'
2009年 8月 26日

お市と三姉妹の生涯(4) 長政の男子

長浜城歴史博物館 太田浩司
 
『寛政重修諸家譜』巻第740の「藤原氏浅井系図」によれば、浅井長政とお市の間には、三姉妹の他に万福丸という長男と、万寿丸という次男がいたことになっている。
 万寿丸については、万菊丸とする本も多いが、同系図によれば名を長秀といい、正芸(伝法院)と名乗って坂田郡長沢村(米原市長沢)の福田寺住職になったと記している。
 長男の万福丸については、『信長公記』に記述があり、小谷落城時に10歳とあるので、永禄7年(1564)の生まれとなる。したがって、お市の婚期を永禄10年~11年との通説を取れば、この長男はお市以外の女性と、長政との間に生まれた子と考える必要が生じてくる。
 『信長公記』はこの長男について、小谷落城後捕らえられ、関ヶ原で磔に処せられたと記す。江戸初期に成立した『当代記』には、盲人となり加賀国に忍んでいたが、お市らを頼って出てきたところを捕らえられ、木之本で信長の命により殺害されたと記している。
 他方、寛政3年(1791)成立の『翁草』では、敦賀に潜んでいたが探し出され、木之本で串刺になったと記す。諸説紛々たるものがあるが、やはり信長家臣として、実際に事件を見聞きした、太田牛一の著『信長公記』の記述を信じるべきであろう。
 次男については、『信長公記』には記載がない。『浅井三代記』は『寛政重修諸家譜』と同じく福田寺に逃れたとある。『翁草』では福田寺の弟子となり、慶安と名乗ったと記されている。
 一方、龍谷大学図書館本願寺資料研究室蔵『福田寺系図』『布施山温古記』にも、この次男についての記述がある。そこでは名を万菊丸とし、福田寺十一世覚芸の養子となり、十二世正芸(伝法院)となったと記され、先の『寛政重修諸家譜』の記述と一致する。元和2年(1616)10月1日の没とある。『布施山温古記』には、最初信長側に察知されることを恐れ、浅井郡菅浦(西浅井町菅浦)の福田寺の末寺・安相寺に匿われたという。
 この縁により、福田寺は安相寺にサシ鯖5尾と苧(麻)などを毎年7月に送っていた。逆に安相寺から福田寺へ、7月に春梅干一包を送る慣行があったと記されている。。(滋賀夕刊2009/7/29)
 
※太田浩司先生と滋賀夕刊新聞社のご好意により、当ブログで再録連載中。
 第5回「豊後と若狭の子孫」は近日アップ予定です。お楽しみに!(Y)
 
■長浜城歴史博物館
 http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku/
■滋賀夕刊新聞社
 http://www.shigayukan.com/

コメントはまだありません

コメントはまだありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード。

最近の記事

カテゴリー

ページの上部へ