『北近江農の歳時記』の著者

●インタビュー

国友伊知郎さん
(くにとも いちろう)

9月24日(月)午前9時~
長浜市国友町のご自宅書斎にて

私たちの両親や祖父母が作った20世紀はどんな時代だったのでしょうか。全国140社余りで構成される自費出版ネットワークの共同企画「100万人の20世紀」の刊行が始まりました。
 シリーズの1巻目として『北近江農の歳時記』をお出しになられた、国友伊知郎さんこと吉田一郎さんに本の内容についてお話をうかがいました。

▲昭和55年(1980)秋、伊香郡余呉町で。秋に「湖北しぐれ」と呼ばれる雨に見舞われる湖北ではかつて、脱穀した籾を筵(むしろ)の上で干すことができず、畔(はん)の木や木の杭に稲を稲架がけして乾燥させる光景が見られた。



100万人の20世紀(1) 北近江 農の歳時記

 中日新聞滋賀版での長期連載(1984~91年)を加筆再構成。「タネおとし」「しりふみ」「籾干し」 など、1月から12月まで、100枚の写真に解説文をそえて米づくりの1年をたどる。
 昭和40~50年代には、まだ見ることができた手作業により田植えや耕作、 各地に残る五穀豊穣を願う伝統行事のようすも含め、機械化が進む農業現場の転換期を見つめた貴重な記録。
 表紙写真は、祭りの日にそろって氏神さまへ向かう親子三代(昭和53年10月、伊吹町上野で)

国友伊知郎 著

●A5判並製本   ●総214頁  ●本体1600円+税  ●書店にて発売中


●編集部インタビュー

『北近江農の歳時記』の著者 国友伊知郎さん

―9月24日(月)午前9時~  長浜市国友町のご自宅書斎にて―

「早う、本にまとめてくれ」いう手紙が多かった。

▽まず、今回のご本は「中日新聞」滋賀版の連載がもとになっているそうで、連載が7年半ですか、かなり長期間にわたったということは、連載時から反響があったということですか?

▼ まあ、ほーですな。連載中からずいぶんファンレターのような手紙から、「これは違うんちゃうか」いうご批判の電話までいろいろあって。手紙は何十通になったか、わからんけども、「早う、本にまとめてくれ」いうのが多かった。「いつ、本になるんですか?」とか。「スクラップをしてたんやけど、1回ぬかしてもたさかい、それをコピーさしてくれ」いう話が中日新聞の長浜通信局に来たり。

▽途中からペンネームをお使いになるようになったんですね。

▼「湖北の民俗」は実名でやってたんやけど、そのうち職場の連中から「お前、まともに仕事してるんかい?」と冗談いうか、ひやかしでしょうが言われるようになって、これはあかんと。それがきっかけです。

▽お住まいの長浜市国友町にちなんで?

▼ 一度その前に「中日新聞」が、僕の紹介記事で名前を間違えて「国友一郎」としたことがあってね(笑)。これもええ名前やなと思いながら、けれどもこれではばれてまうなと思て「一」は「伊知」となおして。ただ、あの本のもとという場合、連載開始より前、昭和50年(1975)ごろに始まっています。ふるさとの姿がどんどんどんどん変わっていくさかい、これでは子供や孫に「あの頃はこうやったで」いうことが伝えられん。今のうちに写真撮っといたろと。自分なりに10ほどのテーマを決めて、写真を取り始めたんですわ。もう思い出せんですけど、「湖北の民俗」、「湖北のオコナイ」、「湖北の子どもたち」のような、もろもろです。たえず、それらのテーマが頭の中にあると、その辺、車で走ってても目に飛び込んでくるんやな。田んぼで働いてやあるおばちゃんに声かけながら(笑)。

▽当時というのは、長浜市の職員として広報を担当しておられた頃ですね。さかのぼりますが、最初にカメラを手にされたというのは、いつごろなんですか?

▼本格的にというかよく撮るようになったのは、やっぱり昭和46年(1971)に、長浜市の広報の担当になってカメラとペンが飯のタネになってから。自分でもニコンのニコマートを買うて。中日新聞で連載をすることになったのも、そういうストックがあることを、長浜通信局の人が知ってやあったさかいやなぁ。

▽今回、一冊にまとめるにあたって、連載時からも10年以上経った現在の観点から文章を訂正なさりました。その際に「こうした風景も失われようとしている」といった文末を「失われた」になおさなければいけないところばかりだと、現在進行形が過去形になってしまったというんですか、苦笑いをなさってたと思うんですが、おっしゃっていたのを覚えています。

▼そやそやそや(笑)。連載からでも10年以上経ったるから。昭和60年前後ならまだあったんやわ。「もう、今は見ることもできん」いうのが多い。

▽ふつう、農村風景の写真というと稲刈りか田植えかですが、この本の場合は、「畔(あぜ)伏せ」だとか、土を鋤(すき)で起こすようすなど、地味というかあまり記録されていない姿が撮られています。この前、吉田さんがお好きだとおっしゃっていた、裏表紙の写真にも使われていますが…。

▲ホリで田土を掘り起こし、肥料にするため藁を埋めていく「田はね」の作業。(昭和45年、長浜市鳥羽上町で)

仕事してる人の性格が、風景に滲み出たるんやわ。

 


▲ホリで田土を掘り起こし、肥料にするため藁を埋めていく「田はね」の作業。(昭和45年、長浜市鳥羽上町で)

▼ああ、「田はね」の写真(笑)。

▽これはなぜお好きなんでしょう。

▼ あれは、仕事してる人の性格が風景に滲み出たるんやわ。「田はね」だけでなしに、多くの百姓はリンチョクさ、几帳面さいうんかな、それを競い合ってきた。ラチアケ(乱雑な仕事)と言われるのが嫌やし。掘り起こす土の塊の一切れ一切れがじつに整然としたる。田植えなんかでもそうなんやけど、くねくねと植える人、スカーンと縦も横も斜めも揃たる人もいる。きれいな仕事いうのは見た目もきれいやし、やってる自分も気持ちよぉなるし。ほして、無駄がない。それを表してるさかい好きなんやわ、あの写真は。

▽それは吉田さん自身が農作業をしていたからこその感覚ですね。同じようにこの本が面白いと思うのは、文章はあるコト、あるモノの解説を目的にしながら、たまに吉田さん自身の感想というか、実際に農作業をしておられるからこそ書ける文章があると思うんですが。「自脱」や「動脱」が重かったという部分など。

▼ほんまによ、あれだけは嫌やった。若うても嫌やったのによ、それをうちの親父とお袋がやってるところを見ていると、お袋はまだ腰は曲がってなかったけど、あんな重いのを太い竹で担うんやけども、もう4、5歩行ってドンッと降ろして休み、また4、5歩行って休み、ほんなも10歩も20歩も担げへんのやわ。後ろの親父が「なんしてんのや」って怒るんやし(笑)。あれで腰を痛めてまあった人も多いしなあ。
▲自動脱穀機(自脱)による収穫作業。(昭和51年、びわ町で)


▲自動脱穀機(自脱)による収穫作業。(昭和51年、びわ町で)

▽千把こきを使っていたとか、鎌で刈っていたとか中心となる作業について書かれることはよくあると思うんですが、その道具なり機械を運ぶ作業というのは記録に残らないですよね。

▼僕は今春発刊の『長浜市史』の5巻で長浜市の農業について執筆を担当させてもろたんやけど、農業者でないとわからん変遷ぶりいうか、田んぼから見つめた農業が書かれていてすばらしいと編集委員の先生方からほめていただいてね。

▽ 他にも例えば、「ある稲の品種は藁細工には使い勝手がよかった」というようなことも書いてあります。今、米は味でしか評価されない時代ですが、以前では食糧としてだけでなく、藁というものが重要な生活物資であったわけですね。昔は今より栽培品種がずっと多くてさまざまな稲があったからこうした基準でみることもできたのでしょうし。

▼けど、稲の品種改良いうのはすごいと思うわ。僕が連載してた頃はコシヒカリ、キンパ、日本晴が主流やったのが、キンパ、日本晴いうのはもう姿消して、今はヒノヒカリとか、ビワミノリとかいう品種に変わってったるし。昔は、穂についた籾(もみ)がすごくこぼれやすかったんやわ。乱暴に扱うとパラパラパラパラとこぼれたん。ほれはガーコンガーコンの稲こきには楽やったんやわ。今みたいにコンバインでガーッと刈ってもこぼれん品種いうのは昔では考えられんぐらいやね。

▽ああ、なるほど。やっぱり吉田さんぐらいの年齢の方ですが、「旭(あさひ)」という品種がコシヒカリよりおいしかったとおっしゃっていたのも聞いたことがあります。まあ、味覚というのは個人差が大きいし、それを食べる環境にもよるでしょうが。

▼「旭」なんかは米粒が大きかったと思う。コシヒカリなんかよりも一粒が。

▽品種改良は、味だけではなくて、そういった作業効率なども考えてなされているわけですか。

▼そう、ほれと、倒伏しにくいか、病害虫に強いかも。それからよおけ穫れる、味がよい、一石四鳥を狙って品種改良はなされてきたと思うなぁ。

▽コシヒカリなんかは倒れやすいですね。

▼倒れやすいな(笑)。あれは肥料管理が難しいんやわ。ちょっとやりすぎるとすぐにぺっしゃんこや。

五右衛門風呂からひょっと首を出してるようなとこが…。

▽もう一つ、米づくり以外で養蚕の項目があって、書かれている文章が現場というか、ご自宅でもやられていたからこそのものという気がしたんですが。

▼あれはな、やったモンでないとちょっと書けんと思うわ。養蚕(ようざん)というものをな。

▽本筋と関係ないですが、「ようざん」と濁りますか? 「ようさん」ではなくて。

▼「ようざん」やな。わざわざ「お」をつけて「お蚕さん」とも言うたな。

▽国友という町は古くは鉄砲で知られていて、その後というと農業地帯だったんですか?

▼ ほうやな、明治時代は「湖北の都」いわれたぐらい中央通りには商店が軒を並べてたけども。大正以降に商店がほとんど店を閉めて、純農村になってったみたいやね。養蚕はなんでかいうと、姉川べりに田んぼにできん石ころガラガラの畑がたくさんあって、そこでも桑は育ったさかいに、そんなこともあるわな。

▽この写真、説明文に「昭和47年、長浜市国友町で」とありますが?


▲ボール紙製の枠の中にきれいにつくられた繭。(昭和47年、長浜市国友町で)

▼うちのや(笑)。一番終わりかけの。昭和49年が最後やかい、その頃に撮っておいたやつですわ。養蚕についてもっと撮っといたらよかったなと思たんやけど…。

▽実際、自分ところで盛んにやってる時はカメラなんか持ってる暇はないんですね(笑)。

▼ほうよいな、ほうよいな。ほんでな、余呉町の今市(いまいち)で畑野さんいう人が奥さんを中心に数年前まで蚕飼うてやあて。それを撮りたかったんや。桑の実やらも後になって撮ったんやけどな、養蚕の作業ぶりだけはほとんど撮れてないのや。

▽それが盛んだったというか、普通だった頃というのは、かえって記録できませんよね。

▼ ほんまは、もう5年早う思いついてたらよかったんやけど。ほたら、もっともっと。昔の暮らしぶりが撮れたんやけど。オクドさんで、カマドでご飯炊いたあのようすやとか、五右衛門風呂やとか。後から五右衛門風呂はこんなもんやいうそれ自体の写真は撮れても、ほんまに、そこからひょっと首を出してはる(笑)ようなとこやらは撮れてない。うちでも昔はヨシ葺きの屋根で、寝間は一段高かったんやけども、土間の上に糠(ぬか)を10~15センチの厚みに敷いて、ほの上に筵(むしろ)を敷いてたん。たいがいどこの家でも。

▽そうですね。それが湖北の家の古い形式といいます。

▼それが、昭和40年(1965)に今の家に建て替えたんやけども、それから数年でゴロゴロッと消えてったでな。この本にも写真が載ってる、筵を織ってるとこ、縄ないしてるとこいうのは、神事(おこない)とか行事の準備作業としてやってるのを撮ったものであって、ほんまの昔の各家での作業というのではないな。

▽その差は大きいですね。

「お父さんの写真代と本代で家が一軒建つくらいや」

▽日常生活ではなく、お祭りなど行事でも撮影に出向かれるのは大変だったでしょう。「あとがき」で少しお父様との関連でお書きになってますが。

▼(笑)。ほうなんやて。あんがいな、春の田植えの頃やとか、秋の稲刈りの頃に村祭りやとか村の行事が多いんや。

▽それも、連載が始まる前から、まったく個人的な活動として。

▼ほうよいね、10年後に10冊の写真集をという一念発起から……(背後の本棚を探す)ノートに一年の暦をつくっておいたんやわ。あ、今日はこれがある言うて。あれ、どこ行ったかなあ? 夜ある時は作業服のまま夕飯も食わんと…。ああ、これがほのころの行事日程や。(ノートがみつかり広げながら)5月は多いやろ、8月も。1月。これを見てるとなジッとしてられんのやわ。ほんまにな。

▽その時のがすと、また1年。

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▲木之本町千田の野神祭の虫送り松明。北陸自動車道の建設で山が削られたため、この年が最後になりました。(昭和52年)

▼ほうよいな。ほんでまあ、行くタンビタンビにもうこれが最後になるかしれんと思うてフィルムだけはおしまんかったな。1日行くと最低でも20本は撮るんや。もう、機関銃で撃つように。バシャバシャバシャと。載せてるのは1枚やけど、その背後にはすごい数があって、写真につぎこんだ金はすごい金ですわ。いまだに、母ちゃんにグチられるんやけども(笑)。「お父さんの写真代と本代で家が一軒建つくらいや」言うて(笑)。

▽お金もですし、実際、農作業中だと労働力として、家の手伝いができなくなるわけですよね。

▼昔はほら日曜日やと親父も僕をアテにするわいね。ほんまに。

▽それは、お父さんにご理解があったんですか。やっぱり、これは記録しておかなくてはいけないというようなことで。

▼いやー、「何をしてくさるんやろ」と思てただけやろね。よー我慢してくれたと思う(笑)。

3年間で世の中がゴロッと変わってもたが。

▽吉田さんのお父さんというのは農業専業だったんですか?

▼そう、専業。

▽それで吉田さんも農業高校へ進まれたわけで、その当時というのは家を継がれて農業をする気で。

▼うん。高校へ進んだのが昭和32年(1957)で、その時いうのは、1町(1ha)の耕作で十分に生活ができたんやわ。そんで、いろんな新しい農村づくりとして、副業の蔬菜(そさい)栽培の可能性とかが叫ばれていた時代で。僕らの農業科は50人の1クラスだけやったけども、50人みんな百姓するつもりで来てた思う。それが卒業する昭和35年、わずか3年間で世の中がゴロッと変わってもたが。岩戸景気やとかな。

▽ちょうど、その時期に遭遇というか、当たられたわけですね。

▼そんで、50人の同級生で卒業してから農業についたのは1人か2人やわな。他はみんな勤め人になった。3年間で、まあアホらして農業してられんと。昭和 32年ごろというのは、高卒公務員の初任給で米1俵(60kg)がやっと買えるぐらい、つまり米が高かったさかいな。今やったら米1俵が10万か20万円近うしたるようなもんやんか。

▽それは全然感覚ちがいますね。

▼それが、ちょうど所得倍増計画を池田勇人総理が打ち上げて、今の中国みたいなもんやろな、年率十何%ていう経済成長率でずーっと。昭和38年が東京オリンピックで新幹線が開通 する、名神高速道路が開通する。それが40年代に入っても続く。だから、昭和32年の高卒初任給が4000円ぐらいやったんや。35年ぐらいには6000円ちょっとになって、もう2、3年したら1万円クラスになっていくんやわ。

▽そうか、ちょうど農業の基盤整備を目指した「農業基本法(※1)」が施行されたのが昭和36年ですよね。

▼それから、東京オリンピックの頃に「一万三千八百円」いう歌が流行ったん。それは労働組合の労働歌で、夫婦と子供二人の4人家族のサラリーマン1カ月当たりの収入を1万3800円確保しようという歌なんやけど、それが憧れの目標やったんやわ。それがもう一気にポポポと越えてもたし、昭和48年のオイルショックいうのはすごかったんやで。公務員でもベースアップ32%やもんな、ほら。さっきも言うたようにうちがこの本家(ほんや)を建てたのが昭和40年、その頃は請負発注でなしに、大工さん、左官さん、別々に頼んでるやろ、その他いろいろ食べてもろた費用も含めて230万で建ったるんや。これを25年か30年かかって借金返しするつもりやったんやけど、5年ほどで返せてもたん(笑)。ほんで、こんな写真道楽ができたようなもんや、ほんま(笑)。

▽(苦笑)。よいんだか、わるいんだかですが。

▼ほら、ほの時分は親父が元気でいてくれたさかいやけどな、借入金返済の半分以上は僕が出してるんやさかいな。サラリーマンやさかいできたことで。ほの代わり、パチンコにも行かなんだし、自分では飲みにも行かなんだしね。

特に印象深いのは余呉町の丹生(にゅう)谷なんやわ。

▽本文中には記されてないけれど、撮影先での思い出というようなものは、何かございますか?

▼あるある。親戚づきあいのようなつきあいさせてもらってるとこもあるし。

▽それは撮った写真は、写っている人に…。

▼そう、送ってあげるん。これが、もう僕の武器やったん。特に印象深いのはダムの湖底に沈む村、高時(たかとき)川上流にある余呉町の丹生谷なんやわ。一番最初に入ったのは昭和45年ぐらいで、本格的には昭和50年頃から。離村さあったのが平成5年ごろやったかな。そやから20年近う通たんやからな。最後の離村の年なんかは、もう毎週行ってたもんなぁ。

▽この本の中にも丹生谷の写真は何枚かありますが、米づくりの作業というだけでなく、生活全般を撮られた?

▼ 最初のうちは写真も撮らせてもらえんかったんやけど。顔もそむけやぁるし。黙って撮ると怒られる。けど、自分という人間がどこの誰かわかって信用されるようになると、そこの家に上がり込ませてもろたし、村の寄合やらにも座らしてもろたし。ほんで、Aさんの家に行って、次、Bさんの家へ寄らんと帰ったら、次の時に「なんで、うちには寄らんと帰った」って怒られるくらい。春にヤマブキがとれた、ヤマウドが採れたいうて届けてくれやあったり。トチ餅つくったさかいて持ってきてくれやぁったりな。

▽長浜から余呉というとけっこう距離ありますよね。

▼いうても1時間もかからへんさかいな。まあ、この本の方に戻ると、湖北いうのは30分ぐらいで移動できる、ええエリアやったと思うんや。長野県とか大きい県やと一つの地域でも広いさかいね。

▽そして、この春、市役所を退職なさると同時に長浜城博物館の館長になられたわけですが、先日(7月15日)同館で催された岐阜県徳山村の増山たづ子さん(※2)というおばあちゃんの講演は吉田さんが?

▼増山さんの写真集を持ってたし、ラジオで話してやあるのも聞いたことがあったさかい、いっぺんよびたいなと思てたんや。友人同士話してたんやけど、ある人が直接、増山さんに電話して「いっぺん、来てもらえへんやろか」て、じつは先にコンタクトとられたんや。

▽増山さんの場合、実際そこにお住まいで、ふるさとがダムの底に沈むというので…。

▼ というより、もっと個人的な事情があるん。旦那さんが戦争行って、戦死の通知が来んまま、まだ帰ってこられんのやわ。いつ何時、横井庄一さんや小野田さんみたいにひょっこり帰ってくるかわからんと。そしたら浦島太郎のようになってしまう。「父ちゃんのために、父ちゃんに見せたりたい」という一念で写真を撮り続けやぁったんやわな。

▽一人のために…、すごく目標が具体的でいいですね。子や孫、あるいは父ちゃんでもいいですが、身近な家族を読み手に考えた記録が、このシリーズでも出していけたらと思います。本日はお忙しいところありがとうございました。


※1 農業基本法 同法は序文で「近時、経済の著しい発展に伴なって農業と他産業との間において生産性及び従事者の生活水準の格差が拡大しつつある」と記し、これに対処することを目的とすると謳っている。全国平均の数字になるが、新規学卒者のうち農業に従事する者が、昭和25年の53%から昭和35年度には10%にまで激減していた。同時に県内には誘致工場が続々と操業し、多くの求人をおこなった。

※2 増山たづ子さん 大正6年(1918)岐阜県徳山村生まれ。昭和54年からコンパクトカメラで村の生活を撮影。昭和60年離村。『ありがとう徳山村』(影書房)、『故郷―私の徳山村写真日記』(じゃこめてい出版)などの著書がある。

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