インタビュー:博物館での研修を経て、自主的に学び、楽しむなかで広がった世界。

「友の会はあえてつくっていないんだ」

──皆さんお忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます。まずは順に簡単な自己紹介をお願いできますか。

澁江 私は父が国鉄に勤めていたので、もともとは草津の大路井にあったその官舎で生まれたんです。ですが、父が病気になって昭和24年(1949)ぐらいに親元があった栗東の林にもどったので、それからずっと住んでいます。10年ほど前までは、2反ぐらいあった田んぼもしていました。

山内 私は出身が島根県の津和野です。ご縁があって草津で仕事をしていました関係で、栗東に住むようになったのが昭和56年(1981)です。澁江さんもですが、会設立の前の研修の時から参加させていただいて、そのまま市民学芸員の会に入り、今日に至っているという状況でございます。

前田 私は生まれと育ちは大阪で、結婚して栗東に来てからずっとおります。お二人もそうだと思いますが、市民学芸員研修のお知らせを『広報りっとう』で見て、その中にあった「掛け軸の取り扱い方」というのにひかれて参加したのが始まりです。

 親が残してくれた掛け軸を、どう扱えばいいのかわからなかったもので(笑)。

大西 私は出身は京都府の亀岡で、15年ほど前から当館に勤めています。

──大西さんは、市民学芸員の会に設立当初から関わっておられたのですか。

大西 当時すでに館にいましたが、館長だった佐々木進さんが中心になって会の世話をなさっていたので、初めの頃はそれほど密接に関わるということはありませんでした。

──佐々木元館長の設立時のお考え、目的はどんなものだったのでしょうか。
栗東歴史民俗博物館 市民学芸員の会のあゆみ
大西 多くの博物館や資料館には友の会という組織が設けられていますが、佐々木元館長は、「友の会はあえてつくっていないんだ」とおっしゃっていました。

 友の会より一歩も二歩も踏み込んで、より自分から学びたい、知りたいという気持ちで、どんどん積極的に博物館に関わってくれる人たちを育てたいのだというお考えでした。

──会発足前の平成15年(2003)に始まった研修はどんな内容でしたか。

山内 古文書の読み方もあったし、梵鐘(お寺の釣り鐘)の銘の調査をしました。栗東市内にあるお寺をいくつか回って、いつつくられたか、誰がつくったのか、何のために納めたかを班で調べました。

澁江 江戸時代から栗東市辻に鋳物師※1がいて、全国から釣り鐘の注文を受けていたんです。佐々木先生といっしょに拓本を取りに行きました。遠くでは東京世田谷の豪徳寺へも行きました。

前田 拓本も習いましたし、日向山(標高222m)にあった多喜山城※2の地図を自分の足で書きましょうというのもありました。

山内 いわゆる縄張図ですね。日向山は伊勢落の南にある、小さな山です。

澁江 古墳の石室もあるんでね。埋蔵文化財の専門の方に案内してもらって。

──その時点で、市民学芸員希望者としては何名ぐらいいらっしゃったんですか。

大西 第1回から20人ずつぐらい応募があって、最初の1期生は2年ですべての課程修了というものでした。

山内 4期生までいったんですかね。

大西 栗東市の広報紙で募集したので、市民の方中心なんですが、どこかで聞いてこられた市外の方もいらっしゃったり。

──ほとんどの方は定年後の活動にという感じですか。

山内 圧倒的にそうですね。でも、若い人もいます。

澁江 今年、20代の人が1名入ってきました。別にお仕事はなさっていて。

──女性はどれくらいの割合なんですか。

澁江 前田さんのほかに、6人かな。いま会員20人のうち。

前田 お一人はまだ若くて、産休で休んでいらっしゃいます。

──栗東生まれの方より、転入者の方の方が多いのでしょうか。

山内 あまりそれぞれの経歴は話さないのですが、われわれのようによそで育って栗東に住むようになった人が多いと思います。

──前田さんは、城の縄張図にも参加なさっていたんですか。

前田 はい。なんでも時間があったら参加していました。「虎口」という言葉もその場で初めて聞いたぐらいでしたが、新しいことを教わるのがおもしろくて。

大西 前田さんは何でも楽しまれるタイプですよね。

前田 はい。それは、佐々木先生のおかげでもあります。私たちみたいな本当の素人は、「そんなことも知らないで入ったの?」みたいなことを言われたら、とっくにやめていたと思うんです。ちゃんと私たちのレベルまで下りて説明してくださるので、後ろからちょこちょことですが、着いてこられたのかなと思います。

会発足前の研修のようす


※1 辻の鋳物師 江戸時代、栗太郡辻村を本拠に全国各地に出職、出店した鋳物職人。鉄湯釜や鰐口、梵鐘などを製造し、江戸に出店した太田家は、幕府の「御成先鍋釜御用」を務めている。

※2 多喜山城 近江南部の守護六角氏などの諸勢力と織田信長が対立した、いわゆる「元亀争乱」にあたり、織田方が東海道を見下ろせる山上に築いたとされる。


大好評を博した竹村定治コレクション展

──設立前になさった、金勝寺※3の参詣道にある二十四丁石の保護活動というのは。

大西 平成19年(2007)に金勝寺に上がる参詣道の丁石が、いろいろなところで抜き取られているので何とかならないかと、土地の所有者の方が佐々木元館長に相談なさって、澁江さんたち研修修了生たちが集まる会(市民学芸員の会ではない)ができていたので、佐々木元館長がお話を持っていかれました。

 その翌年の平成20年に設立したので、その保護活動が設立へ勢いづく最後の踏切板のようになったとはいえます。

澁江 私はもともと石造物などにも興味があったので、40年ほど前に専門の方から拓本の取り方を教わり、滋賀県や東近江市、三重県の教育委員会からも拓本を頼まれたりしていたんです。入会時にもそのことを伝えていたので、後々、この館の展示資料をつくるために拓本を取るお手伝いもしました。

 また、昭和40年代の終わりぐらいに、文化財保護の対象になった社寺の中に無住のところが多いというので、文化庁が各県に月に1回パトロールするよう指示しました。それを、私も15年ほど担当していました。

──それで、金勝寺参詣道の丁石についてもご存じだったんですね。

澁江 そうです。拓本を取ろうと参詣道を回っていたので。金勝寺の場合、五十何丁から順番にたどっていくとお寺に着く丁石が、飛び飛びになっている。どこにあるのかと、いろんな人にあたってね。

 例えば、二十九丁石の磨崖仏は、この館のロビーにレプリカが展示されていますけれど、その1丁(約109m)上がったところにあった二十八丁石は今はありません。拓本を取りましたが、いつの間にか抜かれて持っていかれてるんです。参詣道は車でも上がれるから。

大西 おそらく庭石などとして売られるんだと思います。道標でも、庭石にされたりする例があるので。

澁江 それで、二十四丁石については土地の持ち主の方が盗難被害から守るために「博物館に移してほしい」と依頼されたのです。軽トラに積んでもいいんですけど、みんなでイベント的に持って帰ってこようということになり、修羅に載せて縄で引いて運んだんです。市民学芸員が団結して、組織化するよいきっかけにはなりましたね。

──それでは会の活動内容を順にあげていきます。まず、『都名所図会』の輪読会。

澁江 佐々木先生が講師で、この3人は参加しています。古文書に関心がある人は多いですが難しい。私も何十年も前に勉強し始めて、当時は仕事も忙しかったのでやめてしまった口です。『名所図会』の場合は現代語訳の本があるので自習もできるし、読んだ後は実際に現地を歩いています。

 『東海道名所図会』で草津や水口(甲賀市)に、中山道にあたる『木曽路名所図会』で高宮(彦根市)などに行きました。湖西方面がないのが残念でしたが、次は京都の社寺を紹介した『都名所図会』に決まりました。佐々木先生は京都の人なので、よくご存じですし。

二十四丁石の保護活動/『東海道名所図会』輪読会

──次にあがっているのが、竹村コレクションという鉄道資料の整理です。

山内 栗東市伊勢落に住んでおられた元国鉄職員の竹村定治※4さんが、亡くなる前年の平成19年(2007)に博物館に寄贈なさった鉄道関係の資料が膨大な量だったものですから、整理することになったんです。

 鉄道模型のNゲージを、日本のもの、外国のものに分け、さらに国別に仕分けしたり、機関車の製造年、製造台数といったデータを整理したりしていったので非常に時間がかかり、まだ9割方しか終わっていません。旅行先で買われた絵葉書や列車の絵が描かれたネクタイピンなんてものまであって。

──このコレクション整理は、山内さんが中心になさったんですね。

山内 たまたま私は前職のころに、鉄道の車両の部品を製造する会社で設計をしていたものですから、模型と私がつくっていたものを頭の中で引き比べると、ここら辺のこれだなというのがわかるんです。それでいつの間にか、私が担当のようになってしまいまして。

──コレクションを使った展示会も2回なさっていますね。

山内 模型を展示するだけでなく、ミニレールを敷いて車輌を走らせる運転会を併設したんです。運転が上手な鉄道ファンにお願いして、手弁当で来てもらって。そのおかげもあって、大阪や名古屋の愛好者グループもいらっしゃいましたね。

大西 記録を見ますと、最初の平成22年(2010)の入館者数が5931人。鉄道模型の運転会には3857人。2回目の平成27年(2015)は入館者数6894人、運転会が2407人でした。

山内 22年は、開催期間の最初と最後に運転会を行ったのですが、27年の時はどうしても都合がつかず期間半ばの一度だけだったので、その分だけ運転会の参加者数が減りました。

大西 第1回の展示では、館と会で栗東市の市民協働事業に手をあげたので、山内さんには審査のプレゼンなど一生懸命やっていただきました。

山内 これだけの展示をしようと思ったら、やはり10万円余りのお金がいるわけですよ。市民協働事業は、費用の4分の1を市民団体が出し、残りの4分3を栗東市が出してくれるというので、やるだけやってみるかと。おかげさまで第1回が大成功だったので、2回目の時は博物館がちゃんと予算を取ってくださいましたが。

──年度ごとの総入館者数でも、この10年で竹村コレクション展があった平成22年と27年が突出していますね。

澁江 模型を入れるケースも全部、山内さんが設計して作られたものです。

山内 保管プラス展示という考え方だったので、そのまま運搬して即展示できるように、使い勝手のよいケース作りからやりました。貸し出しもしたことがあるんです。

小学生向け体験学習プログラム

──では次に、いがぐり農園。

澁江 農園は旧中島家の隣に畑があって、当初は私も家で畑をしていましたしね。土日にでも市民学芸員で管理をして、月1回ぐらい「かまどめし」を食べる催しの食材にしようということでやりかけたんですが、なかなかみんな続かなくて、私も腰が痛くてね、いまは植えていないんです。

──食材以外に、会のブログには綿の写真もあがっていますが。

澁江 綿も、今年は私や前田さんなど3、4人が苗をもらってそれぞれの家の畑に植えています。10月13日の催しで行う綿繰りは、これまでに収穫した綿がたくさんあるので、それを使う予定です。

 手回しの綿繰り機を使うのですが、これも山内さんが図面を引いて自作してみようということになって、どうしても回転する螺旋の部分の削り方がわからず、古い製造道具を収蔵する兵庫県立歴史博物館に調査に行ったりしました。

──すでにお話に出てきましたが、旧中島家での「かまどめしを炊こう!!」にも協力なさっています。

澁江 毎月第3土曜日にやっています。暖房も窓ガラスもない建物なので、冬の12月、1月、2月を除いて。

大西 平成5年(1993)に旧中島家住宅を移築した時点で、「かまどを稼働させる」方針だったので、年に何回か市民を対象にした、かまどを使ったイベントを催していました。

 それで、平成20年度からは定期的にかまどでごはんを炊く「かまどめしを炊こう!!」を市民学芸員の会と協力してすることにしたのです。

──つづいて、小学3年生が対象の博物館教室「昔のくらし」に協力。

大西 当館が市民学芸員の会設立よりも前から取り組んできた、小学校向けのプログラムで、当初は博物館のスタッフと、旧中島家住宅の管理人さんでやっていたのですが、市民学芸員の会ができたのを機に「いっしょにやりませんか」とお願いしました。

 その後、「独自にプログラムを開発してみかせんか」と持ちかけましたら、「竿秤で重さを量る体験」をつくってくださいました。

──これは、「てこの原理」を教えるということですか?

大西 そうではありません。今の秤とは全然違う仕組みの道具で量っていたこと、重さの単位も違うことを小学校3年生に知ってほしかったのです。

澁江 竿秤も俵を量るような大型のものから、小さなものを量る小型のものまである。学校向けの体験では小型のものを使っていましたが、ある時、大型のもので体重が量れるとおもしろいと思い、大型の竿秤に支えをつけて体重が量れるようにしてみました。小学校向けの体験とは別に、イベントなどで大人から子どもまでこの竿秤で計量してもらいました。

──皆さん、小学生相手にいろいろ説明したりもなさるわけですか。

山内 はい。場合によっては。

前田 私は、竿秤体験にはまったく参加していません。佐々木先生も、活動への参加は「いいとこ取りしたらいいです」と言ってくださるんです。「自分の関心のあるところとか、手伝えるところだけ協力したらよく、無理することはないですよ」と。古文書の勉強会も、毎回参加のメンバーは会員の半分以下ぐらいですし。講演会のときにしかお顔を合わせない方もあるんです。

──なるほど。次に継続的な取り組みではないですが、平成27年には、かまど再生事業に協力なさいました。旧中島家のかまどが20年たって傷んできたので、つくり直そうということになったんですね。

大西 これは文化庁の助成がついた事業で、正式には「市民とともに行う栗東歴史民俗博物館かまど再生事業」といい、実行委員会は当館と3つの団体で組織されました。市民学芸員の会はその1つの立場ですね。

澁江 初代のかまどをつくった地元のお年寄りは亡くなられていて、奈良の左官屋さんに指導してもらいながら作業に協力したという感じです。

大西 基本的にはここの博物館にもともとつくられたものを踏襲するというかたちなんですけれども、使えるものになるよう助言してくださるという立場でした。旧中島家のかまどは、煙突がないんです。土でつくって、火がうまく回るものをつくれる職人さんは、もうほとんどおられません。

 また、事業の正式名称にもある「市民とともに」の部分も大事だったので、親子連れなども参加できるワークショップとして作業を進めたのです。古いかまどを解体するのも、新しいかまど用の土をつくるのも。市民学芸員の会は、ワークショップの参加者さんたちを支える役割を果たしてくださいました。

──他に、いろいろな歴史講座、博物館祭りなどにも出向いておられます。


澁江 毎年7月に県内の有志の博物館が、ビバシティ彦根(彦根市)の2階で開催している「博物館夏祭り」という催しに、当会からはいつも、先ほどの大型の竿秤などを持っていって参加しています。

※3 金勝寺 栗東市南部の金勝山(標高605m)の頂上近くにある天台宗の寺院。奈良時代に良弁が開基したと伝わり、湖南仏教文化の中心をなした。

※4 竹村定治 (1925〜2008)昭和18年(1943)に日本国有鉄道に就職、応召出征を経て、終戦後に国鉄に復職。大阪駅助役、関西鉄道学園講師などを務めるかたわら、鉄道資料の収集を行う。


おもしろい世界を外に向けて発信

──他の活動で印象に残っているものはありますか。

山内 私の場合は、古文書の輪読会ですね。昔から読みたいと思っていたものですから。栗東には別に古文書を読むグループがあって、そちらでもかれこれ10年ほどやっていたのですが。昔の手書き文字というのは、自分の祖父や祖母がくれた手紙ですら読めない字がいくつかあったのですが、ようやく読めるようになりました。

 ひと世代、ふた世代前なだけで、言葉づかいも生活習慣も違うので、そこへどんな言葉が入るのか推測できないんです。お役所へ出す訴え状みたいなものは前後が定型だから、ぽつんと点が打ってあるだけでも、ああこれは「候」だなとか予測できるけれど。個人的な手紙は本当にわかりにくい。

 栗東は街道も通っていていろんな記録が残されていながら、手がつけられていないものが多いようです。例えば、東海道沿いにあった薬屋「ぜさい屋」※5(旧和中散本舗)の文書にしても大量で、表題だけリスト化されて、すべての中身を読み解くところまでいっていない。そういう掘り起こしが、私たちにもできたらおもしろいなという思いはありますね。

前田 会員の多くはわりと土台がある方なんですよ。初期のメンバーには栗東の観光ガイドをしていた方などもおられたし。何もなかった私みたいな者でも、例えば線路を走る貨物列車を見て、いままではただの貨物列車でしたが、「あれは桃太郎」「これは金太郎」(機関車の愛称)だとかいう知識が増えると、世界が広がりますね。丁石にしても、以前だったらただの石が立っているぐらいに思っていたのが、彫ってある文字の意味を知れば変わってきますし。

──学芸員の大西さんにとっては、市民学芸員はどんな存在でしょうか。

大西 栗東歴史民俗博物館を支えてくださっている心強いパートナーです。

 10年目になってこれまでの写真を整理しながら感じたのは、竿秤体験などで、子どもたちと接している会員さんはとても笑顔で、かまど再生事業でも、参加している子どもたちと目線がばっちり合った、いい写真がたくさんあるなぁということです。ご自身の自主的な学習とか向学心という面は、佐々木元館長の目論みが十分成功したと思うのですが、市民学芸員の皆さんが他の来館者さん、大人も子どももふくめた方々と接する場面では、博物館におもしろい世界があることを外に向けて発信してもらう存在となっています。写真にはそうした瞬間が切り取られていると思います。

──あと、市民学芸員の活動を通して、栗東の地域性みたいなものがわかった瞬間などはありますか。

澁江 もともとは農村地帯です。いまは転入者の方が多いですが。

大西 そもそもの栗東の町づくり自体が、昭和30年代に栗東の名神高速道路のインターチェンジができるというので、外からどんどん人を入れて、都会に通ってもらおうという構想から始まっているので。
 皆さん、外からの転入者であるとおっしゃっているんですけれども、すでにもう「ここが地元」という意識も強いと思うんです。

 私が館に務め始めた15年ぐらい前に、「小地域展」といって、旧大字単位での展覧会を行った時、新興住宅地である地域に関しても、「開発時の資料を提供していただけませんか」とお願いしたら、ちょっと驚かれた記憶があります。でも、新興住宅地である地域も、もう栗東の歴史の一部になっているんですね。いろんな人が住んで、栗東の町を愛着を持ってもらっているという感じはとてもします。違いますか?

山内 いや、そうだと思います。人口の比率にしたら、圧倒的に転入者が多いでしょうから。

大西 しかも大きなニュータウンを開発したわけではなくて、大字ごとに煙が出ない工場を呼んで雇用をつくり人が移り住むという町づくりだったので、ニュータウンだけで固まることもなく、なじんでくださったように思います。市民学芸員さんもそうした方が多いと感じています。その意味では、昭和30年代に立てられた都市計画の結果の一つが、市民学芸員の皆さんでもあるのだと思います。

──うまくまとめていただいてありがとうございます。本日は興味深いお話をありがとうございました。 (2018.9.21)


※5 ぜさい屋 江戸時代、腹痛などに効能のある薬「和中散」を販売した大家の屋号。店舗だった住宅は、国指定重要文化財。


編集後記

特集中に登場した竿秤について。秋なので、農家に生まれた私は、竿秤と仕組みは同じなのだろうF型台秤(今もボクサーの計量などで見かける)を使って、乾燥・籾擦が終わった新米を30㎏袋につめる作業を手伝わされた中高生の頃を思い出します。竿秤はすべてデジタル計量器に変わったわけでもなく、パン屋で一定の重さの生地を作るのに使われているそう。(キ)


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