講師:太田浩司(長浜城歴史博物館 館長補佐)

まず最初に18~24話のあらすじを簡単に振り返っておきます。

第18話「秀吉の謀反」

秀吉が、信長の命によって越前にいる柴田勝家の救援に行きます。しかし、秀吉は、勝家とわざと喧嘩して退陣し、信長の怒りをかいます。そこで、秀吉は、信長の怒りを散じるために、能を興じます。能楽師を呼んだという部分はフィクションです。

続いて信貴山城で信長に反旗をひるがえした松永弾正(久秀)のもとへ、一豊が説得に行きます。松永弾正から「信長軍が退陣したら平蜘蛛の茶碗を渡す」と 一豊は言われ、そのことを秀吉に伝えますが、秀吉は「松永の首か平蜘蛛の茶碗を持って帰ってこないようでは話にならん」と一豊をなじります。

その後、信長に攻められた弾正は、平蜘蛛の茶碗とともに爆死してしまいます。弾正は、確かに信貴山城で死にますが、爆死したというのはフィクションです。茶釜を割ったことは、史料にも残されています。

それから中国攻めに向かうシーンになります。その三木城攻めで、長年の軍師・竹中半兵衛に代わり、黒田官兵衛が活躍をするようになってきました。

第19話「天魔信長」

六平太という甲賀者が、信長を見限り、毛利側につけと一豊を説得しますが、一豊ははねつけます。一方、信長は安土城天主で、自分は神になると言い、濃姫はそんな傲慢な信長に愛想をつかします。

明智光秀の娘・玉(後のガラシャ)が細川に嫁ぐシーンもありました。光秀がガラシャに懐刀を渡そうとするのですが「そんなものはいらない」と、彼女はつき返します。

それから、秀吉と光秀による荒木村重の説得シーンがありました。荒木は古くから信長に仕えていた人物ですが、突然、有岡城で反旗を翻します。泣いてみせる秀吉にも、村重は応じる気配がなく、信長の中国攻めに危機が訪れます。

そこで今度は、黒田官兵衛が説得に向かいます。荒木宗重と官兵衛はとても親しいのですが、捕まって幽閉されてしまいます。信長は、官兵衛が寝返ったのではないかと疑い、人質になっていた官兵衛の息子・松寿丸(後の黒田長政)を殺すように命じます。

一方、竹中半兵衛が三木で亡くなります。実際に三木には彼の墓が残されています。ただ、最後に「千代さんのことが好きだった」と言っていましたが、実際には千代を知っていたかどうかも怪しいところです。

第20話「迷うが人」

長浜の一豊屋敷で松寿丸が一豊の娘・与祢姫と遊ぶ姿が出てきます。松寿丸が人質として長浜にいたことは事実ですが、一豊の屋敷にいたというのはフィクションです。

その後、松寿丸の殺害を命じられた一豊は、千代の才覚によって一芝居打ちます。もちろんこれも創作です。ついに有岡城が落城し、黒田官兵衛が救出されます。

次に三木城の開城シーンでは、「小りん」が出てきました(もちろん彼女は架空の人物です)。ただ、三木城の干殺しについては真実で、鳥取城攻めと同様、人肉を食べたという史料も残っています。

その後、林通勝と佐久間信盛が、信長の御前会議で突然追放されました。佐久間の追放というのは有名な話で、『信長公記』には、「佐久間の何が悪いのか」ということが長々と書かれ、ドラマよりもひどい悪口もあります。

第21話「開運の馬」

馬市で博労がいくらかと問い、一豊が10両と答えます。一豊自らが値を決めるシーンは、司馬遼太郎の原作にもあります。  この馬の話の途中で、信長に不安を感じる濃姫が出てきます。濃姫と信長、千代と一豊という2組の夫婦がからむ展開にしたのは、ドラマとしては巧みでし た。

ただ、安土城下に一豊の屋敷があるような設定になっていたのは、やりすぎです。信長の陪臣(ばいしん)である1000石前後の家臣が、安土に屋敷をもつなどありえません。

千代が黄金10枚を差し出す話には、2つのパターンがあります。素直に喜び馬を買いに行く場合と、これまで黙っていたことを一度怒ってから買いに行く場合。今回のドラマは、後者のパターンでした。

その様子を濃姫が立ち聞きして心の迷いが晴れます。城へ帰った濃姫が馬の話を信長に伝えられたのでしょう。千代と一豊は、安土城に呼ばれ信長からほめられます。

さて、この安土城で信長が馬に乗って登場するシーン。どうやら茨城県にある歴史公園ワープステーション江戸で撮影されたようで、安土は平山城ですから岡のようになっていなければならないのに、まったく平城のような所で駆けていました。残念です。

第22話「光秀転落」

高松城攻めで、一豊が戦っている姿を、秀吉や官兵衛らが見ている場面がありました。一豊が敵将の槍を素手で取ったという有名な逸話をおりこんだものです。

次に、国王として君臨しようとする信長と、朝廷がつぶされることに危機感をもつ光秀の対比が描かれます。さらに饗応の際に出た肴(さかな)が腐っているといって、信長が光秀を罵倒する場面がありました。

その後、光秀は愛宕山へ登る途中、六平太と出合い、信長への挙兵をそそのかされます。そして、「時は今天が下(した)しる五月哉(さつきかな)」という有名な句がでてきます。本当は連歌の会で歌う句なので、あんな道端で歌ってもらっては困るのですが。そして、六平太が光秀の挙兵を千代に知らせます。

第24話「本能寺」

千代は、長浜から逃げる必要があることを、おね(ドラマでは寧々)に伝え、秀吉の妹・旭の夫である副田甚兵衛が役に立たないため、二人で逃げる方法を考えます。

そして、いよいよ本能寺の変へと場面が変わります。信長は、明智の来襲を知ると薙刀か槍で抵抗するパターンが多いのですが、今回のドラマでは、刑事ドラマ 「西部警察」を思わせる派手な銃撃戦がありました。濃姫が鉄砲で撃たれて死ぬ場面まであり、現代的な演出がなされていたといえます。完全にフィクションで す。

おねや千代は、伊吹の山寺に逃げて身を隠します。このことについても、長浜の伝承との相違があります。

それから、一豊が毛利の使者を捕まえます。備中高松城攻めの陣中へ毛利の使者が明智の謀反を知らせにいく途中で秀吉軍に捕まり、秀吉が誰よりも早く明智 の乱を知ったというのは有名な話ですが、ドラマでは、この使者を見つけたのが一豊と五藤吉兵衛だということになっていました。

それから、信長が討たれたことを知って狂喜乱舞する足利義昭が出てきました。

第24話「蝶の夢」

タイトルにある蝶というのは、帰蝶(きちょう・濃姫の別名)を示唆しているのでしょう。山崎の合戦で敗れた光秀は、野武士に襲われ、伏見で亡くなります。光秀の最期を看取ったのも一豊でした。フィクションです。

一方、丹後国宮津城の細川家に嫁いだ玉(ガラシャ)は、父のために家臣らに殺されそうになりますが、夫の忠興の配慮で丹後の山中に幽閉されることになります。

信長の跡継ぎを決めるための清洲会議が開かれます。実際には宿老4人のみで行われたはずなのですが、ドラマでは大人数でやっていました。そして、信長の 三男・信孝を推す勝家に対して、秀吉は信長の孫・三法師を推し、強引に決着をつけさせます。ドラマではここに千代が登場し、三法師の機嫌をとって、うまく 秀吉になつかせたという設定になっていました。

この後、秀吉は、長浜の城番に一豊を命じます。一豊も千代も城に入れると大喜びだったのですが、その喜びもつかの間、秀吉が一豊宅を訪れ、柴田勝家が長 浜城を欲しがっているから、今回は遠慮してくれと謝ります。柴田勝家が清洲会議で湖北の領地と長浜城を欲しがり、それらを得たことは事実ですが、それ以前 に一豊が長浜城をもらい損ねたというのは、まったくのフィクションです。

信長に攻められた松永久秀は、茶釜とともに爆死したのか。

ドラマでは、松永久秀は爆死していましたが、実際はどうだったのでしょう。

江戸中期に出版された、茶人の逸話集『茶窓間話』には、松永久秀は「天守に上り、『平蜘蛛(ひらぐも)』 という秘蔵の茶釜を打ち砕き、城に火を付けて自刃した」と記されています。また、信長がこの茶釜を所望して止まなかったとし、「平蜘蛛の茶釜」というの は、湯が煮たぎるとクモがはい回るように見える茶釜だと説明しています。久秀は「信長にやるくらいなら、冥土へ土産として持って行こう」と、打ち砕いて死 んでしまったというのです。

信長と秀吉の時代には、名物茶器が政治的調度品として使われるようになりました。要するに、「久秀の首か平蜘蛛か」というくらい、茶器が珍重されたのです。

松永久秀も信長に茶器を献上したことがあり、これは信長に服属したということを意味します。本願寺が一度信長に服属したさいにも、その印として白天目(しろてんもく)の茶碗を信長に贈っています。また、献上されたものとは別に、力ずくで信長が手に入れた名物茶器も20点余りにのぼります。

それら茶器を用いて茶会が催されます。松居友閑という信長の家臣が安土で茶会をしたときには、「これは甲賀から信長様が没収したものです」と自慢げに茶器を紹介しています。茶会は、政治的力を見せつけるための場でもあったわけです。

さらに信長は、集めた品を、羽柴秀吉や明智光秀などの家臣に与えました。これは、家臣団の強固な結束を促す効果もありました。ただし、もらった茶器でも 勝手に茶会で使うことはできず、信長の許可が必要でした。秀吉や光秀など、限られた人物のみが下賜されたものを茶会で用いることが許され、これを「許し茶 湯」といいます。

山内一豊は黒田官兵衛の子を長浜で預かったのか?

『黒田家譜』という史料があります。これは、荒木村重(むらしげ)に幽閉された黒田官兵衛とその息子・松寿丸(後の黒田長政)の基本史料で、福岡藩主・黒田家の家譜です。ここには次のように書かれています。

官兵衛の父・黒田職隆は家臣から「息子・官兵衛をとって、信長と敵対するのか、それとも、官兵衛の息子・松寿丸をとって村重と対立するのか」という選択 を迫られると、「官兵衛を捨ていよいよ信長公にしたがふべし」、さらに「(官兵衛が死んだら)不慮の天災とおもふべし」と言っています。これに対し一同も 「そうだそうだ」と納得したと書いています。

それから、最後に「松寿殿長浜におハすれば、別心なく奉公をつとめ」とあり、松寿丸が秀吉に預 けられ、長浜にいたことは間違いありません。しかし、その後の展開が、史実はドラマと異なります。ドラマでは、信長が松寿丸を殺せと秀吉に命じ、秀吉が一 豊に命じる形になっていましたが、実際に命じられたのは、秀吉と一豊ではなく、竹中半兵衛なのです。

この命に対し、『黒田家譜』はこう続けています。

 半兵衛は智慮深き人なりしが、信長公を諫(いさ)めていはく、官兵衛事既に見方に属し、忠義の志不浅候。其上才知ある者にて候間、強き見方を捨、よハき敵に與し申すべきいはれなし。(中略)ひそかに松寿を我が領地美濃国不破郡岩手の奥菩提といふ居城に遣しかくし置て、最懇(いとねんごろ)にもてなしける。

竹中半兵衛は、「官兵衛は裏切るような者ではない」と、信長に力説したのですが、信長は聞く耳を持たなかったので、松寿丸を長浜から美濃の菩提山城にか くまったというのです。命を救われた側の『黒田家譜』に書かれていますので、かなり信憑性があるといえます。立場が逆なら疑ってかかるべきですが、まず間 違いないでしょう。

この『黒田家譜』には、後に黒田長政が、竹中半兵衛の息子・重門(秀吉の一代記『豊鑑(とよかがみ)』を書いた有名な人です)に、「昔、世話になったから、ぜひ、あなたの息子を家臣にしたい」と言い、実際に家臣にしたということが書かれています。もし、竹中半兵衛が主役のドラマであったなら、間違いなく取り上げられた逸話でしょう。

信長による林通勝と佐久間信盛の追放は事実か?

林通勝と佐久間信盛の追放も、非常に有名な話です。特に佐久間は、尾張時代からの古い家臣でしたが、大坂退城が完了するや、信長より信盛と息子の信栄(のぶひで)に譴責(けんせき)状が発せられ、高野山に追放されます。

この追放時に出された譴責状とは、信長が信盛とその息子の悪口を書いたもので、全文が『信長公記』に引用されています。全文引用というのは、よほど信長が 怒っていたのか、著者の太田牛一も彼らが嫌いだったのか、『信長公記』の中でも稀なことです。  以下、その概略を紹介しますと、「5年間、佐久間信盛は、本願寺を攻めていたにもかかわらず何の功績もないではないか。なぜ、働きがないかとを推量する と、本願寺は強いと思い、調儀・調略もしないで、自分の居城だけを守り、のほほんと暮らしておったのではないか。本願寺は坊主だから、信長の威光により何 もしないでもどこかへ行ってしまうとでも思っていたのか」。

また、こんな内容も見られます。「丹波国の日向守(ひゅうがのかみ)が 働き、天下の面目をほどこし候。次に羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし」(お前にくらべて、明智光秀は丹波でかんばっているではないか。秀吉は摂津、播磨で頑 張っているではないか)。そして、「それを見てお前は何も思わないのか、けち臭い自分の蓄えばかりをしているからだ」。あげくには「信長に仕えて30年、 これといった働きが一つのない」と書かれています。

信長の人柄が出ている文書というのは少ないのですが、ここにはそれがよく現れています。信長は、積極的な策にでない家臣は容赦なく切り捨てました。少々難しいですが面白い歴史資料です。機会があれば、ぜひ読まれてはいかがでしょうか。

濃姫はいつまで信長の正室であったのか?

濃姫という人については謎だらけで、よくわかっていません。濃姫と名乗っていたかどうかすらわかっていないのです。江戸時代の『美濃国雑話記』には、 「帰蝶」と記され、「濃姫」という記述は見あたりません。単に美濃国からきたから、濃姫と言われるようになったのかもしれません。

『信長公記』には、信長に嫁いだことのみが記されています。

 織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り結び、道三が息女尾州へ呼び取り候ひき。然る間、何方も静謐(せいひつ)なり。

   この斎藤道三の息女というのが、濃姫のことだ言われています。濃姫が織田信長に嫁ぎ、この同盟によって、美濃と尾張が平和になったというわけです。年号が 入っておらず、いつのことかも不明です。『信長公記』に記述があるのはこれだけで、いつ亡くなったのかもわかりません。

小和田哲男氏は、弘治2年(1556)、濃姫の父道三が濃姫の兄・義龍(よしたつ)と 長良川で戦い、道三が義龍に殺されてしまった段階で、濃姫の役目はなくなり、美濃に返されたのではないかと述べています。このことを裏付けているのが公 家・山科言継(ときつぐ)の日記『言継卿記』で、そこには、信長が義龍の未亡人に対して、「名品の壷をよこせ」と命じたときのエピソードが記されていま す。義龍の未亡人は、信長に「これ以上詮議されるなら、信長本妻兄弟女子16人が自害しますよ」と言って、断ったというのです。ここで書かれている「信長 本妻」を「濃姫」と解釈するなら、この時点で濃姫は美濃にいた、つまり長野川の合戦後は離縁されていたということになります。

しかし、総見寺所蔵の『泰巌相公縁会名簿』には、信長の御台(みだい。妻)が慶長17年(1612)に亡くなったと記されています。これについて小和田 氏は、濃姫ではなく、側室の話ではないかと述べておりますが、これ以上のことはわかっていません。わかっているのは、信長が道三の娘と結婚したということ のみといえます。

言い換えれば、そのような人物だからこそ、生き方も死に方もどのようにでも描けるわけで、一豊夫婦と信長夫婦を対比させながら描いた大河ドラマは、非常 に面白いストーリー展開だと思っております。ただ、もし本能寺で死んだのであれば『信長公記』に記述があるはずと思いますが…。

開運の馬は土佐では何と呼ばれているか?

illust1.gif 今年、土佐(高知県)に行きますと、いたるところに幟(のぼり)が立っており、そこに「土佐二十四万石博」のキャラクターが描かれています。幟だけでなく、割り箸や歯ブラシの袋にまで描かれている、そのキャラクターは千代と一豊に加えてもう一人、いえもう1頭、馬もいます。この馬には名前があり、「おおたぐろくん」といいます。

この名前の出典は、いったい何なのでしょう。戦前の教科書にもドラマにも出てこなかった名前です。司馬遼太郎の小説では「唐獅子(からじし)」と名づけられています。馬市の立った木之本町には、一豊が馬を買ったという伝承はありますが、とくに名前は伝わっていないようです。

調べてみたところ、どうやら出典は『皆山集』という明治時代にできた土佐国の逸話集のようです。その中に、馬に乗った一豊と千代の挿絵があり、「名馬大 田黒と一豊夫妻の図」と書かれています。ただし、本文中にこの名前は一度も出てこず、根拠となるのは、この挿絵の紹介文のみです。

一豊が敵将の槍を素手で握ったのは事実か?

  山内家に伝わる『御家伝記』の中に次のような一文があります。

 一同十年壬午、秀吉公中国へ御出陣の時、一豊公も御出陣なり。此時敵と鑓を合せ給ひ、即突留高名仕給ぬ。

ここには「一豊が敵将と戦い功名を得た」とのみ記されており、これが何の戦いであったのかは残されてはいません。しかし、最初にある「同十年」というのは、天正10年(1582)のことですから、高松城水攻めのことだと推測することができます。

ところが別の史料では、「備前国野間の戦で」と書かれています。野間は岡山県赤磐市にある地名で、この史料によると、一豊が敵将の槍を折ったのは天正5年(1577)だと記されています。

このように、一豊が敵将の槍を素手で握った戦いについては、史料により記述が異なるため判然としていませんが、ドラマでは天正10年の高松城攻めでの出来事と解釈して脚本化しているようです。

さて、先ほど紹介しました『御家伝記』の文書は次のように続きます。

 敵の姓名を不知、此時互ニ鑓を合せらる。敵の鑓一豊公裏冑と左の耳にあたる。白刃を握り引給ふ。目釘捻折捨給ひ、即時に敵を打留メらる。家臣五藤為浄彼鑓を取御帰陣の後捧之、則持鑓となさる。今の鳥毛の御持鑓是也。銘ニ来源國俊、梵字并三王大師の文字あり

「目釘(めくぎ)」というのは、刃と柄を留めている釘です。要するに、敵将の槍が顔をかすったため一豊は手で槍をねじり折り、敵将を討ち取った。そして、その槍を家臣の五藤為浄が大切に持ち帰り、鳥毛の槍だと言っているということが書かれています。

鳥毛というのは、黒い鳥の羽で作られた槍先のことです。鳥の羽で作られた「槍のカバー」のようなものを想像してもらえばよいでしょう。この黒大鳥毛は、 その後、山内家の大名行列の先頭になっていたといわれており、非常に由緒あるものです。現在も残されているのは「槍のカバー」だけであると言われてきたの ですが、最近槍も見つかりました。「黒大鳥毛」と見つかった槍は、土佐山内家宝物資料館が所蔵しており、現在はNHKの巡回展の高知会場で出展されていま す。

なぜドラマでは、実際に一豊が槍をへし折るシーン自体は映されなかったのでしょう。やはり素手で槍を握る表現が難しかったのでしょうか。いずれにしろ、一豊が敵将の槍を素手で握ったという話は、根拠がある話だということです。

なぜ明智光秀は織田信長に謀反したのか?

第22話「光秀転落」の中で、信長と光秀の朝廷に対する考え方の違いが描かれている場面がありました。この時に、光秀は朝廷を亡きものにしようとする信 長に不信感をいだき、後に国家に対する危機感から単独犯行で信長の殺害に及ぶということが示唆されています。この展開は、新説ではなく、昔からよくいわれ ている内容を脚本化したものだといえるでしょう。

さて、なぜ信長に謀反したのか…、わかりません。わかるための史料がないのですから。しかし同時に、多くの説が存在しているのも事実です。日本史上、重要かつ興味のあるこの問題が、最近の研究はどのようになっているのかについてお話します。

安土城考古博物館発行の図録『是非に及ばず―本能寺の変を考える―』を参考に話を進めたいと思います。「是非に及ばず」というのは、信長が光秀の本能寺の 変を知った時に発したといわれている言葉です。たしかドラマの中では「是非もない」と言っていたと記憶しています。この図録は、現在の学会の水準が非常に コンパクトにまとめられてあり、よく理解していただけることと思います。

徳川家康を饗応している場で信長から罵倒されたことや、信長が安土にいる波多野氏側の人質を殺してしまったために、丹波の波多野氏に人質に行っていた母 親が殺されたこと。これら、さまざまな恨みが高まって反抗に及んだというのが、昔から歌舞伎や舞台で使われてきた筋書きですが、みなすべて後から作られた お話です。最も古い『川角太閤記』ですら、本能寺の変から40年後に発刊されています。

歴史学は、これまで本能寺の変についてまじめに考えてきませんでしたが、これは歴史学の怠慢だと言うこともできます。要するに、歴史学は合戦史について 真剣に取り組んでこなかったのです。以前に取り上げた桶狭間の戦いなども同様です。そのことは、本能寺の変を学術的に扱った論文が、つい最近までなかった ということからもわかります。最近これではいけないということで、少しずつ論文が出るようになりました。主なものとして三つの説をご紹介します。

まず「三職(さんしき)推 任問題」。三職推任とは、天正10年、朝廷が信長に対して太政大臣か関白か征夷大将軍かのいずれかの職になるよう勧めたことをいいます。当時の公家の古文 書をもとに、これは信長が朝廷に圧力をかけて言わせたために、圧力をかけられた朝廷がそのことを屈辱に感じ、信長を亡き者にしようとしたとする説です。天 皇を中心とするお公家さんが共同で謀議を図り、実行犯を光秀に仕立て上げ信長を殺害したのだというわけです。しかし、この論証には異論が多く出ています。

   次に、「足利勢力と反信長ネットワーク」から説くものです。この説では、本能寺の変の首謀者は、将軍・足利義昭だとされます。義昭の背後には広範な打倒信 長ネットワークがあり、その中の一人である光秀が実行犯として手を下したとしています。しかし、真相を直接的に示す史料があるわけではなく、これも学会で の定説になっているわけではありません。

三つ目が「四国政策をめぐる秀吉と光秀の対立」で、学会でも最近注目されている研究です。これは、光秀が信長を殺した理由は、四国政策をめぐる対立によるものであったとする考え方です。

信長は、四国の制圧を考えており、最初、長宗我部(ちょうそかべ)を重用して四国を切り取らせようと、その窓口に光秀を任じていました。しかし、信長は天正9(1581)年の6月に方針転換し、長宗我部ではなく、讃岐の三好(みよし)を 自分の配下にして、四国を制圧しようとします。当時、三好の養子になっていたのが、秀吉の甥・秀次でした。秀次は最初は宮部継潤の養子になっていました が、その後は三好康長の養子になっています。となると、三好の取り次ぎ役は秀吉ということになり、光秀の立場は危うくなります。追い込まれた光秀は、好機 を逃さずに本能寺の変で一気に信長を叩いてしまった。

こうした政権内での対立がきっかけとなり本能寺の変が起こったのではないかというのがこの説で す。個人的恨みであるとか、朝廷や足利義昭がどうのというのではなく、政権内での光秀の失脚が信長への殺害に至ったというこの説を私も支持しています。お 話としては、従来の筋書きの方が面白いのかもしれませんが、冷静に考えるとこういった説のほうが正しいのではないでしょうか。

ついでにもう少し。ドラマでは信長が鉄砲を乱射する場面がありましたが、これはもちろんフィクションです。『信長公記』という、太田牛一によって書かれ た最も信頼できる信長に関する記録には「信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、其の後、御槍にて御 戦ひなされ」とあり、その後、御殿に火をかけ死んでしまったという内容に続きます。これが一番オーソドックスな信長の死にざまで、よくドラマや芝居でも描 かれています。今回の「功名が辻」台本にも同様に槍で戦うシーンが描かれていましたが、なぜか放送では鉄砲乱射という演出に変えられていました。

宣教師のルイス・フロイスが書いた『フロイス日本史』でも、「ちょうど手と顔を洗い終え、手拭で身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中 に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出て来た」とあり、その後「ただちに御殿に放火し、 生きながら焼死した」としています。

また、最近注目されている史料として、天理図書館が所蔵している「本城惣右衛門覚書」という文 書があります。本能寺の変に関することが書かれているのですが、全体的なことが書かれていないために、今まで重要視されていませんでした。しかし最近、個 人の目で捉えた本能寺の変として、注目されるようになったものです。

   本城惣右衛門というのは、明智光秀の重臣・斉藤利三の家来として本能寺の変に加わった人物で、この文書は彼が若い時の記憶を老後になってから記したもので す。面白いのは、この文書が体験記で、彼が見てきたことしか書いてないという点です。ここには「其ゆヘハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、ゆめともしり不 申候」「いゑやすさまとばかり存候。ほんのふ寺といふところもしり不申候」と書かれています。

つまり、惣右衛門は信長様に腹を召させよう(=切腹させよう)とするとは夢にも知らなかったし、討つ相手は家康とばかり思っていた。本能寺がどこにあるかも知らなかったと言っています。

出陣前に光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったかどうかはわかりませんが、末端の足軽クラスの兵には、何が起きようとしているのかまったく伝わっていなかったということを示しています。

秀吉家族の長浜からの逃避行の実状は?

 ドラマでは、明智の乱(本能寺の変)によって千代や秀吉の家族が伊吹の山寺に逃げたとされていましたが、本当はどうだったのでしょうか。

竹中半兵衛の息子・重門が記した『豊鑑』という秀吉伝記には「広瀬と云山の奥ににけ」という一文がありますように、湖北では一般に長浜城にいたおねや大 政所(おおまんどころ。秀吉生母)など秀吉の家族が逃げたのは広瀬(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町)としています。ドラマではお堂のような所に隠れていまし たが、『伊吹町史』は広瀬の広瀬兵庫という人の屋敷に逃げたと推定しています。

その逃避行のルートは、右の図のようなものと考えられています。その時の案内役が、当時長浜に屋敷を構えていた広瀬兵庫でした。長浜市室町には広瀬氏の屋敷跡が今も残されています。

この広瀬兵庫に宛てた秀吉の文書があります。天正10年6月19日、つまり6月2日の本能寺の変の直後に出されたもので、「合五百石可有知行也」「今度女 房共相越候處、抽馳走條、喜悦候」と書かれており、秀吉が兵庫に対し500石を宛(あてが)ったことがわかります。「女房共」とはおねや大政所のことを指 し、彼女らを逃がした功績によるものであったと思います。

もう一人、逃避行に非常に力を尽くしたのが長浜市尊勝寺町にある称名寺(しょうみょうじ)の 性慶だといわれています。秀吉の家臣が称名寺に宛てた7月1日付の文書が残っており、「今度筑前守足弱衆之儀、御馳走ニ付而、御帰住之事、可為如前之旨、 折紙被進之候」とあります。足弱衆(=女性や老人)を逃がしてくれたお礼に称名寺の寺領を元のとおり返しますと言っているわけです。

称名寺は、信長や秀吉に対して一向一揆を行っていた湖北十ヶ寺の一つなので寺領を没収されていたのですが、この功績で寺領を安堵(あんど)されたわけです。湖北の浄土真宗寺院の中で朱印地をもらっているのはこの寺だけで、その後も江戸時代を通じてずっと60石を持ち続けます。

 

大河ドラマ「功名が辻」を3倍楽しむ講座

毎月、前月放送分のドラマの中からいくつかのシーンを取り上げ、歴史的に解説・考証します。

[日時]9月2日(土)、10月7日(土)、11月12日(日)、12月16日(土)の午後1時30分~3時30分
[会場]長浜城歴史博物館研修室  [入館料・資料代]500円(友の会会員は無料)
[お問い合せ先]長浜城歴史博物館  TEL 0749-63-4611 FAX 0749-63-4613
E-mail rekihaku@city.nagahama.shiga.jp

●エピローグ
 前号(特集 大河ドラマ「功名が辻」舞台は近江)で好評につき、再び長浜城歴史 博物館の「3倍講座」をお届けします。小社刊の北近江一豊・千代博覧会公式ガイド ブック『北近江戦国物語』(500円)、長浜城歴史博物館編『一豊と秀吉が駆けた 時代』(1575円)も好評発売中。書店や博覧会会場でぜひ。(矢)

 イラストを描きました。仲間由紀恵さんが似ない。前回、斜めの角度だと頬が直線 だとわかったのに、今回は正面顔ばかり。似せやすいのは今回登場していませんが、 茶々(永作博美さん)。次回があるかわかりませんが、ご活躍を期待します。(キ)

ページ: 1 2

連載一覧

新撰 淡海木間攫

Duet 購読お申込み

ページの上部へ