田中新治郎さん 元木挽職人 昭和4年(1929)生まれ 85歳 |
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長峰 透さん 甲賀市教育委員会 歴史文化財課参事 |
工場解体にともなう寄贈と総合調査
──「近江甲賀前挽鋸製造用具及び製品」が国の重要有形民俗文化財に指定されたとのことで、おめでとうございます。まず、それまでの経緯をお尋ねしてよろしいですか。
長峰 昭和61年(1986)に前挽鋸の製造業者の一つだったマルヘイ(八里平右衛門家)の工場が解体されることになり、当時(合併前)の甲南町へ製造用具が寄贈されました。公民館の職員が引き取りに行って、とりあえず近くの小学校のプレハブに保管されたと聞いています。
──現在展示されている、ふれあいの館は平成3年(1991)に開館していますね。
長峰 ふれあいの館の開館は、前挽鋸の寄贈とは別に進められており、近くの甲南第三小学校の講堂を移築するかたちで出来上がりました。お年寄りから子どもたちにいろいろな生活文化を伝承する、世代間の交流を目的とした建物だったので、いろいろな民具が集められてきました。そこへ、同じ民具だからということで、前挽鋸も収蔵・展示されるようになったものです。
その後、平成9年(1997)に前挽鋸の製造職人さんの協力のもと、製造工程の撮影収録を行い、この時は作業部屋を復原し60年ぶりに「透き」の作業をしていただきました。そして平成12年(2000)度から3年間にわたって、甲南町教育委員会が寄贈資料もふくめた前挽鋸に関する総合調査を行い、私もいくつかの調査を担当しました。
──その結果、滋賀県の民俗文化財に指定されたんですね。
長峰 もちろん、それも念頭にありましたが、何より当時はまだ資料の整理整頓すらできていなかった状態で、ちょうど国と県からの補助金も利用できるというので取り組みました。地理の面から、あるいは歴史の面から、あるいは道具史の面からと、多くの研究者がこの道具についてアプローチしたわけです。
当時は、ノコギリをつくる職人さんの今村謙治さんという方がご健在でした。使う側は本日も同席いただいた木挽職人の田中新治郎さんがおられて、大急ぎでビデオ撮影などによって双方のお仕事を記録したわけです。──甲賀市の杣川沿い、JR草津線でいえば貴生川駅から甲南駅にかけての集落が前挽鋸の産地だったという歴史は、地元では知られたことだったのですか。
長峰 近くにお住まいだったお年寄りは、昔、「とんてんかん」とノコギリを打つ槌音が聞こえていたのを記憶していらっしゃるでしょうが、ちょっと離れた地域の人は、幅広のノコギリは見たことがあり、木挽さんも知っているけれど、地元でそんな大々的につくっていたとは知らなかったという方が多いのではないかと思います。
──一番古いノコギリは、いつ頃のものが残っているのですか。
長峰 江戸時代(18世紀)のものが残っていますが、形がまったく違います。展示品の多くのように幅広ではなくて、だいたい15㎝か20㎝幅で、クビ(持ち手の部分)がきゅっと90度曲がった形をしています。
京都で製造技術を習得して帰郷した人が作るようになったのが始まりとされており、鍛冶の燃料になる松炭が生産され、ノコギリを使う木挽も多かった杣川沿いで製造業者が増えていきました。明治35年(1902)には13の製造業者によって前挽鋸製造業組合が組織されており、大正15年(1926)刊行の『甲賀郡志』を見ると、甲賀の特産品の中に「大鋸」が出ています。大正初期に滋賀県内務部が発行した『滋賀県産業要覧』によると、出荷枚数は明治41年に2万7000枚に達し、大正元年の製造業者数が12、職工は300人となっています。明治から大正にかけて、あちこちの博覧会で一等賞をとったりして、品質のよさが全国的に知られるようになりました。
北は樺太・北海道、南は台湾・マニラまで販売
──平成12年の調査報告書によると、甲賀産の前挽鋸の分布状況を調べに、長峰さんは北海道などへ行っておられますね。─
長峰 行きました。最初、札幌の北海道開拓記念館※まで調査に行きました。すると、所蔵されている前挽鋸の半数以上が甲賀産のノコギリであることがわかりました。
それから帯広も行きました。甲南の深川市場にあった前挽鋸屋、福本政治郎が明治37年(1904)に帯広に渡って、福本商店の支店をつくるんです。北海道庁が、帯広─釧路間に根釧原野を横断するかたちで鉄道を建設する。大量の枕木などが必要になる。ビジネスチャンスだというので、出店したわけです(明治40年に官設釧路線が全通)。その後、これは偶然にですが、甲南町に樺太出身の方がおられたことを知ったのです。その方は樺太の造船会社で前挽鋸を使っていたことを覚えておられました。樺太での木の倒し方とか、どのようにして製材したのかとか、聞き取りをしたんです。
──報告書によると、販売先は北海道だけではなく、全国にわたっていますね。
長峰 大きく分けて二つの販路がありました。まず、既製品を全国各地の金物問屋に卸して販売される場合。木挽職人は小売店で製品を見て購入します。
もう一つは、業者名簿や新聞広告などの印刷物を見た木挽職人が個々に甲賀の前挽鋸屋へ注文し、注文の仕様に合わせて製造された製品が発送される場合です。
──つまり、オーダーメイドの通信販売ですね。
長峰 最初の注文は購入者が甲賀まで泊まりでやってきて、製品に納得したら2回目、3回目はハガキや封書で注文するようになる場合と、同業者内の評判を聞いて最初からハガキで注文してくる人があったようですが。今回の有形民俗文化財の指定資料には、こうした注文ハガキなども含まれます。注文ハガキには、こんな形にという図面が描いてあったり、封書の場合は原寸の型紙が入っているものもあります。前挽鋸屋の側は、こうした顧客の名簿をつくり、毎年、年賀状や暑中見舞を送っていました。
大正から昭和の初期ぐらいが中心ですが、顧客から注文が届くと、それに応じて職人がつくる。そして、丸通(いまの日通)の営業所が、あちこちに散らばっている工場からノコギリを集めて回るんです。大八車に載せて、あるいは自転車に載せて、草津線の深川駅(いまの甲南駅)で荷造りをされて、全国に出荷されました。
北は樺太から、日本の旧領土のすみずみですね。朝鮮半島、台湾、マニラ。それから、中国東北部(旧満州)にも販売されました。韓国の方で、同じ形の前挽鋸を見たという手紙をもらったこともあります。
──他の産地のものと甲賀産のものと、何か違いはあるのですか。
長峰 「土佐鋸」と呼ばれるノコギリの産地だった高知県の前挽鋸は総鋼といって、ヒラ(歯がついている部分)とクビを一体でつくっていくので、まったく形に変化がありません。甲賀の場合、ヒラの部分が鋼で、クビの部分が鉄なんです。木挽さんの要求によって、クビを長くしたり、ヒラの背を短くしたり、挽く木の種類ごとのニーズによって、首長のノコギリや引き回しノコギリなどもつくっていたので、非常にバリエーションがあります。だから、オーダーメイドに対応しやすかったともいえるでしょう。
──全国の民俗資料館に民具として収蔵されているものも、多いのでしょうね。
長峰 たくさんあります。ただ、それらはすべて木挽さんが使った山仕事用の道具として展示してあるんです。甲賀は製造地として、製造用具が体系的に一式残っています。それが貴重なんです。製造用具と販売の実態を知る資料がセットで残っている。加えて、使い手がおられ、かつては製造業者の職人さんもいらっしゃった。それらの映像記録も残すことができたのは甲賀だけです。
──今回の国の指定は、それらが総体として対象になったわけですね。長峰 そうです。
──甲南町時代の報告書以降、何か新しい発見などはありましたか。
長峰 国の指定とは別に、関連の古文書が甲賀市の指定文化財になりました。貴生川地区の三大寺にあった福本九左衛門家の古文書を調査するなかで、なぜ甲賀でノコギリ製造が始まったか、その起源が確認されたんです。
前の報告書では、「成立伝承」としていたんですね。明治後期になって作成された八里家の品評会への出品解説書や滋賀県内務部が発行した『滋賀県之農工業』に、言い伝えをまとめる形で書かれていたものが、その頃は最古の資料だったからです。
今回の福本家の古文書で、江戸時代当時の現物史料が見つかったのですから大発見です。京都にいたノコギリ屋さんに弟子入りしていた福本九右衛門が独立しようとしたけれども、親方が許さず、九右衛門を訴えて裁判沙汰にした文書(「乍恐御訴訟」寛延3年〈1750〉)もありました。九左衛門は訴訟には負けたのですが、郷里である甲賀に帰ってノコギリをつくることは許可され、この地で製造が始まったわけです。
前挽鋸の製造工程─黒打ち、透き、歯焼き
──つづいて、簡単に前挽鋸の製造工程を教えていただけますか。長峰 大きく分けると、鋼板をノコギリの形にする「黒打ち」、表面をカンナですく「透き」、歯に焼きを入れる「歯焼き」の3工程があり、多くの製造所では分業で行われていました。
まず、材料の鋼として、本来は地元産の松炭を燃料に鞴などの鍛冶道具を使って「和鋼」を鍛錬して板にしていましたが、明治30年代にヨーロッパから輸入された板状の「洋鋼」が用いられるようになり、前半の工程が省略されました。
甲賀の前挽鋸屋の中には、蒲生町鈴にあった奥村製作所から仕入れた洋鋼の鋼板(「クロ板」と呼ぶ)を使っていたところもあります。
板の上に型紙を置いて印をつけ、タガネとハンマーで型にあわせて打ち抜きます。これをタガネでノコギリの形に切ります。それから、槌でばんばんたたいて、全体的にひずみを取っていきます。
──最後まで残された、背の側の黒い部分は何ですか。
長峰 「背抜き」[写真1]といって、ここだけ槌で叩いてわざと薄くしてあります。木を挽いていると、木が両側から締まってきて、ノコギリが抜けなくなるのですが、ここが薄いと比較的抜きやすいんです。大正以降は、荒っぽくベルトハンマーでばんばんと打っていたそうです。
次に、このヒラの一辺に鉄製のクビの部分を接着する工程を「首接ぎ」といいます。
そして、「歯落し」[写真2]といって、ハオトシタガネという道具で、ノコギリ歯を打ち抜いていきます。
──ここまでが「黒打ち」ですね。
長峰 次は「透き」[写真3]という工程です。前挽鋸になる鋼の表面が滑らかになるようにカンナで削るんです。木材を削るカンナは手前に引きますが、前挽鋸の場合は手前から向こうに押す、「押し掛け」です。木の場合のオガクズにあたるものをセンクズといいます。
製造工程の記録作成に協力いただいた今村謙治さんは、今村庄九郎商店で「透き」の工程を中心に働いておられた職人さんでした。「クロ板」を奥村製作所から仕入れて、近隣で副業に「透き屋」もしている農家に配って歩くこともしたそうです。
──板の歪みを直して、表面をきれいに仕上げる工程が「透き」。
長峰 最後が「歯焼き」[写真4]で、歯を左右交互に曲げる「アサリ分け」をしてから、熱したヤキバサミで歯を1枚ずつはさみ、冷水につけて急冷させて焼き入れをした後、再びヤキバサミでゆっくりとはさんで焼き戻しをします。最後に銘を入れて完成です。
歯の先端の目立ては、使う木の種類などで違うので、実際に使う木挽さんが行いました。
前挽鋸の製造工程─黒打ち、透き、歯焼き木挽の仕事─木挽職人4代目・田中新治郎さん
──つづいて、木挽の仕事について、田中さんにお話をお聞きします。田中さんのお宅は、代々木挽職人だったのですか。
田中 はい。私で4代目です。甲南地方は木材に関わっていた者が多い土地柄で、「三大寺、木挽。野田、桶屋。杉谷、下駄屋」と、地名に職業をつけて並べた歌を、祖母が歌うのを聞いたものです。
──新治郎さんは昭和4年(1929)のお生まれで、戦後、お父様について木挽の仕事を始められたそうですね。
田中 終戦直後は森林組合の承認を受けたことを示す刻印がなかったら、自家用でも木は使えない。うちは昔から職人で、材木商の鑑札を持っていた。切るだけでなく販売も含めた木材関係の一切合切の権限を持っている、看板があったわけです。うちがなぶっていたら、べつに怒られない。
──どこから注文があるんですか。
田中 材木屋からもあったし、個人的に補修したりする用材を、自分の所有する山の木を使うから、その施主から来てくれと呼ばれたり。
昔はヒューム管(一般に導水管として用いられる鉄筋コンクリート管)のかわりとして、松の木を前挽鋸で挽いて、くりぬいてから合わして、ねば土で巻いたものを使ったんです。そういう仕事もあったり。
親父の卯太郎は幅広くやっていたから、京都や大阪にも行きました。京都の北山辺りでは、親父は「甲賀の三羽ガラス」の一人に数えられていたものです。
──お父様が、何人か仕事仲間を引き連れていく感じなんですか。
田中 いや、もう昭和30年代には製材機が普及してきていたから、木挽を習おうとする人はいなかった。親父と私の2人です。
──扱われた一番太い木が、甲南町森尻にある矢川神社の御神木だそうですが。
田中 昭和26年(1951)です。本殿のそばの御神木が台風にやられて枝が折れ危険だというので、親父に声がかかりました。2人で本殿と拝殿の間へうまく切り倒すのに、3日かかった。切った木を引き取りにきた業者が怒ったんです。坂道を上がってきて目に入った時、玉切した長さよりも直径が太かったから、規程の寸法よりも短く見えたのでしょうね。「えらいことをしてくれたな」と怒った。すると、うちの親父が、「看板を揚げて何を言うてるんや。どこを測ってもらっても、6尺6寸ある。なかったら首をやるわ」と怒鳴って。実際、親父の言うとおりでした。大きすぎるから、この場で全部板にしてほしいということになり、大阪から2人の木挽を連れてきて、私も入れて4人で、板にアゲタわけです。
──知らない者からすると、前挽鋸は幅の広い、不思議な形に見えます。古いものは幅がせまく、だんだん面積が広くなっていったのは、太い木を扱うからですか。
田中 幅が広いと、ぶれもないし、サヤもいい。
長峰 重みで差が出るので。幅が広い方が、ゆがまずにまっすぐ挽けるということです。
田中 うん。おとなしく下がっていくということだな。ゆがまないで。
──重量があった方がいいわけですね。
田中 それと、ノコギリは減りが早いから、サヤを大きくする意味もあったと思う。
──使う側から、製造者に、ここをこうしてとか注文することもあったのですか。
田中 注文しました。木挽はみんな、コシといって、張りを見るわけです。全体がしおっとして、ぺこぱこになったら、ぶれる可能性があるので。両端を持って、こう曲げると、平均にしなる。裏返してみても同じように、平均にしなる。コシが抜けていると、挽いている最中にぶれる。
長峰 全体にうまくたわむものでないと駄目なわけですか。
田中 裏表を見て検討して、ぶれても大丈夫だというコシにしておかないと。
──前挽鋸で横に挽かれた木の断面の写真を見ると、本当にきれいですよね。長峰 きれいですね。
──一度挽いただけでこうなるというのは、信じられないぐらい。
田中 2mを超す大きな木を、薄い板に仕上げますでしょう。1枚上げようと思っても、3枚か4枚上がってくる。
長峰 それだけ吸いついている。
田中 「木挽さん、挽けたらへんじゃないか」と、業者が勘違いして怒ったこともある(笑)。
──木の種類による違いもあるのですか。
田中 あります。けれど挽く時の軟らかい、堅いは、目一つです。同じスギでも、軟らかい木もあるし、堅い木もある。ヒノキでも、艶のいいやつは堅いし、ぼおっとするような木目が出るやつは軟らかいし。
長峰 堅い木の方がきれいに切れるとか、そういうわけでもないのですか。
田中 いっしょ。それは目立てだけ。
──木挽の技術は、地域ごとに違うのですか。
田中 だいたい決まっています。縦で挽くか、横に挽くか。昔の写真や絵を見ると、木の上に乗って挽いているものがありますが、それはうちの親父は嫌いだったんです。木の上に乗ったりするものじゃないと、怒るぐらいだった。木を返しても構わないから、下から入れる。そうじゃなかったら、横から入れる。踏みつけて上から切るというのは、かわいそうだと。
「木挽」と呼ばれるには、木に関しては何でもしないといけない。
──一番難しい作業はどこですか。
田中 難しいのは、「墨付」かもしれない。「木取り法」といって、丸太(原木)の状態を見て、どういう材を何丁とるかを考える。木には腹と背がある。それを自分の頭の中で表面から見ている形に絵を描いて、墨を打つ。そうしたらお客さんが見て、「アシがいい」、つまり仕上がりがきれいだと評価される。大工さんからもそれをやかましく言われた。けど、これが一番難しい。
長峰 木の目を見て、どこに木目が乗るかとか、乗らないとかで。
田中 同じように反っていても、左が低い方が多いか、右が低い方が多いか、アールになったところを見るわけです。正直に等分して、同じようになるまで起こせば、真ん中にすっといい目が出る。それが難しい。
親父は説明しないで、「人の技を盗め、技を盗め」と言うばかりだったから、いまだに私もわからないところがたくさんある。
──南に面していた、日光がよく当たっていた側が、どうなっているんですか。
田中 やっぱり目もきれい。寒暖が反映して、北側の方は、どうしてもくちゃくちゃっとした目があるし、暖かい年だと、ばっと早く大きくなる。それを見るのが難しい。
山の木の場合、地面の傾斜が影響するのに、まっすぐ植えておくので、反って上がってくる。すると、樹脂分の多い「油木」がたくさんできて、縦割れしたり、あるいは横に曲がったりする目ができてくるわけです。初めからそれを考えて植えれば、正直に起きて、いい木が立ってくる。本当にいい木ができるようにする植栽も難しい。
──植栽にも関わっておられたのですか。
田中 植栽もしていました。山の中に入って。植栽も枝打ちも、「してくれ」と言われると行きました。
長峰 田中さんの家は材木商としてやっておられたから、枝打ちから植栽まで全部。
田中 「木挽」と呼ばれるには、木に関しては何でもしないといけない。
──前挽鋸を挽く人が、植栽から関わるというのは、品質の点ではベストでしょうね。現在、田中さんの技術をどなたか継承する方はいらっしゃらないのですか。
田中 ない。こんなしんどい仕事をする人は、もうない。
長峰 ノコギリの好きな方々が集まった「大鋸の会」というグループの皆さんが、5月24日に田中さんを囲んで、技術を習いにいらっしゃる予定です。
──本日は長時間、ありがとうございました。
(2015・5・14 甲南ふれあいの館にて)
編集後記
前挽鋸を初めて見た時は、デフォルメして描かれた漫画の中のノコギリみたいだなと思ったものですが、製造工程と使用法を知ると合理的な形なのだと納得。他県の民俗資料館で甲賀産を探してみるのも一興です(キ)