インタビュー:「まちづくり」の核として、地域の歴史を次の世代に伝える役割を。

学区単位のまちづくりを進める過程で

──まずは、資料室誕生までの経緯をお話しいただけますか。
菩提寺歴史文化資料室 運営協議会 代表 田中宏明さん
田中(宏明) 資料室がある菩提寺まちづくりセンター自体の計画が持ち上がったのは、平成18年(2006)7月、10年余り前です。湖南市の中で一番西北にある菩提寺学区(菩提寺小・菩提寺北小)には、自治会が7つあります。「菩提寺」という昔からある在所と、昭和40年後半から昭和50年代前半にかけて、その周辺に次々生まれた6つの新興団地です。

 現在、学区内の人口は1万2000人ほどで、規模としては三雲、石部学区に匹敵する、湖南市の中でも大きな方なのですが、これまでしっかりした公的施設がありませんでした。昔からの在所である「菩提寺」区が資金を出して昭和45年(1970)に建設した公民館(菩提寺コミュニティセンター)はあったのですが、それ以外は、自治会がそれぞれ集会施設にあたるものを単独で持っていただけです。

 地震や暴風雨のときの避難所として学区内すべてをカバーできる大きな公的施設が必要だという話になりました。そうした緊急時用だけでなく、日ごろ用がなくても来たらおもしろい催しをやっているとか、知り合いの顔を見つけてしゃべるとかいった交流の場がほしいという思いがありました。

 当時から行政側も、「地域のことは地域の手でやってくれ」という感じになっていたのですが、その「地域」の単位が問題でした。規模が小さい自治会単位では、動ける人材も少ないので、小学校の学区単位の連合体で「まちづくり協議会」をつくって、議論を進めていこうということになり、平成20年(2008)6月に「菩提寺まちづくり協議会」が設立されました。協議会の中には、文化芸術委員会、地域活性化委員会など、いろいろな委員会があります。

 私なども昭和50年(1975)によそから新興住宅地に移住してきた人間ですから、自治会のレベルでは「われわれがつくった町だ」といった自負もあって、もともとの在所の人たちと学区単位での議論をするとなかなか嚙み合わないところがあったんです。視点を共有できるものはないかというので出てきたのが、地域の歴史でした。古いいわれのある立派なものがあるじゃないか、これを次の世代へ伝える作業をまちづくりの起爆剤にしようと考えたわけです。

 そのコンセプトからまちづくりセンターの中にも、いつでも誰でも見ることができる資料室を設けることになったんです。

──歴史文化をまちづくりの芯にするというのは、見本にした地域があったのですか。

田中(宏) 見渡すとどこでもそうなんですよ。例えば三雲まちづくり協議会でも、三雲成持※1や猿飛佐助※2の名があがります。ですから珍しい取り組みではありません。

儀平塾 岡本明一さん岡本 菩提寺の場合、郷土史家の鈴木儀平※3さんの存在がありました。平成20年6月に立ち上がった儀平塾で会合が25回あり、さまざまなお話が聞けました。まもなく儀平さんが亡くなられるのですが、それまでのお話の録音テープをもとにして、郷土誌『鈴木儀平の菩提寺歴史散歩』を完成させたのが、平成23年(2011)1月でした。

──制作・印刷を弊社が担当させていただき、儀平塾の皆さんのお話を本誌101号に掲載させていただきましたね。

田中(宏) 大変でしたが、その作業によって、儀平塾のメンバーに地域の歴史に関する知識が蓄積されていったんですね。私もふくめ儀平塾のメンバーが中心になって、平成25年(2013)10月、歴史文化資料室運営協議会を立ち上げることになります。

──その編集中から、地域の歴史遺産を見直すための取り組みをされていました。

田中(宏) 平成21年6月から3年計画で「歴史の小径」500mを整備、平成23年1月には市指定文化財である「円満山少菩提寺四至封疆之絵図」と「教如上人等書状」のレプリカ制作を行いました。地域の歴史遺産をいつでも見ることができるようにと考えたんですね。「少菩提寺絵図」は、西応寺に伝わってきたもので、地名の由来である少菩提寺※4の姿が描かれています。奈良興福寺官務家の古絵図を江戸時代に模写したとされますが、この作者、椿井権之輔(政隆)は、古文書を装った偽物をたくさん制作したといわれる人物です。

──いわゆる椿井文書※5は、全部が嘘ではないというのが、また困ったところで……。

少菩提寺の坊舎跡とみられる場所から発見された中世の瓦

少菩提寺の坊舎跡とみられる場所から発見された中世の瓦。平成25年9月の台風18号により、菩提寺では土砂流が発生、被害後の小川から多くの遺物が採集された。

田中(宏) そうなんです。100%がつくりものではなく、真実も相当含んでいる古絵図のようなんです。ちょうど菩提寺では、平成25年9月15〜16日に通過した台風18号のために、あちこちで山崩れなどの被害が出ました。せっかく整備した「歴史の小径」でも丸太橋が落ちたりしたのですが、そのおかげで小径沿いに流れている小川から古い瓦などが見つかったんです。

 翌年3月から栗東市教育委員会の藤岡英礼さんと野洲市教育委員会の福永清治さんに私たちも同行して遺物採集調査をしたのですが、お二人によると、鎌倉から室町時代にかけての瓦だそうです。その場所というのは、古絵図に「開山堂」が描かれている、少菩提寺の表参道にあたるところなんです。

 お二人が調査なさって縄張り図もおつくりになったんですが、あちこちに建造物があったらしい平地も確認されました。現在は見る影もありませんが、古絵図がまったくデタラメというわけでもないらしい。


※1 三雲成持 (1540〜1603)戦国時代の武将。三雲城城主で、六角氏の重臣。

※2 猿飛佐助 架空の忍者。真田十勇士の一人として真田幸村に仕える。一説に、三雲成持の兄である賢持の子、三雲佐助賢春がモデルとされる。

※3 鈴木儀平 (1918〜2009)郷土史家。滋賀県中世城郭分布調査員などを務める。

※4 少菩提寺 天平3年(731)、良弁僧正によって菩提寺山東麓に開基されたと伝わる寺院。大菩提寺とも称された金勝寺(栗東市)に対して名づけられた。30以上の建物をもつ大伽藍があったと伝わるが、元亀年間(1570〜73)に織田信長と六角氏の戦乱に巻き込まれて焼失、廃寺となった。

※5 椿井文書 椿井政隆(1770〜1837 山城国生まれ)が、依頼者の求めに応じて偽作した神社の縁起、系図、社寺の絵図などのこと。


資料室にはできるだけ「本物」を用意したい

──資料室の運営協議会立ち上げと同時に、湖南市教育委員会の氏丸さんにアドバイザースタッフとしての派遣を要請なさっていますね。

田中(宏) 毎月1回行っている資料室の運営協議会への参加をお願いしています。

菩提寺歴史文化資料館 アドバイザースタッフ 氏丸隆弘さん氏丸 職務として参加させていただき、協議会では展示のやり方などをお教えしています。基本的に展示パネルの文章などはすべて委員の皆さんで作成なさって、私はそれをチェックする役目です。あまりに行き過ぎているようなものは指摘したり、2つ説があって確定していないのなら、まぁそのままでよいとか。

田中(宏) 対外的なこと、他の博物館への質問なども、自分たちでやっています。栗東歴史民俗博物館や野洲市歴史民俗博物館にも何かあったら聞きにいったり、年に3回ほど催している歴史講座の講師をお願いしたり、とてもお世話になっています。

──平成26年には、地元の古墳からの出土遺物の貸し出し交渉が始まったそうですが。

田中(宏) できるだけ資料室に「本物」を用意しようと取り組んだのです。竜王山古墳群(寺屋敷古墳)は、昭和39年(1964)から県教育委員会の発掘調査が行われ、馬具などの金属類は、現在、県立安土城考古博物館に保管されています。それらを借りてきて展示しようと考えたのですが、ここの展示ケースでは湿度・温度管理が行き届いていないから、金属類はダメですと。そちらは写真パネルだけにして、壺などの土器だけ滋賀県埋蔵文化財センターからお借りしました。

竜王山古墳群から出土した須恵器・土師器

竜王山古墳群から出土した須恵器・土師器。滋賀県埋蔵文化財センターから借用。


──土器類は貸し出し申請が許可されやすいのですか。

氏丸 そうですね。近江八幡市では、施設をつくって古墳から出てきた馬形埴輪などの副葬品を展示しているところがあります。出土品の重要度にもよりますが、わりに一般的なものなら、県や市はどこも収蔵庫がいっぱいですから、貸してもらえますよ。

田中(宏) 最初私たちだけで頼みにいき、「ただし湖南市の教育委員会で責任をもって管理していただくのが条件です」ということだったので、氏丸さんに相当がんばってもらって、お世話になりました。

──資料室オープンに向けて、映像と音声ガイダンスの制作などに取り組まれました。

田中(宏) パネルの説明は字が小さくて読めないという人もいるので、音声ガイダンスを、湖南市出身のラジオパーソナリティー・キダユカさんにお願いしてつくりました。

──このセンター建設の予算の中に、この資料室の予算も組み込まれていたんですか。

田中(宏) ここは菩提寺のまん中あたりの高台で、もとは梅林になっていた土地です。裏(山側)は砂防林で。駐車場もふくめた建設費が5億円、その1%(500万円)を7m×7m、49㎡の資料室に使えることになりました。展示できない資料を保管する倉庫15㎡も隣につけてもらい、壁面の展示ケース、平面の移動可能な展示ケース2つ、照明器具を用意しました。当初の展示パネルは65万円かかりました。

──その後の運営費は?

田中(宏) 菩提寺まち協から、年間事業の企画展と歴史講座などに7〜10万円いただいています。しかし、今後5年先くらいを考えると、LED照明への更新などに多額の費用が必要となり頭の痛いところです。

いろいろな研究者の来室と「土曜日授業」

──そして、平成27年4月にオープンなさり、開館してからの主な来室者は、やはり地元住民の方ですか。

田中(宏) それが、去年の企画展でも、私は中世の城を研究している者ですといって北陸の方からお見えになったり。「どこでお知りになったんですか?」と聞いたら、「インターネットで」と言って。

菩提寺まちづくり協議会 文化芸術委員会 委員長 田中秀明さん田中(秀明) 昨日も2組の来室があったのですが、1組は、奥さんとお見えになった京都山科の学校の先生で、矢穴※6を研究なさっているそうなんです。菩提寺にある石造物には矢穴がいっぱいある。三体地蔵の一番右と左の地蔵さんの裏側にもある、菩提禅寺にある地蔵さんにも矢穴の跡がたくさんあるそうで、ここでいろいろ話をしてお帰りになりました。

──菩提寺山周辺の現物とセットで見に来られるわけですね。

岡本 いろいろ専門の研究者の方がお見えになって、こちらが対応できないような時もあります(苦笑)。

氏丸 中世の菩提寺には石工の集団が住んでいたのではないかといわれています。

岡本 花崗岩はきれいに割れるんです。

地蔵菩薩像3体

地蔵菩薩像3体(石造多宝塔と閻魔像と合わせ、「廃少菩提寺石造多宝塔および石仏」として国史跡に指定)。中央の1体は鎌倉時代、両側2体は南北朝時代の作とされ、その2体の裏に矢穴の跡がある。


氏丸 今は日本でやっても採算が合わないので廃業されていますが、最近まで石を切り出す業者さんがおられました。割る時の威力を増すために火薬を使うので、失敗して指をなくした人もいらっしゃいましたね。三雲の石は質がよくて、東京まで出荷していたそうですが、菩提寺や岩根の石はそれほどではありません。

 矢穴の研究は、大坂城の石垣の石を切り出した六甲山麓の石切り場を調査なさった兵庫県の森岡秀人さん(元芦屋市教育委員会)から始まりました。最近は滋賀県立大学の中井均教授が、三雲城の石垣と観音寺城の石垣を比較して、矢穴の幅が違うから三雲城の石垣は地元で石仏などをつくっていた石工に積ませたのではないかという説を出しておられたりします。

──山野の石にも歴史ありですね。こうして説明していただかないと通り過ぎてしまいます。

田中(宏) 開館以来、秋には企画展、といっても、部分的に展示パネルを貼り替えるものですが、それと、春と秋の年2回、歴史講座を催しています。講師には、氏丸さんや藤岡さん、今年6月の講座では滋賀県教育委員会の松下浩さんをお招きしました。

 それから学区の2つの小学校の児童を対象とした「土曜日授業」という取り組みもあります。

田中(秀) 「土曜日授業」は、文部科学省が全国的にすすめている取り組みで、小学校が休みの土曜日を使って、地域の人が小学生にいろんなことを教えるというものです。菩提寺の中を連れて回って説明したり、歴史とは関係なく、ペットボトルのロケットを飛ばしたりもふくめて年間10回ぐらい。

 今年の夏休みには、「歴史ワークショップ」と題して、資料室の展示を子どもたちに説明して、その後で「菩提寺検定」に取り組んでもらいました。40人ぐらい来て、できた子には認定書を渡したんですが、わりと好評でみんな喜んでいました。小学1年生から6年生までいるので、難易度別に4段階(初級、中級、上級1級・2級)とつくって。

岡本 相手が小学生ですから、説明や問題づくりも難しいんですよ。その場ではけっこう質問とかしてくれるのですが、いろいろ反省点もあるので直しながら続けていかないといけないと話しています。


※6 矢穴 石工が石を割る工程において、矢(クサビ)を入れるために石にノミで掘った穴。


企画展「《斎王群行》に見る菩提寺地域の街道文化」

──続いて、10月23日から11月30日までの企画展「《斎王群行》に見る菩提寺地域の街道文化」についてうかがえますか。

田中(宏) 今年は開館3年目で、博物館協議会に加盟した年でもあるので、ちょっと工夫した内容の展示にしたいと考えました。湖南市というと、江戸時代に東海道の宿場であった石部宿が有名ですが、菩提寺も古代には交通の要衝だったようです。

 そこで、平安京から伊勢の斎宮※7までを旅した「斎王群行」※8において、菩提寺に一行が宿泊するための頓宮※9が置かれた歴史を紹介することにしました。複数ある説の一つでしかないのですが、信憑性があり、菩提寺の住民でも知っている人は少ないので、ちょうどよいだろうと。

──群行が進んだルート上の甲賀の頓宮の位置については諸説あり、菩提寺が候補の一つであるわけですね。

氏丸 頓宮の位置を考える際に問題になるのは、ルートが野洲川の右岸(野洲川の場合は北側)を通ったか、左岸を通ったかなのですが、甲賀の頓宮の位置として説があるのは、水口の御厨、三雲、菩提寺の3つなわけです。ただ、水口まで行くと、次の垂水との距離が近すぎるんですね。平成元年(1989)に斎宮遺跡のある三重県多気郡明和町に斎宮歴史博物館※10ができた時も、「甲賀の頓宮」の位置は確定できなかったんです。ただ、当時は、旧東海道のルートのこともあって、三雲説が有力だったように思います。

──ところが、野洲川を渡って右岸に来たという記録もあると。

氏丸 そうです。伊勢落(栗東市)のところで野洲川を渡ったというのですね。同地に立つ碑にも書かれています。頓宮に入る前に禊をする必要があるのですが、ちょうど伊勢落─菩提寺の部分は野洲川が一番浅いところで、雨さえ降っていなければ容易に渡れたはずです。いまでも野洲川左岸にある何軒かの家は、対岸の菩提寺にある正念寺の檀家さんなんです。夏場とかなら、歩いて行き来ができましたので。

 江戸時代には幕府が通行者を監視するために舟による「横田の渡し」ができますが、お金がない旅人は夜、常夜灯を目指して歩いて渡ることもあったようです。雨の少ない冬には、土橋がつくられていましたし。

──展示のための資料集めはどのように。

田中(宏) まず、垂水の頓宮があった甲賀市土山町の土山歴史民俗資料館に行って、土山町で毎年「あいの土山 斎王群行」という催しをやっている実行委員会を紹介してもらいました。企画展の計画をお話したら、実行委員会が撮影なさったビデオを貸してもらえることになりました。

斎王群行を再現した「あいの土山斎王群行」

斎王群行を再現した「あいの土山斎王群行」(あいの土山斎王群行実行委員会提供)

──若い女性の斎王を中心に平安時代の衣装の行列が街道を歩く斎王群行は、絵になるので各地で再現する催しが行われていますね。

氏丸 明和町の「斎王まつり」で昭和60年(1985)から行列が歩くようになり、平成10年(1998)に土山町でも行うようになり、その翌年から京都市の野宮神社が「斎宮行列」として開始しました。京都市のものは最初、京都から伊勢まで歩く催しをしたいという呼びかけが一度ありましたが、結局成立しなかったですね。

 もう1ヵ所、初期に頓宮が置かれた伊賀市柘植町でも、平成15年から斎王群行を再現した催しが行われているそうです。

田中(宏) 企画展では、第18回あいの土山斎王群行(平成27年3月)を撮影したビデオをテレビで流します。動く映像や音があるのは願ってもないことですからお借りしたのですが、3巻、1時間以上あり、準備から、当日の来賓のあいさつ、片づけなど全部をそのまま流しても仕方ないので、編集して16分の長さにしました。一応、実行委員会さんに許可をもらいにいったら、「ええなぁ、うちにも1本くれ」と言われて、コピーを渡してきました。

 その他、いろいろな方に協力いただいたのですが、特にお世話になったのは斎宮歴史博物館の榎村寛之さんです。

──斎王群行に関する著作も多い、第一人者と言ってよい研究者の方ですね。

田中(宏) 博物館にうかがって、我々が考えているパネルの内容をお見せしたんです。すると、解説文の間違い、ルビを振る箇所などをご指示いただいて、写真も「ネットの写真を勝手に使ったらいけません」とおっしゃって、館から写真を貸し出していただけることになりました。

 できあがった企画展のパネル展示は、壁面の一角と、平面展示ケースの半分だけを使い、評判がよければ、そのまま恒久展示にするかもしれません。

 ちょうどパネル用シートができあがってきたので、それをご覧いただきながら説明します(左図を参照)。ポイントとなる部分は先ほど氏丸さんがおっしゃいましたので、くり返しになる部分もありますが。

 都が平城京だった奈良時代の群行ルートは、この図の帰京路(天皇崩御や身内の不幸などによる退下のルート)に近いものだったわけですが、都が平安京に遷った平安時代にもルートの変化がありました。それを説明するために、平安京からの群行の道のりをたどってみます。

斎王の群行路と頓宮の位置

斎王の群行路と頓宮の位置:駒田利治『伊勢神宮に仕える皇女・斎宮跡』(新泉社)掲載の図などをもとに作成

 天皇が即位すると、内親王の未婚者の中から占いで斎王が選ばれます。斎王はまず宮城内に初斎院を置いて約1年間潔斎します。つづいて宮城の外に野宮を造営してさらに約1年間暮らします。ようやく3年目に斎王は数百人の供を従えて伊勢に向かいます。京を発って、最初の宿泊施設である頓宮は勢多(瀬田)にありました。もともと近江国の国府があった場所だそうです。それから、甲賀、垂水、鈴鹿、壱志の頓宮を経て、5泊6日で斎宮に到着したとされます。

 近江国から出る道は、平安時代初期には倉歴道(杣街道)を通っていったん伊賀国に入り、柘植で東に向かうルートでした。その当時は、伊勢落から野洲川は渡らずに、三雲へ進んでいたようです。その後、新たに開かれた阿須波道が886年から正式な道となります。菩提寺に頓宮が置かれた可能性があるのは、このルートの時代です。

 11世紀半ばに後朱雀天皇が即位すると娘の良子内親王が斎王に選ばれました。長暦2年(1038)9月、良子は斎宮へ向かうのですが、この時、随行した藤原資房という貴族が書いた『春記』※11という日記が残されているんです。これを平成5年(1993)に古瀬奈津子さんという研究者が活字化されて、国立歴史民俗博物館の研究報告に発表なさいました。その中の該当部分と、それを榎村寛之さんが現代文になおされたものをパネルにして展示します。

 それをたどっていくと、2日目の申の刻(午後4時頃)に勢多頓宮を出発して、同日の夜に甲賀の頓宮に到着しました。この時の時刻は書かれていないのですが、到着前に橋のない川の中を歩いて渡ったと記しています。現在の瀬田─菩提寺間の距離は16〜17㎞ですので、斎王を乗せた輿をふくむ行列だとしても5時間で行けるでしょう。そうすると、午後9時に到着します。渡った川は野洲川と考えられます。3日目は、午前11時頃に出発して次の垂水に申の刻に着いています。

 これが水口だとすると瀬田からの距離が27〜28㎞も離れていて、到着が深夜になってしまいます。逆に垂水との距離は11〜12㎞しかなく近すぎるんですね。もう1つの三雲は、野洲川の左岸なので渡る必要はなく日記の記述と合いません。これは菩提寺説を支持するしかない(笑)。

 そこで、この時の甲賀の頓宮が菩提寺のどこにあったかと考えるわけです。100人以上、多い時は500人もいたという供人もふくめた宿泊施設ですから広い平地が必要だったはずです。私たちは斎神社※12の裏、今の北山台の一帯かなぁと想像しています。

──失礼を承知で言いますと、以前の田中さんは、専門的な歴史の話は他のメンバーに任せるよという感じだったのに、こんな解説をお聞かせいただけるとは……。

田中(宏) 驚いた? 自分でも驚いてる(笑)。


※7 斎宮 伊勢に置かれた斎王の居所。斎王(斎皇女)は、天皇即位の時、伊勢神宮に天皇の名代(代理)として遣わされた未婚の内親王または女王。7世紀後半に天武天皇によって制度化され、14世紀半ばに南北朝の動乱で廃絶するまで約660年間続いた。

※8 斎王群行 斎王と供の一行が伊勢の斎宮へ赴く旅のこと。

※9 頓宮 仮の宮殿。群行がその地を発てば、解体撤去された。

※10  斎宮歴史博物館 斎宮跡に設立された三重県立の博物館。発掘調査にあたりながら、姉妹館にあたるいつきのみや歴史体験館とともに、斎宮の公開普及に努めている。

※11 春記 藤原資房(1007〜1057)の日記。書名は資房が長く務めた「春宮権大夫」に由来。自筆本は伝わらず、写本が東寺に伝来。京都国立博物館蔵。重要文化財。

※12 斎神社 湖南市菩提寺の旧村社。天平時代に少菩提寺の守護神として建立されたと伝わる。元亀元年(1570)の兵火で焼失、享保13年(1728)に再建。


「明治150年」の来年に向けて

──最後に、資料室の今後のご予定などを。

氏丸 来年の1つの方向としては、「明治150年」の節目なので、明治の建築物や人物を県でもクローズアップさせようとしているようです。菩提寺の場合、山地の緑化を主導した龍池藤兵衛さんという偉人がいらっしゃいますから、それをメインに持ってこれるかなとは思いますね。

田中(宏) やっぱり菩提寺といえば、「梵兮葱兮」※13の碑。今はこのまちづくりセンターの正面に立っていますが。藤兵衛さんの趣旨に賛同してみんなが手弁当でハゲシバリ※14の苗を植えたという。それがこれからのまちづくりにも見本になるかなと思います。

氏丸 例の聞き取りは始まりましたか?

田中(秀) 9月26日からやる予定をしています。古い菩提寺の在所のお年寄りが、ご両親や祖父母から聞いた話をまとめようとしているんです。老人会で人選してもらって集まっていただき、録音を文字に起こして、冊子にできないかと。9月に1回と10月に2回の日は決まっている状態です。今では、聞き伝えの話で真偽が確かめられなくてもいいと思うんですよ(笑)。それを聞いて他の人が「そういや、こういう話もあったな」と思い出してくださったら。

氏丸 湖南市のまちづくりの提案型交付金で、お金が出るんです。

田中(秀) 菩提寺まち協からは2つ申請していて、もう1つは、地域の行事や祭りを映像記録に残す取り組みです。各自治会の夏祭り、斎神社の祭り、和田神社の愛宕祭り、お寺の花祭りなどを撮影してきました。自治会夏祭りの撮影はもう今年で3回目で、以前の映像は30分ぐらいに編集してDVDに焼き、7つの各自治会に配りました。

──お忙しいところ興味深いお話をありがとうございました。
(2017.9.15)


※13 梵兮葱兮 「ハゲ山が青くなった」という意味。大正12年(1923)、砂防工事を記念して建てられた。

※14 ハゲシバリ カバノキ科の植物ヒメヤシャブシの別名。やせ地でもよく育つため、ハゲ山の緑化に用いられた。


編集後記

本誌特集で名前が登場する榎村寛之さんの著書『斎宮─伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)が、書店に新刊として並んでいたので購入。「あとがき」の著者の助言を無視して、第1章で斎王成立の背景に近江政権と壬申の乱があったことを知り、第2章で菩提寺の地に頓宮を置いたかもしれない良子内親王に関する記録を読んでいると、「単衣」の語が現れ、まったく偶然ながら9ページ掲載の節足動物がとても雅な生き物に思えてくるのでした。(キ)


ページ: 1 2 3

連載一覧

新撰 淡海木間攫

Duet 購読お申込み

ページの上部へ