました。
 明治以降、新しい交通機関の発達は鳥居本に大きな影響を及ぼし、交通の重要地点が米原に移ると、鳥居本のかつての繁栄は見る影もなく寂れましたが、地域内の結束は堅く、活発な青年団活動や協同経営による産業振興策が展開されました。

水田 有夏志
B6判 232ページ 並製 ISBN978-4-88325-165-0 在庫あり
奥付の初版発行年月:2010年06月 書店発売日:書店発売日:2010年06月30日
1800円+税

2010年 6月 29日

私の「近江学」 京都府立大学教授 水本邦彦


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2010年 6月 23日

DUET101号まもなく発行

1989年4月に創刊のサンライズ情報誌『DUET101号』のゲラが回ってきた。今回は湖南市菩提寺の地域史が特集。実は先般菩提寺の方から出版のお問い合わせがあり、聞けば「淡海文化を育てる会」の創設期からの会員さんであった故・鈴木儀平さんの「儀平塾」に集まられたメンバーが本を作りたいとのことで、その打ち合わせ兼取材をまとめたものだった。儀平さんは小柄な白髪の方で、「育てる会」のツアーで何度もお出会いしていた。儀平さんは昨年亡くなられれ、ご家族が引き続いて「育てる会」の会員として、『淡海文庫』の購読をしてくださっていたのだが、90歳になられた2年前に「儀平塾」という地域の歴史をまとめる会を作られたということは存じなかった。
 菩提寺といっても、地元以外の方はどこだかわかりにくいだろうが、名神高速の菩提寺PAというほうがわかりやすいだろう。実はあの近くに人口1万人の町があるのだ。そしてその菩提寺というところは、かつて良弁が開基したという少菩提寺という寺院があったのだ。今回の特集はとにかくおもしろい。昭和の終わりにニュータウンができて20数年、第2の故郷・まちづくりを担う人々が、その土地の歴史を聞き、調べて次代に伝えていこうとしている。
 詳細は『DUET』で読んでいただくとして、今回から『DUET』はカラー印刷となる。創刊当初はちょうどお役所がB判からA判に移行する時期であり、『DUET』もA4判だった。
そして発刊の目的は、当時は印刷と自費出版をしており、広報誌の印刷も多かったため、取材や原稿作業がいかに大変かを現場の社員が体験しながら、さらに提案をしていこうということで始めたのだった。
 いつしか隔月から季刊になり、今回は9カ月ぶりというダダ遅れではあるが、内容は濃いものになっています。7月初旬、毎回図書目録をお送りしている読者の方にはお届けいたしますので、乞うご期待!

2010年 6月 21日

ツイッターウィジェット2

河 礼子
四六判 85ページ 上製
奥付の初版発行年月:2010年06月

2010年 6月 15日

びわ湖の森の生き物 シリーズ刊行にあたって

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前田 のぶえ
A4判 145ページ 並製
奥付の初版発行年月:2010年06月

2010年 6月 3日

さよならバンクーバー、こんにちはバンクーバー

 2月13日(土)午前11時頃から、NHK総合でバンクーバーオリンピックの開会式を見る。
出ないかな、出ないかなと待っていると、出たよ。k.d.ラング。白のスーツ姿で、レナード・コーエンの「ハレルヤ」を歌う。
 ファンなのである。自分の結婚式で流した曲の一つは、彼女の「IN PERFECT DREAMS」だったという、どうでもいい情報も書かせてもらう。1984年から1991年まで最初期7年分のテレビ出演やビデオクリップをまとめたビデオ『HARVEST OF SEVEN YEARS』には、1988年開催のカルガリーオリンピック閉会式に彼女が出演、「TURN ME ROUND」を歌った映像も収められていたので、今回も「もしや」と期待していたのだ。
 ファン目線でなくても、圧倒的でしたね(その後のネット上の書き込みを見て)。スタンダード曲を歌うベテラン・シンガーみたいになってるのは物足りないけど。YouTubeには、カルガリーオリンピックでの陽気なパフォーマンス、1995年頃、アルバム『all you can eat』を出して音楽的に一番かっこよかった時期の1曲「You’re OK」のビデオクリップ(なぜか相撲取りに扮する)などもアップされているので、こちらも見ていただきたい。
 なので、私のバンクーバーオリンピックは、開会式で半分終了した。後の半分は、顔が好みの川口悠子(フィギュアスケートペア・ロシア代表)。ありがとうカナダ国民。さよならバンクーバー。

 そして4月、私の前に再びバンクーバーは現れた。
 「バンクーバーオリンピックの放送が毎日にぎやかに行われている。バンクーバーは自分の生まれた都市なので耳懐かしく聞いている」
 「私の老妻の家族は、カナダのバンクーバーで暮らしていた。子供の教育は日本でとの両親の計らいから、母親の腹の中にいた老妻は長い船旅で帰国した」
 前者は、某退職者団体の会員誌への92歳男性の寄稿、後者は、文芸同人誌へ寄稿された随筆の一節。弊社では、同窓会誌や報告書などの印刷も請け負っており、内校した私が目にすることになったのである。
 弊社から『近江商人学入門』を出されている末永国紀さん(同志社大学教授)の新刊『日系カナダ移民の社会史―太平洋を渡った近江商人の末裔たち―』もミネルヴァ書房から出た。
 以下は同書カバー折り返しにある紹介文。「1887年、横浜・ヴァンクーヴァー間の太平洋航路開設と相前後して、日本人のカナダへの渡航・移住の歴史は始まる。以来、数千人の人々が新天地を求めて渡加し、『日系カナダ移民』という生き方を選択した。その出身都道府県別人口比の一位は、滋賀県出身者が占めていた。」
 もちろん五輪開催を当て込んだ便乗本ではなく、自身が発掘した一次史料をもとに1995年以来書きついでこられた論考6編に加筆をほどこした手堅い歴史書である。1938年の調査ではバンクーバー(本書ではヴァンクーヴァー)は、カナダ在留日本人が最も多い都市(7600人余りのうちの約4割)だった。この調査自体が前年に始まった日中戦争の影響で巻き起こった日本商品ボイコットなどの排日運動に対応するために日本人会が行ったもので、その後、日米開戦後の強制収容所への移動など、日本人移民は苦難の道をたどる。

2010年 5月 31日

滋賀県立琵琶湖文化館

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