出席者の自己紹介
──(門脇)司会を務めさせていただきます。私も、愛知川駅から近い愛荘町中宿というところに住んでおりますので、自身の思い出もお話しさせていただきます。まずは順に自己紹介をお願いできますでしょうか。
廣瀬 住まいは東近江市北花沢町、以前の湖東町です。当初はバス畑を歩んでおりましたが、途中から鉄道へ移りました。最近になりますが、駅舎の改築にともなう、各市町の役場との交渉を担当いたしました。どこもご理解をいただき、きれいになった駅舎をお客さまに気持ちよくご利用いただけるようになり、大変感謝しております。
水野 私は近江鉄道に入社して以来、46年弱、鉄道一筋でした。最初は電車庫、わずかですが駅員を担当し、20歳から20年以上運転士を務めました。その後、乗務員の管理をする事務所に移り、定年後も嘱託として同じ職場で仕事をさせていただきました。
野々村 私は、愛荘町南野々目にある麻の4代目の家に18歳で嫁いで、1、2年前までずっと機織りの仕事をしていました。生まれは愛知川駅近くの愛荘町市で、いままたその市に暮らしております。
西澤 私が小学校1年の頃、父が愛知川駅前で新聞販売を始めて、現在も駅前で生活しています。祖父が土地の関係で近江鉄道の創業時に関わっていたこともあり、愛知川駅は小さいときから遊び場でした。高校・大学の通学にも使いました。めぐりめぐって観光協会の副会長(当時)になり、愛知川駅を建て替えるさいにも関わらせていただき、いま愛知川駅コミュニティハウスの指定管理の責任者をやらせてもらっています。
和田 現在は総合企画部におりますが、もともと近江鉄道の現業でずっと仕事をしておりました。八日市の駅での切符切りから始まりまして、その後運転士になり、それから電車のダイヤをつくる仕事、運転管理全体の責任者となり、今年の7月からは、鉄道から離れて、本社の経理部門の担当になっております。
にぎわっていた駅前
──昔の愛知川の駅、昭和30年あたりの駅について覚えておられることは何ですか。
野々村 駅の入口はごつい戸で、ゴロゴロと音がするのと違いましたか。
西澤 大きなサクラの木がありましたね。
野々村 そうそう。出たところにあった。
西澤 そこでどれだけ遊んだかわからない。駅のプラットホームで遊んだ記憶もいっぱいある。昔はけっこう高いところにあったように思うんです。いまは道がどんどん高くなって、駅もそう変わらない高さに感じますが、昔は雪が降ったらソリを作って、丸通(現、日本通運)があったところからビュッと下まで滑って降りられました。子供が自転車に乗る練習も、駅の改札口のところから坂を下に向いてやっていました。舗装を重ねていったからか、いまは駅周辺の道が高くなった。うちの家でも40㎝ぐらい上がったようだというのが、記憶にある風景との違いで第一にきます。
野々村 おっしゃったように駅の前に丸通がありましたね。私の嫁ぎ先の祖母(明治13年生まれ)の兄が役場勤めだったんですが、その人が中宿の宮川さんと沖の森さんと組んで、鉄道が愛知川につくように骨を折ったと聞いたことがあります。
西澤 駅に売店ができたのはだいぶ後やね。駅前に、青い自転車がずらっと並んでいて。
──あそこら辺に自転車屋がいくつかあって、角がたばこ屋さんやね。
西澤 うどん屋さんがあったし、うちの前にビリヤード場もあったんです。ちょうどいまの線路の横のコインランドリーがあるところ。そのあと、近江タクシー乗り場になった時期があって。駅近くは、医療や米屋、製材所、近江刺繍とか、次々できていったので「開墾地」と言われたそうです。
野々村 パチンコ屋もありましたやん。いま歯医者さんがある場所の向こうの角っこ。
西澤 映画館もあったし。あそこらは愛知川の発達したところです。いまは一番さびれとるけども。
子供が「キンテツ」に乗るとき
水野 昔は近江鉄道なんて言いませんでした。キンテツ(近鉄)、キンテツ。
西澤 そう。キンテツ言うてました。だから、子供の時分は向こうの近鉄(近畿日本鉄道)と同じかと思っていました。
──私も小さいときからキンテツです。今の若い人は「ガチャコン」ともいうけど。
野々村 私もずっとキンテツでした。
──車両はいろいろなものがありましたが、皆さんは何色が頭に浮かびますか。
野々村 そうですね。黄色とか緑。
和田 もともとは緑ですからね。近江鉄道の車両は。昔は、西武鉄道が赤、同じグループの伊豆箱根鉄道が青、近江が緑、その3色がライオンズカラーだといっていました。この3色だったのは、偶然なんですが。
水野 私も運転していたのは、緑系統が多かったですね。
和田 6月に紺色の新しい電車がデビューしました。今後はこの色をメインにと考えています。
──皆さんが子どもの頃、そのキンテツに乗った記憶はどんなものがありますか。
廣瀬 私は旧湖東町で愛知川駅までは距離があったので、修学旅行とかで乗ったような気はしますが、家で電車に乗せてもらうということはなかったです。乗りたくても、当時、経済的にそんな余裕はなかった。
水野 私は一番近い駅が豊郷でしたが、小さいときはまずないですね。彦根のえびす講でも、父親に連れられて自転車ですわ。当時は、皆、高校への通学も自転車でしたし。
──私は母親が彦根でしたので、彦根に行くといったらえびす講でした。
西澤 子供が連れていってもらえるといったら、彦根のえびす講か、八日市に映画を見に行くか。
野々村 映画によう行きましたよね。昔は電車に映画の切符も一緒についていました。
和田 もともと八日市の映画館のフィルムの輸送を近江鉄道でやっていたんです。その関係で割引券を会社がもらっていたので、つけて販売していたということですね。いまでも、夏休みの一部子供向け映画などは割引券付きで販売しています。
西澤 映画以外でも、昔は年末になると、お多賀さん(多賀大社)への初詣用の切符を売りに来はるんですよ。
廣瀬 社員みんな、割り当てがありますんで。まあ、余ったから返したりしましたけどね。なじみがないと売れないんです。
野々村 初詣の列車に乗るとね、混んでいて下に足がつかないんです。ぎゅうぎゅうで倒れるのも倒れへんという感じで。
西澤 うちは新聞屋という仕事柄、初詣には行けへんかったけども、あの当時は臨時列車が出ていましたよね。
廣瀬 年越し参りということでね。最終便が、確か単発が元日の夜の1時ぐらいやったかな。近江鉄道の社員は大晦日から3日までの4日間は休みなしでした。正月を家で過ごしたのは退職する5、6年前ぐらいから。それまでは、バスにいたときも、駐車場の応援とかに出ていましたので。でも、たくさん来ていただけるんで、なんか疲れるというよりも楽しいというか、やりがいを感じていましたね。
乗客数は昭和42年がピーク
水野 私が会社に入ったのが昭和34年で、36年から彦根の営業所に勤務するようになって、それから昭和42年まで電車通勤だったんですが、乗客がだんだん増えて、愛知川の駅から乗っても、人、人、人でしたね。記録を調べてみると、ちょうど昭和42年が年間の乗客数のピークで1126万人。それからだんだん減っています。
西澤 私が通学に乗っていた頃も座れないほどの人でした。
廣瀬 私の場合、愛知川の駅まで自転車で来るんです。当時、いつも帰りは夜の8時、9時で、バスがなくなってしまうから、家から愛知川駅までの2里、8キロは自転車で往復していました。そして、昭和40年代から車が多くなるでしょう。
──たぶん、その昭和42年のピーク以降にマイカーが増えていくんでしょうね。
西澤 昔は貨物も近江鉄道にたくさんありましたね。愛知川駅に引き込み線が両側にあって。
──いまはもう貨物は少ないんですか。
和田 もう貨物はやっておりません。
水野 創業当初から郵便車はあって。
西澤 一番後ろに連結されてたんですね。
水野 各駅へ降ろして、愛知川駅なら日通さんがあって。
野々村 石炭も運んではったと思いますよ。
西澤 そうそう。肥料とかも。愛知川駅からは米がどんどん運ばれていきました。右側の方に外材をあつかう伊藤製材が入っておって、仲仕さんらが運んではった。
西澤 愛知川駅からは近江バスも出ているでしょう。小学生の頃、昔はあまり家で新聞を取ってはらへんので、バスの乗客に売りに行かされました。運転士さんは何にも言われへんかったし、しばらく止まっている間にけっこう売れるようになって。
──水泳なんかも柳川の水泳場へみんなバスに乗って行きましたよね。
水野 バスは完全にあの当時は、鉄道の補完輸送です。鉄道に乗っていただくためにあった。
廣瀬 ところが、私らでも車を持つようになってからは、もう彦根までなら電車を使いませんでしたもんね。
一同 あはは(笑)。
廣瀬 八日市に行くにしても、彦根に行くにしても、愛知川駅に駐車場なんてないから車で直接、そうなってしまいました。
農家を続けるにはちょうどよかった勤務時間
──水野さんは電車の運転士としてはどんなことを覚えておられますか。
水野 私は運転士になったのが、昭和38年。その当時辞令には「運転士兼車掌」とあったように思います。
最初は車掌の仕事が多くて、1両目と2両目の中間ぐらいで笛を吹いて、手動のドアを閉めながら飛び乗る。そんなことをしていたのが、懐かしいですね。夏だと、車掌の私が閉めたドアを、暑いからお客さんがまた開けてしまうんです。エアコンなんか当時入っていませんので。
──運転がしたくて入社なさったのでは。
水野 いいえ、そういうわけじゃなかった。私はまさか運転士になるとは思っていませんでした。職場の上司に「お前が一番若いから(試験を受けに)行け行け」と勧められて。一度落ちまして、西武鉄道の養成所の6期生に入らせてもらいました。西武鉄道から40名余り、近江鉄道から7名でした。
──でも、人気職種ですよね、運転士さんは。
和田 私の世代だとそうなんですが。私も運転士になりたくて入社しましたし。
水野 私たちの当時は、家の田んぼもやりながら続けられる勤め先の一つと言いますか。そんなことで始まりましたが、20年以上、貨物にも乗ったり、車相手の踏切事故とかも何回か経験しました。
──近江鉄道の社員には、兼業農家が多かったんですか。
廣瀬 そうです。
水野 いまは農業従事者が集約化されつつありますけど、前はみんなやっていましたから。2日泊まって、明くる日家に帰れる勤務時間なので、仕事に選ぶという人もかなりいたと思います。
当時の勤務は、駅員の泊まり勤務になりますと2日泊まる、丸48時間勤務なんです。その当時ですと、午後11時から午前5時ぐらいが仮眠する時間になっていました。そして、1日非番で帰って、次の日にまた48時間。そして非番と1日休み。週に3日しか帰れない。その後、乗務員になって1日泊まりの勤務になり、「ああ、乗務員って楽やな」と思いました。
和田 いまも原則は24時間勤務なんですよ。朝8時に出勤したら次の日の朝8時まで、鉄道会社のほとんどはそうです。
西澤 私なんかは、夜、愛知川駅で駅員さんが寝てはるとよく遊びに行きました。
水野 私らも乗務員で「愛知川止め」があった当時は、あそこで寝ました。米原、彦根でも寝ましたし、それから八日市、貴生川、日野でもありました。八幡もあったかな。
廣瀬 八幡もあったね。
水害と雪害など
──他に乗客としての思い出はありませんか。
西澤 私が大変やったことは八日市高校に通っていた昭和30年代、愛知川が決壊して、下校の時間には電車が止まってしまって、歩いて家まで帰ったことがあります。御幸橋を渡ってようやく家に帰ったら、家は床上浸水ですわ。でも、駅はホームが高かったので無事でした。
──それでも、JR(国鉄)と比べたら、近江鉄道は止まらないですね。
西澤 昔は本当にめったに止まらなかった。逆に最近はよく止まりますよね。
和田 昔は係員が現場に行って、このぐらいやったら大丈夫と判断することが結構あったんです。いまは危険水位のラインが決まっていて、それを超えたら止めます。
西澤 愛知川上流の永源寺ダムで放流が始まったら、もう止まりますもんね。
和田 まだ水位に達しなくても、明らかにこれから放流されるとわかったら、先に止めます。風速計が25m以上の風を記録したら八日市にある司令所の赤いランプがつく、10分間のうちに2回以上ランプがついたら止める決まりです。目分量とは違いますので、昔と比べると止まる回数は確かに多くなっていると思います。
──私が彦根東高校に勤めていた頃、台風とか来ると、生徒たちがよく言っていたんです。「国鉄で通学してる生徒は止まって休みなのに、近江鉄道はなかなか止まらないから私らは来んならん」と。私は、近江鉄道は強いんだな、と思っていました。
廣瀬 よくJR(国鉄)が止まったとき、米原から八幡まで振替輸送をしましたね。
和田 1カ月ほど前にも、野洲の駅の信号故障か何かで、2000人ほどのお客さんを振り替えで運びましたね。
西澤 えらい収入ですな(笑)。
和田 でも、正規の乗車賃の半額分だけがJRさんから支払われる取り決めなんです。お客さまからはいただかずに。
──雪で大変だったご経験は。
和田 私が運転士だった頃は、愛知川あたりから新幹線と並行しているところで、それほどでもない雪でも新幹線は50kmの低速運転をするので、シャーッとそれを追い越すと気持ちよかったですね(笑)。
水野 昔は、もっと雪も積もりましたから。米原まで行くとさらに雪が多くて、深い。一番電車だと線路も何にも見えない、大丈夫なんかなという感覚で走っていました。真っ白の中。雪をだあっと前で押してるうちに、止まってしまうこともあったし。
水野 夜中に除雪車を通すんですが。
廣瀬 それでも心配でしたね。泊まっていても寝られないんです。多かったときはいろいろな事故があったもんな。昭和56年(1981)は多かったですね。踏切の事故とか。
西澤 新聞が来ませんでした。道路も全然動きませんでしたし。
廣瀬 あれはひどかったです。
水野 踏切の雪が凍ってしまってどけることもできず、引き返して脱線したことがありました。踏切がカチコチで、レールと同じような状態のところにあがってしまったようで。それから、一番電車が雪の重みで倒れてきた竹やぶに前をふさがれて、電車を止めておいて、竹をゆすって雪を落としにいったことがありました。
廣瀬 誰も助けに来てくれないですしね。
水野 私はワンマンになってからはほとんど乗っていないですが、いま乗っている者は一人で苦労があると思います。
和田 何もかも一人でやらないといけませんから。他社さんでの事故の影響もあって、規則がどんどんに厳しくなりましたし。
廣瀬 気持ちに余裕がないですよね。
和田 いまの運転士の場合、朝出勤してきたらアルコールのチェックがあり、前の日に飲んだお酒がちょっとでも残っていると、その日は強制的に休みになりますから。
廣瀬 ふりかえる人員はいるんですか。
和田 いません。だから、その日終わった人に残ってもらうしかありません。それでも、若い世代に運転士の希望者は多いですね。いま、だいぶ入れ代わりが進んでいて、運転士の平均年齢が28.5歳ぐらいです。
──高齢化が進んだかと思ったら、若いんですね。
和田 ベテランさんが定年を迎えられて、その後の世代は空白期間で、若い子がトップに立ってやっていかないといかんような状態になっています。
廣瀬 20年以上運転しているベテランはいないわけだ。
和田 そうですね。いま、今年4月に、32歳で運転士の指導員にまでなっていた者を駅員の仕事に移しましたので。最年長が、途中入社の者で36歳かな。
廣瀬 社員全体では、鉄道部で350人ほどいたのが一番ピークで、現在は100人程度ですか。
和田 平成21年に86人まで減って、そこから少し増えていま105人です。
廣瀬 3分の1以下ですか。機械化とか、ワンマンカーも入って省力化された面はありますが、個人の負担が増えてきますね。
お伊勢さんとお多賀さんを結ぶかつての計画
──愛知川辺りの小学校で伊勢への修学旅行というと、今だと大型バスで行くのでしょうが、昔は愛知川駅から乗って、貴生川駅で国鉄の草津線に乗り換え、伊勢方面へだったと思います。
西澤 そう、私らのときも近江鉄道で貴生川まで乗りました。その頃は、近江鉄道が伊勢までつながるという話があったんです。
和田 昔はそういう構想がありました。
西澤 湖西の江若鉄道が小浜(福井県)までつながるという計画を立てていたのと同じで、祖父から近江鉄道は伊勢まで行くんやという話を聞いていました。
廣瀬 もともとは貴生川ではなく、深川(甲賀市甲南町)へつなぐ計画だったんです。そして、将来は伊賀上野まで結ぶ。つまり、お多賀さんとお伊勢さんを結ぶ予定でした。
──全国的にも、鉄道は神社詣でのルートに設けられたものが多いそうですね。
和田 昭和2年(1927)には貴生川─伊賀上野間の免許を申請して、用地買収まで進んだそうなんですが、結局未着工のまま戦後になって、買収しておいた農地はすべて耕作者に返却されてしまったんですね。
廣瀬 宇治川電気(現関西電力)の経営になってからですね。
和田 そうです。大正15年(1926)に宇治電の経営になってすぐです。
西澤 信楽を抜けて伊賀鉄道の伊賀上野駅(三重県)につないで宇治(京都府)までという計画もありましたね。
和田 ありました。でも、信楽から先の山をぶち抜くのはたいへんな工事になるので、なかなか難しいでしょうね。
西澤 昔は、彦根から近江八幡駅行きの電車も多かったですね。いま、八幡へ行きたいと思うときに不便なんやわ。八日市駅での乗り換え時間が2、3分しかない。そうすると、もうよう乗らへん。
野々村 八日市は階段のロスが多いから。
西澤 そうそう。その代わりに貴生川行きがすごく多くなったね。いまでも八日市─八幡間はドル箱だと思うんやけど。
和田 じつは、米原から貴生川まで、通しで1本の電車を走らせるという前提で補助金をいただいていることが大きな理由です。昔は八日市から貴生川までの間は小さめのディーゼル車の車両が走っていたので、電車は米原から八幡まで。八日市から貴生川まではディーゼルでと、使い分けられていたんですよ。
野々村 私は日曜日にフリー切符を買って、自転車を乗せてお多賀さんに行ったりしています。お多賀さんまで歩くと遠いから。
──「サイクルトレイン」はよろしいね。ちょっとしたお出掛けに。どの辺りまで自転車で行かれたんですか。
野々村 お多賀さん以外は日野。日野は降りて、町中まで遠いでしょう。自転車があると便利ですわ。水口も行ってみようかなと思ってるねんけどね。
鉄道というのはお金もうけをするための事業ではない
──本数はどんどん減る一方ですか。
和田 はい、一時ちょっと増やしたんですが、今年の4月からまた減らしています。すると利用していただきにくいという悪循環になるんですが。
西澤 そうですよ。半時間に必ず1本あるとわかっていたら使えるけど、それが1時間に1本となると使いにくい。
──近江鉄道は鉄道部門の営業利益だけでは維持できていないでしょう。
和田 鉄道単体ではすごい赤字です。
──赤字分は路線のある自治体から補助があるんですか。
和田 いえ、それは一切ないです。バス路線には自治体からの補助があるんですが、鉄道にはそういう制度がないんですよ。ですから、他の不動産事業やレジャー事業で補っています。一番大きいのは不動産。土地や賃貸物件ですね。最近では、新名神高速道路の土山サービスエリアを運営するようになって、この収益がかなり大きいです。
──それでも赤字部門である鉄道をやめるわけにはいかない。
和田 鉄道というのは、お金もうけをするための事業ではないですよね。地域の皆さんに乗っていただく公共の交通機関という性格から、採算が合わないのでやめますわというわけにはいかない。
それこそ、去年、サーベラスが西武鉄道のもうかっていない路線をやめよといって大騒ぎになりましたけども、東京近郊ですらそういう考えには、地元から強い反発が出るわけですから。まして地方の滋賀県で、それも117年の歴史を持っているローカル鉄道となれば残してほしいという声はきっとあがってくると思います。
明治時代からある鉄道で1回も名前を変えていないのは、東武鉄道さんと伊予鉄道さんと私のところと3社だけなんです。JRだってね、戻れば国鉄ですし、もっと前は省線ですし、もっと戻ったら院鉄やったんでしょうし。
──それはすごいことですよね。その名前を変えずに存続していただきたいものです。最後に、新しくなった愛知川駅について。改築されたころは、西澤さんは観光協会の副会長ですか。
西澤 はい。当時は副会長で、建物の管理責任者になりました。改札の部分は近江鉄道が、残りは愛知川町が負担するということで、いろいろアイデアを出しあって、展示ギャラリーとびんてまりなど愛知川の物産を販売するスペースを設けることが決まり、観光協会が管理することになりました。
完成したギャラリーでは、一番最初に愛知高校美術部の作品を展示しました。その後も、けっこうギャラリーの展示はテレビや新聞の取材があるんですね。
和田 今年になってから多いですね、愛知川駅についての放送が。
西澤 放送があると、かなり人がいらっしゃって、びんてまりの売り上げもあるんです。わざわざ東京からというお客さんもおられます。そこから旧中山道の再生にもつなげられたらなと考えたりもしています。
──本日は懐かしいお話をありがとうございました。
(2013.8.7)
編集後記
小社は近江鉄道鳥居本駅の向かいにありますが、通勤はやはり車。けれど、大雪や彦根大花火大会を見物しに行くとき(つまり道路が麻痺するとき)の代替交通として重宝しています。佐和山トンネルを米原方向へ抜けるさいの、木立の中をつっきっていくかのような風景の近さも好きです。(キ)
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