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2009年 8月 27日

お市と三姉妹の生涯(5) 豊後と若狭の子孫

長浜城歴史博物館 太田浩司

 
 豊後国杵築藩士の浅井藤左衛門家(大分県真玉町庄屋区在住)は、浅井長政の次男の系譜をひくと言われている。享保2年(1717)に書かれ「浅井藤左衛門先祖之覚」によれば、長政の次男は福田寺に入るため小谷城を脱出するが、武士となり浅井覚右衛門直政と名乗ったという。
 慶安元年(1648)10月5日の没で、その長男・政重は細川家に仕え肥後国熊本藩士となったとする。次男・政勝は豊前国宇佐郡竜王城(大分県宇佐市安心院町所在)の城主であった能見松平家に仕え、藩主の転封により杵築藩主となったと記されている。
 なお、この浅井家には、「江州小谷城大広間跡土中より堀出し持参候炭二片 長浜徳勝寺蔵明記」と包紙に記された木炭が伝わっている。
 この豊後の例のように、浅井家の子孫を名乗る家は多いが、多くは江戸時代の系図や伝承を基にしており、その家伝について確証を得るのは非常に難しい。
 その中で、次に紹介する浅井作庵の事例は、三姉妹の次女である常高院が、京極家を継いだ忠高に宛てた遺言状に登場し、比較的信用がおける話である。
 この人物は浅井長政の子で喜八郎と言った。先の万福丸や万菊丸との関係は不明である。実名を井頼と名乗ったが、大坂の陣に参陣し、その時は浅井周防守政賢と名乗っていたようである。彼は秀吉の養子になっていた於次秀勝に仕え、秀勝没後は秀吉の弟・秀長に、秀長没後は増田長盛に仕えたが、関ヶ原合戦で浪人となり讃岐国丸亀藩主であった生駒親正のもとに身を寄せていたという。
 大坂の陣では豊臣方として戦ったが、戦後は姉の常高院の世話になり、若狭国小浜藩京極家に客分として迎えられ、500石を与えられたという。常高院は夫・高次の後を継いだ忠高(高次側室の子)に対して、作庵は何の用にもたたず迷惑な存在であろうが、今さら捨てることもできず、私への合力と思い、今までのごとく目をかけてくれるよう頼む、とその遺言状に書いている(後述)。
 ここまで、常高院が気をかけていた作庵は、やはり浅井一族であることは間違いないであろう。ただ、浅井氏の一族には、亮政の弟とみられる井演から出た井伴・井規と続く分家があり、作庵が一時井頼を実名としていたことが事実だとしたら、この系統の浅井氏であったと考えることもできる。この作庵の子孫は、京極氏が小浜・松江、それに丸亀と転封してもつき従い、讃岐丸亀藩士として残っている。(滋賀夕刊2009/7/30)
 
※太田浩司先生と滋賀夕刊新聞社のご好意により、当ブログで再録連載中。
 第6回「養源寺の住職となった浅井氏」は近日アップ予定です。お楽しみに!(Y)
 
■長浜城歴史博物館
 http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku/
■滋賀夕刊新聞社
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