2017年 1月 29日

原泉子と〈昭和〉の風景――森田創著『紀元2600年のテレビドラマ』

 前回の最後で、また小説『伯爵夫人』にもどったので、その続きである。
 同作は例の賞を受賞したため、作者のインタビューが何誌かに掲載された。
 『新潮』7月号に受賞記念インタビュー、『文學界』9月号に掲載のインタビューは、「『文学部不要論』の凡庸さについてお話しさせていただきます」と題されたものだが、『伯爵夫人』への言及もある。聞き手の渡部直己(文芸評論家、早稲田大学教授)とのやりとりの中で、最近のやたら小説を書きたがる学生は、「日本の小説のことなど何も知らない」「中野重治も武田泰淳も知らないで小説なんか書かれちゃ本当は困るわけでしょう」「私の今度の小説だって、中野重治も泰淳も出てきます」
 この発言は、先の受賞記念インタビュー(『新潮』7月号)での、「書きながら、たくさんのかつて読んだものの記憶が招きよせられたのは事実です」「菊の御紋章入りの靴下が出てきますが、あれはわたくしの記憶では武田泰淳の小説にあったはずなのに、どの作品だったのか思い出せません」「映画であれば、さまざまな記憶が共有され継承されていますが、文学ではそうではない」を引き継いでいる。
 とすると、「偽男爵」は中野重治の「空想家とシナリオ」(単行本化は1939年)から来てるわけか――と、即座に頭に浮かんだのであればよいが、そうでもない。見当をつけて、持っている講談社文芸文庫版『空想家とシナリオ・汽車の罐焚き』(1997年)を20年近くぶりに読み返してみて、すっかり忘れていた「偽男爵」の話を見つけた。
 そう、中野重治は読まれていない。私も武田泰淳は1作も読んでいないから偉そうなことはいえないが、別に小説を書く気はないので、そこは勘弁してもらいたい。
 前に石井桃子とのからみで書いたが(当ブログ「小波の世界」)、最近になって河出書房新社が出した石井の随筆集でも、中野との出会いを書いた「ある機縁」は除外されていたし。
 アマゾンで「中野重治」を検索してみても、レビューなしの作品が多い。代表作とされるものでも、1~2件とか。表示される書影とタイトルを下へ移動しながら、次ページ(次画面というべきか)へと移っていくと、6ページ目で、中野重治の著作でも、他人による評伝の類でもない本が現れた。
 森田創『紀元2600年のテレビドラマ ブラウン管が映した時代の交差点』(講談社)[正確に画面表示を記すなら、書名、著者名の順で、二重かぎかっこはなし、出版社名はずっと下にあるわけだが]
 書名部分をクリックして、単独の紹介ページに切り替える。内容紹介の文中に、「原泉子」の文字が読めて、ようやく中野重治とつながりが納得いく。2016年7月に出たこの本は、何紙かの新聞の書評でも取り上げられていたので知ってはいたが、私が読んだ書評中で「原泉子」の名前を出していたものはなかった。アマゾンのレビューは五つ星ばかり6件だが、出演者を指すものとして「岩下志麻さんのお父さまや寺尾聰さんのお母さま」という文章は出てくるがやはり「原泉子」の名はない。
 というわけでアマゾンの検索システムのおかげで、中野重治の妻、原泉子が出演していた日本初のテレビドラマについて書かれたノンフィクションを知る。
 近所の書店では新刊コーナーに並んでいるのを見たことがなかったので、出品されていた中で最安値だった中古品876円のものを購入。定価は1600円+税。
 戦前の日本でテレビの受像機に初めて映ったのは片仮名の「イ」の字だったというのは、テレビのクイズ番組や子供向け学習図書から教わった知識としてある。だが、テレビドラマの実験放送が紀元2600年=昭和15年(1940)にすでに行われていたことは、なぜかあまり知られていない。本書では、その理由を「戦時体制と不可分に結びついたその歴史に、どことなくフタをしたい気持ちがあったからにちがいない」としている。
 昭和15年4月13、14、20日に放送された12分間の生放送ドラマ『夕餉前(ゆうげまえ)』には、左翼系劇団「新協劇団」の俳優3人が出演した。原泉子、野々村潔(岩下志麻の父)、関志保子(宇野重吉の妻、寺尾聰の母)。脚本を担当したのは、大衆劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」の座付き作家だったこともある伊馬鵜平(春部)。
 本書は、プロローグでクライマックスにあたる放送ドラマの関係者が、「紀元2600年」の祝賀行事の一環であった同放送にいささか不似合いな者たちであることを示しつつ、テレビカメラと受像機の開発技術者、高柳健次郎(私たちがよく知る「イ」を映した人物でもある)の過去へとさかのぼっていく。
 読み出すと止まらない。前作『洲崎球場のポール際』(講談社)は、第25回ミズノスポーツライター賞の最優秀賞を受賞と著者プロフィールにあるが、テレビ開発の技術面も、素人にも興味がもてるエピソードを盛り込みつつ解説している。『洲崎球場の…』のアマゾンレビューの一つにある「ニュージャーナリズム的な」(現在時制を用いた再現VTRみたいな)書き方が本書をいくらか安っぽくしているが、読みやすさには確かに貢献している。
 それまでの実験放送で楽器演奏などが放映されていたが、出演者はみな照明の強さに根をあげ、「二度とごめんだ」と語った話は役者業界にも知れわたっていた。「新協劇団」の3人がこの仕事を引き受けたのは、経済的理由による。原泉子の夫、中野重治は昭和12年に執筆禁止処分を受けており、二人の娘である鰀目卯女への取材で、「幼少時代の記憶は、原が稼ぎ、中野が家事をするというものだった」、「ボタンホールの開け方に苦労しながら、腹巻を縫ってくれた」といった証言を得ている。
 これは私にはよくわかる。刊行時に図書館で借りて読んだ『敗戦前日記』(中央公論社、1994年)の半分ほどは、虚弱だった卯女の「育児日記」である。月日、天候と午前二時半、十時半、後二時、六時半それぞれの卯女の体温だけ書き記した日もある。挿絵を好んだ卯女の求めに応じて、『熊のプーさん』を読んでやることもあった。
 原側の結婚の条件が演劇を続けさせてくれることであり、中野もそれは当然と応じたのだから、これは対等な立場ゆえの役割分担だった。
 同年8月19日早朝、特高刑事が中野宅に踏み込み(ここで夫婦の対等性ゆえに生じたコミカルな一幕は、『紀元2600年のテレビドラマ』も拾っている)、原は世田谷署に連行される。新協劇団と新築地劇団の団員が拘束され、翌日警視庁は自発的解散を要請、23日に両劇団は解散を受諾。
 ここのところは、いつ買ったのか覚えていないが本棚にあった『愛しき者へ』上・下巻(中央公論社)のうちの下巻にある澤地久枝による解説文の方が詳細である。原泉は4ヵ月にわたって留置された。長期にわたったのは原がいわゆる「転向手記」を書くことをこばんだためである。
 12月22日、検事が「あなたがお考えになった共産主義に対するごく素朴な御意見を聞かして下さい」と問うと、原は「私は人様の書いた脚本で伯爵夫人にもなれば、水のみ百姓のおかみさんにもなる。みんな人の書いたものを暗記して覚えて、それらしい人間を舞台の上で表現するのが役者の仕事なんで、いちばんそういう論理的なことは弱いんです。共産主義というものはなんでも平等にすることだと私は理解しています」と答え、ようやく不起訴処分になって釈放された。
 「伯爵夫人にもなれば」と来たか。ここまでの過程で、原の評伝にあたる藤森節子著『女優原泉子――中野重治と共に生きて』(新潮社、1994年)の古本をアマゾンで購入していたのだが、カバー裏面には、ルイーズ・ブルックスまがいのボブカットで紙巻煙草を左手の指にはさんでポーズをとる原泉子の姿がある。
 ちなみに『紀元2600年のテレビドラマ』は、昭和16年12月8日、本物の伯爵(東伏見宮邦英)が見学に訪れたフィルム映画と日本舞踊の実験放送が、わずか3日前に定められた「国内放送非常体制要綱」に則り中止させられたところで終わる。
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 ここで整理しておくと、原泉子(はら・せんこ)の本名は原政野(まさの)、明治38年(1905)島根県松江に生まれる。戦後、芸名を原泉(はら・いずみ)と改めた。
 大正9年(1920)15歳で上京し、3人姉妹の下の妹の学費を稼ぐために、画学生や彫刻家の裸体もふくむモデルとして働き始める。昭和3年(1928)プロレタリア演劇研究所の研究生となる。
 先の評伝『女優原泉子』は、昭和54年(1979)に77歳で亡くなった中野重治の告別式会場の様子から始まる。原泉の挨拶がある。「一九三〇年に、旧『驢馬』の同人の手によって、私どもは結婚いた、さ、せ、られ、たのでございますけれども」とあるのが、中野の関係者らしく、正確を期した感じでおかしかった。
 そう、中野と原は「結婚した」のではなく、「結婚させられた」のであり、当時、中野が左翼劇場の研究生である別の女性に〈ねらわれ〉ていたが、その女性が中野にはふさわしくないと考えた友人らが行動に移したものだという仔細も後段では明かされている。
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 今回のブログタイトルは、雑誌『ユリイカ』の2016年2月号特集タイトル「原節子と〈昭和〉の風景」のもじりである。女優原節子が2015年に亡くなったのを受けて出された雑誌だが、書店で手にとってはみたものの、私は原節子ファンではないので購入していない(ついでながら、前に当ブログで少し書いた小津安二郎の映画『麦秋』でいえば、私は原節子よりも淡島千景の方が好みである。中野重治がひいきの女優としていたのも淡島千景だった)。
 Wikipediaにある項目でちょうどよいので使わせてもらうが、「活動期間」は原節子が1935年(昭和10)~1961年(昭和36)、原泉子(原泉)の活動期間が1928年(昭和3)~1989年(平成元年)だから、〈昭和〉のほぼ全期間を女優として生きたのは後者の方である。
 言ってみたものの、私は原の出演作をそれほど見ていない。中野重治を読み出してまもなく、妻が女優だということは知ったが、数作あがっていた出演作で見ていたのは、『遠雷』(根岸吉太郎監督、1981年)だけだった。映画館でもレンタルビデオでもない。高校生だった頃、民放テレビで冬休みや春休みの深夜にATG作品をまとめて放送していたから、それを見た。耳が遠くていつもテレビの音量をあげている婆さんが……と思ったわけだ。
 これは何で読んだのか、原泉が出演作の選り好みをしないということは知っていた。だから、現在のWikipediaに「上品な老婦人・偏執狂的な姑・果ては祈祷師や霊媒師といった妖気漂う不気味な役までこなした」とあっても驚きはしない。それでも、改めて出演作の一覧と役名を眺めると、戦前の世田谷署での尋問に対する自身の返答を地でいく一貫性に驚かざるをえない。
 何か出演作を観てみようと、晩年に近い映画出演作のタイトルを眺める。選んだのは田中登監督『丑三つの村』(1983年)。理由の一つは、監督が田中登だったからだ。以前の当ブログ(「国貞の虜」)で、2012年の特集上映「生きつづけるロマンポルノ」の32作品のうち、名古屋の上映館へ行って2作品、DVDを買って1作品観たことを書いたが、じつは(といっても、別に隠したわけではなく、本題と関係ないので省略したわけだが)もう1本、観た。
 別の日の上映を観にいった友人から、「『(秘)色情めす市場』面白かったので、お勧めです。」というメールをもらい、そのDVDをアマゾンで購入したのである。購入履歴によると、2012年8月28日に注文している。9月2日にその友人へメールしている。「DVDにて観賞。はい、傑作です。薦めてくれて感謝。大阪西成のドキュメンタリータッチを維持したまま、どシュールな世界へ。」
 アマゾンで検索してみると、とうとう2016年にはブルーレイ化されている(なるほど、ロマンポルノ45周年か)。
 そんなわけで、田中登監督『丑三つの村』のDVD、定価3,024円(税込)が1,854円になっているので新品を購入。
 昭和期最大の大量殺人事件「津山三十人殺し」に取材して書かれた西村望の同名小説が原作。舞台は昭和13年(1938)の日本の山村、村一番の秀才と羨まれていた主人公犬丸継男(古尾谷雅人)だったが、兵役検査で軍医から結核と宣告されると周囲の村人たちは手のひらをかえして避けられるようになる。徐々に不満を募らせ、村内でのリンチ殺人の現場を目撃した継男は自らの身の危険も感じて密かに計画を練る。
 田中作品を2作しか観ていない者なりに、『(秘)色情めす市場』と比較してみれば、同じストーリーの変奏ではある。気づけばみんな穴兄弟、竿姉妹のような狭いコミュニティに生きる主人公が、フリーでやっていこうとする(売春をなんだが)のが『めす市場』で、そこを破壊するのが『丑三つの村』。前者で芹明香(せり・めいか)演じる主人公が地下道で誰彼かまわず声をかけて回るシーンが、後者の殺戮シーンに相当すると。
 原泉演じる犬丸はんは継男の祖母で、両親がともに亡くなっている彼にとっては唯一の肉親にあたり、出番も多い。出演シーンの長さからいっても、原泉晩年の代表作にあたるだろう。孫が道を誤ろうとしていることに気づき、身を挺して思いとどまらせようとするのだが……その結果は定石どおり。
 クライマックスの惨劇シーンのため、映倫が4ヶ所のカットを命じて成人指定になってしまった今作、ヤフオク!で入手した同作のパンフレットにあった「撮影うら話し」には、「ロケ地は琵琶湖畔の木ノ本から2時間も奥へ入った所」とある。
 また、撮影現場への取材記事が山根貞男著『日本映画の現場へ』(筑摩書房 1989年)に収録されていた。これは大船の松竹撮影所でのセット撮影へのルポで、ロケ撮影については、「いい候補地が見つかっても、話が話だけにいやがられたりしたあげく、滋賀県の山奥の村で行われた」とあるのみ。
 そう、これが『丑三つの村』を選んだ理由の二つ目だ。アマゾンの今作DVDのページにある2016年9月15日付けでBo-he-mianという人が書き込んだレビュー中にあるロケ地情報が一番くわしいので、長くなるが該当箇所を引用する。
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「映画のロケ地に使われたのは、豪雪地帯として知られる、滋賀県長浜市余呉町鷲見(よごちょう・わしみ)という集落で、『八つ墓村』(’77)の中にも一瞬登場する村だ。映画の中で、見事な茅葺の古い日本家屋が立ち並び、とてもセットで作り込む事はできない歴史が漂う…時の流れに嬲られ鄙びた寒村の、滅びゆく風景に心打たれること必至であろう。オープンのシーンの多くは、この集落で撮影された。
この集落は、’95年に丹生ダム建設計画のため廃村となり、全ての家屋が解体されてしまったという。現在ダム建設は凍結状態で、鷲見集落はいまだに水没していないようだが、集落への橋も落ちてしまい、もうそこへ行くすべはないという。
本作では、松竹の大船撮影所の大ステージに集落の一部をそっくりそのまま再現したセットを建て、家屋の中のシーンはセットで撮影したそうだ。しかし、古びた感じが実によく作り込まれていて、鷲見集落の家の中で撮影したかのように見える。(以下略)」
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 2010年(平成22)に長浜市に合併する前、撮影・公開時でいえば、伊香郡余呉町鷲見である。
 山根著『日本映画の現場へ』によれば、大船でのセット撮影を著者が見学したのが、1982年(昭和57)の11月とある。鷲見集落でのロケ撮影は同年の8月から9月にかけてか、パンフレットには「台風の真只中なのに、ロケ地だけは晴天が奇跡的に続き」とある。
 鷲見は、姉川の支流、高時川の最上流部(よけいややこしくなるかもしれないが近畿地方の規模でいうと淀川水系の最北端近く)に位置した。先のBo-he-mianという人のレビューには、「丹生ダム建設計画のため廃村」とあるが、これは端折った言い方で適切ではない。それ以前の経緯に、本当の廃村理由がある。以下の参考文献は、琵琶湖流域研究会編『琵琶湖流域を読む(上)』(サンライズ出版 2003年)。
 鷲見も含めた余呉町北東部(旧丹生村)は養蚕・製炭・林業などを主産業としてきたが、木炭需要の減退から、1970年代以降、住民の多くは近隣市町の工場へ勤めるようになっていた。当時の余呉村は「山村振興計画」の名で6集落の集落移転を決定し、1970年前後に3集落が移転、廃村となる。
 引き続き、残る3集落(鷲見をふくむ)も移転する計画だったが、共有林の売却ができなかったため資金難から計画は立ち消えとなる。
 そこへちょうど持ち上がったのが、高時川ダム(1992年に丹生ダムに名称変更)建設計画である。余呉町は建設反対を表明するが、鷲見をふくむ上流集落では集落移転計画実現の手段として下流集落を説得し条件闘争に持ち込んでいった。
 つけ加えると、Bo-he-mianという人も「豪雪地帯として知られる」と書いているとおり、高時川最上流の集落・中河内を中心に、1963年(昭和38)1月の豪雪で完全孤立状態になった。先の3集落が廃村となった直接の要因はこの大雪といってよい。つづいて1981年(昭和56)の「56豪雪」と呼ばれる大雪で、再び高時川上流の集落が長期間孤立する。翌1982年に流域集落が高時川ダム対策委員会を組織、翌83年から反対運動は条件闘争へと方針を転換する。
 その結果、鷲見地区の16世帯のうち13戸が同町内の造成地へ集団移転、3戸が同町内や旧長浜市へ自己資金で移転、離村式は平成7年(1995)10月22日に行われた。
 昭和50年前後の鷲見集落などの写真が掲載されている写真集『湖北の今昔』(郷土出版社 2003年)の解説には、「丹生ダム水没地域の人びとは、用地買収や補償にも積極的に協力して円満離村が成立した」と記されている。
 映画『丑三つの村』は、56豪雪翌年のロケであり、すでに当時鷲見集落の住人は町中心部近くに建てられた公営住宅などに生活の拠点を移していた。その点で、ロケはしやすかっただろう。『湖北の今昔』には56豪雪の翌年1982年(昭和57)以降、「トタン葺き屋根が並ぶようになった」とあるから、草葺き屋根が撮影できたぎりぎりのタイミングでもある。
 『琵琶湖流域を読む(上)』の「余呉型民家の形式」から引用する。
「鷲見の集落は、高時川と鷲見川との合流点から西に遡る鷲見川の両岸に形成され、古くは22戸、1991年では19戸で、入母屋造草葺トタン被の余呉型民家が妻面を川に向けて整然と建ち並んでいた。家屋は石段を一段高く積んだ敷地に建ち、別棟の隠居を付属していた」。
 映画でも、妻面を川に向けて整然と建ち並ぶ家々を主人公が向かいの山の斜面から見下ろし呪詛の言葉を口にする。「皆様方よ、今に見ておれで御座居ますよ」。唯一異なるのは、先にも書いたが「トタン被(かぶせ)」はなされていない点だ。
 もう一つ重要なのは、「妻入」すなわち妻面に入口がある余呉型民家だということだ。妻入なのは豪雪地帯であるために屋根からの落雪を避けるためで、屋根の雪が均等に解けるように妻面=入口は南を向いている。
 間取りは三間取広間型(前広間三間取り)で、部屋数が少なく、敷地面積自体も狭い。
 図を入れるとわかりやすいが、とりあえず文字と記号だけで表現すると、
   入口→1(にわ):1(だいどこ):2(ざしき/ねま)
となる。数字は部屋数、もちろん平屋(1階建て)である。それぞれの部屋は、壁ではなく襖か障子で仕切られている。
 これに対し、鷲尾の30kmほど南、琵琶湖岸の平野部にある葦葺き屋根民家(私も小学4年まではその一つに住んでいた)は、「余呉型」ではないものが一般的で、平面の左か右寄りに入り口がある「平入」の四間取だった。
    1(にわ):2(なかのま/だいどこ):2(ざしき/ねま)
     ↑
    入口(にわの反対側に勝手口あり)
 上記のようになる。
 ねま(寝間)に寝ているとして、殺人鬼に襲われた場合を想像してみてほしい。『丑三つの村』を観ながら、私が暮らした家との違いに気づいたわけだが、妻(短辺の側)から直線的にドン、ドン、ドンと寝間に押し入ってこられてしまう「余呉型民家」に逃げ場はない。
 たしか最初の2軒ぐらいドンドンドンの逃げ場なしが続いて、怖い。その後はワンパターンになるのを避けてか、平入の家や屋外に逃げたところを殺す形に移っていく。継男が一番殺したかった勇造(夏木勲)は瓦葺2階建ての家に住んでいたため、さっさと2階に上がると畳を起こして銃弾を防ぎ、生き延びてしまった。こら、勇造、余呉型民家で勝負しろ。そういう対決映画ではないわけだが。
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[追記 2月12日]
 原泉の出演作リストの中で、松山善三監督『名もなく貧しく美しく』(1961年)が近くのレンタル店に置いてあったので、借りてきて観た。二人とも聾者の夫婦の物語だが、高峰秀子と小林桂樹が芸達者さを発揮、手話による会話を名シーンにするエンタメ性もそなえた作品。
 原泉は、高峰演じる主人公の母親役で、主演二人の次にクレジットされており、出演シーンも多い。中期の代表作といってよいのではないだろうか。
 孫を相手に笑顔を見せるシーンも貴重だが、一番の見せ場は、家を出ていったまま音信不通だった、草笛光子演じる長女(主人公の姉)の住まいを訪ねるシーンだろう。
 バーの雇われママ兼中国人富豪の妾となり金には不自由していない長女の住いは、和服姿の母には不似合いなマンションの一室。
 入口で履いてきた下駄を左手にさげたまま、ソファに前かがみに座った母と傍らで立ったままの長女の会話は、緊張感を増していく。
 「用がなきゃ、訪ねてきちゃいけないのかい!」
 決裂して去る母、一人残された長女は鏡台の前に座ってブラシで荒っぽく髪をとかす。ここまでワンカット。
 初監督作品で単にカットが割れなかった可能性もあるが、見応えあり。

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