ここは安全だという鳥たちの共通認識をずっと守りつづけることが、センターの目標です。 湖北野鳥センター専門員 植田 潤さん

「誰かいないか」と相談を受けたので、「僕、僕がいます」と

──最初に申し上げておくとインタビュアーの私は、このセンターがある地と同じ小学校の学区で生まれ育っています。

植田 じゃあ、まだなかった世代ですね。

──湖岸道路もない。山本山との間の道を通って尾上の浜で泳いでいた世代です。

植田 僕と同世代ですね。僕は生まれは京都ですけど、小学4年生で大津に引っ越して、5年生から鳥を見始め、6年生の頃には月に1回ほど小遣いをはたいて湖北に来ていたんですよ。

──どこから鳥の観察をしていたんですか。

植田 あそこの紅鮎※1から見ていたんです。先代のご主人によくしてもらいまして、赤毛氈の上に上がって、奥の間で見せてもらっていたんです。

──こちらのセンターに来られたのは。

植田 平成20年(2008)4月からです。それまでは栗東の中学校の理科の教員をしていました。野鳥センターの職員だった清水幸男※2さんがあと4~5年で定年になるということで、湖北町が人を雇うことにしたんです。僕はちょうど担任だった3年生を送り出すところでした。

 うちの家族も、僕の鳥好きを知っているので、一番好きなことがお金になるってことはめったにないと了解してくれ、単身赴任で働き始めました。火曜日の定休日ともう1日が休みなので、火・水と休んだ時、2~3週に一度のペースで家には帰っています。

 通勤できないこともない距離なんですが、スタッフが少ないのと、来館者の方といっしょにその日の状況に合わせて回るシステムなので、離れられないんです。南に2㎞ぐらいのところに、珍しい鳥がいるといった情報がもらえると開館前の早朝や閉館から日没までに調査することになるので。

──野鳥センターは昭和63年(1988)の開設で、来年(取材は昨年12月)がちょうど30周年だそうですね。

植田 開設の数年前、県が琵琶湖岸のどこかに水鳥公園をつくろうという計画を立てたんです。地元の了解を得るために琵琶湖に面した町や市に声をかけて、手をあげたのが新旭町(高島市)と湖北町(長浜市)と草津市の3つでした。

 3つとも非常に前向きだったのでコンペが行われて、湖北町では清水さんががんばって、中学生だった僕は住んでいたところに近い草津市にほしくて、そっちで関わったんです。

──その結果、湖北町に決まり、尾上から南へ約2㎞の琵琶湖岸が湖北水鳥公園になり、野鳥センターもできた。新旭町にも水鳥観察センターができましたが。

植田 そのままの流れで、新旭町は自前で翌年の平成元年(1889)につくったんです。草津市には、代わりに琵琶湖博物館の計画が県から提案されました。そうして手をあげた自治体にはすべて自然系の施設ができたんです。

 当初、清水さんは別に仕事をお持ちだったので、土日のボランティアスタッフ、運営補助員みたいなかたちで来ておられました。それから今度は、平成5年(1993)に琵琶湖が「ラムサール条約※3」の登録湿地になったので、国がどこかに湿地センターをつくりたいという計画を立て、湖北町に「誰かいないか」と相談が来たので、清水さんも、「わし、わしがやる」と(笑)。その時はまだ、館長ではないんですが、実質上の責任者として勤めだされました。

 湖南にいた僕は悔しかったんですけど(笑)。当時、県内唯一の野鳥観察施設でしたし、今もですが、鳥好きが集まる場所なので、湖西にこういう鳥がいるといった情報でも必ずここで一度話題にのぼります。通えば最新情報がだいたい把握できるし、観察会の集合場所になることも多かったので、しょっちゅう来ていました。

 ほら、ちょうどいまカモが飛んで入ってきましたね。あれはたぶん琵琶湖のどこかで船か何かで追い出されて、一時待避にここへ入ってきたんですよ。

 この一帯が水鳥公園になってから、あそこのテトラポッドから内側には、基本的に地元の漁船も入らないようにしていただいてます。それがわかっているみたいで、コハクチョウも降りていた田んぼに人やイヌ、キツネが来るような危険なことがあると必ずここへ帰ってきます。ひとまずここでちょっと落ち着こうみたいな場所として鳥たちに認識されています。ここは安全だという鳥たちの共通認識をずっと守りつづけることが、センターの目標です。

 撮影に来られると、どんどん近づきたくなるのでヨシ原の中に入ろうとする人もいらっしゃいますが、それはやめてもらっています。この現在の距離でも、鳥が普通にしているっていうのは特別なことなんです。他の地域では見られない光景なんです。

──この距離は近いですよね。

植田 ヒシクイ※4は、とても警戒心が強いので、あの距離だと普通は飛んで逃げます。ちゃんと学習していて、国内各地で、同じ日本人だけど種類が違うようだと。警戒するべきか、しなくてよいか見分けているみたいですね。

 反対にロシアでは狩猟鳥とされていて撃たれてしまうので、非常に警戒心が強いんです。


※1 紅鮎 昭和33年(1958)開業の老舗旅館。

※2 清水幸男 (1951〜)滋賀県生まれ。昭和58年(1983)に湖北野鳥の会を設立(現、会長)。湖北野鳥センター開設時に専門員となり、琵琶湖水鳥・湿地センター開設時に職員を兼務。湖北野鳥センター所長を経て、平成23年退職。

※3 ラムサール条約 1971年にイランのラムサールで制定された「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」。

※4 ヒシクイ カモ科の鳥で、ガンの仲間。全長80㎝程度。体は褐色。日本には冬鳥として飛来。ヒシの実や草を食べる。


捕るために守られていたんです。

──取材用に昔と現在の航空写真をプリントしてきました。この辺が飛来地ですね。

昔と現在の航空写真

植田 当時、ここの道からここまでの湖北町の境界のうち、ここからここまで湖岸延長の80%ぐらいを湖北水鳥公園にしたんです。それで他の地域は負けたんですよ。

──まだ根に持っているんですか(笑)。

植田 すごいことなんです。草津市はそこまでは市内の足並みがそろわなくて。湖北町は鳥の種類もですけど、尾上から今西、延勝寺、海老江の4大字がみんな了解したのがよかったんです。

──1975年撮影の航空写真でいうと、私などは、田んぼの中をぬけて集落の東側につながる道しか使っていませんでした。西の琵琶湖岸一帯は未知の空間でした。

植田 ここ(赤矢印)を無理したら、湖岸近くまでまっすぐ出られたんです。こっちがおもしろかったんですよ。懐かしいです。

──当時から、この一帯が水鳥が集まる場所になっていたのですね。

植田 地元の方がよかったんです。冬の漁で捕れる魚はイサザ※5ですが、深いところにすんでいて寒い中の漁は大変なんですね。それに比べると簡単に手に入るのが、カモやガンなどの水鳥だったわけです。

 だから、カモとガンになるべく来てもらうように、湖岸一帯をセッティングしておいたんです。鉄砲でほとんど撃たなかった。他の地域では、猟銃が普及したらバンバン撃っちゃったから、水鳥も来なくなりました。

──この辺では、「流しもち」と呼ばれる漁で、「とりもち※6」をつけた藤づるを湖面に浮かべ、くっついて逃げられなくなった鳥を捕っていたわけですよね。

昭和30年頃、「流しもち」を巻き上げてカモを捕る漁師

昭和30年頃、「流しもち」を巻き上げてカモを捕る漁師 『岩波写真文庫180 琵琶湖』(岩波書店 1956年)より

植田 音を出さず、こそっと捕って、こそっと回収して帰るということをずっとしていたんです。

──私が父親から思い出話として聞いたんですが、父が中学生の頃(昭和20年代)、尾上の同級生の家に遊びにいって、「こんにちは」と引き戸を開けたら、土間で同級生が縄(藤づる)についた羽をむしっていたと。家の仕事の手伝いをさせられていて。

植田 そうです。大切な栄養源であり、収入源。夜中寝ていると、9月の終わりにガンが頭の上を鳴きながら飛んで、ここへ下りてくるんです。「そら来た」と、家族みんな起こされて、「もちの準備をせい」言われて、みんなで準備をしたという話です。

──カモは食材として、一番近い都会である長浜の名物になっていました。

植田 捕るために守られていたんです。そういうよさがあります。同じ琵琶湖でも湖南の方は特にそうですが、ここのような遠浅の湖岸は全部埋め立てられてしまいましたから。

 それをしなかったのは、それで食べていけたのと、捕って食べている人たちが残るように希望しました。湖岸道路の計画ルートも、最初は湿地帯や尾上港の外側を抜けるものでしたが、地元の人たちは、湿地帯を埋め立てることを強硬に拒まれたんです。

──昭和46年(1971)に琵琶湖は全面禁猟区になったので、「流しもち」も行われなくなったと思うのですが、鳥たちに恩義でも感じていたのでしょうか。

植田 そのおかげで環境が残りました。これが琵琶湖の原風景、昔の風景です。彦根や米原でも、もともとは湖中の浮島みたいなところの木が田んぼの中に見られるところがたくさんあります。内湖だったところを干拓して田んぼにしたからです。

 漁師といってもみんな半農半漁ですから、田んぼになる土地もほしい。琵琶湖岸であれば前へ前へとなって当然なんですが、この地域の湖岸は、フナの産卵の場所だとわかっていたから、それ以上田んぼにすることをしなかったそうです。

 少し南の長浜市早崎町(旧びわ町)の場合は干拓されてしまったので、「埋めへん方がよかった」といつも嘆かれる方がいます。現在では早崎内湖再生事業として再生させる計画があります。

「当時は子供だったから見てるだけだったが、今となっては孫の世代に残しておいてやりたかった」という思いを形にしたいとがんばっておられます。早崎内湖が今もあれば、野鳥センター前よりも、もっとすごい飛来地だったのにとおっしゃいます。


※5 イサザ ハゼ科の魚。全長5〜8㎝。琵琶湖の水深50〜60mのところにもぐる。

※6 とりもち さおの先などに塗りつけて小鳥や昆虫などを捕らえるために用いる粘着力の強い物質。モチノキなどの樹皮から作る。獲れた鳥には傷がつかないので、鉄砲でしとめたものより高値で取り引きされた。


鳥は飛ぶことをあまり苦労だと感じないんです。

──ここからは東の山本山に飛来するオオワシ※7についておうかがいします。「山本山のおばあちゃん」と呼ばれていますが、鳥はかなり長生きなのですか。

植田 ツバメなどは、5~6年と短命です。オオワシは動物園で52年生きた例があります。これは、風邪をひいたら風邪薬を飲ませてもらえたりするので、野生の場合とはかなり違うでしょうが。

 ここの「おばあちゃん」は、見つかってから20年目なのですが、最初に見つかった時点で何歳だったかがわからないんですよ。成鳥になるのにオオワシは6年かかりますから、最低でも26歳です。成鳥になってからは30歳でも40歳でも区別がつかないので、便宜上は「おばあちゃん」と呼んでいます。

 じつは彼女は2代目で、その前の初代のオオワシが、野鳥センターができてからしばらくした平成3年(1991)に見つかりました。それから、平成10年(1998)になって、葛籠尾崎の木にとまっているもう1羽が見つかったんです。それが現在の彼女です。初代が平成15年(2003)1月に亡くなり、彼女が山本山に移動してきて2代目になりました。

──死亡というのは確認されたんですか。

植田 白くて大きな羽をカラスがくわえて飛んでいました。ハクチョウの羽でもそこまで長くないので、オオワシの尾羽根以外にありません。地面でも羽が何枚か見つかりました。

 (ライブ映像のモニターを見ながら)下を向いてもぞもぞしてますね。あそこから琵琶湖の湖面を見て魚を探しているんです。

湖北野鳥センター内の山本山の方角(東)に窓がある部屋

湖北野鳥センター内の山本山の方角(東)に窓がある部屋。中央がオオワシの映像が映し出されるモニター、右は原寸大オオワシの模型

──視力が桁違いによいのですね。

植田 このセンターの前のブラックバスを獲りに来ることもあります。ここで僕が青い服を着てしゃべっているのも、「またしゃべっているわ」ときっと見えています。

 繁殖地はサハリン(樺太)北部からオホーツク海沿岸、カムチャツカ半島海岸部と、非常に限定されています。越冬地が北海道と青森の一部、北朝鮮ぐらいまでです。

──それより南だと。

植田 定期的な飛来地となっている場所として、長野の諏訪湖と日光の中禅寺湖、それから茨城県の涸沼、鳥取県の湖山池があります。北が流氷で閉ざされると、少しずつ南に南下する個体がいて、それらは富山、石川、千葉ぐらいまで来ます。彼女はなぜか秋に琵琶湖に来ています。

オオワシの繁殖地と越冬地

オオワシの繁殖地と越冬地

──同じ猛禽類でもイヌワシ※8は同じ場所から動かない留鳥ですが、何が違うのですか。

植田 行動の中心になっているのはエサです。オオワシは主に海洋性の魚類などの肉(鳥類も含む)をエサにしています。北の地方で繁殖するのは、その時期にサケ科などの魚がとても豊富だからです。けれど、冬になると全部結氷して閉ざされてしまうので南に移動するんです。

 イヌワシの場合は山で生活しています。山だと冬でもウサギや他の鳥類をエサにすることで暮らせるので動かない。寒さに強い、弱いはまったく関係ありません。人間からすると不思議ですけど、鳥は飛ぶことをあまり苦労だと感じないんです。一番近い函館から滋賀県まで直線距離で600㎞ぐらいありますが、さほど苦ではないかもしれません。

 また、イヌワシの場合、子供を育てるのに2〜3年かけます。山での狩りはテクニックが必要なので教える期間が必要なんです。オオワシの場合は、6月に生まれてから数ヶ月で幼鳥を送り出して「さようなら」です。狩りの仕方は教えません。大量のサケが遡上してくるので、エサに困らないという環境に適応した育て方なんですね。

 11月になったら、近隣の河川や湖岸は幼鳥のためにあけてあげて、親鳥は南の方に渡ります。

──ほぼ11月下旬に飛来するんですね。

植田 これまでに2回、12月に入ってからの年がありました。その年は11月下旬にかなり荒れた天候が続いて来られなかったようです。

 来るのは、気候が安定している日を狙っているようです。今年は11月26日に来たんですが、26日の気候は北海道からここまで、ずっと安定していました。

──彼女は1羽で来ているんですか。

植田 1羽です。ロシアの研究者に聞いたところ、普通は決まった雄と雌でいっしょに巣に帰ってくるのだそうです。だから別の場所でつがいの雄が越冬していて、彼女は、どこかで彼と落ち合って繁殖地へ帰っていくようです。北へ帰る日も毎年ほぼ同じです。

──カレンダーが頭に入ってるみたいに。

植田 よく言ってるんです。半年別居、半年同居が夫婦生活が長く続くコツだと(笑)。


※7 オオワシ タカ科の鳥。全長約95㎝、翼を開くと240㎝程度。全体に黒褐色で、肩や尾は白く、くちばしは黄色。冬鳥として日本に渡来。

※8 イヌワシ タカ科の鳥。全長約85㎝。全身茶褐色で頭の後方は金色。ノウサギなどを捕食。日本では北海道・本州(滋賀県をふくむ)の山地にすむが数は少ない。


ロシアの研究者が「彼女は狩りがうまい」と言っていました。

──平日ですが晴天なせいもあって、たくさんの人が撮影に来ています。それなのに、ほとんど木から動きませんね。

植田 オオワシはすごく省エネな鳥です。こちらのホワイトボードに少しでも飛んだら書いているんです。[右の表参照]オオワシの行動記録

 今日(12月7日)は午前7時2分にネグラ※9から移動してきたあと、いっさい動いていません。時には2日間、エサを食べていないこともあります。エサが見つからなければ、いつまでも待つわという感じです。

──飛来した当初はわりに活発ですね。栄養補給のためか、食べた日が多い。

植田 今日も狩りはしないんじゃないかと思います。天候が悪かったり、魚がいないときは我慢です。気が長い鳥です。

 湖面が波立つと魚が見えないのではないでしょうか。そういう時は水鳥に切り替えてエサにします。弱ってるのがわかるのか、行けそうな水鳥がいると狙います。オオバンやカイツブリを狙うんですが、彼らは潜って逃げる時、水中の姿が上空から丸わかりの泳ぎをするので、狙いやすいのかもしれません。

 以前、ロシアの研究者が来た時、オオワシの中で水鳥を狙う鳥はめったにいないので、「彼女は狩りがうまい」と言っていました。雌で狩りがうまいのは珍しいです。

──雌の方が雄より大きいんですよね。

植田 大きい雌の方が俊敏な動きは苦手とされているんです。だから彼女は「おばあちゃん」と呼ばせてもらっていますが、「ちょっと恐いおばちゃん」ぐらいな感じですかね(笑)。

──観察上の注意点はありますか?

植田 道から見てる分にはどれだけ近づいてもあまり気にしていません。時どき大きなエサを獲ってくると重くて上の枝まで上がれずに、低い位置の枝にとまることがあり、人が大勢集まったのですが、気にせず食べていました。普通、猛禽類は隠れてエサを食べるのですが、彼女はわざわざ人間が見ているところに持って帰ってきて食べます。

──個性的なんですかね(笑)。人間が原因で姿を見せなくなったことは?

植田 あります。あの山の斜面を登って、同じ標高から撮影しようとした人がいて、その時は1週間ほど対岸の山に行って帰ってきませんでした。道路で見ているかぎりは、人間を気にしないんです。撮影者のマナーも以前に比べるとよくなりました。

 彼女のファンは多いんですよ。茨城県から毎年新幹線で米原まで来て、米原からタクシーでここに来て、麓から小さい双眼鏡でのぞいて、パンパンと柏手を打って拝んで帰るおばあさんがいます。ご自身の人生と重ねておられるのか。著名人では小泉純一郎元首相も一度見に来られてから、毎年「あれは元気にしてるか?」と気にされているようです。それでは、外に出て近くから見てみましょうか。


※9 ネグラ 鳥類が眠るための場所。卵をあたためヒナを育てるための巣とは異なる。スズメやツバメは集団のネグラを持つ。


彼女は寝姿を絶対見せてくれません。

(山本山の麓に移動し、望遠鏡をのぞきながら)
植田 あっ、いまおもしろい行動してますよ。こっちの足をこうニューンて伸ばしてるでしょ。疲れてきたんでしょ。7時間も同じ姿勢でとまってるから。いま、ストレッチ中みたいですね。あっ、いま僕を見てます。認知してもらいかけてるんですよ。清水さんは完全に認知されてましたね。清水さんがここまで来て解説を始めるとジロジロ見ていました。

いつもの枯れ木にとまるオオワシ

いつもの枯れ木にとまるオオワシ

──県外からの人も多いんですか?

植田 ほぼ県外です。7〜8割は県外の方。1、2、3、4、5、6……17、18、19……26、27……。30人ぐらいはいらっしゃいますね。

オオワシにカメラを向けて飛翔を待つ人々

オオワシにカメラを向けて飛翔を待つ人々

──数えるのは得意ですか。

植田 はい。なんか、数えたくなるんですよ(笑)。あの辺は朝からいらっしゃる方たちですね。あそこの方とか、僕が朝7時に来た時、挨拶しましたから。

撮影者A いま2時半だから、あと1時間ぐらいですか。3時半ごろにはネグラに帰って終わりでしょ。もう、ここまで待ったら最後までいますよ。

植田 あぁ、片足でとまってますね。やる気ないですね。

植──ネグラは、どこにあるんですか?

植田 南西へ伸びる尾根の向こう側に決まった場所があって、そこにスッと入って終わりです。ここは北風が強いんですね。春先になると南風も吹くんですが、南北の風がほとんどなんです。尾根の向こうに行くと北風を防げるので静かなんですね。よくわかってるんですよ。そして、彼女は寝姿を絶対見せてくれません。今の姿勢と同じように木にとまったまま、猛禽類は背眠といってクチバシを背中にうずめて眠るはずなんですけど。

──やはり飛ぶ姿は見ることができませんでしたが、本日は楽しいお話をありがとうございました。  (2017.12.7)


編集後記

7ページ掲載の表「オオワシの行動記録」は、湖北野鳥センターのホームページにある「鳥情報」のコーナーで順次更新されたものを見ることができます。本日(1月11日)時点で、取材にうかがった12月7日の部分を改めて見ると、《この日、9時間以上同じ木から動かず(今季No.1長時間)》……。狩りをする彼女の姿を見ることができたあなたは、ラッキーです。(キ)


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