しゃれっ気とちゃめっ気が合わさったような人

──山元春挙に関して、明治から昭和初期にかけての膳所の町との関わりとあわせてお話しいただければと思います。まず、春挙のご両親はどういう方だったのですか。

山元 最初にお断りしておくと、私が生まれたのは祖父の春挙が亡くなってからですので、春挙に直接会ったことはありません。春挙の父・善三郎は、五個荘の高田善右衛門という有名な近江商人の息子でした。次男だったので、膳所の山元家へ婿養子に入る形で、春挙の母・直子と結婚しています。

 善三郎は、ちょっと変わった人だったようです。商人の血は引いていたので、明治の初めに米相場で大儲けしたかと思えば大損もしたり、若いころから禅に凝って、托鉢行に歩いてみたり。春挙が成功してから亡くなりましたので、お葬式はまともに出せたそうです。

──禅への関心は、春挙も受け継いだわけですね。

山元 春挙は、「一徹居士」や「円融斎」といった号も用いていました。ただ蘆花浅水荘の所有が宗教法人記恩寺となったのは、父の代に税金対策としておこなったものです。負担が大きくなりましたので。
 話がそれましたが、春挙は明治4年(1871)に、当時の滋賀郡中ノ庄村(大津市中庄)で生まれました。一男四女で家を継ぐ立場にあったのですが、幼小のころは少し体が弱く、一度、知り合いの近江商人である五個荘の小杉家に養子に出されています。

 小杉家でも、絵ばかり描いていたのでしょう。12歳の時に小杉家の遠い親戚にあたる日本画家、野村文挙※1の京都のお宅に預けられました。2年後、野村文挙が東京の学習院の先生になるため上京したため、その師にあたる森寛斎※2に預けられて、寛斎からみっちり仕込まれます。

 昔のことですから、こうやって描くんだよと教わることはありません。森寛斎先生は奥さんがおられなかったので、もっぱらその身の回りの世話をするのが仕事だったようです。

 寛斎先生は京都画壇の重鎮でしたから、いろいろなところへ招かれるわけですね。千家(茶道流派の家)やいろいろなお寺などへ。かばん持ちとしてついていった春挙は、きっとそこで立派なお屋敷やさまざまな名品を目にして、頭に入れていたのでしょうね。10代のころから才能を現し、認められていきます。

──年譜によると、15歳で京都青年絵画研究会展に出品して一等褒状を受けたのが最初で、以降ほぼ毎年京都博覧会などに出品して入賞していますね。

山元 京都画壇は日本画の一方の中心でしたので、京都で名を上げれば日本中に知れ渡ったのでしょう。

──21歳でドイツ・ババリア美術展覧会、22歳でシカゴ万国博覧会に出品……。

木津 20代前半で日本画を代表する作家の一人として認められ、明治31年(1898)に27歳で日本絵画協会評議員に、翌年には28歳で京都市美術工芸学校の先生になって、絵の指導もするようになります。

 当時、京都で活躍していた竹内栖鳳※3は、春挙よりも少し年上で先に美術工芸学校の先生になっていたのですが、二人ともそれぞれが画塾と呼ばれたグループをつくっています。春挙は先生になった翌年の明治33年に「同攻会」という画塾をつくっています(明治42年に「早苗会」と改称)。

──昭和60年(1985)に滋賀県立近代美術館で催された特別展図録の巻頭に、春挙の人となりを紹介して、「親分肌で人の面倒見がよく」と書いてあります。

山元 そのようだったと聞いています。

──「それでいて小柄でハンサム、都会的な小粋さを持ち……」と書いてあります。

山元 はい。祇園ではよくもてたそうですから(笑)。

──じつは、それが意外でした。私は春挙の風景画などを見て、勝手に「とてもまじめな人」をイメージしていたもので。

取材時、書院床の間にかかっていた掛け軸

取材時、書院床の間にかかっていた掛け軸

山元 最初はそう思っていたとおっしゃる方が多いんです(笑)。ここには県立美術館で作品解説や団体の案内などをなさるボランティア・サポーターの方が事前学習として来られるんですね。狂歌などの作品を紹介しながら蘆花浅水荘をご案内し終わると、「なんか、おもろいおっさんだったな」という印象をお持ちになって帰られます。

 ちょうどそこの床の間に掛けてある作品も春挙の戯れ絵です(下写真)。一本の線で竹の節も表現しながら杖を描いて、「老いたると若きを問わでもろともに転ばぬ先のつえぞこの杖」と狂歌をそえています。

 どこかの家へ呼ばれてちょっといい気分になってくると、さらさらさらっと描いたんです。こうした絵が膳所や京都の旧家にはたくさん残っているようです。

木津 狂歌は師匠の森寛斎に教わったのが始まりのようですが、性に合っていたんでしょうね。しくじったときにも狂歌で返すみたいなことがあったそうです。春挙が亡くなった後に制作された追悼文集『蘆花浅水』にも、春挙の狂歌がたくさん収録されています。

山元 しゃれっ気とちゃめっ気が合わさったような人だったんですね。

──人物イメージが180度変わりました。


※1 野村文挙 (1854〜1911)明治時代の日本画家。京都生まれ。、京都府画学校や学習院で教え、のち日本画会の結成に参加。

※2 森寛斎 (1814〜1894)幕末から明治の日本画家。山口県生まれ。京都画壇の重鎮で、第1回帝室技芸員に任ぜられる。

※3 竹内栖鳳 (1864〜1942)日本画家。京都生まれ。四条派の画風に西洋画法を取り入れ、独自の画風を確立した。


30年以上活動を続けた画塾「早苗会」

──大津歴史博物館の企画展で展示される早苗会の作品にも、しゃれっ気を感じされるものがあります。

木津 そうですね。早苗会の塾員は、年齢も経歴もさまざまなのですが、基本的に春挙のスタイルを継承している方もいれば、独自の絵を描かれている方もいて、本当にバラエティー豊かな絵がたくさんあります。

 早苗会の塾員のうち、柴田晩葉、小林翠渓、疋田春湖などは、地元滋賀県の出身です。柴田晩葉は、平成23年(2011)に大津市歴史博物館で「柴田晩葉─湖都のモダン日本画家─」と題して展覧会を催したこともあります。非常に現代的で、最近描かれたイラスト作品といっても通用しそうな絵を描かれました。

 そのように塾員の個性はさまざまなのですが、グループの結束力は非常に高かったようです。普通、画塾に集っても、売れた者は離れて一派を築くみたいな感じで集散していくものなのですが、早苗会は年1回の展覧会を春挙が亡くなった年(昭和8年)の第34回(同攻会の時代から数えて)まで続けています(会は昭和18年まで存続)。

 また、会の中には明治42年(1909)に講演部、大正6年(1917)に山岳部が設けられました。

 令和元年(2019)に愛知県長久手市にある名都美術館で開催された「山元春挙」展でくわしく紹介されたことなのですが、春挙はとても早くから写真術を学び、富士山などへ写生旅行にも出かけています。

 山岳の絵を描くには、実際の山岳の姿を知っていなければいけない。ですから、みんなで山に登ったり、風景写真を撮影するのは、絵のスキルアップのための活動でもあったわけです。当時のカメラというか写真用機材は結構大きいですから、みんなで協力して山の上まで担いで上がったのでしょう。

──欧米の最新技術も取り入れるハイカラなところがあったということですね。

山元 フィルムは残されていませんが、昭和の初めに当時の16ミリフィルムで撮影した、いわゆる自主映画があって、この部屋で上映したのを見た記憶があります。お弟子さんが侍に扮して、演じているのを撮影したものでした。

木津 春挙は山などでの風景の写生用に横長に継いだ美濃紙をセットする巻き取り式の道具を自作したりもしており、非常にアイデアマンでした。その一方で、写生には鉛筆ではなく毛筆を使い続けるなど、独自のこだわりもあったようです。

別荘兼アトリエ「蘆花浅水荘」の建設

──春挙がアトリエとして蘆花浅水荘を造営したのは何歳のときになるのですか。

山元 着手したのが大正3年(1914)、43歳のとき。7年かけて、50歳の大正10年(1921)に完成しています。まず1階東側の書院などがある離れを建てて、あとから中庭をはさんで西側の家族の居住部分にあたる本屋を建て、最後に2階部分を建て増したようです。

──その時期の膳所周辺はどのような地だったのですか。

木津 大津市(明治31年に市制施行)、膳所町、石山町に分かれていた時代です。膳所はもともと東海道も通る城下町だったわけですが、明治維新以降、鉄道が通るようになって徒歩による行き来がなくなり、膳所城も廃城となる中、次の産業をどうしていくかが、ずっと課題であり続けました。

 主たる柱がないまま明治が過ぎてしまうのですが、大正2年(1913)に大津電車軌道(現在の京阪電鉄石山坂本線)の膳所駅─大津駅間が開業します。

 そして、大正末にレーヨンメーカー2社の工場ができます。大正8年(1919)に粟津にできた旭人造絹糸(のち旭絹織。現、旭化成)、大正15年(1926)にできた東洋レーヨン(現、東レ)です。東レは石山というイメージがありますが、膳所町にまたがっていました。昭和初期にはそれぞれ従業員が2,800人、3,600人という規模の大工場で、膳所町は財政的にも潤うようになります。

──新興の企業城下町となるわけですね。

木津 産業と交通の骨格が出来上がってきて、膳所町が盛り上がりをみせるのが大正時代であり、春挙の蘆花浅水荘の建設はそうした時期と重なっていました。

山元 ここはもともと琵琶湖岸の湿原地帯です。少しずつ埋め立てが進み、春挙が土地を購入した時点では、すでに陸地化されていました。いまは禅寺になっている隣の戒琳庵にある石垣が、おそらく江戸時代までの陸地の端っこだったと考えられます。

──同時期に琵琶湖岸へ、アトリエや別荘を建てた例は他にもあるのですか。

山元 隣には、浜大津で時計商を営んでいた小倉遊亀のお父さんが建てた別荘があったと聞いたことがあります。

 春挙の場合は8歳で母親と死に別れているので、母の墓がある裏山から見下ろす琵琶湖の景色が非常に印象に残ったというようなことも語っています。「将来大成した暁には、ここへ別荘を建てたい」という夢をずっと持っていたのでしょう。

──山元さんの子ども時代には、この前はどんな状態だったのですか。

昭和35年(1960)に撮影された蘆花浅水荘庭園と琵琶湖

昭和35年(1960)に撮影された蘆花浅水荘庭園と琵琶湖(大津市歴史博物館蔵)

山元 琵琶湖との間の膳所城跡公園から御殿浜までに湖岸道路が完成したのが昭和41年(1966)度のことです。それ以前は完全に琵琶湖でしたから、子どものころはふんどし一丁で飛び出して、泳いだり、魚釣りをしたりしていました。入ってきていただいた表門も昔はめったに通らず、もっぱら裏口で出入りしていました。

松浦 はるかに三上山を望むすばらしい庭だったと思いますよ。非常に贅沢です。やはり春挙さんもこの風景が好きだったんでしょうね。

山元 そうでしょうね。琵琶湖全体が自分の庭だと思ったらいいだろうという発想だと思うんです。

木津 古い記録を見ると、琵琶湖に面した部分が船着き場になっていて、石積みの階段もありました。お客さんが来たときには、そこから船に乗ってもらって、遊覧もなさったのでしょう。

松浦 おそらく月見なんかでも船を出して、酒を飲みながら語り合ったのでしょうね。当時、大津にはこうした文化サロンみたいな場所はほとんどなかったですから、非常に貴重な存在だっただろうと思います。

──建物にもすみずみまで工夫が凝らされている印象です。

山元 普通、別荘を建てるにしても大工の棟梁と間に設計士が入るわけですが、春挙は自分で図面までつくって、橋本嘉三郎という京都の大工と直接やりとりしています。柱の太さや表面に出る模様についてまで注文をつけているんです。

松浦 画家では橋本関雪※4もそうだったよううです。邸宅の建築や作庭にとても力を注いでいます。


※4 橋本関雪 (1883〜1945)日本画家。兵庫県生まれ。竹内栖鳳に師事、中国古典文学に材をとった「新南画」を確立。


復興膳所焼に関わった春挙

──そして、別荘建設と同時期に春挙は、膳所焼復興にも関わっています。

松浦 膳所焼復興に取り組んだ岩崎健三は地元の旧家で、焼物にも適した土が採れる山持ちでした。江戸時代の膳所焼を焼く土を採取していた山の大半が、岩崎家の所有だったようで、膳所焼とは非常につながりがありました。その関係で岩崎家には代々の膳所焼が所蔵されていたようです。そのため健三は、途絶えていた膳所焼を何とか復興したいと考えたわけです。

 ちょうど春挙が京都からこちらへ移ってきて、歩いて2〜3分の距離ですので岩崎家とも本格的なつきあいが始まったようです。多趣味な春挙はもともと陶器にも関心があり、京焼の陶工らとも交流があったようです。

 江戸時代から膳所焼の土は、地元の土と京都などいろいろなところのものも使っていました。どうも器の種類によって焼き分けているようです。茶入(抹茶を入れる茶器)の場合は地元の土、茶碗の場合はあちこちの土を混ぜていたということが書かれた記録があります。

 当時、「焼き物に手を出すと家がつぶれる」と言われるぐらい、お金がかかるものでした。健三も、土地や蔵に残された品々の大半を売ったりしましたが、古膳所(江戸時代の膳所焼)は手放さなかったといいます。
 タイミングよく春挙と岩崎健三が出会い、大正9年(1920)に復興膳所焼の新窯を築き初め、翌年完成しています。「陽炎園」という窯元としての名前も春挙がつけたといわれています。

──現在の膳所焼美術館の場所に焼物を焼く窯があったのですか。

松浦 そうです。いまでも残っています。昭和40年代ぐらいまでは、そこで窯を焼いていました。

木津 京阪石坂線の線路のすぐ横に登り窯がありました。大正時代には周りに家がなかったそうで。

松浦 いまだったら、それこそ苦情が出るでしょうが(笑)。春挙と岩崎健三は気が合ったんでしょうね。ちょっと休憩がてらに歩いてすぐの膳所焼の窯へ行って、酒を飲みながらいろいろな話をし、「この茶碗にちょっと絵を描いてくれないか」という話になったのでしょう。床の間に掛ける絵などの作品も、膳所焼美術館にはあります。

 春挙は、壮大な風景画を描かれるというイメージが強いもので、当館に掛けてある絵を、「これは山元春挙さんが描かれた絵ですよ」と説明すると、驚かれる方がほとんどですね。〝人間山元春挙〟を知る上でも非常におもしろい資料だと思います。

──技術的な指導は専門の陶工にお受けになっていたわけですね。

松浦 技術的指導は京焼の伊東陶山(二代)から受けています。

──作品の販売先はあったのですか。

木津 基本的につくっておられるのは茶陶、お茶の道具なんです。もともと膳所焼自体がお茶陶なので。ただ、江戸時代の膳所焼をそのまま再生させたわけではなく、二代伊東陶山の指導のもと、その当時のモード、大正時代の茶道の流行りに合わせたものを作陶していきます。

松浦 ですから、復興膳所焼はわりにバラエティーに富んでいます。もちろん古い江戸時代の膳所焼をそのまま踏襲した作品もありますが。春挙が関わった絵付けというのも古膳所ではほとんどなく、復興膳所焼になって始められたようです。

木津 春挙経由で、京都であれば三千家(表千家・裏千家・武者小路千家の総称)などのお茶の流派の家元、宗匠のような方々とつながっていって、お茶陶としての地位を確立していくことになります。

──その後、半世紀以上が経って、美術館ができるわけですね。

松浦 次の息子さんの代に、家に伝わってきたり新たに健三が収集した古膳所とともに、復興膳所焼の健三の作品などを展示して公開したいと考えられ、敷地内に昭和62年(1987)に開設されました。今年はちょうど開館35周年にあたります。現在は、登り窯でなく電気窯に移行しましたが、作陶も続けておられます。

木津 大津市歴史博物館の展示でも膳所焼を紹介してきましたが、これまでは基本的に古膳所を展示する形でした。

 これまで復興膳所焼の作品が紹介される場合は、わりとカチッとしたお茶道具に限られていたのですが、今回の企画展では春挙が狂歌などを書き込んだ作品などにも手を広げようと思っています。

松浦 膳所焼美術館でも、大津市歴史博物館と滋賀県立美術館の展覧会が催される3月から6月に、春挙が関係した絵付け作品や絵、古膳所の茶陶作品などを展示する企画展を催す予定です。

地域の文化芸術活動の拠点として

──当時の、大正期の膳所の文化活動としては、他にどのようなものがありますか。

木津 もう一つ、展示で紹介させてもらうのは、清水風外という膳所出身の竹細工作家です。弦楽器やお茶道具、文房調度品などを竹でつくっておられた方ですが、春挙と馬が合ったようで、蘆花浅水荘の中には、あらゆるものを清水風外がつくった「竹の間」という部屋があるぐらいなんです。

清水風外作の竹製楽器

清水風外作の竹製楽器

 大工の家に育って趣味で竹細工に取り組んだ風外はあまり商売っ気がなくて、「ほしい」と言われたら、「芸術品だから売るものではない。ほしかったら持って帰れ」みたいな感じの方で、作品にも銘を入れなかったりもして、なかなか作品の全容がわからない部分もあります。

山元 春挙もこれは都合のいい人がおったなと思ったんでしょうね。この間お孫さんにあたる方が来られまして、「よく春挙さんとは酒を飲んだという話を祖父から聞いた」とおっしゃっていました。

木津 そのように春挙は、絵画以外の分野でも地域の芸術活動に関わっていたようです。膳所町が町制30周年を迎えた昭和6年(1931)に発行された『膳所町制施行三十年記念史』という本でも、産業交通と並んで、美術界という章が設けられていて、春挙のインタビューが掲載されています。

 その中で春挙は、 江戸時代に本阿弥光悦がつくった京都鷹ヶ峰や自身がヨーロッパ視察で見聞した地方の芸術村を例にあげて、膳所にいろいろな文化芸術を志す人が集まってきて、蘆花浅水荘はそうした人々の集会場として利用されることを望むと語っています。

 この場を使った膳所の文化の発展まで春挙自身はイメージしていたわけです。

山元 2年後の昭和8年(1933)に春挙は62歳で亡くなるので、それはまさに遺言みたいなものですね。

木津 たまたまですが、春挙の亡くなった年の4月に膳所町は石山町とともに大津市と合併して姿を消します。

山元 春挙の言葉どおりとまではいきませんけれども、蘆花浅水荘では年3回か4回程度、お茶会や音楽会を催させていただいております。書院のまわりの障子や襖を取り去れば、50〜60人収容できるので。現在はコロナでちょっと見合わせておりますが。

 やはり尺八や三味線を演奏していただくと合うんですよ。湖岸道路を車が通っていても、ほとんど音には影響されないと皆さんおっしゃって、演奏される方も満足してお帰りになります。

 私は大学を出ると同時に県外へ出て、60歳になって戻ってきたもので、そうした利用をするようになってからの日は浅いのですが、ようやく見た目よりはオープンな場所だと認識していただけるようになったと感じています。

 今年は特に大津市内にある三つの博物館・美術館で春挙に関わる展示をやっていただけるという願ってもない機会も訪れましたので、趣味の発表の場や、着物の展示会のような場としてもどんどん活用していただければと思っています。できるだけご要望のお応えしていくようにしたいと思います。

──本日はお忙しいところ興味深いお話をありがとうございました。
(2022.1.18)


編集後記

別荘の名にある「蘆花浅水」は、唐の詩人・司空曙の「江村即事」という漢詩の一節から取られたものだとのこと。
 一方で、明治37年(1904)、当時33歳の春挙は農商務省と京都府に命じられ図案調査と視察に渡米します。この時、持参のカメラでロッキー山脈や滝などの壮大な風景を撮影してきており、彼の作品には実見したアメリカの山々やアメリカ人画家の風景画も影響している可能性が高いのだそう。(キ)


ページ: 1 2 3 4

連載一覧

新撰 淡海木間攫

Duet 購読お申込み

ページの上部へ