雪の中の暮らし

座談会に出席された皆さん

表地 武一さん
 (70歳)[曲谷]
筒井 利吉さん
 (84歳)[下板並]
宮島 保男さん
 (72歳)[伊吹]
山嵜 仁生さん
 (74歳)[弥高]
多賀 兼さん
 (71歳)[大清水]
藤居 均さん
 (75歳)[春照]
的場 和夫さん
 (73歳)[春照]
梅原 義夫さん
 (81歳)[春照(旧太平寺)]
川瀬 春益さん
 (79歳)[村木]
藤田 慶一さん
 (69歳)[杉沢]
藤田 和彦さん
 (74歳)[杉沢]

 
出席いただいた皆さん全員が「伊吹山文化資料館友の会」会員であり、ボランティアで体験教室の講師などを務めておられます。

(年齢は座談会の時点のもの。[ ]内は在住の大字)


[編集部]雪の中、遠いところをお集まりいただきましてありがとうございます。当方は、皆さんそれぞれのお名前もこの辺りの状況もわかりません。恐れ入りますが、藤田和彦さんに進行の方、お願いいたします。

藤田(和) 昭和2年ですか、その時、世界で一番よおけ雪が降ったのが伊吹山です。11m82cmという記録があります。そういう所がこの伊吹町です。昭和14年ですが、雪がどんどん、これは東草野地区(※1)の人は「なんじゃ、そんなもん」ということだろうけども、春照地区で屋根の庇のとこまで雪が積もりまして、屋根の上からスキーで滑ったという記憶があるんですが、まあ、春照地区はそんなもんですわ。ところが東草野の方ではもっと。

※1 お話の当時は、春照村(坂田郡)・伊吹村(同)・東草野村(東浅井郡)の3村に分かれており、昭和31年にこれらが合併して伊吹村となった(昭和46年に町制施行)。3村の小学校はその後も存続し、村の境界が学区となっている。

筒井 昭和56年から57年にかけての大雪は私の住んでる部落で雪が3m50cmありました。庇の上を歩いたですわね、あの時は。隣の家に100歳の人がいたけど、「こんな大雪は未だかつてない」言うてました。あの時は南郡、野洲や近江八幡の役場の職員が伊吹町へ応援に来た。「私ら来たかてどうしようもないけど、行け、言われたさかい、来た」言うてね。家の中はみな真っ暗、明かりがつくのに2日も3日もかかった。

表地 曲谷では高圧線をまたいで通った。電柱にけつまづくんや。電柱の先がちょっとしか出てないさかい(笑)。

藤田(和) 本日は「雪の中の暮らし」ということで、昔といいますともう60~70年も前のことで今とはだいぶ変わったこともありますし、我々の子供の時分の遊びなどを思い出しておっしゃっていただけたらと思います。まず最初に小学校に行くか行かないかくらいの頃から、時代を下がっていった方がわかりやすいかなと思いますので。まず子供の時、今と違って毎年大雪でした。先ほども表地さんが車で来ておられますので、私どもはびっくりして「曲谷からよお車で来られたな」と聞くわけですけれども、今はちゃんと車の通る道が開けてあります。表地さん、そのへんからどうかお願いできますか。

表地 昔は、在所中総出でスコップで……スコップてないな、こんな、こんなもんで雪をかいて、人間が通るだけの道をやっとつくったわけです。もちろん車もなかったし、自転車の通るとこもできなかったし、ワラ長靴を履いて歩くしか方法がなかった。冬になると家の中で囲炉裏を焚いて、孤立状態いうかそんな生活やったんです。

筒井 伊吹と小泉の間を境として、うんと雪が降るんやね。ちょうど伊吹と大久保では雪が倍違うんです。やから、伊吹から奥は冬は冬期分校いうて、板並は吉槻に、大久保は伊吹に本校があるけども、冬期は板並、大久保それぞれにあった分校に通ったんです。

――学校の先生はどうしてたんですか?

筒井 本校から一人増援が出て、1年生から4年生までが複々式の授業やったんやな。5年生、6年生は冬期分校としてそこへ通ってるん。そうすると1、2、3と4、5、6と2クラスに分かれて授業を受けるん。教室も今のようなストーブてない、箱火鉢いうのが教室に一つ、それだけで暖をとるん。その当時、私らが1年生から2年生になる時、私らの板並の分校は改築されて、ひと冬の間に3つ、上板並の万伝寺いうお寺と、ツゲエモンちゅう家の隠居と、下板並の草野タハチいう家と3回校舎が分かれて授業を受けたことがあるん。

――昭和何年ぐらいになるんですか?

筒井 昭和2年か3年になるわな。ほで冬期分校を開く時には、今みたいに自動車みたいないからね、自分の机を背中に背負て、椅子なんかもみんな「担げ」言われて。

藤田(和) 冬期分校が始まるのは12月の末ですわね。

筒井 11月の末。

藤田(和) 場所によって違うんやね。私が通った春照の小学校は12月の末に用意しといて、1、2、3月とやったけど。板並の方ですと11月から。

――雪は、いつから降るんですか?

筒井 11月の暮れ、28日頃から大雪が降るん。

表地 いや。早い時には11月の8日が曲谷の天神祭りですねんや。その日に降ったことがある。その当時は、田圃(米の収穫)が遅かったもんやさかい、稲架に1尺、雪が11月8日に積もったことがあった。

――とけるのは?

表地 4月やな。

川瀬 けど、降るのは4月でも降ってくるのや。

筒井 4月の13日が下板並のお祭りですわ。下板並のお祭りいうと「また、雪が降ってくるぞ」言うて。それが終わらんことには「春が来んぞ」言うてね。近年はまあないけども。

藤田(慶) この辺は、分校が2つあって、1年生から4年生までは分校へ行って、5年生、6年生は本校へ行ったんやね。昔の高等小学校1年、2年で遠くの人は本校で泊まりこんで1週間。藤川、寺林、上平寺の人はね。

的場 土曜日いうと学校から帰るわけですね。月曜日の朝にセタというショイコみたいなものに、その中にはナスビの炊いたものやとか、タタキゴンボ、漬け物やとか味噌やとか、そういうものを入れて親がそれを背負って、子供たちがそれの後ろについて、宿舎へ行って1週間生活するわけです。昼間は勉強して、日が暮れてくると宿舎へ行ってと。それが高等1年生。6年生までは分校で複式で勉強した。

――ご飯は宿舎にある?

的場 うん、ご飯は宿舎におばさんがいてくれはあて炊いてくれはる。

藤田(和) 昭和の14、15年頃ですか。面白い話があるんですけれど、ごく最近、こちらに来て泊まっておられた方に聞いたんですけど。雪の中を新しいバケツを背負って誰かが何か持って来てくれた、開けてみたら味噌汁いっぱい入ってたと。誰やと思たら、私の父と母やったんですよ。あの分校へね。

――子供がそこの学校へ通ってるから。

的場 学校は関係ないんやけど、近くだから。子供たちにと差し入れをしてくれやあたわけやね。

藤田(和) 冬というのはたいへんだったわけです。ところがね、もう一つ、高い所に太平寺という大字があって、そこにも子供がいました。そこの子供らはどうやったかいうことを、太平寺出身の梅原さんに。

梅原 私は昭和23年に太平寺に移ったんで、それ以前のことはわかりませんけどね。だいたい標高が高い所ですから太平寺いうのは、450mありますから、12月に入ると必ず雪が降りましたわ。そして降る時になると、一晩に60cmから70cm降る。当時はね、まだ、小学校で寄宿は始まっていませんでしたので、雪が降ったら、朝、親たちがみんなワラ靴履いて、とにかく人間が通れるだけの道を踏みつけて学校まで送ったんですよ。距離は、かれこれ4kmぐらいありますやろ。朝8時半頃、家を出ると、学校へ着くのが10時過ぎ。親はね、もう一日がかりですよ(笑)。ほて、学校が終わるとまた一緒に着いて上がったんですよ。ところが、あれ昭和何年でしたかねえ、学校に寄宿制度ができまして、冬になると子供たちはそこで泊まるようになった。当時、給食いうものはありませんから、親たちが交代でご飯炊きからおかずの用意までしてたんですよ。何ですね、今、思うと夢のような話ですわ。

筒井 今は給食で何やらかんやらあるけれども、私らの頃は毎日弁当持ちで梅干かショウガの塩漬け、これがおかずやった。奈良漬けなんか持っていくと、「ああ、ごっつお(ごちそう)やな」言うて、取り合いやったぐらいで。

――ご飯は白い米なんですか?

筒井 ご飯は、米。自分とこで作ってるさかい。一人二人貧しい子で弁当持たずに来る子もあったけどね。戦前までは伊吹と小泉の間を「蝉合い」(峡谷の名前)いうんですが、これは約1kmのよおありますが、冬になると昔は今みたいにブルドーザーはないですから、「今日は蝉合いの道割り(道開け)やから、皆、出よお」言うてね。小泉、大久保、上下板並の4カ字から人が出て、ほてイタチ道みたいなのをずっと掘り割りしていったんですわ。

ゴイズキ藤田(和) 皆さんの所で、こういう道具、これをどういう名前で呼んだか教えてもらえますか?

表地 ゴイズキ。

筒井 ゴイズキ。

藤田(慶) ゴイズキ。

藤田(和) ゴイズキが一番多いですか? 他に言い方ありましたか?

宮島 ユキハネとも言う。

藤田(和) はねるさかいな。他に何か。バンバコ言うとこないですか? 日本全体でみると、ゴイズキいうのは半分ぐらいで、他にバンバコとかいろいろ呼び名があるんですね。藤居さん(東浅井郡湖北町生まれ)の所はどう言いました?

藤居 うちもゴイズキとも言う人もあったし、バンバコいうのも聞いたことあったね。

山嵜 弥高の方でもゴイズキ。

ゆきぐつ表地 ワラ靴もフミゴミちゅう言い方もあったね。

筒井 フミゴミちゅうのは編み方が違うんやね、くくるとこがあって…。

藤田(和) 今、話がありましたように雪が降った時には親が踏みつけ道をつけて、その後を子供が通った。弥高あたりはどうですか?

山嵜 弥高から出るいうことは上野までと春照までと通る道を確保せんなんから、大雪が降ったら、うちは4組の組がありますので、1、2組は学校(上野)、3、4組は春照までとに分かれて、これも途中で交代するようにして通り道を大人が先に子供が続いて、どんどんどんどん道ができていくので、子供がずうっと、上野まで出るんです。

藤田(和) 川瀬さん、村木には学校道を開ける時、杉沢の郷まで開けてくれはったん?

フミゴミ川瀬 ぼくらのほんこまかい時は、今言うてくれやあたようなことやったね。雪の量も多かったし。最近は父兄だけですむけどね。

筒井 私は、昭和32、33年やと思うんやけどね、大阪セメント(※2)へ勤めてた時に大雪があってね。大久保にいたマツイいう友達のとこまで、1kmもないわな、あそこまで行って「行こう」言いよったら行こう思うて、朝の4時に家を出たらその友達の家に着いたのが6時半。2時間半かかって。その下に行ったらホリデンジロウいうのがいて、あれも今日出勤だいうから、あれが「行く」言うたら行こういうことになって、ほしたら「行こう」言うんで、3人で出かけたん。6時半に。出かけたのはええのやけど、さあ、雪がこの辺までくるんやろ、10m行っては先頭を交代して、胸でかき上げながら。友達が「川の方が通りやすいやろ」言うて川に降りようとしたけど、川みたい降りたら死にに降りるようなもんで、「絶対、降りるな」言うて。降りるには降りられるけど、フチへなんかかかったら上がるに上がれない。大阪セメントまでいうと、4、5km。着いたら、11時半の昼ご飯のサイレンが鳴ったんや。「よお、君ら出てきたな」言われて。

※2 昭和27年に、伊吹山の石灰を採取してセメント生産をおこなう大阪窯業セメント(株)伊吹工場(現在の住友大阪セメント)が、操業を開始している。

――雪が降っても小学校って休校にはならなかったんですか?

藤田(和) ほとんどならなかった。

表地 分校は休校になったことはないです。

藤田(和) 子供を、大事に大事にしだしたのは戦後ですわ。戦前はね…そら。

表地 昭和56年は、4日ぐらい休校になった。

川瀬 だいたい休校にしようたって、連絡のしようがない。

一同 (笑)

藤田(和) 電話てなかったしね。

的場 昭和20年頃までは、春照郵便局いうのがあって、そこの電話の加入者が24件。電話番号は1番から24番までしかなかった。例えば大阪へでも電話をかけようと思うと先に郵便局へ申し込んでおいて、30分か40分するとリーンリンとかかってきて「大阪へつなぎます」、そういう感じ。雪でも降ると電話線が断線して1週間ぐらいは不通。

藤田(和) 窓の外を見ていただきますと、今も吹雪いてるんですが、こういう雪の中を学校に行く。今お話に出てきたのは雪の降ってない時のことが多いんですけど、こういう吹雪の時に行きますと、何かかぶってても息ができない。そういう中でも「学校は行かんならん」と、そう思って行った。ここまで雪の中で苦しい話が多かったんですが、今度は積もって天気がよくなった時、その時、どういう遊びをしていたか。宮島さん、どうですか?

宮島 今日みたいに新雪が降った日にはね、私の家はわりに学校に近い、500mほど、そうすると朝ね、青年団がパッパーッてラッパを吹きよるん(笑)。そうすると大人がみんなゴイズキを持って雪どけして、その後から生徒らは登校したん。学校では、四角い大きな90㎝角ぐらいの箱火鉢があって。ほこに小遣いさんが火を起こしておいてくださるん。ほて、11時頃になると、その火鉢の上に乗せる金網があって、そこでみんな弁当を並べて温めた。やっぱり組の中でヤンチャ坊主が火の近くに置いて、女の子は端っこに置いてあんまり温められなんだ。そうこうして、雪の日には教室の中にスズメが入ってきますわ。ほうするとそれを追い回して、ヤンチャ坊主は羽をむしってスズメ焼き。 ――(笑)

宮島 休み時間は校庭で雪合戦やね。そして、ようやく帰るんですけれども、私どもの裏、村の先にちょうど高い道と低い道とがあって、そこの斜面へね、マントをひいてね、山の中を、ガアーと滑るんです。それが面白いもんやから、ほれして家へ帰る。

マント――マントって、どういうものですか?

筒井 かけるやつ。袖のない。

川瀬 まあ、どこ行ってもあれやったな。

宮島 マント持って、高い道から低い道までダアーッと降りる、毎日ほんなことやって遊んでるとマントがすり破れてまうん(笑)。叱られてね。

表地 僕らはね、青いスギバ。ちょうど曲谷分校の裏は50m以上の急斜面があったんですよ。その上から青いスギバしいて滑り降りた。

――スギバ?

藤田(和) 杉の小枝ですよ。

表地 そうすると、50mぐらい青い跡がついとるんですよ。それが何本も(笑)。

筒井 シャリシャリとね、凍ったる時、子供は喜んで跳んで歩きよおるんやわ。昔は今みたいにいいスキーてあらせず、竹を割ってスキーこさえるん。あるいは箱スキーいうて、竹を割ったやつをミカン箱につけて、それにちょんと乗って滑るん。

藤田(和) 多賀さん、そういう雪の上の遊びについてちょっと。

多賀 スキーは竹の先をちょっと曲げてね、ミカン箱で2本竹割って足つけて、山の上からバアーッと滑って。それとな、ハトをよう捕りましたわ。

――冬にハトとかスズメってどこにいるんですか?

多賀 どこて、寄ってきまんのやわ、食べ物がないさかい。

藤田(慶) 家の前にこうしてカゴを置いて、棒を立てて、ひもを伸ばして、ふっと引くとポトンと落ちると。

――ハトもそれでとれる?

一同 とれる、とれる。

藤田(和) さっきちょっと話が出かけたんですが、川瀬さん、パンパンに凍った時に道路を通らないで学校へ行った話を一つ。

川瀬 私は住んでる村木から本校まで行くのには杉沢の在所に入って行くんやけど、雪が降ると畑ん中、スーッと真っ直ぐ行けるんやわ。距離が短くなる。凍ってまうと、長靴はかんでも短靴でね、チョチョチョチョて、ほら舗装したようになったる(笑)。

一同 そうそう(笑)

川瀬 草履はいてでも行ける。

藤田(和) いったん雪が解けてまた凍ると氷のようになるんですよ。ただ、川の上とかね、竹の笹があるとことかやと、薄いからゴソッはまってね、あれはなかなか面白かったですわね。

的場 落とし穴の話があるね。

筒井 イタズラ坊主がね(笑)。

藤居 わしら、ヤンチャはせなんださかい、わからん。

一同 (笑)

筒井 通り道にゴソンと穴を開けてその上に木の枝を置いて雪をかけて、ちょんちょんと足跡つけとくん、そうして来た人が落ちやあると、隠れてたとこから出てきて手たたいて喜んだ。

表地 女の先生、落とすのが面白てね。

一同 (笑)

藤田(和) ここは伊吹小学校と東草野小学校と春照小学校と3つの小学校がある。だからそれぞれの土地によって遊びも違うと思うんですが、春照小学校の場合は、2月11日に毎年ウサギ狩りをやりました。

――ええと建国記念日は、前は何て言ったんでしたっけ?

藤田(和) 紀元節。学校の近くの林の方、山手ですね、そこにみんな子供がダアーッと一列に展開しましてウサギが逃げないくらいの間隔に広がって、ワアーッと脅しながらだんだんだんだん間隔を縮めていくんですね。そうするとウサギが真ん中のとこに追い込まれてきて、鉄砲打ち(鑑札を持った猟師)が一人呼んであって、しとめる。

筒井 ウサギいうのは、非常にオジクソ(臆病)なんやね。うちの方では竹でこういうやつを何本もこさえるねん。細いやつをね。ほして山の上からほおるんや。ほうすると上から「ブベベベベ」てね、タカが飛ぶ音がする。すると「タカや」てウサギが思て洞穴に頭突っ込みよおる。そこを捕まえる。

藤田(和) 打つんじゃなくて、捕まえた? それはよっぽど面白いわ。

――それは食べるのが目的で?

筒井 それは、冬はごちそうてあらせず。それをごちそうにするんや。

多賀 ウサギは通るとこ、同じとこを通ってますので、足跡がついたる。罠をかけときますと、あんばいかかる。

表地 僕らも昔、針金で作った。

藤田(慶) ススキ、屋根に使うススキ、あれを束ねて木にくくっときゃ、あん中入っとるで誰かがつつくと飛び出る。それと、ウサギは上から追わんと。下から追うたら、どこまでも逃げてまう。

筒井 降りるのは降りにくいさかいね。

藤田(和) 後ろ脚が長いでね。

藤田(和) その他に学校でこういうことをして遊んだとか、日曜日に遊んだこととかありませんか?

宮島 そうですね、何といってもスキー場の地元ですさかい。学校のスキー教室で行くんですけど、地元の上野の人は非常に上手でね。私たちは山へ行くのはたいへんだから、近くの斜面を利用して、そこをスキー場にしてましたけど。当時から大会がありまして、上野の人は滋賀県のスキー大会にも出場して、よく賞をとってましたね。

スキー藤田(和) 的場さん、藤川あたりはどうでしたかね?

的場 やっぱり、スキーといってもさっき話に出たように竹で作って、タイヤの古いやつを切ってあてて、それに長靴をひもで結んで、学校の裏やとかで。

――それは自分で作るんですか?

的場 4年生か5年生になったら、たいてい自分で作ってました。

藤田(慶) さら(新品)のスキーを親に買うてもらう子供ていうのは滅多にいん。

――みなさん、スキーはお上手?

一同 (笑)

藤田(和) 教師になってからのちょっと新しい話で恐縮ですが、昭和20年代の終わり頃、米原から伊吹山へ子供たちを連れて行ってスキーをすることになったんですよ。米原から長岡まで列車に乗ると、ちょうど木のスキーを持った大阪の方から来たお客さんがね、「お前ら、何持ってんにゃ、どこへ行くんや」という感じでひやかしてた。子供らはみんな1m前後の竹で作った、蒲鉾板のようなものに足をのせとく、タイヤの古いのとかに足を突っ込むだけのスキーを持ってる。ストックは竹そのもの。子供は「スキーに行くのや、伊吹山へ行くのや」言うもんやから、ますます笑われてね。ところが着いて、みんな1合目でスキーを始めたら、子供らは上手なんですよ。竹スキーでパーッて滑る。そしたらちょうど一緒に乗り合わせた客がいてね。ちょっと滑ってはコロン、ちょっと滑ってはコロン、たまで滑れない。結局兜を脱いだんですわ。

的場 昔は、木炭車いうて、マキを焚いて走ってた、そのバスの後ろに箱がつけてあって、スキー場へ行く人はそこにスキーを突き刺して長岡の駅から上野まで行った。ところが道幅も狭いしバスも小さいいうことで、スピードがでないものだからバスの後ろから走ってついていって、ビジョウ(尾錠?)をはずしたりとか、悪いことをしたのを覚えてます。

――京都・大阪からスキー客が来るようになったのは、いつ頃からなんですか?

藤田(和) 戦後でしょうね。昭和20年代の終わりぐらい。

藤居 その頃まではそんな余裕はない。

川瀬 戦前だってスキー場はあって、京都、大阪から来る人はあった。うちらも山へしょっちゅう行ったんやでね。

藤居 あったけど、列車で遠い所から、長岡駅からバスでピストン輸送みたいに来るようになったのは、昭和30年以降やで。

川瀬 いや、戦前の話。昭和10年頃には私ら学校からもスキー場へ行ったんやしね、盛んにやっとったよ。

藤居 ほの頃、遠くから来るスキー客はよっぽど上流の人や。最盛期は昭和30……40年くらい。名古屋や京阪から来る人で、長岡駅からバスに乗れへん人もあった。しかたなく道を歩いて上野まで来やあるわけや。すると大阪セメントの工場への引き込み線路があるから、それが近道やいうので1人が歩くと全部歩き出して、何百人て。ほんで機関車が動けへんいう時があった。

宮島 忘れもしませんが、昭和38年、この年が大雪(※3)やったんです。この時にスキーヤーが大挙してバスで来やあたんですわ。ところが上野で泊めきれへん、まだ民宿もほんなない時分で。泊まれんかった客が伊吹の旅館に「泊めてくれ」いうて来て、旅館だけやのうて、民家、私の家なんかでもたくさん泊めました。ところが、それを当て込んで「さあ、これから布団や枕を用意せな」てなりましたら、翌年はピタリとやんで雪がひとつものうて(笑)。

※3 記録によると、昭和38年(1963)の積雪は、大字吉槻の場合で、37年12月末までに160m、1月にさらに60mの新積雪があり、大字伊吹より北の甲津原まで10地区は孤立あるいは半孤立状態となった。2月に入り、県と関係市町村が特別合同雪害調査隊を出動させている。

川瀬 あれは、私が昭和21年に兵隊から帰ってきたんやさかい、22年か23年頃やな。藤田さんも知ってはるやろけど、うちの村木の郷は長岡駅のすぐ手前のところまでや。「進駐軍がスキーに来よおる」いうて村中総出で雪開けよ。

一同 (笑)

川瀬 もう在所の道ほっておいても、進駐軍さんに通ってもらわんとあかんいうて。うちの郷は郷境が長いでね。雪が降るとその雪開けやったな。否応なしに、命令やで。

藤田(和) ありましたね。大清水は大清水の郷境まで開けやある。杉沢から大清水まで学校道をダーッと、各字によって自分の字の地域だけ開ける。

藤田(慶) それでケンカするんや、「杉沢は開けとらん」言うて。

的場 今は道路の両サイドに赤と白のポールがありますからいいですけど、昔はそんなのはないから、雪が降ったら「ミナジロ(皆白)」いうて、どこまでが川でどこまでが何て全然わからない。あれぐらい怖いことてないんです。

藤田(慶) 夜の暗いのがまだましや。

――家へ帰れなくなるとかいうこともあったんじゃ?

川瀬 そういうこともあったね。

藤田(和) さっきも話に出たように「川へは絶対行くな」という教訓ですね、川の縁、土手には柳があったり、そういうのもわからないですから、はまったらゴソン、下は水が流れてる。小さな小川でだってありますからね。

――事故とかありましたか?

筒井 ありましたよ、それは。凍死された方もあった。一番雪ん中で弱ったのは病人が出た時。奥はお医者さんがいないものですから、春照とか小田(山東町)まで連れていかなあかん。冬は戸板いうもんをこさえて、雨戸ですな、あれをカゴみたいにして、親類が5人も6人もで担いで医者まで運んだんですな。ほれか、戸板を持ってお医者さんを迎えに行く。

表地 曲谷には病人カゴがあったんや。竹で編んだ。

藤田(和) はあ、戸板の話は聞くけど、それは初めて聞いた。

表地 お寺の御堂にいつも置いてあったんや。産婆さんは、奥の方ではその在所の誰か器用な婆さんがやったん。僕らその婆さんにあげてもろたん(笑)

――家の仕事というと何をやってたんですか?

草鞋表地 お金は一銭もないし。

藤田(和) 草鞋を作ったりね。ムシロや「縄ない」とかね。

表地 草履、草鞋、夏場は草鞋を1人が100足履いたんや、真剣に働くと。「今年は草鞋100足履いたさかい、だいぶ儲かった」言うたん。

筒井 うちみたいに兄弟が5人も6人もいたとこは、みんな集まって草履編みしたんや。団子焼きながらワイワイワイワイしゃべりながら。そうすっと弁当に焼いた団子持っていくのや。1日に10足は作らんと一人前でなかった。

表地 学校でも炭火鉢で団子焼いたりした。休み時間に先生に内緒で(笑)。

藤田(和) ええ匂いがするわな(笑)

表地 ほんで昼になるともう食べるもんがないん(笑)。

山嵜 ほして、人間だけでのうて、牛の草履も作らなあかんかったね。

牛の草鞋表地 ほしてまた、牛の飼い葉をね、囲炉裏にどんと大きな鍋で炊いて。

川瀬 ほうやったんかいね。そうすると村木なんかはまだありがたいね。

梅原 ほら、伊吹町も南北に長いで。北と南とでは性格が違うで。

川瀬 ほら、村木は新幹線が通ったるでね(笑)。違うでね。

筒井 牛の飼い葉炊きのハショリ鍋て、知らんでしょ。

川瀬 うちら牛は1匹もおらなんだも。

筒井 毎日晩にワラをこれぐらいに刻んで、鍋で、生ワラでも好きな牛は食べるけども消化が悪いでね、冬の食事としてね。

山嵜 ワラと芋のツルな。

筒井 ビョウブの葉、あれは下痢止めの薬になるんね、牛も人間さまも使いました。おいしいことはないよ(笑)。今では食べられん。

藤居 しかし、何やね。雪も僕らの子供の頃からすると、地球の温暖化かしらん、少ない。そんで質が違う。もっと粉雪やったもんね。

藤田(和) 今年らもボタ雪ばっかやもね。

表地 ホウキではく雪いうのは、この頃降らんやろ。

一同 ない。

(1999・2・3)

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