新撰 淡海木間攫

新撰淡海木間攫 其の七十八 金剛輪寺 漆塗太鼓形酒筒

 愛荘町立歴史文化博物館 三井義勝
金剛輪寺 漆塗太鼓形酒筒

 天台の名刹として著名な金剛輪寺に伝わる「豆の木太鼓」。見た目は太鼓そのものですが、鼓面に皮ではなく朱漆で剣形左三ツ巴文が描かれた檜の板材を張るのが特徴です。寺には太鼓とともに、それにまつわる説話が伝えられています。
 昔、寺の小僧のひとりが庫裏を掃除していると、床下に一升ほどのそら豆が入った箱を発見しました。お腹をすかせた小僧たちは和尚の留守を幸いに、そら豆を全部食べてしまいました。
 時は過ぎ、秋を迎える頃、和尚はそら豆を蒔こうと床下に保管していた箱の中を覗いたところ、中身が空であることに驚きました。和尚は小僧たちを問い詰めると、小僧たちはすべて食べたことを白状しました。反省した小僧たちは、そら豆が残っていないか床下をくまなく探したところ、一粒だけ見つけることができました。
 小僧たちは、その一粒を畑に蒔き、大きく育つよう観音さまに一心に祈りました。やがて芽を出した豆は大木に成長し、たくさんのそら豆がなり、ご利益となって現れた豆の木で太鼓の胴が造られました。
 金剛輪寺の「豆の木太鼓」は打楽器ではなく、太鼓形の酒樽(漆塗太鼓形酒筒、室町時代)です。前出の説話とは異なり、木理の美しい胴は欅材で、胴頂には円い孔が穿たれています。また、孔の周囲には注口を取り付けた際に接着剤として使用された漆あるいは膠が、付近には栓を固定するための座金具の痕も確認できます。中世の絵巻物では、酒宴の席や陣営などの場面で同様の太鼓樽が酒肴や酩酊する人々とともに描かれていますが、おそらく金剛輪寺の太鼓樽も宴席などで使用されたものと考えられます。
 太鼓樽と同時代で金剛輪寺本堂の「下倉」で管理されていた算用状「金剛輪寺下倉米銭下用帳」(滋賀県指定有形文化財)に「七百文 京極殿様千手寺御陣時御礼樽酒代」という記述があります。金剛輪寺は出陣あるいは帰陣の際の見舞品として、酒で満たされた太鼓樽を京極殿(京極政経、1453–没年不詳)に贈ったのでしょうか。

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