新撰 淡海木間攫

新撰淡海木間攫 其の七十七 大津市指定文化財 和田家文書 九月二日付明智光秀書状

 大津市歴史博物館 副館長 和田光生
大津市指定文化財 和田家文書 九月二日付明智光秀書状
 元亀2年(1571)9月2日付で明智光秀が雄琴の土豪和田秀純に宛てた書状は、比叡山焼き討ちの10日前、宇佐山城にいた光秀の動向を伝える史料として注目されてきました。内容は、和田と仰木の土豪八木氏が織田方に味方すると伝えたことへの礼状です。和田の書状とともに八木氏が宇佐山城に行って直接伝え、光秀はその決断を「感涙を流し」と表現しています。おそらく前年の志賀の陣で、和田・八木氏は浅井長政方に与していたようで、今回、織田方になると伝えたことから、このような言葉となったのでしょう。また、「堅田よりの加勢の衆、両人衆親類衆たるべく候か」とあるのは、前年の志賀の陣で織田方として活躍した堅田の土豪、猪飼野・居初・馬場を指すのでしょう。猪飼野の系図によれば、和田とは姻戚関係にあったようですし、居初氏についても、近世・近代には和田とつながりを持っていました。つまり前年は、堅田衆が織田方、和田・八木氏が浅井方に分かれていたわけですが、互いのつながりは続いており、その中で、光秀の働きかけ、また堅田衆の働きかけもあったと思われ、和田・八木氏は織田方につく決断をします。戦国の不安定な状況の中で、地域土豪が生き延びるためには、血縁を基盤としたネットワークが、頼るべき術の一つだったのでしょう。もちろん、この決断は、地域の命運をかけたものになります。
 光秀の書状には、「仰木のことはぜひともなで斬りにつかまつるべく候、やがて本意たるべく候」という物騒な言葉が見られます。これを比叡山焼き討ちを前提とした指示と考えると、横川山麓の仰木に逃げてくる者を皆殺しにするように、指示しているのではないでしょうか。織田に味方することは、人質を出し、比叡山焼き討ちに加担することを意味しており、それは殺戮をともなうものでした。こうして雄琴の土豪和田は、明智光秀に付き、行動を共にしますが、山崎の合戦には従軍しなかったようです。その後、和田は地元に帰農し、子孫は雄琴で暮らし続け、私は、その末裔ということになります。

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