近江旅支度
2010年 7月 30日

本陣と脇本陣

 慶長8年、小野から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣を務めていた寺村庄兵衛は、引き続いて明治維新まで鳥居本宿で本陣を務めました。寺村家は、佐々木氏の一族で蒲生郡寺村(現在の蒲生町)に所領があったことから寺村の姓を名乗るようになり、六角氏の配下の武士でしたが、六角氏の滅亡後に、寺村行隆・規行親子が小野に住まいし、ここで本陣を務めるようになったと当家の系図が伝えています。病身であることから武士を捨てて本陣を務めるようになった規行には2人の兄弟があり、ともに長浜城主であった山内一豊に仕えています。規行から数えて10代目の義貴の時に、本陣は廃止となりました。
 本陣は、大名や公家・幕府の役人などが宿泊や休息をとった施設で、利用頻度が多かった守山や草津には2軒の本陣がありましたが鳥居本には1軒の本陣が定められていました。鳥居本本陣は合計201帖もある広い屋敷でしたが、昭和12年にはヴォーリズの設計によって和風洋館に建て替えられました。この建物は、和風様式を取り入れたヴォーリズ独特の建築様式を持つ近代化遺産として高く評価されています。本陣の面影は、母屋横の倉庫の門として現存する本陣の門扉に残されています。
 寺村家から一軒おいた隣には脇本陣と問屋を務めた高橋家があります。屋敷は昭和45年に建て替えられていますが、道路沿いの塀にはかつての脇本陣の趣が残ります。脇本陣は高橋家の他に本陣の前にもう1軒ありましたが、早くになくなっています。
 高橋家の表は問屋場としての機能を持ち、街道輸送に必要な馬や人足を常備して、宿場間の物流をスムーズに行うシステムの中に決められた機能を果たしていました。中山道では各宿場に50人の人足と50匹の馬を常備するように決められ、脇本陣の間取り図からは、人足たちがいろりを囲んで暖をとったであろうと想像できる10坪の広い広間が入り口近くにありました。問屋の仕事はかなりの重職で、これを補佐する年寄や庄屋・横目などと呼ばれる人が補佐していました。
 寺村家の文政12年(1829)から天保12年(1841)までの大福帳によると、本陣宿泊客の状況は、13年間に161回3594人が宿泊しています。1年間の利用回数にばらつきがありますが、平均で年間利用回数12.4回、1回の平均利用者数22.3人であったことがわかります。また1回の利用者数の最多は80人で、最小は2人で、実際は50~60人がその収容限度でした。参勤交代の大名の供揃のように200~300人に達すると、全部を本陣に収容することはできず、多い時には156軒の下宿が必要になったようです。
 宿場町時代からの屋号はいまも生活の中にいきていますが、本陣や問屋を務めた寺村家、高橋家は「ホンジ」「トイヤ」と呼ばれ、宿場町ならの呼び名が今に伝わります。

 
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