明治・庭師職人の糧
| 判型 | A5判 234ページ 並製 |
|---|---|
| ISBN | 978-4-88325-882-6 C0021 |
| 刊行年月日 | 2026年09月30日 |
| 書店発売日 | 2026年09月30日 |
| 本体価格 | 2,300円+税 |
| 税込価格 | 2,530円 |
慶応元(1865)年創業の花文造園土木には、花文初代・文七郎の三男・文三郎が、自らの生活態度を改めようと一念発起して記した日記585日分が残されている。日記には明治期の職人の暮らし振りや遊びが記されており、若き庭師の仕事の糧は何であったのか窺い知れる。解説と写真で日記に迫る。
はじめに
日記
明治貮拾九年
壱月/貮月/三月/四月/五月/六月/七月/八月/九月/拾月/拾壱月/拾貮月
明治三拾年
壱月/貮月/三月/四月/五月/六月/七月/八月
資料編 山村家文書「日記」
明治貮拾九年
壱月/貮月/三月/四月/五月/六月/七月/八月/九月/拾月/拾壱月/拾貮月
明治三拾年
壱月/貮月/三月/四月/五月/六月/七月/八月
あとがき
引用ならびに参考文献
本書は花文(はなぶん)初代山村文七郎(やまむらぶんしちろう)(弘化二〈1845〉年~明治二十五〈1892〉年)の三男山村文三郎(ぶんざぶろう)が、明治二十九(1896)年一月一日から明治三十(1897)年八月七日までの天候や日々の業、祭り見物、社寺参詣、遊興など暮らしのなかでの出来事を短い文章で書き記している。ここでは、筆書きの文章を楷書体に変換し、興味深いところに説明を添えている。 「日記」は花文の売上帳や仕入帳等と共に山村家の土蔵内の木箱に保管されていたため、明治二十九年の文書であるが表紙と裏表紙の虫食いのみで、それ以外は虫食いを免れている。平成三十一(2019)年四月に出版した『秘伝・鈍穴(どんけつ)流「花文(はなぶん)」の庭』(近藤三雄(みつお)編著、山村文志郎・山村眞司著、誠文堂新光社発行)では、表紙の「日□」と「山村文□□」の文字以外は確認できず、花文二代文七郎(慶応二年~大正十四年)が記した「日誌」として誤って公表している。令和二(2020)年の東近江市の「近江商人本宅建造物調査」において、東近江市歴史文化振興課より、二代文七郎の末弟文三郎が明治三十六(1903)年に書き留めた「諸事控」の文字の癖や特徴から、この「日記」を記したのは二代文七郎ではなく、二代の末弟である山村文三郎であることの指導を受け、「日記」が文三郎によって記されたことが判明している。 当時、文三郎(明治八〈1875〉年三月十二日生)は二十一歳の若き職人であった。長兄文七郎と同様に尋常小学校、高等小学校を卒業しており、庭師職人としての経験は七~八年になることから、二代文七郎の片腕となり家業を支え始めていた頃と思われる。 文三郎は自身の愚行と振る舞いを悔い、一念発起して二年間(当初は一年間であった)欠かさず日記を記そうと志す。しかし明治二十九年十一月二十六日の次葉には、自身を「遊 惰山人(ゆうださんじん)」(仕事をせずに、ぶらぶらしている人)と称し、細かな字で日記を書き、紙を始末することに疑問を抱きながらも、節倹質素を説き自らの戒めとしている。書き続けることを諦めた明治三十年八月七日の次葉では、自身の遊惰さを卑下し悔いている。 文三郎の人柄について昭和四十五(1970)年頃、後輩の職人からも「文三(ぶんざ)さん文三さん」と呼ばれ慕われていたと、葉刈り先での一服の時間に花文の古老の職人は話している。親方の実弟だから話すことができなかったのかも知れないが、悪い話は聞かなかった。また、文三さんが記した古文書は数点残されているが、本人が写った写真は一枚も残されていない。 近江商人の商家の出入り職人として、数々の庭造りに携わってきた庭師文三郎が、有りのままを正直に書き続けた日記からは、明治期の世相や季節ごとの行事、職人の暮らし振りや仕事の糧となった遊びや楽しみが何だったのか感じ取れる。

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