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9月13日(木) 場所:高月町中央公民館 第2研修室

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左から、片桐信一さん(79歳、高月町高月)、藤田勲さん(69歳、高月町唐川)、嶋津千代さん(58歳、高月町森本、長浜市加田町出身)

桶風呂を沸かすまで

▽9月1日に能登川博物館の屋外で、桶風呂を沸かす実演がありました。村田さんによると、馬印のマッチを使ったそうです。

嶋津  うちら、キリン印や。

片桐  馬印もあった。それより前には、緑色地に白文字で「大正」と書いてあるマッチがあった。

▽火をつけるにはマッチを?

片桐 明治から昭和初めにかけては、マッチではのうて、付け木※1を使った。戦後はマッチやらライターてなもんが出てきたわな。

▽それから燃料として能登川で紹介してあったのは、稲ワラ、シバ、湖岸ではヨシ、山手ではマキ。

片桐 マキは使わんわ。あの風呂はみんなが入ったら湯を抜くんやも。火が残ったったら、釜が焼けてまうからマキは使えんのと違うか?

▽最初にワラに火をつけて、後でたしていくものとして、モミガラは使いましたか?

嶋津 そう、モミガラを使った。

片桐  モミガラもよけは使わんのやわ、火が残るから。

藤田  ほぼワラ束だけやった気がする。

片桐  稲のワラと麦ワラ、他に木の葉な。

▽ワラをクルッと巻いて放り込むんですよ。

藤田  うん。稲刈りの後、ハサにかけて自然乾燥させた時の状態を25束ぐらいかな、1束にして。

片桐  クルッと巻くか、二つに折って突っ込むん。ほんで火箸でグッと奥にやるん。

▽村田さんは、昔のヨシ葺き屋根の家には煙突がなかったので、煙が上にたまって屋根の破風(右下写真参照)からモアモアと出ていたと。

嶋津 出てた。

藤田 一般に、昭和15年ぐらいまでに建った瓦屋根の家は、1室8畳ぐらいが煙突やったと聞いたことがある。その部分は1階と2階の区別がないわけ。1階の天井(2階の床)がなくて、通しになったる。

▽今でいう、吹き抜けになってるわけですね。煙の出口はどこなんですか?

藤田 屋根の上に小屋根があって、そこから煙は出てた。まだ、高月でも何軒か残ったると思うで。冬の朝なんか、筵の上に雪が積もって白なったった(笑)。

嶋津 やっぱ、吹き込むんや。

藤田  吹雪の時は吹き込む。まぁ焚いてたら、すぐ乾いてしまうからね。
▽風呂焚きは、小学生の頃からするんですか?

嶋津 うん。うちらずっと焚いてたよ。

片桐 学校へ行くまでにな、日向水つくっていかんならんのやわ。

▽朝の仕事なんですね。

片桐 これでやで(手押しポンプをこぐまね)。地下水を揚げるんや

嶋津 それならいいやん。うちらこれやで(竹の竿をたぐるまね)。

片桐 あー、釣瓶※2

嶋津 竹の先にバケツついたるやつ。これで小学校からやってたんやで。それがあるのが家の一番裏で、風呂は一番表。だから、一番裏から一番表までバケツで運んで。

▽長浜のどこですか?

嶋津 加田町。

片桐 地域によって地下水の取り方が違ってくる。そっちは地下水が浅いんや。

嶋津 そうそう。

藤田 うちは顔を洗うのも、風呂の水も川の水やったですよ。

嶋津 川の水は使たことない。

▽日向水をつくるときに、バケツはそんなにいっぱいあるんですか?

片桐 タライに入れるん。とにかく水の入るものは何でも使ことったん。タライは「ハンボ」※3言うたわ。

嶋津 日向水はしたことない。

藤田 うん。よっぽど暑いときだけやろ。

片桐 「お彼岸からお彼岸までは日向水せえ」言うたん。それ以後は気温が低いのでする必要ないと。

嶋津 昔の缶バケツの大きいあれ。15リッターぐらい?

片桐 15と13と8リットルがあった。小さい時は、小さいバケツで何回もくんで大きいバケツをいっぱいにするんよ。すると、兄貴や姉がその大きいバケツを持っていく。兄貴は年下を使いよおるんや。手前はさぼって。

藤田・嶋津 (笑)。

藤田 ぼくら、子供の時、自分で風呂の水入れるでしょ。川から家の中に水がひいてあって、コイを飼うたりしてる。残りもんをエサにしてやったりするんですわ。

▽カワドやミズヤと呼ばれるものですね。

藤田 そこから水を7杯か8杯ぐらい、小学校4、5年になると入れたかな。そこは真っ暗でしょ。そうして、一番風呂にぼくら男やから入って、「なんかヌルヌルしたのがあるな」思うと、魚。ゆだっとるんや。

嶋津 えーっ(笑)。うちは地下水やかい、それはないわ。

藤田 何べんもあった(笑)。

※1 付け木
 ヒノキやスギを薄く削ったヘギの先端に溶かした硫黄をつけたもの。一束単位で売られ、火打箱などの中に小分けにして置かれていた。
※2 釣瓶

 井戸水をくむために、縄や竿などの先につけて降ろす桶。
※3 ハンボ
 漢字では、半。底の浅い桶のこと。

昭和30年代までの生活

▽当時の生活感覚から聞かなきゃいけないと思うんですが…。

片桐 それは、あんたらには想像がつかんわ。

▽ほぼ自給自足の感じですよね。能登川の村田さんは、内湖に面した伊庭の方です。水路が張り巡らされて昔は舟で生活していた地域ですから、よく流れてきた流木※4を乾燥させて使ったり、下駄が片一方だけ流れ着いたのをくべたり、燃やせるものは何でも燃やしたそうです。

片桐 そりゃとにかく安価な燃料を使った。また言うけど、マキは高価な燃料になるんやわ。

嶋津 うん。マキはカマドで使った。マキ割りはしたけど、カマド用や。他には山で柴刈りして。

▽田んぼや畑で取れるものか、あとは山で取ってくるか。

片桐・嶋津 そう。

片桐 だから、風呂の燃料というとワラが多いわ。他には田んぼのハンの木※5の枝。

藤田 あと乾燥した豆殻※6。それから豆の木も、田んぼに置いといても何にもならんし、もう焼くしかない。

片桐 豆の木みたい、草やから、パチパチであんま長持ちせんけど。

嶋津 中は空洞やしね。菜種殻※7もあったな。あとは、袋を持って山へ枯れ葉を取りに行った。

▽家に電球がついたのはいつごろですか?

嶋津 家には生まれた時からありましたよ。一部屋に一つ。

藤田 あっ、移動したよ。他の部屋へコードをこーっ持ってってね。

嶋津 えーっ、ほんなんしたことない。

片桐 戦前は定額灯制いうてね。家1軒に電球何個と決まってたんやも。

▽それは、戦争の影響などは関係なしで?

片桐 なしに。第一、電柱そのものが少ないし、トランスの容量が小さいでしょう。だから、あまり多くはいっぺんにつけられない。

▽電気代が高いっていうことじゃなしに、電力自体がたりない?

片桐 国内での発電量自体が少ない。電球いうても、60Wなどでなくて、今でいう20Wぐらいかぁ、それが最高やった。

▽ガスや灯油を使うようになるのは?

片桐 昭和40年ぐらいか。ガスの前に石油コンロが流行ったんやわ。

嶋津 昭和30年代後半にプロパンガスが来て、カマドがなくなったんやな。

▽地下水が豊富な地域では、電動ポンプで汲み上げる個人の水道が広まったのもその頃だそうです。

※4 流木
 湖北でも、琵琶湖に面したびわ町(現、長浜市)南浜などでは、湖岸に打ち上げられた流木を拾って、カマドや風呂の燃料に用いた。
※5 ハンの木
 水田の畔に植えて稲架け用とした木。葉がしげって日陰をつくると稲の生長を阻害するため、枝刈りがおこなわれた。

※6 豆殻
 大豆のさや。吉田一郎著『湖北賛歌』に次の記述がある。「(大豆を殻から取り出す)豆打ちが終わると、根のついたままの枝は束ねてふろたき用に保存します。すぐに火がついてジカジカーとよく燃えます。湯がさめて途中でふろをたく『ひとくべだき』には手ごろな燃料でした。

桶風呂の修理とカマドづくり

▽先日の能登川博物館では、桶に竹の輪っかをはめる実演もあったんです。(写真を見せる)

片桐 桶がいたむと、持ってきた筵を家の前に敷いて、竹をスースーッてやってくれやぁるん。

▽皆さん、見たことがある。

嶋津 うん。

藤田 道ばたでやってはぁたもん。道具持ってきて。

片桐 竹割りナタで、ポンッてやると、竹がいくつにも割れていくんや。

▽それから、この桶の下のカマドの部分は作っているのを見たことありますか?

片桐 親が作ってるのを見たよ。壁土をねってね、瓦を入れていくん。

藤田 割れた瓦を適当に入れてくわけ。崩れにくいようにでしょうね。

片桐 壁土と瓦が層になってるんよ。

藤田 昔のお寺の土塀とかにありますね。

▽つまり、下のカマドの部分は自分で作ったわけですね。

藤田 器用な人はね。

片桐 いや、みんな作ってたよ。お金がないんやから。

藤田 うちなんかはサラリーマンやったから、みな業者まかせやね。

片桐 掘り炬燵なんかつくるのでも、みな親がしたよ。

藤田 あれは寝間とダイドコ※8、だいたい1軒に2つありましたわな。

嶋津 1つしかなかったわ。

藤田 それから昔は、「蚕さん」飼うてる人はもう1つあった。そやから、うちは3つあった。

▽桶風呂をつくる手順に戻ると…。

片桐 カマドをつくる。それから桶屋さんに注文すると、桶を持ってくる。サラ(新品)の桶を桶屋の所で作って持ってくるわ。桶屋さんは「釜持ってこい」言わぁる。そうすると、金物屋さんで釜を買うて持って帰ってくるわけや。すると、大八車かリヤカーに乗っけて桶を持ってきた桶屋がちょんとすえつける。

▽値段はどうだったんですか?

片桐 わしは家が金物屋やったから、釜売ってたことがあるんやけどね。「尺六と尺八※9と、どっちやー?」言うて。釜も高いんやて、あの頃の生活からすると。桶風呂の方の値段はわからんわ。桶に使う木は槙※10、その次に檜や。どっちも腐らんがな。この写真の釜は銅製らしいぞ。

藤田 ほら、上等や。

片桐 売ったるやつには、釜のここ(中央)に出ベソがあるやつがあって困るんや。鋳物を流し込む時の口の部分が、盛り上がって残ったるん。

嶋津 バリ取り(仕上げ加工)してないんや。

▽これ、今だったらプレスして作る形でしょうが、型に流し込んでるんですね。

▲浮き板(左)と平釜(中)。(観音の里歴史民俗資料館蔵)

※7 菜種

 戦後の一時期、米の裏作としてほとんどの農家で栽培された。実をしぼって食用油や灯りの燃料とした。
※8 ダイドコ
 料理をする場所ではなく、食事をする居間、茶の間の意。現在のいわゆる台所は、カッテバ。もともと中世では飲食する部屋の意味だったが、武家の間に広まってから料理をする場所をさすようになった。(「風呂の残り湯」の項、
間取り図を参照)
※9 尺六と尺八

 平釜の凸部上端の直径を表す言葉。尺六は1尺6寸で約48.5cm、尺八は1尺8寸で約54.5cm。
※10 
 コウヤマキ科の針葉樹。硬く保存性と耐湿性が高いことが特質で、浴槽や浴室材、桶、舟などに使われる。

桶風呂に入る

▽他に入ってる時の思い出はありますか?

片桐 暗い。

▽暗い中でどうしてるんですか?

嶋津 つかるだけ。

藤田 真ん中に座って。不安定やから(右下の図参照)、小さい子供やと横へ行ったら、デーンッとはねてまう。

片桐 カマ(平釜)の表面は反ってるから、浮き板には桟があってカーブがつけたるねん。そうすると座りはええん。

▽汚れを落とす感じではなくて。

藤田 疲れを落とす感じ。

片桐 それから体をぬくめる。とにかくあんまり清潔な感じではないのや。

嶋津 うん。浅いし。今はそう言うけど、あの頃はそんなに不潔とは思わなんだ。

藤田 暗いと、わからんというのもあるし。

▽髪の毛はどうしてたんですか?

嶋津 あれは外で昼間。洗面器に沸かしたお湯をくんでもろて。

片桐 台風の前の蒸し暑い日に風呂焚いたりしたら、煙が家ん中じゅう回って、煙たいのと蒸し暑いのとで、そら。

▽暑い季節は水浴びですませればいいんじゃないんですか?

片桐 それはない。

嶋津 ないない。必ずお風呂。川原で水浴びするような人いんかったな。

▽入る順番は、よく一番最後は女性、お嫁さんだったと言いますが、一番最初は?

片桐 父親やな。

嶋津 うん。

片桐 それか私らは、「子供が先行け」言われた。

▽最後はやっぱりお嫁さん、というか皆さんが子供だった頃でいうと、お母さんなんですか?

片桐 そうやな。桶を洗ってかんならんで。

藤田 中を。 嶋津 洗ういうても、底板(浮き板)と入り口のところと。

▽その洗う水はどうするんですか?

嶋津 残り湯で。ほれしかないもん。水道ないし。

片桐 昔はホウキの木いうのがあって、それでガーッて混ぜるんや。ホウキの木は軟らかくて油気のもんを落としよるわけや。その時にもいつまでも釜に火があったら困るんや。湯を抜いてしまうわけやから、釜と桶の間に入ったるコマいうもんが焦げてしまうわけや。

▽その時に灰は取り出すわけですか?

片桐 灰は一晩置いてからでないと取り出さん。すぐに灰小屋へ持ってったら、火事がいくんや。灰小屋が、家の建物から離れたところに独立してあったん。火が残ったままの灰を入れたことがあって、灰小屋中が火や。父親にえらい怒られたことある。

藤田 こういうことがあった。学校から帰って桶風呂に水を入れて、田んぼに手伝いか、遊びに行ってからまた家に帰って、さあ焚こういう時に水がポチョン、ポチョン落ってるわけ。鋳物の釜に穴があいたったん。ほっと、お祖母さんが…あれ不思議でしゃあないんやけどね、真綿を持ってきて上から入れはぁるわけ。それから下からもちょっと引っ張って。

片桐 そこに土、ひっつけて…。

藤田 いや、それは見てないんやけどね。

▽真綿のままだったかもしれない。

藤田 だから、水がたれてきて、綿のままで火に耐えたんかもしれん。

片桐 あの頃は、「ハエ(灰)取り、気ぃつけよお」言われた。

嶋津 あー、釜にひかけて壊さんように。

藤田 こんな、小さいスス取りがあった。

嶋津 うちの親戚は、風呂を焚いてる最中に底がぬけて、下へ全部お湯がダーッてもれたことがあるて聞いた。

片桐 家族みんなで親戚の家に泊まりに行ったりして、何日も風呂を焚かんことがあると、桶が乾きすぎて水がもれることがある。板の間にすき間ができるん。ある程度、湿ってないとあかんのや。使わんまま何十年もたつと、桶と釜がはずれてまう。

藤田 その時分に親戚の家では長州風呂やった。村に何軒かしかなかった。金持ちの家やった。

嶋津 瓦葺きの家でも桶風呂やったも。

片桐 話ちがうけど、「この板(入り口の下の部分)が幸せなやっちゃ」て、オッさんが言うのを聞いたことある(笑)。

藤田 はは(笑)。

嶋津 へっ? なんで?

片桐 女の人がまたいで入るさかい(笑)。

嶋津 あーっ、そういうこと(笑)。風呂があるのが、玄関の横やから困るんよ。

▽やっぱり女の人は嫌でしたか?

嶋津 ほんで、どこで服をぬいでいったんかと思て…。

片桐 脱衣室てあらへんのやさかい。家の上がりはたで着物か服をぬいで、オコシだけで土間を下駄はいて渡ったはずや(8ページの間取り図を参照)。今の人に言うと「恥ずかしないんやろか?」いわはるけど、恥ずかしないんやで、暗いんやから。

嶋津 まっ暗やもな。昔は玄関入った土間に電気なかったんやな、隣の部屋にはあったけど。お客さんが来て、帰らあれんから、貧血おこして倒れたことある。やっとあがろうとしたら前に行けずに、後ろへゴーンてこけたらしい。

片桐 お客が長しゃべり※11してると、裸で出てきられやせず困るんや、女の人はな。

▽夜に来て長々と居座ってる近所の人の感じはわかります。

片桐 こんな、外で入るんやのうて、家も作って、その家の中で風呂に入ってもらわんと

藤田・嶋津 アハハ(笑)。

※11 お客が長しゃべり
 やはり吉田一郎著『湖北賛歌』に、以下の記述がある。「ふろから上がったとたんに来客があると困りました。『ちょっと待っとくない』と前の方を下着で押さえて奥へひっ込まねばなりません。入浴中に来客があると、30分も1時間もおけの中。ゆでダコ同然です。居間とは庭(土間)を隔ててふろがあったからでした。」女性だけでなく、男性も困った。

風呂の残り湯

藤田 桶風呂のあった場所は、水を落としたとき、下に土を固めたものがあってそこに流れるようになってたん。家の中の方に風呂があったら、パイプか何かを通さんとあかんやん。

嶋津 横が小便所やねん。

藤田 そうそう、外から汲み出すわけや。長浜の常喜町の親戚んとこに行ったら、それやった。

嶋津 うん、常喜はうち(加田町)の隣やも。

片桐 この前にね、湯かけ場があるわけや。

嶋津 うちら、外で湯をかけるゆうことは全然できなかった。ここで湯をかけたら、土間の方に湯が行くやん。だから、風呂に入る時はここに板を渡して、それにのって入ってたん。出たら、板ははずして。

片桐 わしらは、湯かけ場からポイッとまたいで入った。もう一つ部屋があったんやわ。かまぼこ形に切った丸太を並べて。下はコンクリで、水が向こうのユドノ※12に行くようになったった。その向こうが小便所。

藤田 だいたい2日か3日に1回は畑に持っていってやあた。畑の肥料や。

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片桐 ユドノにたまった水を大便の方に持っていって、大便を薄めて畑に持っていくん。

▽風呂の残り湯を畑にまいた理由は? 老さんの講演では、入った人のアカや何かで栄養豊富になってたからといいますが。

嶋津 流すところがなかったから。

片桐 川へ汚い水を流すことはできんかったん。オシメやらを洗うのでも、村の外にオムツ洗い場所があったん。

藤田 一番下流にね。

片桐 昔は川の水で顔も洗うて、お風呂の水にもできたわけや。野菜も洗うたし。

▽その感覚はわからないです。

藤田 あんたらの年代やったら、川の水を気にする意識は全然ないと思う。

嶋津 ない。ほんなんない。

片桐 そやから、その頃は琵琶湖はきれいやったわけや。合成洗剤ができて、洗濯機を使うようになってから変わるん。

 

※12 ユドノ

 湯殿。一般には浴場・浴室のことだが、方言では、便所、肥つぼ、浴室などの捨て水のたまる所などをさす。

風呂の建て替え

▽桶風呂から普通の風呂に代わったのは、いつですか?

片桐 私はね、昭和28か29年に結婚したんやわ。うちのオカアチャン(妻)は大阪生まれなんや。爆撃で大阪の家は焼かれたんで、疎開で親元の高月に帰ってきとって、その家には桶風呂ではない風呂を作っとかぁたわ。そんで、うちに来た時、「こんな風呂では子供が生まれた時、風呂によお入れん」言いよおるで。すぐに風呂作ったわ。

▽使われていない地域からのお嫁さんだと嫌がる方も多かったでしょうね。

藤田 長州風呂※13ですか?

片桐 うん、四角い長州風呂。昭和30年ぐらいに作ったんやわ。それから子供が生まれよったんやから。

▽老さんの調査でも昭和30年前後から、全身がつかる風呂への作り替えが始まっています。長州風呂も火で焚くやつですね。

藤田 燃料は同じこと。

嶋津 うちは昭和37年に家を建て替えやぁたから、普通の風呂になったんや。うちはボイラーと違たかな。

藤田 それはよっぽど後やわ。そんなボイラーの風呂があるのは、お寺さんかお医者さんくらいやで。

▽昭和30~40年代に家の建て替えって一番多かったんですかね?

片桐 高月町の場合は、そこに昭和39年にガラス工場※14が来て、田んぼを売ったでしょ。その後にも工場や北陸自動車道ができていって、田んぼをみんな手放していった。

▽その代金、もしくは工場で働いて、改築、新築ができた。

片桐 田んぼの収入で、家を建て直すてなことはできんのや。

▽桶風呂がなくなっていくのはその時期よりも若干早いようですが、建て替えでヨシ葺き屋根の従来の民家は急激に減り、機械化などで農業も様変わりする…と。本日は興味深いお話をありがとうございました。

※13 長州風呂
 カマドに漆喰などですえつけた鉄製の風呂釜(浴槽)を焚く風呂。桶風呂と同じく、木製の浮き板をしく。一般に「五右衛門風呂」とも呼ばれる。

※14 ガラス工場
 日本電気硝子滋賀高月工場。白黒テレビのブラウン管用ガラスバルブを生産。昭和45年には能登川工場が開設。

 

●エピローグ
 湖北町に住む私は昭和43年生まれで、桶風呂に入ったことはありませんが、小学3年生の頃まで長州風呂に入っていました。座談会の内容に関連して、昭和30年代初めに桶風呂を長州風呂に作り変えた父は、小便に混ぜるには多すぎる量の湯を捨てるために、穴を掘って砂利をためた捨て場をつくったそうです。
  もう一つ、父が覚えていたのは、近所のオッさんが日が沈まないうちに田んぼから帰ってきた時は、「今日はへそ見て、チャチャや」と言っていたこと。まだ明るいので桶風呂の中でも目がきき、へそが見える(その下あたりまでしか湯が入っていない)ということです。(キ)

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