今森洋輔の細密画の世界

 7月5日(水)~30日(日)、能登川町立図書館・博物館ギャラリーで、現在マキノ町にお住まいのイラストレーター・今森洋輔さんの原画展「今森洋輔の細密画の世界」が催されました。今回特集は、29日(土)に同図書館集会ホールで行われた今森洋輔さんの講演の模様と、その後のインタビューを掲載します。

 今森洋輔(いまもりようすけ)さん
 昭和37年(1962)滋賀県大津市生まれ。上京後、雑誌・図鑑などの挿し絵、単行本の装幀・カバーイラストなどを手がけ、細密画のジャンルで定評を得る。その後、滋賀県に戻り、県内に生息する淡水魚や野鳥を描く。昨年よりマキノ町在住。初の画集『琵琶湖の魚たち』(偕成社刊)が、今年12月に発行予定。

講演 好きこそものの上手なれ


◇(才津原哲弘館長)本日の講演では、ギャラリーで今森さんの作品をご覧になった皆さんがお持ちになったさまざまな疑問についてもお答えいただきたいと思いますが、前半は、私が皆様に代わりましてお聞きしたいと思います。まず、小さな頃というのは、どんなお子さんだったのですか?

▼(今森洋輔さん)やはり絵を描くのが好きでした。

◇現在は写真家である兄、光彦さんの存在というのは?

▼そうですね。8歳上になるんですが、兄も、とにかく絵や工作のようなことがうまかったんです。『恐竜百万年』というとてもリアルな映画があって、それに二人とも感銘を受けまして、アーケロンっていうウミガメの恐竜が出てくるんですよ。兄貴が「よし、次彦、あれ作ったる」と言って、水を吐く仕組みになってる張りぼてを作ったり。あ、すいません。私、本名次彦と申します。
 外へ行くときでも、いつでも光彦の行く所には私が後ろをくっついてたという記憶があります。兄は早くから昆虫少年のスタイルができあがってて、本などに載ってる昆虫採集の格好そのままで、大津商業高校の裏手、当時は結婚式場だったんですが、そこの雑木林に日参してました。ここは本当に昆虫の宝庫で、私もよく行きました。

◇このように、写真家、画家の兄弟が育つご家庭というのは、どんなものだったのでしょう?

▼よく、特別な家庭かのように思われるんですが、ごくごく普通で、父親も40年間一つの会社に勤務したサラリーマンでしたし、母親も働いてましたし、兄弟とも小さい頃は祖母に相手をしてもらっていました。ただ、父も器用で、凝り性ではありました。囲碁をやったら囲碁ばっかり、彫刻をかじったら、またそればっかりとか。

◇小学校(大津市立長等小学校)の頃の思い出としては何かございますか?

▼ごくごく普通の子供でしたが、やっぱり図工、図画工作が好きだったんですよ。算数もダメ、国語もダメ、体育はもっとダメだったんですが、図工の時間だけはヒーローになれたわけです。通信簿が私たちの頃は3段階で、何だったかな?

○(会場から)「できる」、「ふつう」、「がんばろう」。

▼ そう。それで、図工だけは「できる」をもらおうと。ただ、先生の方はできる子というのは置いといて、できない子に力を入れなきゃいけないというのがありますから、こっちを向いてくれるばかりではないのですが、友達らはそういうこと関係なしに一番に見にくるんですね。「どんなん描いてんの」と。それがうれしくて。

◇小学校の頃の将来の夢というと?

▼その頃の文集とかには、必ず「漫画家」って書いていましたね。高校で進学か就職かという時、私の場合は早く社会に出たかったんですが、専門学校へ、大阪にある絵やデザインの2年制の専門学校へ進みました。それから1年して、姉妹校の東京校へ編入して、東京生活に入りました。

◇東京校へ編入なさった理由は?

▼兄の光彦が当時、写真を撮っては東京へ売り込みに行くようになり、あっちの情報、すごく具体的な話が私の耳に入るようになったんです。私はもうすぐ荷物まとめてという感じですね。

◇一番最初のお仕事は覚えておられますか?

▼最初は、デザイン学校の先生の紹介で、小さなデザイン事務所の仕事で、医学雑誌のちょっとしたカットだったんですが、石膏像が真っ二つに割れて脳味噌が見えてるような(笑)、それが19歳の頃ですね。4万円ぐらいもらえて、うれしかったですね。

◇その後のお仕事はどのような?

▼食べるためにいろんな仕事をやりました。子供がヒマワリに水をやってる絵、シャープペンシルの分解図……数え上げると切りがないぐらい。私がかかわっていたのが、『小学○年生』を出してる某出版社で、1年生から6年生までありますから、忙しかったです。住んでいたとこが、出版社から近くて、沿線で15分。編集者の人から電話がかかってきて、「わかりました。行きます」って、夕方行って、次の日ちょうだいというパターンで、一晩徹夜して描くわけです。

◇東京には何年、おられたわけですか?

▼東京には7年、引っ越して神奈川県に6年、合計13年いました。その間というのは、「ケツを割る」という言い方がありますが、何回か仕事自体をやめようと考えたこともあります。家族や友達の励ましで持ちこたえたこともあるし、ある時からは、「たいていの人はここでやめはるわ」と考えるようにしてました。そうすると、不思議にもうちょっとやってみよか、と飲食店でアルバイトしながらでもがんばれたんです。

 それと当時の私、20代のイラストレーターというのは、これというテーマもなしに、車でも風景でも漫画タッチのものでも何でも描けなきゃいけないんですね。それは経験すべき時期ではあると思うんです。でも、ふっと気づくと自分の作品といえるものがない。描いた量は膨大にあるのに。これはつらい。そこから抜け出して、自分のテーマ、スタイルを持った描き手として認知されるための道も探さなきゃいけないんです。

◇そこで故郷の滋賀へお戻りになられた。

▼私の場合は、滋賀県立琵琶湖博物館が平成8年に開館することを知ったのが、大きなきっかけになってくれました。滋賀県の動き、人の認識として琵琶湖は昔は単なる水瓶にすぎなかったのが、その頃には生命を育む母なる湖というようなイメージに変わったように感じました。それまでにも淡水魚を描いた作品は何点かあったのですが、本格的に取り組み始めたんです。

◇滋賀県立琵琶湖博物館のお仕事をなされたわけですね。

▼何点か作品をご購入いただきました。

◇まず、お仕事は何から始まるのですか?。

▼実際にものを入手するということですね。淡水魚でもそれに実際向かい合って仕事をします。不可能な場合もあるんですが、できるだけ。だからやはり滋賀県にいなければできません。ゲンゴウロウブナにしても、滋賀県にしかいないわけですから。まず、地元の漁師さんにこの魚が獲れたらとお願いしておく。すると「ビワマス獲れたで」とか連絡がありますので、できるだけ新鮮なうちに引き取って、殺さずにビデオに撮ったり、写真に撮ったり、スケッチしたり、色を水彩でとったり。死んでからはエラの状態や、筋肉のつき具合、眼などをスケッチして残すんです。基本的に、魚は琵琶湖博物館の学芸員さんなどのご協力で資料がそろいました。この仕事で改めて色について考えさせられたんですが、淡水魚図鑑の写真でさえいろんな魚になってるんですね。標本撮影では、ピンをさしてヒレを伸ばしたり(その後、ピンはコンピューター処理で消します)、工夫して撮影してるんですが、それは死んだ状態ですし、その状況下ではいろんなものが写り込んでしまいます。

 ▼特に魚の場合は、見る見る色が変わってしまうんです。ナマズとかすごいですよ。色が落ちるように見る見る真っ白になる。鳥の場合は比較的楽で、冷凍しておいて、解凍してスケッチすることになります。

◇描く段には、集中力が必要になるかと思いますが、どういう一日の過ごし方をなさってるんですか?

▼一日の仕事量としては13~14時間、一番疲れるのはやっぱり目です。ジョン・グールドという博物画家は細密画を描きすぎて失明したんだそうで、兄に「お前も失明するぞ」ってひやかされます(笑)。

◇目については、事前に少しお話しさせていただいた際に、「徹底的に見る」ということをおっしゃっていましたが、これは?

▼見ることってのがほんとに大事なんです。見た分、得るものはあるんですね。イラストの世界で一時期、「ヘタウマ」といわれるタッチが流行りました。湯村輝彦さんていうイラストレーターの絵が始まりだったのですが、この人の作品を真似て、若い人が描き出したわけです。最初からヘタウマとして。けど、それじゃダメなんですよ。湯村さんの初期の絵でもそうなのですが、例えばピカソにしても初期は非常にデッサンのしっかりした絵を描いています。後に抽象画になるわけですが。やっぱり見る行為というのは、デッサン力につながってくるんじゃないでしょうか。見て、見たものを消化するんですね。例えば、ヒレの中に何本の線があるかということはよく見ないとわからないわけです。そういう点に一番気を使いますね。データの収集みたいですが。

◇描く際の集中力については?

▼20歳ごろの集中力というのはなくなってきてますね。まぁ、独り暮らしですので、邪魔は入りませんし、マキノ町の雑木林の中に建てた家に住んでいるので、時々フクロウの声で雑念が入るぐらいで。今の生活になって1年経つんですが、時間の流れが違います。東京はもちろん、大津とも違います。ゆったりとした時間の中で絵を描くことができます。

◇そろそろ時間となりますが、来場の皆さんにおっしゃりたいことがあれば。

 ▼本日の演題にした言葉に関わるのですが、私は「才能」というものはないと思うんですよ。ある外国のカメラマンの方が日本に来られた際に、通訳を介してなんですがお話しして、彼も「99%は努力、つまり続けることだ」と言っていました。それに1%の才能があるとして、それはほとんどの子供が持ってるんですね。走ること、歌うこと、何かしら。そこで影響してくるのは、それをできる環境、楽しめる環境づくりをしてやることだと思うんです。せめて、邪魔はしない。私の場合は「絵を描いたらあかん」と言われたことはないんです。一度だけ母に怒られたのは、玄関開けてすぐの所に描いた大迫力のゴジラとモスラの絵(笑)。兄貴がその後、サンドペーパーで削ってました。

◇描き続けられる意志と、周りの環境が大事だということですね。

▼逆にここ、図書館でお話するのも申し訳ないんですが、私は読書はダメだったんですね。母に「読みやぁ!」言われると、よけいダメで。でも、「やっぱり本て、すごいなあ」と思ったのは、東京の神田から水道橋というところまでずーっと四方に古書店が連なってるんですが、そこへ行った時ですね。ここへは、日参しました。すごい情報量であり、新刊書店と違って、半世紀、もっと前のも残ってるんです。例えば、映像や音楽はテープが劣化する、再生機器が変わるということもあるでしょう。でも、本というのはいついかなる時でも、すぐその場で見ることができる。光彦の本、『スカラベ』とか見つけると悲しかったですが(笑)。

◇以後は、会場の皆さんからのご質問を受けたいと思います。

○作品製作では、観察、実際の彩色などにどれぐらい時間がかかるのですか?

▼私の仕事には何タイプかありまして、文庫のカバーなどであれば、3日。「琵琶湖の魚」シリーズの場合は、データ収集から何から、魚によってそれぞれ違うんですが、ビワマスの場合で4~5日、もっとかけたものもあります。ただし、これは商業ベースにはのっていません。まず、細密画というのは時間がかかるんですよ。私たちの仕事、出版界というのは「うまく、早く、安く」という前提があって、時間をかけたらうまく描けて当たり前やないかと言われてしまうんですね。

○非常に細い線で描かれていますが、面相筆か何かをお使いなんですか?

▼そうです。描き方も幾種類かあって筆で描いたものと、ペンで描いたものがあります。8割方は、「リキテックス」という絵具で色を付けたものです。ペン書きの場合は丸ペンという種類のペンです。他に鉛筆に水彩で着色して仕上げたものもあります。道具としては、拡大鏡も必需品です。

○絵の描き方については、どこで学ばれたのでしょうか?

▼私は先生、師匠というものにはついたことがありません。独学で、失敗して失敗して、それこそ枕を噛んで泣いたりしながら、やってきました。正規の絵画教育というものを受けていれば、試行錯誤をもっと減らせただろうと思うことはあります。だから、今現在の描き方にしても、まったく完成したものとは思っていません。

○最初の仕事の頃には、何か売り込みをされてましたか?

▼しましたね。新潮社、講談社、角川書店、小学館……大手の出版社ばかり狙って、「こんな汚い格好でいいんやろか」とか思いながら(笑)。けれど、どこでも皆さん紳士的に対応してくれ、割りに仕事をもらえたりしました。もちろん、見せてるのは自分で最高の出来と思う作品なわけですから、大変なのはその後です。質を維持して注文をもらい続けるのが難しいんです。

○注文があっての作品の場合、いったん描いても、変更を求められることがあると思うのですが?

▼なかなか鋭いご質問で(笑)。いろいろな要求があります。例えば、ヒヨドリがエサをやりに来た場面、2羽いて構図はこうと考えて、下書きの段階でファックスを担当者に送るか、直接持っていきます。そして、OKをもらって、描き上げて持って行ってみると、「この首をもうちょっとこっちへ向けてくれないか」とかおっしゃる担当者もいるんですね。そこでケンカしていては仕事になりませんので、ヒヨドリの頭を全部消して描きなおします。たいへんですが、それはそういう世界ですから。

◇そういう時、今森さんの主張として、これは変えられないと場合もあるんじゃないでしょうか?

▼もちろんです。私も考えに考えてやってるわけで、ディスカッションする場合もあります。ただ、妙に芸術家ぶるつもりはなくて、これこれこういう理由でヒヨドリの首はこっちを向いているのですと説明します。それでも、「いや、ここはヒヨドリの顔を読者に見せたいんです」とか充分理由になることを言われたら、そこは引っ込みます。

○描く題材について、どうしても資料が手に入らない部分もあると思うのですが?

▼どれだけうまく嘘をつけるかも、技量の一部である時があります。もちろん間違いがあってはいけません。脚の先の爪が2本であるのに、3本ついてるとか。魚の耳にあたる器官で、体の横に側線という点々があるのですが、その数にしてもちゃんと数えます。極力データを集めるんですが、締切が今週中に必ずとかいう場合に、わからない部分がまっ黒になるような構図や場面を設定したりしたことがあります。
 ただ、私がこの世界に入って最初に会った編集の人には、「嘘はいけません。絶対、本物を見なさい」と教え込まれました。小学館におられた方なのですが、私の絵の描き方というか、人生にものすごく影響を与えた方でして、ある仕事で「○○がいる水族館が横浜にあるから見てこい。私が館長を知ってるから紹介してやる」と。来館者がいると邪魔になるだろうというので、休館日の月曜日でした。その日一日かけて、スケッチさせてもらったりしました。

●注記

※1 今森光彦(いまもり・みつひこ)…写真家・ナチュラリスト。昭和29年(1954)滋賀県生まれ。自然や生き物を題材とした写真および著書により、平凡社アニマ賞、滋賀県文化奨励賞、毎日出版文化賞、木村伊兵衛賞等を受賞。著書・写真集として『今森光彦・昆虫記』(福音館)、『スカラベ』(平凡社)、『里山物語』(新潮社)、『里山の少年』(新潮社)ほか

※2 リキテックス…代表的なアクリル絵の具の製品名。アメリカの画材メーカーであるパーマネント・ピグメンツ社製。アクリル絵の具は、粉末状の顔料とアクリル樹脂の膠着材を混ぜ合わせたもので、イラストや現代美術の分野で広く用いられている。

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