インタビュー 7年前から指定管理によって運営、半世紀近い歴史を持つ公立資料館の先駆け

まちの方々には「自分たちがつくった」資料館という愛着

──近江八幡市立資料館は、開館が昭和49年(1974)3月とのことで、滋賀県下の市町村立資料館としては第1号だったそうですね。昭和40年代後半の近江八幡は、青年会議所を中心に八幡堀の保存修景計画がまとめられた時期で、町の歴史・文化の保存に関心が集まっていたのでしょうか。

烏野 初代館長の江南洋さんは地元の方で、ご自身で熱心に資料集めなどをなさって開館にこぎつけられたという経緯があり※1、町内の方々も「この資料館は、自分たちがつくった」という思いが強いですね。

 資料館で在勤していた時、地元の方から「烏野君、将来的には資料館の館長になるつもりか」と言われて、「ひょっとしたら、そうなるかもしれませんね」と答えたら、「資料館の館長は、順繰りでなるもんじゃないねんで」、つまり「なるべく人がならないといけない」と言われたのを覚えています。その後に県内にできた資料館や博物館の方が設備などでは充実しているかもしれませんが、他館とはちょっと違う愛着を持たれているんです。

──それらが指定管理になったのはいつからですか。

前坂 いまから7年前、平成25年(2013)です。その頃から自治体の公的施設の運営を指定管理者制度※2によって選定された団体に代行させる動きが全国的に広がって。

烏野 近江八幡市もいろいろな施設を指定管理に出す中で、この資料館もその対象になりました。

前坂 指定管理者の契約期間が3年なんです。「かんでんジョイナス」は4年前に選ばれて3年が過ぎて、再び公募に参加させていただいて、いま2期目の1年が終わったところです。

──ホールや体育館などはよく聞きますが、博物館や美術館でも増えているのですか。

前坂 そうですね。うちの会社の場合、指定管理業務ではないものの、大阪歴史博物館や大阪市立科学館、京都のひと・まち交流館、兵庫県立美術館などの業務委託として、受付案内や券売業務に関与しています。

──重要文化財に指定されている旧西川家住宅などを任せる場合に、何か資格のようなものは必要ないのですか。

烏野 もともと一括で公開していた施設なので、何か建物自体に問題があった場合はすぐ市が駆けつけるというかたちで対応しています。あくまで運営の部分をお任せしています。

前坂 問題は、入館者はわれわれを管理運営事業者だとは思っておられないので、展示品などについてどんどん質問をしてこられることです。そのたびに市史編纂室に電話をするわけにはいかないので、一定の知識を持って対応させていただいています。職員には前の指定管理会社の時から、あるいはもっと前の市が運営していた時から継続の方も何人かいますし。

──運営面で、市がタッチすることは。

烏野 例えば、雛人形の展示があったら、それらの所蔵品を蔵出しするのは、われわれの仕事になります。

前坂 台帳を見て、これとこれを貸してほしいとお願いしてやっています。


※1 江南洋著『資料館三十年の歩み』には、展示ケースは「廃業された店舗の陳列ケースを求めて」利用し、「正にお手製のどさくさのオープンであった」とある。

※2 指定管理者制度 平成15年(2003)に地方自治法の改正により、公共的な団体などに限られていた公の施設の管理運営を、民間の事業者や団体にも認めるとした制度。


新町二丁目の下水溝掃除や新年会にも参加

──前坂さんが運営面で注意なさっていることは何かありますか。

前坂 いろいろなイベントをする時には館のある新町二丁目にお住まいの皆さんにお知らせするようにしています。地元の皆さんと協働した取り組みで歴史の町並を守っていくために良好な関係を保っていく努力をしています。

 例えば、八幡の町には江戸時代から「背割り」と呼ばれる下水溝があって……これ、説明が長くなりますよ。館の展示にもありますが、八幡の町には古式水道※3が設けてありました。全国で6番目にできたものだそうです。

八幡町の古式水道と背割り

八幡町の古式水道と背割り(『近江八幡の歴史』第4巻に掲載の図「八幡町周辺の地質」を加工)

烏野 八幡の町の東側は砂利層で愛知川の伏流水が地下に流れているのですが、この館の場所もふくむ西側(野洲川寄り)は粘土層で、井戸を掘っても金気があって、飲み水に適さなかったんです。そのため西側は親井戸(元井戸ともいう)を掘って、そこから道沿いの地下に竹筒を通して各家に水を送るという仕組みが、江戸時代の初期から作られていました。八幡商業高校のある辺りに親井戸があります。

前坂 それが上水道だとすると、南北に走る通りに並行して真ん中に「背割り」と呼ばれる下水溝が掘られています。新町二丁目の場合は、奇数月の第3日曜日に朝からその背割りの掃除をするんです。いまは別に汚い水が流れているわけではないんですが、落ち葉などがたまるので。当館の職員も町内の人といっしょにその作業をしています。まちづくり協議会が主催する八幡堀の清掃にも参加していますし。

──この新町通りでは、もう住んでおられない家が多いのではないですか。

前坂 この広さなら、都会だと50〜100軒になるんですけれど、住人がいるのは現在9軒です。若い方はお寺のご住職と、もう1軒あるだけ。あとは私と同年輩の方々ばかりです。

 ですから、当館のような存在が貴重なんです。お手伝いすると、非常に喜んでいただけます。町内会費も払って、毎年、町内の新年会にも参加しています。お酒を飲むのが私だけなのがつらいんですが(笑)。

 また、この通りには街灯がなくて夜には真っ暗になるんですね。資料館の敷地内にだけ、3つの街灯があるので、街灯が切れると「消えています。早くつけてください」とすぐに苦情が来ます。そうしたことによるコミュニケーションも、すごく大事だなと思うようになりました。


※3 古式水道 江戸時代初期に町民によって設けられた上水道で、親井戸から地下に竹管を通して取り井戸に給水した。類似の施設が、大津・彦根・長浜にも存在した。


秀次・家康へと受け継がれた八幡町の特権

──3つの建物のうち、まず「郷土資料館」の展示を案内していただけますか。

前坂 もとは八幡警察署の庁舎です。

烏野 さらにさかのぼると西村太郎右衛門邸跡ということになります。江戸初期に安南(今のベトナム)まで出かけて、日本が鎖国したため帰国できなくなった人物です。ですから、正しく言うと、分家筋が受け継いだ西村太郎右衛門家の一統の屋敷地と伝わります。

 そこに明治19年(1886)に八幡警察署が開設されて、当時のいわゆる擬洋風の建築でした。瓦屋根ですが、古い写真を見ると、かなり洋風の雰囲気です。正面に立てられた石の門柱がまだ中庭に残されています。

 その後、昭和28年(1953)にヴォーリズ建築事務所が改築をしたので、ドアや窓などの外装にヴォーリズ建築の意匠が残されています。

前坂 4年前の時点で、冷暖房があるのは事務所だけで、寒かったです。一昨年(2018)の4月にリニューアルして、ようやく展示室もふくめた建物全体に冷暖房がつきました。壁などは一部ひび割れを直したぐらいで、ほぼ昭和28年改修時のままですが。

烏野 改修した際の発見として、断熱材として床下に藁が入っていたことがわかりました。昭和28年当時としては、防寒・防音などのことも考えた建物ではあったんです。

──他にもおもしろい工夫はありますか?

烏野 (ガラッと開けて)これが上下スライド式の窓です。下の桟が斜めになっていて、水がたまらないようにしてあります。当時としては珍しいものです。これを見てもらうために、室内にも設置してあります。隠してある内部の構造が見えるようになっているんですよ。

──続いて2階の展示室です。

烏野 この展示室では、八幡の町に関わる重要な文書などを中心に展示しています。

 例えば、これは八幡山城主豊臣秀次が出した「八幡山下町中掟書」(重要文化財、ただし展示物は複製)。安土から八幡に城下が移動しましたが、織田信長の楽市という制度は引き継がれます。商人を必ず立ち寄らせるという決まりのもとで、安土の場合は陸路だけでしたが、秀次の掟書には「近辺の商舟を相留め」とあるので、八幡堀が運河として機能していたことを証明する資料でもあります。

 あまり知られていませんが、八幡山城主は2代までいて、それが京極高次でした。関ヶ原の合戦の頃には大津城主になっているわけですが。高次が八幡山城下に出した「八幡町中定條々」という文書で注目したいのは「八幡町中」という宛名があることです。おそらくこれが「八幡町」という言葉が出てくる最初です。つまり、徳川幕府ができる前の段階ですでに「八幡町」という認識がなされていたという意味では非常に重要な資料です。

 つづいて、こちらに展示しているのは「八幡町絵図」、色分けして描かれた地図です。八幡堀を流れる水は琵琶湖とつながっているので、少なければ船が通れません。水位に絶えず注意しなければいけなかったので、絵図にも描かれているように、水中に立てた「水尾木」という3本の棒によって水位を確認していました。ですから、八幡の人々は瀬田川の川浚え※4にも反対しています。

──なるほど。立場が変わればですね。

烏野 そして、徳川家康に関する文書もあります。江戸時代の初めから八幡の町は「諸役免除」※5とされたのが町民のステイタスでもありました。それは、信長─秀次(=秀吉)─家康と、代々受け継がれたのだと記しているものです。実際、家康は特権を明文化していませんが、八幡では自分たちの権利を保証するものとして、文書をずっと管理していました。

 そんな八幡の町も、時代が下ると何度か諸役をかけられそうになります。その時に「徳川家康朱印状」という文書を示して切り抜けたんですね。これには最初に「禁制」とあって「放火をしてはいけない」などいろいろ決まりが記されていますが、「諸役免除」とは書いていないんです。そこで、八幡の町衆は、「創意工夫」をするわけです(笑)。当時の八幡町の代官の手代が「権現様(家康)の朱印状を見たい」と言って持ち帰っており、騒動の中で「乱失仕り候(紛失してしまった)」というストーリーを創作して、展示してある由緒書が作成されます。

 幕府の側もただ騙されていたわけではなかったでしょうから、これで通るというのは、八幡の財力の大きさゆえに、領主層が味方についたからだと思います。それが本当に厳しくなったのが文政5年(1822)に起こった「御朱印騒動」と称される事件の時です。いよいよ諸役が課せられそうになるというので、町年寄(町のトップ層)らが江戸にまで出向きました。最終的に維持できたのは当時の領主だった旗本・朽木氏の本家筋にあたる福知山藩主の動きも大きいとされ、このあたりは『近江八幡の歴史』第7巻「通史Ⅱ 八幡山城から幕末まで」に記しています。町衆たちはちょうど徳川家の菩提寺である上野・寛永寺にお参りした後に決着がついたので「権現様に守られた」と喜びました。


※4 瀬田川の川浚え 台風や長雨による洪水を避けるために、琵琶湖から水が流れ出る瀬田川の川底にたまった土砂を取り除くこと。

※5 諸役免除 領主によって課される年貢以外の負担を免除されること。


商家のゲストハウスが警察署長の官舎に

──郷土資料館の北隣が「歴史民俗資料館」で、古い民家を利用したものですね。

前坂 江戸末期の建築です。森五郎兵衛さんという商家のお宅が、新町通りをはさんで向かいにあって、こちらは、その「控え宅」、いまで言うゲストハウスみたいなものだったそうです。大事なお客さんをここに招いて商談をしたり、お祝い事をした建物でした。それが、明治19年(1886)に隣に警察署ができたため、警察署長の官舎として使われるようになったんです。それを改修して、昭和54年(1979)に歴史民俗資料館として開館しました。

展示室内に設けられた上下スライド式の窓

展示室内に設けられた上下スライド式の窓

──歴史民俗資料館整備事業※6を用いた県内第1号だったそうで、やはり先駆けですね。所狭しと昭和の時代の生活用具が並んでいます。

前坂 今も町内の方が蔵を解体なさったような時に中の物を持ち込まれることがあるので、どんどん増えていっています。年配の来館者は、「あー、うちにもあった!」と言ってとても喜ばれます。

──この背面を見せている簞笥は? 斜めになっていたり、かっこよくレイアウトしてあるようにも見えますが。

前坂 そうそう(笑)。これは裏に引札※7が穴ふさぎにべたべた貼ってあったんです。おもしろいから、簞笥の裏側が見えるようにしました。

──郷土資料館と歴史民俗資料館の間に、一昨年のリニューアルで新しい施設ができていますね。

烏野 もとは消防団の消防倉庫だった跡地に、新設の共用スペースを作り、「コワーキングスペース」と呼んでいます。

近江八幡市立資料館の位置地図と朝鮮人街道道標


※6 歴史民俗資料館整備事業 廃棄が急増していた民具を収納する施設を整備するため、昭和45年(1970)から平成5年(1993)まで国が補助した事業。滋賀県では10館が建設された。

※7 引札 江戸時代から大正にかけて、商店が配った広告ちらし。


八幡の町並を象徴する「見越しの松」の管理

──最後に旧西川家住宅に入ってきました。

烏野 西川利右衛門家の本宅です。八幡の商家は、本宅=主屋を建てると、前栽の庭を作って、その奥に座敷を作ります。前栽の庭に松を植えるので、「見越しの松」というのが通りに出るわけですね。それが商家にとっては大きなステイタスであり、八幡の通りの特徴になっています。

 ただ全国的に見れば、いわゆる豪商といわれる家々などと比べて八幡の商家は質素です。機能としては、店舗というより本社事務所的機能と考えられます。

──何人ぐらい働いていたのですか。

烏野 当時の記録によると、ここには26人がいました。

前坂 人員構成は、主人の家族が7名、丁稚さんや女中さんが19名という文書が残っています。それは寝泊まりをしている人数で、近所から通いの従業員さんもいたと思います。

 正面の中ほどの戸は、そこから大八車が入るように、普通の引き戸ではなく、上へ持ち上げる扉、いわゆる「跳ね上げ戸」になっています。上に滑車と分銅がついていて、どこで放しても止まる仕組みです。

 小学3年生は3学期に「昔のくらし」を学ぶことになっていて、毎年授業の一環として資料館を訪れることになっており、今年も1月31日から市内の多くの小学校が当館に来るんです。

 そこで小学生を相手に説明する時は、さっき話に出た丁稚さんのことを話すと一番いいですね。小学4年生から6年生ぐらいの子供が働いていたというと、「えーっ」と驚きます。それから、あの跳ね上げ戸をやってみせると「ほーっ」って(笑)。

──松の剪定などは、専門の業者の方に依頼しているのですか。

前坂 「見越しの松」は絶対に枯らすことはできません。ですから剪定には気を使っています。当然、金額も高くつきますが、枯らすと大失態です。その点、庭のサツキやツツジは、私が剪定しても問題になりません(笑)。

商家の前栽から伸びる「見越しの松」

商家の前栽から伸びる「見越しの松」

──その辺も、市からの委託料の範囲内で賄わなければならないわけですね。

前坂 もちろんです。お任せですが、松の剪定のような場合はケチってはダメで、それなりの業者さんとお値段を交渉して。

山形県からの来館者に教わった「オミ漬け」

──来館者は、館を目指してくるというより、古い町並を見るために訪れて、ついでに立ち寄られる場合が多いのでしょうか。

前坂 そうです。厳しい話で申し訳ないですが、この4年間を振り返ってみますと、入館者は1年に2割程度減ってきています。近江八幡市全体への観光客数は逆に増えているのですが。

──2015年にオープンした「ラ コリーナ近江八幡」は県内で観光客数最多を誇る人気スポットになっていますが、逆に古い町並を歩く人は減っているのでしょうか。

前坂 町並を歩く人はほとんど変わっていませんが、これまでコンスタントに来ていただいていた他府県の学校関係が徐々に減ってきています。歴史探訪ツアーの団体はほぼ同数が維持されています。減少要因の多くは、団体ツアーの来館者が減ってきているのに加え、ツアーの滞在時間が1時間程度なので、日牟禮八幡宮まで行って買い物をすると、入館の時間がなくなってしまうあたりにあるのかな。

──入館者はどの地域からが多いのですか。

前坂 名古屋や岐阜からがとても多いですね。また関西からよりも関東からの方が多いです。例えば長浜市で1泊、次は大津市に1泊というスケジュールで、移動のルートで彦根城、近江八幡の町並を見学する。昼食は「鮎家の郷」(野洲市)でとるというような。

 他には、大学で建築を教えておられる先生に引率されてゼミの学生さんたちが来て、建物をじっくり見学なさることもあります。私たちも、梁などに関する先生の説明をいっしょに聞かせていただいて、「あっ、なるほど」と教えられますよ。

烏野 朝鮮通信使関係で八幡に来てくださる方もけっこうあります。学校などでも、平和学習のテーマになっているようです。

前坂 毎年夏休みに韓国の釜山から高校生が20〜30名、訪れていますね。

烏野 滋賀県は大阪・京都から立ち寄りやすいというのもありますし、「朝鮮人街道」という名前が残っている道が館の前を通っている資料館というのは珍しいですから。

前坂 山形県からの来館者があって、「私どもの所に、オミ漬け(近江漬け)という近江商人由来の漬物がある」と教わったこともあります。郷土食として伝わってるんだそうです。

烏野 八幡商人は山形にも行っているので、向こうの方は、滋賀県に親近感をお持ちなんです。私も当館にいた頃、山形県の方がふらっと来館なさって、わざわざお土産をくださって、「山形にとって近江は……」というお話をなさったことがあります。

──山形の産物というと紅花※8ですか?

烏野 そうです。紅花を京都に運んで、京都の髪飾りなどの工芸品、山形は寒いですから上方(大坂)の綿製品を北前船で運ぶという商いをしていました。そのため、「観光面での協力ができないか」と言っていただいたこともあります。

前坂 そうした経験から、来館者の方と話すことはものすごく大事だと感じます。なるべく、お声掛けをして会話ができるようにしているんですが、おもしろいですし、とても勉強になります。

烏野 私が市史編纂という仕事の中で感じたのも、近江八幡という地域だけで収まらない歴史があるということでした。近江商人は、ここに本家がありながら江戸や北海道にも店がありましたから。空間意識としても、近江八幡の人々は、福島や山形、それから先ほどの話にも出てきた江戸はそれほど遠くないという意識を持っていたのではないかなと思います。

──お忙しいところ興味深いお話をありがとうございました。 (2020.1.23)


※8 紅花 キク科の越年草。赤色の花を乾かし、口紅や染料の材料とした。日本では山形が主産地。



編集後記

 取材の前の打ち合わせで近江八幡市立資料館にうかがった際、統括マネージャーの前坂さんは、「この八幡の町並がなぜ残されたか、わかりますか?」と、豊臣秀次による八幡山城築城以来の歴史を語り始め、実際の取材でご経歴をうかがうまで、根っからの地元の方だと勘違いしていました。誌面では割愛していますが、資料館の秀次コーナーでは熱弁が止まりません。(キ)


ページ: 1 2 3 4

連載一覧

新撰 淡海木間攫

Duet 購読お申込み

ページの上部へ