2015年 11月 29日

もう覚えた。ゴセダヨシマツ――神奈川県立歴史博物館「没後100年 五姓田義松 最後の天才」展

 横浜市にある神奈川県立歴史博物館で9月18日から11月8日まで開催された特別展「没後100年 五姓田義松 最後の天才」について書くが、見に行ってはいない。
 NHK教育「日曜美術館」の10月11日放送回で取り上げられたそうだが、翌週の再放送もふくめて見逃した。特別展の開催を知ったのは、10月22日付け読売新聞の文化欄に載った木下直之東京大学教授の寄稿記事によってである(ひもで縛ってゴミに出してしまっていたので日付が不明だったが、図書館で調べて判明)。鉛筆画の「自画像 六面相」と亡くなる前日の母親を描いた「老母図」が掲載されていた。
 まず画が目に入り、「昭和初期ぐらいの画家かな」と思ったら、幕末(1856年)に生まれ、日本で「洋画」を描いた最初期の人物だという。先の画は、それぞれ明治6年と8年の作。絵師・五姓田芳柳を父に持ち、慶応元年、10歳でイギリスから新聞の特派員として来日していたチャールズ・ワーグマンに入門、西洋の絵画技法を学び、25歳でフランスに渡り、作品はサロンで入選を果たした。
 同館のサイトで特別展関連の画像を見る。これはもっと見たいと思い、22日の夜に神奈川県立歴史博物館のサイトからミュージアムショップ宛メールで図録の入手方法を問い合わせた。翌23日に、払込口座番号と図録代1800円と送料460円を郵便局から払い込むこと、発送が11月初めになる旨の返信メールが届く。
 同時にアマゾンで、今回の特別展にあわせて一般書籍として出版された同館の角田拓朗学芸員の著書『絵師五姓田芳柳 義松親子の夢追い物語』(三好企画)を購入。
 予告どおり、11月初めに、図録が到着。同館サイトの記事に、「おかげさまで、初刷は10月29日(木)をもって、増刷分は11月7日(土)をもって完売し販売を終了いたしました」とある。危ない、危ない。
 図録は288ページ、掲載図版636点はすべてカラー印刷。
 11月第2週は、3晩ほどにわけて図録の掲載図版を眺めて楽しませてもらった。掲載図版の多くを占める鉛筆デッサンがとりわけよい(師のワーグマンや弟子の作品もかなり混ざっているそうだが)。
 タッチが確立する前、手癖で描くようになる前の、着物の皺をどう描くか書きあぐねているような画や、1枚の紙に頬づえをついた自画像と横向きの女性像と風景画が混在しているものなど、学生時代に図工や美術の授業以外で絵を描いた、つまり好きで絵を描いた経験のある人間なら気に入るのではないだろうか。
 うまさという点では、義松より生まれが1年遅い浅井忠の鉛筆デッサンの方が上だと思うのだが、浅井のそれは、後に工芸デザイン図案も手がけた達者さがあって構図と線が洗練されている分、対象の生々しさは若き義松の方が勝る。
 漫画でいえば、能條純一(『哭きの竜』)よりも、南勝久(『なにわ友あれ』『ザ・ファブル』)の方が断然好きだからということになるが、よけいわかりにくいか。
 義松のそれは、初期作品ゆえの輝きかもしれないのだが、図録で油彩画「老母図」の前ページに掲載されている鉛筆画「病母」2点も、明治8年の日本で描かれたことがやはり信じられない。1歳下の妹・勇(読みは「ゆう」。のちに義松の弟子・渡辺文三郎と結婚し、渡辺幽香と名のる)を描いた何枚もの画は、その多くが彼女自身も膝に画帳を置いて鉛筆を手に一点を見つめる姿であるため、晩年に「結婚などしないで画家として頑張って生きたかった」と回想したというその人となりをよく伝えている。
 義松の一生は、先の『夢追い物語』にくわしい。パリ留学から帰国後、日本では洋画が冷遇されるようになり、明治25年に父の芳柳が死去して工房は解体、失意の後半生が始まる。
 図録巻末の年譜から拾うと、「明治28年・1895・40歳/5月13日、妻菊、義彦〔2年前に生れた長男〕を連れて家出、3日間帰らず。翌月7日には義彦を置いて妻菊が家出/11月、戸籍訂正願を神奈川県に提出」。酒で生活が乱れたとする証言もあるそうで、それが原因だろうか。
 50歳代は、黒田清輝に旧作の購入の仲介を依頼するなどして糊口をしのぎ、60歳で没。
 そして、義松は長く忘れられた存在となる。
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 ネット上にある企画展を鑑賞してきた人によるブログの文章と同様、「私もその名を知らなかった」と書くところなのだが、「待てよ」と思い直し、別の部屋に移動して本棚から「あれ」を探す。
 滋賀県立近代美術館でやった「山岡コレクション」のあれ、高橋由一の「鮭図」が表紙のあれ……。あった。『日本近代洋画への道 山岡コレクションを中心に』。ぺらぺらぺら。
 載ってる。五姓田義松の作品としてカラー図版で、どこかの霊場の参詣道らしき路上に立ち何か唱えている(口を開けている)山伏姿の少年を描いた「少年法界坊」、そして、イスに座って針と糸で人形の服を縫う老婆と傍らで人形を抱きながらその仕事ぶりを見つめる孫娘の姿を描いた「人形の着物」(明治16年に日本人として初めてパリのサロンで入選を果たした油彩画)の2点が、モノクロ図版で「富嶽図」「七里ヶ浜」「塩原風景」「駿河湾風景」の4点が掲載されている。
 見たことはあったが、覚えていなかったのである。失礼。
 しかし、改めて見ても、カラー2作の前者は完成品ではなく習作のような印象、後者は細部も緻密に描き込まれ日本人の作品とは思えない仕上がりだが、油絵としては古臭さしか感じない。実際、渡仏・渡米を経た後の義松のデッサンは、なんだかもそもそした、かえって垢抜けないタッチに変化している。
 この図録は、滋賀県立近代美術館で2005年10月1日から11月13日に開催された展覧会用のものである。私はこの展覧会「にも」行っていない。展示期間から推測すれば、同年10月上旬に娘が生れたことが理由だろう。数年後、同館を訪れた際にミュージアムショップで図録を買ったわけだから許してほしい。
 同図録には、義松の妹・渡辺幽香もカラーとモノクロ1点ずつ、二世五姓田芳柳もカラーで3点、ワーグマンの鉛筆スケッチや水彩・油彩画はモノクロだが20点以上掲載されている。結構な数の義松とその関係者の作品をそろえている「山岡コレクション」とは何か? 産業用発動機メーカー・ヤンマーの創業者、山岡孫吉(1888~1962)が収集した江戸末期から昭和初期に至る日本の洋画コレクションである。
 山岡は滋賀県伊香郡東阿閉村(現、長浜市)に生まれた。山岡の伝記にも「寒村」と書かれるような湖北の小集落なわけだが、私の父方の祖母は同じ村の生まれだったりする。
 そのコレクションは、ごく稀に所蔵者をふせたまま美術館に貸し出されるだけだったため、美術館関係者の間で「幻のコレクション」と称されていたそうだが、2001年に笠間日動美術館に託されると、同年3月31日~5月20日に同館で初のまとまった公開となる「高橋由一から藤島武二まで 展 日本近代洋画への道 山岡コレクション」が開催された。その後は毎年、全国各地の公立美術館を巡回している(図録自体も笠間日動美術館の編集)。
 2002年に埼玉県立近代美術館で、「日本近代洋画への道 山岡コレクション」展
 2003年に岩手県立美術館
 2004年に徳島県立近代美術館、目黒区美術館
 そして、2005年に滋賀県立近代美術館
 滋賀県はかなり後回しだったのだな。孫吉生誕の地だし、日動美術館以外では最初ぐらいかと予想したが、甘かった。山岡コレクションが滋賀県立近代美術館に託されていた可能性というのも……ほぼなさそうなので、ここで打ち切り。
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 さて、明治11年(1878)、23歳の義松は、宮内省からの要請で明治天皇の約3ヶ月にわたる北陸東海巡幸に供奉して、各視察地で油彩の風景画を制作した。「明治十一年 北陸東海御巡幸図」として、宮内庁が所蔵している41点のうち、「江州石山観月堂臨御之図」と「三井寺眺望之図」の2点が滋賀県で描かれたものである。
 前者は、石山寺の月見亭(どんな建築物なのかは、弊社より発売中の畑裕子著『源氏物語の近江を歩く』のカバーをご覧ください)とそれが建つ高台から望む瀬田川を描き、月見亭の中には明治天皇の姿も見える。手前には緋毛氈(ひもうせん)をかけた長いすが3段2列に並んでいて、色彩も鮮やかで巡幸図中でもひときわ目立つ画である。そのためか、東京藝術大学にはそのまま模写した「明治帝御眺望図」が所蔵され、さらに手前に洋装の男性の人だかりも描かれた鉛筆画(その際のスケッチと考えられる)「天皇御巡幸図」も存在するとのこと。神奈川県立歴史博物館の特別展図録では、1ページにこの3点を並べて掲載している。
 後者は、西国十四番札所である三井寺(園城寺)観音堂が建つ境内から東方を向いて琵琶湖を望んだ風景で、右手に絵馬堂が描かれている。
 明治維新後の欧化政策への反動として、明治20年代前半からフェノロサと岡倉天心を中心に伝統的な日本画を振興しようとする運動=洋画排斥運動が起こる。義松はフランス留学から帰ってみると、国内の風潮は一変していた。いち早く洋画の道に進んだ五姓田一門に訪れた歴史の皮肉である。三井寺境内最北にある子院、法明院奥の山麓に「日本美術の恩人」と称えられるフェノロサの墓が完成したのは明治42年(1909)、ロンドンでの客死の翌年のこと。
 この年の義松(54歳)の行動を、図録巻末の年譜から拾うと、「10月以後、黒田清輝に対して頻繁に書簡をやり、旧作の購入を促す/11月15日、パリ時代の油彩画習作ほかを総額129円で東京美術学校へ売却」とある。

1件のコメント


  1. こんにちは、神奈川県立歴史博物館の千葉と申します。
    貴ブログにて当館展覧会を取り上げていただき感謝申し上げます。
    2017年、当館は前身の神奈川県立博物館の開館から50年目を迎えました。
    それを記念し、現在当館では当館にまつわる思い出を募集しアーカイブしていく企画を実施しています。
    もしよろしければ、こちらのブログの記事もアーカイブとして加えさせていただくことは出来ませんでしょうか。
    また、アーカイブでは、当館に思い出をお持ちの方々がいらっしゃる場所を地図上におおまかに示し、どのような場所に「当館の思い出」が広がっているのかを可視化することを試みる予定です。
    そのため投稿していただいた方がいらっしゃる場所の郵便番号を合わせてお知らせいただけると非常にありがたく存じます。
    突然の不躾なご相談で大変恐縮ではありますが、何とぞご検討下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。
    http://ch.kanagawa-museum.jp/gyoji/50anniversary.html

    コメント by 神奈川県博50周年記念プロジェクト 千葉 — 2017年3月26日 @ 11:05 PM

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