「ちょっと懐かしい感じ」をテーマに1970年代の信楽を再現しています。 京都市立芸術大学美術学部 教授 畑中英二さん

信楽焼の多様性を感じてもらいたい前半部

──信楽という町との関わりを、まずご説明いただけますか。

畑中 私にとって信楽との関わりは、研究対象として始まりました。とりわけ滋賀県文化財保護協会に勤めていた頃、新名神高速道路の建設にともなう信楽谷北端地域に分布する中世・近世の窯の発掘調査にたずさわったことは大きな出来事でした。やがて昔のものだけではなく、そこから現在につながる道行きも研究の対象となっていき、今では現在活躍しておられる陶工の方々とも親しくさせていただいています。

──館のリニューアルにあたって、展示の監修の依頼があったのは、いつ頃ですか。

畑中 大学に移って、すぐくらいですね。

──旧館の方では、製造工程で使う道具類の展示などはなかったそうですが。

畑中 そうなんです。展示スペースの問題もあってのことですが、作品主体でした。そこからでも信楽の魅力はわかると言えばわかるのですが、伝統産業会館という性格からいえば、実際につくっている、つくり上げられていく工程を見ていただけるコーナーが、やはり必要だろうと考え、そういった要素もつけ加えるよう提案しました。

──時代順に工夫なさった点や伝えようとした視点も交えてご説明いただけますか。

畑中 今回は信楽駅の近くに引っ越してくるということもあるので、最初の入口としてコンパクトにまとめつつ、信楽焼の多面性も理解していただこうとしたのが苦心したところでしょうか。

──あまり情報量が多過ぎてもいけないと。

畑中 そうなんです。ご覧いただきたいものはたくさんあるのですが、そこは留意しました。時系列的に並べるのは当然なのですが、信楽焼といえば、焼き締めといいますか、釉薬をかけない、ざくっとした表情のイメージが強い。けども、実はものすごく多様で、磁器以外のものなら何でも、小さいものから大きいものまでつくってきたことを表現しようとしました。

 ですから、入っていただいて、焼き締めの茶色いものばかりが並んでいるのではなく、カラフルな感じで、「あっ、信楽はこんなものもつくっているんだ」ということを感じてもらえたらいいなと考えてまとめたのが、前半部ですね。

 真ん中のコーナーでは、現代の作家さんの色のついた作品や焼き締めばかりではないバリエーションをご覧いただき、最後に、新たな要素としてつけ加えたのが、リアルな「煙突の街」を紹介するコーナーです。

江戸時代に生産された色鮮やかな施釉陶器

江戸時代に生産された色鮮やかな施釉陶器

パネル写真は50年前にアメリカ人研究者が撮影

──白黒写真のパネルを背景に、さまざまな道具が並んでいて興味をそそられます。

畑中 信楽焼をつくるための道具、つくっている様子、出荷の様子などを、1970年代ぐらいを再現する形で紹介しています。

 もう使われなくなった道具もありますし、見られない光景もあるので、「ちょっと懐かしい感じ」をテーマに展示を組み立てました。

──大きなパネルになっている白黒写真はどなたが撮影なさったものですか。

畑中 とてもよい写真ですよね。写真は、ルイーズ・アリソン・コート(Louise Allison Cort)さんというアメリカ人の女性研究者が撮られたものです。50年前に信楽を訪れ、いろいろな調査をなさり、『Shigaraki, Potters, Valley(信楽 陶工の谷)』という本も出版なさいました。彼女が撮影した写真を中心に、背景パネルとして使わせてもらっています。

──展示されている道具類は、どこからお集めになったのですか。

畑中 残念ながら廃業なさった窯元さんから譲り受けたものや、調査にうかがったところでいただいてきたものなどです。すべて実際に使われていたものです。

 この展示と同時並行で、信楽の民俗文化財の調査もさせていただいていたので、それがうまく展示にもつながりました。

──これまでの旧館では、道具類の収蔵品は、ゼロだったわけですね。

畑中 信楽であれば、そこら辺にいくらでもあるものでしたから、保存するという感覚はなかったのでしょう。開館から40年経ってみると、道具の中には今でないと採取できない貴重な資料といえるものも出てきました。そういう意味では、学術的な使命感というものも、この最後のコーナーにはあります。

──目立っているオート三輪も、半世紀前の運搬の様子を示しているわけですね。

畑中 信楽において、オート三輪の登場は革命的に物流の考え方を変えたんですよ。それまでは人力、ただただ人力だったんですから。

 信楽高原鐵道が誕生して、JRに接続しましたが、それがない時代は、貴生川に向かってケーブルを引いて、製品を吊り下げて運んでいたこともあるんです。でも、落ちることもあったり。鉄道が伸びてくるまでは、やはり一番楽な方法で運ぶので、南山城(京都府)を抜けるルートがとられていました。北の大津などへは向かわず、南へ進んで木津川を上ってどうのこうのという江戸時代の文書が残っていたりします。

──滋賀県内で売られるには、ものすごい遠回りをしていたんですね。

畑中 そうなんです。それが、オート三輪などの登場で、個別に大きな窯屋さんがどんどんいろんなところに運んで販売する展開が出てきたんです。

 ちなみに、運搬中に壊さないようにする縄の縛り方も、なかなか奥が深くて、『陶磁器の縛り方』という本まで出ていたほどです。さかのぼれば、シルクロードの場合、大きな壺の中に小さな壺を入れ子にして、動かないように泥を詰めて運んでいました。重量は重くなるんですけど。

 段ボールを使うのは現代の、いわば最終局面ですね。それから、巨大プチプチ(気泡緩衝材)をあてて、ラップフィルムをぐるぐる巻くやり方もよく見かけます。

信楽にお住まいの方にとっては当たり前のもの

──では、それぞれの道具についてご説明いただけますか。

畑中 ここのコーナーにあるものは、信楽にお住まいの方にとっては当たり前のものなんです。ですから、地元の人には「いやいや、こんなんじゃなくて、これの方がおもろいやろ」と言われたりもしたのですが、「あなたたちの当たり前は、信楽以外に暮らす人たちにとってはものすごく珍しいものだから」と言い続けて選びました。

──農業用の民具は、あちこちの民俗資料館で見覚えがあるのですが、本当にこの辺の道具類はわからないですね。

畑中 滋賀県だったら、ここにしかないわけですから。

──そこの普通のご飯を炊くお釜に見えるものも製造工程で使うのですか。

畑中 これは本当にただの釜なんですよ(笑)。ですが、轆轤をひく作業などでは必ず手が届く位置に置かれているんです。水を入れて、指を湿らせるために。

 どんなお釜さんでもいいわけではなく、口の内側に折り返しがあるものが選ばれます。こう、ピィッとひいていって指に残った粘土をキュッキュッと折り返しの部分でこそぎ落とすために。「もうこれがないと、仕事ができん」とおっしゃるぐらい大切な轆轤とセットの道具です。

──なるほど(笑)。では、十字のものは。

畑中 これも気になりますよね。これは「トンボ」というんです。確かにトンボみたいな形をしているんですけど、ここからここまでが深さ、これが口径にあたります。仕上がり寸法が何寸何分の大きさの湯飲みをつくってくださいという発注があったとします。粘土の状態だったらもっと大きいので、収縮率を計算して、サイズに合わせたトンボをつくるわけです。

 収縮率というのは、まず乾燥した時に縮んで、さらに焼いたときに縮む、その割合が土ごとに決まっているんです。

──続いて、それ自体が一種のオブジェのような形をした、白いものは何ですか。

畑中 これも気になりますよね(笑)。「シッタ」という道具で、轆轤でまず口が上に向いた状態でひいて、最後に底面を削って仕上げる必要がある場合、まず轆轤からはずして半乾きの状態にしたものをひっくり返して、口の側を「シッタ」にカパッとかぶせ、底面を成形します。これなどは、日常生活からはちょっと遠いですよね。

右手前が「トンボ」、左中央が「シッタ」

右手前が「トンボ」、左中央が「シッタ」

──こちらの道具は、奥田館長へのインタビューの際に教えていただきました。高温の窯の中の温度を知るための道具ですね。

畑中 「ゼーゲルコーン」といいます。これを何種類か溶ける温度の違うものを並べてやるとおもしろいんですよ。倒れそうなのに「いや、俺はまだ倒れへんで」というやつから、「まだ全然大丈夫」みたいなやつが並んで、それぞれ個性があるかのようになって(笑)。

ゼーゲルコーン

ゼーゲルコーン。800〜1250°C以上の高温となる窯の中の温度を知るために、ドイツの科学者、ヘルマン・ゼーゲルが発明。三角錐の部分が決められた温度になるとグニャリと曲がる。写真は使用済みのもの

 それからこの藁で編んだ鍋敷きのようなもの。これは火鉢などをつくって乾かす時の台で、太陽の方向に合わせて、ヒマワリの花みたいに少しずつ回転させて乾燥させるための道具です。あまり早く片面が乾いてしまうと、割れてしまったりします。

──こちらには、ちょっと近代的な道具がありますね。

畑中 エアーコンプレッサーを使って施釉する時に用いるガンです。もう50年前の時点でありました。

 釉薬を霧状もしくは粒状に吹きかけるための道具で、釉薬を入れた流し缶(タンク)につながったゴム管の先に出てきた液を、エアーコンプレッサーが噴出するエアーで吹きつけるんです。

「信楽焼ミュージアム」の[隆盛期]展示

「信楽焼ミュージアム」の[隆盛期]展示。近代以降の主要製品と道具類が並ぶ

豊かな土壌の上にさまざまな花が咲いている時代

──こちらのコーナーには、できあがった製品が並んでいます。かつては鉄道旅行に欠かせなかった汽車土瓶もありますね。

畑中 近代(明治以降)の製品をピックアップさせてもらいました。この陶製管などは、信楽が一大産地でした。近江化学陶器という会社が取り扱っておられて。

──化学薬品を用いる場で使われたのですか。

畑中 金属管だとすぐに穴が開いてしまうような酸に対しても、陶器は強いわけです。

 例えば、明治政府が大阪に造幣局をつくった時などは、信楽で耐酸陶器をつくらせたようです。金貨を洗う時に硫酸などを使うからです。戦時中の例でいえば、陸軍が広島県の大久野島で毒ガスを製造していた工場では、陶製の容器などが使われました。いま残っているものは京都製ですが、同じものを信楽でもつくっていたそうです。

──かと思うと、そばには大きな徳利も並んでいます。

畑中 そのように日用品から工業用品まで何でもつくっていた信楽ですが、二つ欠けていた部分がありました。一つは磁器をつくらなかった。もう一つは、絵師がいなかった。ですから、ボディーだけつくって、京都で絵付けをしてもらう地域分業が成立していました。もともとこの手の薄づくりの陶器をつくる技術自体が京都から来ているんですね。だから、京都とはとても親縁性の高いものをつくったりしています。

──最後に大阪万博の「太陽の塔」の顔、岡本太郎の作品が置かれています。岡本さんといえば、ドラマ「スカーレット」で西川貴教さんが演じたジョージ富士川のモデルですね。

畑中 1970年最大のイベント、大阪万博のシンボルだった「太陽の塔」の背面の陶板レリーフは、信楽製だったんです。

 その隣にあるのが、平成28年(2016)に解体された滋賀会館※3(大津市)の壁面に使われていたタイルです。私は当時、すぐ隣の県庁にいたので、施工業者に、「サンプルとしていただけますか」とお願いして、入手できました。信楽でタイルをつくり始めたきっかけは、昭和29年(1954)に竣工した滋賀会館の建設だったんです。

 それを機会に、信楽でもタイルをつくるようになりました。先ほどの耐酸陶器をつくっていた近江化学陶器が取り組み、昭和34年(1959)には新たに建設した外装タイル専門工場で製造を始めています。あわせて東京進出もはかり、旧銀座松坂屋の外壁タイルを受注しました(昭和39年に完成)。その工事打ち合わせの場に色彩関係のアドバイザーとして招かれていたのが岡本太郎で、ここから岡本と信楽の長いつきあいが始まったわけです。

滋賀開館外装タイルと「太陽の塔『黒い太陽』(レプリカ)」

滋賀開館外装タイル(左)と「太陽の塔『黒い太陽』(レプリカ)」(右)

 その後、大塚オーミ産業では巨大陶板を製造する技術も培われていきました。世界の名画を忠実に再現した大塚国際美術館(徳島県鳴門市)の「陶板名画」も、岡本との切磋琢磨から技術が展開していったものだと聞いています。

 まず、畳1畳分ぐらいの陶板をそらさずにつくるという技術だけでもすごいのですが、さらに驚かされるのが釉薬研究によって可能となった色の復元力です。

 じつは、あの陶板を「信楽焼」と言ったら怒られるんですけど(笑)、信楽で生み出されたものであることは確かです。現在の信楽は、豊かな土壌の上にさまざまな花が咲いていっている時代ということだろうと思います。

──三世代で来館なさったような場合でも、祖父母と孫の間に会話が生まれそうな展示でした。

畑中 ここでちょっと会話に花を咲かせていただいて、信楽の町へ繰り出していただければありがたいです。

──本日はお忙しいところ興味深いお話をありがとうございました。
(2020.6.18)


※3 滋賀会館 昭和29年(1954)開館の複合文化施設。映画館、結婚式場などとして県民に親しまれたが、平成25年閉鎖。



編集後記

2月末から5月にかけて、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、滋賀県内博物館・資料館・美術館でも臨時休館が行われ、多くの企画展や催しが中止もしくは延期となりました。当初、ゴールデンウィーク期間に予定していた信楽伝統産業会館への取材も約1か月遅れに。7月上旬現在、館によっては、不特定多数の方が手に取るチラシなどの配布物を撤去なさっているところもあり、本誌もお手元に届く数が減るかもという不安を抱きながらの発行です。(キ)


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