●大河ドラマ「功名が辻」を3倍楽しむ講座●

 長浜城歴史博物館で毎月上旬に開かれている「大河ドラマ『功名が辻』を3倍楽しむ講座」(講師/太田浩司さん、主催/長浜城歴史博物館友の会)。史実かフィクションか、専門家によるドラマ解説として好評を博している講座の第2回(3月4日(土))の模様を一部ご紹介します。

 長浜城歴史博物館の太田です。今回は、第5話から8話までの内容についてお話しいたします。まず最初に5~8話のあらすじを簡単に振り返っておきます。

第5話「新妻の誓い」

 信長が岐阜城に入った段階で、一豊と千代が結婚します。当時山内家は非常に貧乏で、まな板が買えなかったため、千代は、枡を裏向けてまな板代わりに使うというシーンが出てきました。

 次に千代が端切れをつないだ着物を上手につくることが話題になっていました。

 それから、秀吉の家来として堀尾吉晴(通称は堀尾茂助)と中村一氏(かずうじ)が登場します。通常の秀吉のドラマでは出てこない人物で、初めて名前を聞いたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。この2人は、一豊が豊臣秀次の家臣団になった時の同僚で、こうして登場するのも、一豊のドラマならでは設定だと思います。詳しくは、講座の6回目か7回目で話すことになると思います。

 次は、信長の妹・お市の縁談のシーン。この辺から、だんだん近江が登場し出します。ドラマでは、信長が岐阜城に入った直後に、お市が、自らの意志で浅井長政のもとへ嫁ぐ設定になっています。

 さて、次にお市さんが山内家を訪問するという場面があります。千代さんが洗濯をしているといきなりお市さんがやってきて、「近江の話をせよ」ということになり、フナずしの話などで盛り上がります。その後、千代さんとお市さんが馬で大草原を駆ける場面があります。ロケ地は残念ながら近江ではなく、山梨県の八ヶ岳のあたり、小淵沢町(現北杜市)だそうです。

第6話「山内家旗揚げ」

 ここでは、明智光秀が信長に挨拶にやってきて、その後、足利義昭に拝謁するという場面がありました。信長の正室・濃と明智光秀がいとこだという設定になっています。明智光秀は謎の多い人物ですが、歴史学者の小和田哲男氏は、そのような説を主張されています。

 また、一豊の家来の祖父江新右衛門が、大勢の妻子を連れてくるシーンがありますが、彼があんな子だくさんだったかはもちろんわかりません。また、ドラマでは祖父江新右衛門としていますが、正しくは祖父江勘右衛門ということも付け加えておきます。

第7話「妻の覚悟」

 信長が小谷城を訪問する場面があります。これは、軍記ものなどでたまに描かれますが、本当のところはわかりません。また、その際に浅井氏の家臣が信長の暗殺を図る話も、よく紹介されますが、真実かどうかは怪しいかぎりです。

 オープニングのタイトルバックに、磯野員昌(かずまさ)、遠藤直経という名前が出てくるのはご存知でしょうか。2人は浅井家ではたいへん有名な重臣なのですが、ドラマの中ではどの人が磯野員昌でどの人が遠藤直経なのかよくわかりません。浅井久政の周りで悪巧みをしている重臣のどれかだと思われます。

第8話「命懸けの功名」

  最初、信長が大名に命じて、上洛するように促すシーンがあります。ようするに、この時、もし、朝倉氏が上洛しなかったら、討とうというものです。案の定、朝倉は上洛せず、朝倉を討つことになります。ドラマでは、一豊が徳川家康への使者になっていますが、実際のところ、一豊が使者になったという話は、家伝記である『一豊公紀』にも載っていませんし、山内家からも聞いたことがありません。この場面は、一豊を引き立たせるための演出といえます。

 次に、朝倉勢が退城するときの混乱の中で、一豊が、朝倉側の勇将・三段崎(みたざき)勘右衛門を倒すシーンがあります。左のまなじりから、右の奥歯にまで、矢が突き刺さるという有名な逸話です。ドラマ上では、かなり、あっさりすまされてしまいましたが、このことについては、後で詳しく述べようと思います。

千代の枡と一豊の母の枡の関係は?

 まず、第5話に登場した枡について。先日、NHKの番組「その時歴史が動いた」でも、一豊の内容が放送されていましたが、その時にも枡が話題になっていました。非常に貧乏であったため、千代が枡をひっくり返して、まな板代わりに使っていたという話です。そして、その傷跡が、枡の裏に残っているという内容でした。

 枡の話は、土佐に伝わっているのですが、ご存知のように近江では一豊の母・法秀院がやはり同じようにまな板代わりにしていたと言われています。それでは、この2つの枡の関係について話したいと思います。

 千代の枡は、高知の山内家宝物資料館が所蔵しているものです。見性院(千代)所縁の枡は、もともと山内家が保管しており、土佐入国後は、「本御蔵」、つまり藩主の大事なものを入れる蔵に収めていたというのです。その後、文化3年(1806)に藤並神社という神社が高知城の麓に作られました。この神社には、山内一豊と千代、そして2代藩主の忠義が祀られました。その際に、ご神体として千代が使ったという枡が収められたという記録が残っています。

往古於江州長浜見性院様、御手自御遣被遊候御枡、御入国以来本御蔵へ御収被仰付置候処、今般右御枡藤並明神御宮江安置被仰付ニ付、右写被仰付向来本御蔵江被納置者也 文化三年丙寅年十二月吉辰記之 棟梁勝次 大工与平造之

 ここには、お千代さんが使っていた枡を藤並神社に安置することになったので、文化3年に写しを作ったと記されています。つまり、現在、山内家宝物資料館に残っている枡は、藤並神社が建てられた際の写しです。なお、その藤並神社は、第二次世界大戦で空襲にあい焼けてしまったため、本物の枡は現存しません。

 さて、その山内家宝物資料館の枡は、今年6月には長浜城歴史博物館で公開する予定になっています。その時には、一豊の母・法秀院の枡と並べて展示しようと思っています。初の企画です。ぜひご来館いただいきたいと思います。

 土佐藩が江戸時代に作った地誌『南路志』には、枡の絵や記録が記されています。藤並神社のご神体として、一豊所持の相州広次作太刀、見性院の御米舛。それから2代藩主の忠義の御鎧・御冑・御刀と書いてあります。さらに「御舛之箱書附」という資料には、「御舛之箱書附 小倉勝助以遣付此御蔵ニ納ル」とあり、家臣の名前を連ねたあと、「慶安五年 従江州長濱之御舛と有 辰七月六日此箱納入」と書いてあります。この箱も空襲で枡とともに焼けてしまって現存しませんが、慶安5年(1652)、つまり江戸時代初期の段階で見性院(お千代さん)の枡があったことは、ほぼ確実といえます。おそらく藤並神社の神体をと考えた時に、お千代さんといえば、遺品がこの桝ぐらいしかなかったのではないでしょうか。

 一方、米原市宇賀野(うかの)の長野家にも、一豊の母・法秀院がまな板のかわりに裏返して使ったという枡が残っています。なお、『南路志』に載っている見性院(千代)の枡の図には「白米八合入」と書いてあります。八合枡というのは、京枡よりは若干小さいサイズの桝で、長野家の枡もこの八合枡です。

 長野家は、一豊の母・法秀院の面倒を見ていた家です。ドラマでは、法秀尼という名前で、尾張に住んでいる設定になっていますが、近江では米原市の宇賀野長野家に隠居し、死ぬまでそこにいたと言われています。長野家は法秀院のお墓も建て、現在まで守っています。

 その法秀院のお墓を山内家が正式に認知したのは、寛政2年(1790)のことです。土佐藩の藩士・馬詰権之助がやってきて、これは法秀院の墓に間違いないということを土佐藩に報告します。これによって長野家は五人扶持を与えられ、土佐藩から正式に一豊の母の墓だと認められることになったのです。長野家に残された古文書に、3月と10月に馬詰という家臣が宇賀野に調査に来たことが記されています。2回目の10月8日、長野家とのやりとりを記録した資料はなかなか面白いものです。

拙者方より、御不審申し上げ候ニハ、弐百年計りも此の侭ニ相成り候義、此の度御吟味仰せ出され候義ハ、如何の事哉と御尋ね申し上げ候処

 長野家は、「一豊の母が死んでから、200年以上経った後で、なぜ調べにくるのだ」と言っているのです。かなり、きついことをいっているわけですが、それに対して馬詰は、こう答えています。

御当家近代御早世在らさせられ候ニ付、色々承り合い申し候処、御先君様 御墓所御疎遠ニ相なり、御祭り方不行届き故と申すもの之有り

 つまり、馬詰は、「なぜか藩主が若死にすることが最近多く、『先祖の墓を粗末にしているからそういうことになるのだ』と言う人があったので、調べるとここに墓があることがわかった」と述べているのです。確かに、第9代藩主の山内豊雍(とよちか)という人は、43歳で死んでいます。

 この記録には、法号、御直書(写)、轡、十文字の槍、鏡、書簡などが記されています。しかし、枡は載っていません。

 このようなことから考えると、寛政の段階では、枡はなかったのかもしれません。資料を見るかぎり、土佐藩の話を参考に後から加えられたと思わざるを得ないのです。私は、以前から、高知の枡より、近江の枡の方が古いと言っていましたが、調べてみると、残念ながら自説を訂正せざるをえなくなりました。

 ただ、今展示している枡は、土佐の文化3年に作られた枡より、かなり価値があることは確かです。長野家の枡は、近江八幡の武佐というところで作られた「武佐枡」と呼ばれる古い中世の枡で、京枡より一回り小さい八合枡です。土佐藩の影響を受けて後から作られたとしても、当時の古いものを取り寄せて作ったのでしょう。秀吉によって統一された京枡以前の八合枡だという点で、たいへん価値のあるものといえます。

 結論として、枡の話は、お千代さんの数ある逸話の中では、極めて信憑性の高い話だということです。貧乏だから裏返して使ったのかどうかはわかりませんが、古い話であるのは間違いありません。

お市が浅井長政と結婚したのはいつか?

 ドラマでは、お市がお千代さんに近江のことをいろいろ尋ね、その後、浅井長政のもとへと嫁いでいました。

 お市と長政の結婚は非常に有名ですが、実はいつなのかわかりません。定説がないといってもよいでしょう。これには3説あります。永禄4年(1561)、永禄7年(1564)、永禄10~11年(1567~68)の3つです。この中で現在NHKが採用しているのは、永禄10~11年の説です。これは、 20~30年前に、早稲田大学の奥野高広氏が発表したもので、これが現在、有力な説になっています。それ以前は永禄4年説、また江戸時代には永禄7年説が有力でした。『東浅井郡志』は永禄4年説をとっています。

 お市の嫁入りが、いつであるかがとても重要なのは、結婚の意味が変わってくるからです。

 もし、今回のドラマのように永禄10~11年であったのなら、すでに美濃と尾張を制した織田信長が、近江の浅井氏と同盟を結んだということになります。これは、同盟形式からいうと「近国同盟形式」になります。信長が上洛するため、近江を通らないと京都に行けないので、そのために同盟を結んだということです。

 一方、永禄4年説というのは、私が支持している説ですが、当時の信長は、まだ美濃を制していません。美濃にはまだ斉藤龍興がいます。永禄4年は、ちょうど美濃を侵略しようとしている年ですから、信長が浅井氏と結んで美濃を挟み撃ちにするためのものといえます。これを遠くと結んで近くを攻める、「遠交近攻同盟」といいます。明らかに同盟の意味が違うことがわかると思います。

  さて、お市と長政の結婚による同盟関係を、皆さんは不平等条約だとは思いませんか? 浅井氏はお市をもらっていますが、信長は何をもらっていません。当然浅井氏が得です。浅井氏から誰かを人質に出したという記録はありません。ということは、これは明らかに信長が望んで、必要とした同盟なのです。

 もしも永禄10年だとするなら、なぜ信長は不平等な同盟関係を自ら望んで結ぶのでしょう。六角氏ですら簡単にけちらした永禄10~11年の信長にとって、浅井氏は相手になりません。そんな段階で、大切な妹を浅井氏に嫁に出すでしょうか?

 また永禄4年という年に、浅井長政は賢政(かたまさ)から長政に名前を変えています。「政」は、亮政や久政の「政」で、浅井氏の通字ですから、この字は絶対変えません。それに対し、「賢」というのは、六角義賢の「賢」でした。長政は、六角氏の平井という家臣の娘をもらった際、「賢」という字を六角氏からもらったという話があります。一方、「長」が何を表すかというと、ご想像のとおり、信長の「長」です。この改名は、浅井氏が六角との同盟を破棄して、信長との同盟に方向性を変えたことを示しているのです。

 さらに、お市の子のお茶々は49歳で死んでおり、生年を逆算すると永禄10年になります。結婚したその年に子どもが生まれるでしょうか。当時の政略結婚ではあり得ないことだと思います。また、長政には長男、万福丸がいたと言われています。側室の子と言う人がいますが、永禄4年説をとれば、お市の子でもおかしくはないわけです。

 ところが現在は、なぜか永禄10~11年説が広く受け入れられてしまっています。

千代は端切れを使った小袖づくりの天才だったのか?

 ドラマでは、千代が育ての親・不破家の焼け跡から焦げていない端切れを拾い集め、それをつなぎ合わせた小袖をつくり、秀吉の妻・寧々にも同じような着物をつくってくれと頼まれるシーンがあります。お千代さんがパッチワークが上手であったという話が非常に早い段階から出てくるわけですが、実際はどうだったのでしょう。

 このことは、『土佐国群書類従』に収められている「旧記 見性院様之事」に書かれています。

又、かきかはし給ふ御筆のすさミも、たち縫はせ給ふ御わさもよくし給ひけるか、いつの頃にの事にや江州長濱に御在城の時、唐織の巻物類のきれをあつめさせら合せ給ひて、小袖にしたまふことあり、御手きハの能き事人の目をおとろかしけれハ、御親しき方ゝより大通公に進め給ひて秀吉公へ見せまいらせ給ひけれハ御感大かたならす、聚楽へ出仕の人々に見せ給ひて後に禁裏へ献し給ふといへり、

 つまり、書もうまいし、裁縫もうまい。唐物の巻物類の「きれ」を集めさせ、縫い合わせて御所に献上したというのです。

 ただし、「江州長濱に御在城の時」とあるとおり、一豊が長浜城主であった頃、つまり天正13~18年の間、さらに聚楽第ができるのは天正15~18年ですから、この3年間の話ということになります。もちろんそれ以前から千代は縫っていたのかもしれませんが、実際に話題になったのは、ずいぶんと後の話といえます。ドラマでは、これを拡大解釈して、若い千代の特技とさせているようです。

 また、豪華な衣装と違って、小袖は消耗品ですから残っているわけがなく、どんなものであったのか、わかりません。

朝倉攻めの「命懸けの功名」の実像は?

 顔に敵の弓矢が突き刺さってもひるまず首を取った戦いが、第8話「命懸けの功名」に出てきます。これは、金ヶ崎城の合戦の退城の混乱に起こった元亀元年(1570)の話であると司馬遼太郎氏の小説には書いていますし、ドラマもほぼそれにしたがって進行しています。原作で合戦の地が「首坂」となっているのは、司馬氏の創作です。

 この逸話の原典は、『土佐国群書類従』の中の「御納戸記」など、山内家が作った家伝記類です。ところが、これらの家伝記に記された「元亀元年」という年号を重視するか、それとも、同じ史料にある「久具坂(くぐさか)」という場所を重視するかで、どのような合戦だったがまったく変わってきます。

 もし、元亀元年という言葉を重視すれば、これは信長による金ヶ崎城攻めの時の話だと考えられ、これが原作やドラマの立場です。

  一方、「久具坂」は、近江から越前に行くために古来利用されていた刀根を越える道を指します。とすると、これは元亀4年に行われた刀根坂の合戦にあたります。浅井氏を援助に来た朝倉義景が、小谷落城直前、刀根坂を通って退却する際、織田軍に後方から攻められ壊滅状態なったという歴史上とても有名な合戦です。

 つまり、年号を重視すれば金ヶ崎城の朝倉退場時を指し、場所を重視すれば4年後の刀根坂の合戦を意味するというように、原典自体が矛盾しているのです。

 状況からみて、私は刀根坂の合戦だと思います。なぜなら、元亀元年の金ヶ崎城の退却の際に合戦があったとする記録はないからです。信長の一代記である『信長公記』に金ヶ崎城について「降参致し、退出候、引壇の城、是れ又、明け退き候」とありますが、合戦があったとは一切書いていません。

 しかし、元亀4年の刀根坂での合戦のことは、『信長公記』に、朝倉は敦賀を指して逃れようとしたが、信長の軍が刀根山の嶺に駆けつけて追いつき、その時、討ち取った家臣の中に三段崎六郎がいたと書かれています。これが山内家の資料では三段崎勘右衛門となったものと考えられます。この合戦は、他の良質な史料にも登場しています。

 このようなことから、当館の展示では、金ヶ崎の合戦ではなく、刀根坂の合戦として捉え、年表を作成しています。

 また、ドラマでは簡単に鏃(やじり)を抜いていましたが、山内家の家伝記では、五藤吉兵衛為浄が最初は口で抜こうとしたが抜けないため、一豊に「顔を踏んで抜け」と言われ、草鞋(わらじ)を脱ごうとすると、「脱がずに抜け」と一豊に言われたと書かれています。

 その時に履いていたという草鞋とその鏃は五藤家に伝わり、安芸市立歴史民俗資料館(高知県)に残されています。

「功名が辻」を3倍楽しむ講座

[開講日] 次回5月6日(土)、次々回6月4日(日) 午後1時30分~
[入館料] 400円    [聴講料] 500円

[お問い合せ先] 電話 0749(63)461

●エピローグ
 本文でご紹介した長浜城歴史博物館での講座を続けて聴くと、まさに大河ドラマが何倍も楽しめそう。開催中の特別企画「一豊と秀吉が駆けた時代―夫人が支えた戦国史―」の展示も、キャラクター化された一豊殿と千代さんが史実との違いを教えてくれる流れになっていてお茶目です。
 滋賀ロケーションオフィスさんからは、県内ロケの写真や情報をご提供いただきました。有名俳優は写っていませんが、エキストラの皆さんの熱演ぶりから現場の熱気が伝わってきます。(矢)

 イラストを描きました。信長が悪人面になってしまい、舘ひろしファンご容赦。(キ)

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