座談会 江若鉄道の思い出
▼江若鉄道路線図
江若鉄道路線図

出席者の自己紹介

座談会に出席いただいた江若鉄道OB

(司会進行) 本日はお集まりいただきありがとうございます。順に当時のお仕事の内容の説明をお願いできますか。

松井 比叡山高校を卒業して、昭和34年4月に江若鉄道の車両課に入社しました。当初は機関区の雑役から始まり、1年半ほどして慣れると、夜に助役、検車係、私の3人で三井寺下機関区を守る24時間勤務の仕事につきました。最終列車が着くと点検して、朝一番の列車がスムーズに出庫できるようにする、冬であればエンジンの凍結を防ぐために一晩エンジンをかけて守をする、大変厳しい仕事で、一時は転職を考えたぐらいでした。

三井寺下機関区

三井寺下機関区(松本章一氏蔵)


 それからボイラーの試験に受かって2年ほど機関助手をし、次は機関士の試験を受けることになったわけですが、運転理論というのは本当に難しく、機関区長さんにつきっきりで教えていただきました。何とか合格して、晴れて機関士になりました。

伊庭 入社したのは昭和30年ごろです。運輸課で、まず堅田駅へ配置されました。2日行って1日明け、また2日行って1日明け、公休という勤務で、浜大津や三井寺下などの大きな駅は、1日行って1日明けの隔日出勤でした。仕事は、便所掃除から始まり、切符のパンチ入れ、改札を下りてきた人の集札、荷物係、出札という順番で覚えていきます。いろいろ慣れてくると、次は助役と駅手2人だけのような小さい駅へ配置されました。

堅田は何人の駅員さんがいらっしゃいましたか。

伊庭 駅長、助役、出札、貨物、それから車掌、それと駅手、5〜6人だったと思います。堅田駅はちょっと特殊で、私の入った時分は、前にバスの車庫があり、バスの車掌も堅田駅長が管理していました。

上田 瀬田工の機械科を昭和28年に卒業し、就職先を1年で辞めてぼおっとしているときに友達に誘われて入社しました。三井寺の機関区で、10年あまり整備をやっていたんです。その時分、車両が20ぐらいだったか。

松井 22ありました。

伊庭 蒸気機関車もありましたね。

上田 蒸気機関車にはC11、C12があって、ディーゼルエンジンの機関車はDD、DCというのがあった。整備の関係は、ディーゼル気動車を整備するグループ、蒸気機関車を整備するグループ、それらの車輪など足元関係を整備するグループと、三つに分かれていました。8〜10人でディーゼルエンジンの整備、変速機などを含めた整備をしていました。いまみたいな機械がないので、みな人力です。整備士が腕の力で、ごっつい枕みたいなものを使って、はねたり閉じたりしながら転がすんです。

 1カ月検査というと、ナットがゆるんでいないかとか、ちょっとふたを開けて検査する。3カ月検査も同じような検査。6カ月検査では、変速機とかを分解してみる。1年検査ではエンジンもみんな分解して整備する。エンジンを分解すると手も爪の中まで真っ黒けになってしまうんです。あれが一番、若い者はみんな困っていたな。

伊庭 みんなで帰りしなに風呂に入ったな。

上田 そう。風呂に入っても落ちない。

伊庭 毎日点検は、1行程走ってくると点検ハンマーで車輪やらを全部トントンとたたいて、ネジのゆるみがないかとかを点検されていましたね。

上田 それは出周り検査といって毎日やりました。乗務員が調子が悪いと報告があると、徹底的に整備したり。

 三井寺機関区の整備にあたる者は国家試験の免許を受けました。すると、人のたりなかった自動車課に呼ばれて、江若交通で4年ほど整備をやりました。そしたら、早期退職が求められたなかで、江若交通でがんばろうかという社員が国家試験を受けて自動車課へドッと入ってきた。同時に、46歳以上の人が強制定年でやめられたんです。用地管理にいたベテランの人もやめてしまった。「機械の図面と土地の図面とは違うけど、図面が見られるから用地管理に来い」というので事務所に上がって、さっぱりわからないまま用地管理の仕事につきました。

 当時、江若の用地には20m刻みで杭が打ってあり、それを目印に管理するのですが、私が担当した時期の仕事は、江若がなくなり湖西線になったときの残地をどうするかでした。駅の敷地以外にも、湖西線は直線が多いのに、江若は回っていたから残地ができるんです。それを元の地主さんに個別に売ってしまうとあとで利用できないから、県や大津市、堅田町、高島町などの自治体で道路用地として買ってもらうことになっていたんです。来月は収入がなく給料が払えないというような時は、役所もよくわかっていて、「今月は、とりあえずこれだけ買おうか」と協力してくれました。

次の河合さんが戦中の入社で、今日の中では最古参ですね。

河合 僕は他で勤めていたんですが、機関区の助役をしていた叔父に人がいないから来てくれというので、昭和19年3月に入社しました。まず、構内手でした。仕事は機関車の掃除や、戦時中で木炭車が多くなっていたので、ガソリン車を改造した木炭車に炭をつめる仕事です。夜は機関車の火を消さないように、3、4台の守をするんです。普通の機関車なら朝まで大丈夫だけど、パッキンも何もないので蒸気が漏れて水がだんだん減ってくる。それをまた上げて、注水器でボイラーに湯を入れる。その作業で寝ている間がほとんどありませんでした。それを3年ほどやっていました。

 すると今度は機関助手がたらなくなってきて、構内手のまま窯焚きをしました。それを3年間やって、24歳のときに機関士になりました。それから40歳ぐらいまで機関士だったことになります。昭和42年に検車課に変わって乗務はなくなり、まもなく廃線を迎えたんです。

 まず、機関助手の時代は、とにかく石炭の質が悪くて苦労しました。亜炭で蒸気を上げるのは本当に大変です。後の方になるとちょっとの間でしたが割木もあって。蒸気が上がらなければ、ボイラーの中を風が通らず余計に燃えない。5時間かかったことがあります。8600という機関車でも、普通なら半分の量でいけるのに、質が悪いからいっぱい石炭積んで。まだ22、23歳だったけど、帰ってきたらもう腕が上がらん。

伊庭 戦中の話だから燃料がないんです。石炭が全部軍隊へ行ってしまうから。

河合 戦後は蒸気機関車がだんだん減っていきましたが、僕が24歳で機関士になって一番楽しかったのは、Cの11の機関車を運転していたときの気持ちよさ。

伊庭 大きい機関車でしたね。

河合 あれで走ったらものすごく気持ちがいい。かっこいいので、女性にもよくもてるんです。あれはよろしいな(笑)。そうすると、今度は小さい6号の機関車で苦労するんです。話が前後するけど、木炭車は力が弱いから勢いをつけないと坂が登らない。また電気関係も悪いから、セルモーターが駄目になったら、お客さんに押してもらってエンジンを掛ける。

お客さんに押してもらったというのは、昭和のいつぐらいまでの話なんですか。

上田 僕らの時代、昭和30年ぐらいには、もうそういうことはなかった。ディーゼルエンジン、それも国鉄と同じものを使っていたから性能はよくなっていました。

最後に唯一の女性である村上さん。

村上 私の祖父は、大正6年ごろですか、線路をつくる現場の監督を務めたこともあり、父も江若鉄道に勤めていました。祖父が写っている当時の写真を、入社してから部長に見せたら、「ああ、わしも怒られながらしていた」と言われたこともあります。

 私は本社の総務、庶務課にいて、タイプの資格を取っていたのでタイピストが主でした。それと、本社の電話番、電話は私の前にあり、正面が総務課長の席でした。そのときは女性一人だったんですけど、私はおてんばで、そんなに動じないでやっていました。当時は運輸大臣などに発送する文章のタイプ打ちをすべて任されました。極秘の書類というのもあって、それは会社が終わってから打っていました。


※1 堅田町 滋賀郡に属していた町。昭和42年(1967)に大津市に編入。

※2 亜炭 水分などを多く含んだ炭化の程度が低い石炭で、発熱量が小さく、灰を多く残す。


混雑した夏の水泳と冬のスキー

夏は琵琶湖への水泳客で混雑したそうですが。

河合 7月の第4と8月の第1日曜は一番お客が多いときでした。機関車の前も横もみんなぶら下がって。混合列車といって、客車が後ろだったかな、客車と貨車をつなげたものは、とにかく長いから客車をホームにつけるのが難しかった。

江若鉄道 水泳列車

江若鉄道 水泳列車(昭和43年8月 福田静二氏撮影)


上田 夏のダイヤは、近江舞子辺りでお客さんを乗せる客車がないから、貨物の後ろに客車をつないでいたという話は聞いた。

伊庭 三井寺から浜大津の間は警察がいるから、あそこは乗せ替えて行ったとか。

上田 そういう時代でしたね。

伊庭 自連(自動連結器)の上まで人が乗っていましたもんね。

上田 いけないということはわかっていたんですけれども、当たり前になっていた。

松井 お客さんも楽しみなんです。ぶら下がったりしてスリルを味わうというかね。昭和30年代以降もありました。ただ、貨物に乗せてということはなかったけどね。

村上 昭和35、36年は、汽車で舞子、和邇、真野浜の水泳場に、鈴なりにぶら下がってでも乗っていましたよね。

上田 事故はなかったな。振り落とされてというのは聞きませんでしたね。

伊庭 聞かなかったね。

水泳列車というのは、だいたい下りるのは近江舞子が多いんですか。

松井 当時はそうでしたね。

伊庭 もっと向こうへ行くと白鬚がある。

村上 青柳浜も。水がきれいだった。

上田 その時、三井寺の車庫は空っぽになるから、われわれ若い整備士は浜大津へ行かされました。ちょうど無蓋車の貨車が踏切の辺に止まるので、そこで下りて京阪電鉄の方へ行ってしまう、つまりただ乗りするお客が出てくる。それの切符取りです。持っていったはしごを掛けて降りられるようにしたその下でお客から切符をもらう。持っていない人なら、どこどこからだったらいくらですと教えて。たいがいの人は正直に乗った駅を言っていたんでしょうね。

以前、江若の方にお聞きしたのは、気動車を複数つなぐ場合、車両ごとに全部運転士がいて、警笛で合図をしながら発車したそうですが。

松井 いや、ブザーがあるわけです。変速機だったから、スタートのときは1段で、ブウ。そして今度、変速機を変えるときに、またブウと鳴ると、次は2段に入れる。それで3段に入れる。ブウ、ブウ。それでしたね、河合さん。

河合 うん。

伊庭 それが、1両ずつつないであるのを重連、3台続くときには三重連というんです。後から1人でできるように、2両編成になったやつができたんですね。

松井 そう。それが総括。

伊庭 そのときは機関士1人。あれは具合がよかった。

重連や三重連にしたのは、基本、水泳シーズンだけですか。

上田 いや、そうじゃない。通勤のときも。

伊庭 お客さんの多いときですね。列車の回数はだいたい決まっていて、その回数の間に人を運ばないといかんから、1両でたらなかったら2両つなぐ、エンジンのない小さな付随車の場合もあったけど、それでたらないときは、大きな普通の車両を連結した。

今日は混んでいるから急に増やすとかいう臨時列車もあったんですか。

松井 浜大津から連絡があるんです。いっぱい人がいるから、とにかく列車を出してくれということで。

上田 団体さんもあるしね。

伊庭 うん。普通1両のところを2両にするとか。新しい時間帯には走らないけど、車両が増えるんですよね。

本数も増える。

伊庭 本数が増えるということはあんまりない。よっぽどのときしかない。

松井 そうじゃないと危ないんです。単線運転だから。

伊庭 タブレット方式だから1区間に1個しか出ないしね。

あと、お忙しい時期はスキーだと思うんですが、スキーはだいたい比良山…。

伊庭 比良山よりマキノですね。

松井 あの時分はサンケイバレイ(現、びわ湖バレイ)があったから。サンケイバレイが多かったな。

上田 あれは後の方でしょ。

そうですね。できたのが昭和40年です。

伊庭 小学校のスキー教室はマキノですね。

上田 スキーは、やっぱり比良が一番多かったんでしょうな。江若を利用する人は。マキノのお客さんは小学生が多かったから、今津で下りて、またバスで連れていくのは先生がかなわんから、出発地からバスに乗るようになった。

松井 水泳客はたくさん乗れても、スキー客はたくさん乗れなかったからね。持っているものが多いから。

DD1352による除雪運転

DD1352による除雪運転(松本章一氏蔵)


村上 スキー服が全然ない時代だから、すぐぬれてね、そんな時代でしたね。

伊庭 雪は結構あったな。

河合 列車から、こう、両脇の川に浮かんでいる雪がつかめた。

上田 列車は今津の駅に入るんだけど、雪で列車が止まったことはあまりない。雪がよけるから。

河合 だけど、ダイヤはめちゃくちゃでした。だいたい安曇川から北が、よう積もった。

ラッセル車はなかったんですか。

松井 そういう砕くやつはないんですけど。

上田 さあっと分けていきよるんです。

伊庭 横へかき分けて行くんですね。

松井 行ったり来たり、夜中に何回も走るわけです。

河合 除雪車が面白い。朝一番は一面真っ白で、走ったらものすごく気持ちがいい。景色のいいこと。写真に撮りたかった。

松井 あれは楽しみでしたね。男冥利につきるというかね。

伊庭 あれが通った後、ポイントに雪がはさまったら取れないんですよ。あれを取らんことには線路が変えられないし。

上田 整備からしたら、雪の降った後に故障して入ってきたら、腹に雪をがっちり抱えているんです。雪取りからしないといけない。変速機のところには熱がないから、かちかちになって。

操車用の赤と緑の旗の使い方

当時、この旗を使っておられましたか。

伊庭 赤と緑のこれは操車が持つ旗です。僕らはこれをきりきりと巻いて、背中のバンドにくっと挿して歩いてた。「連結」(①)はこう。「突放」(②)はこれですね。

突放というのは。

伊庭 突き放すんです。機関士が後ろから押していって自連だけぱっと切ると、離す貨車だけが向こうへ飛んでいくんですわ。貨車は駅手が乗ってサイドブレーキをかけて停車させる。そして、これは行け、去れ。「向こうへ行け」(③)です。これを振ると、「こっちへ来い」(④)。赤を横に持って、こうするのは、「ぼつぼつ来い」(⑤)です。停車位置に近づいたらあんまりどんどん来てもらったらいかんから、赤を上に持って、やるわけです。そして「ストップ」(⑥)と。

松井 旗を使うのは昼間ですね。

伊庭 晩はカンテラを使います。
操車用の赤と緑の旗の使い方

貨物では材木と米が北から南へ

当時運ばれていた貨物は、どういうものが多かったんですか。

伊庭 材木とか。米は北から出てくるやつですね。石炭やらも来たね。

上田 米は江若沿線から都会へ出て行くんです。京都、京阪神へ。今津までは国鉄と…。

伊庭 トラックや何か、荷車で来るのと違うかな。

貨物の輸送

貨物の輸送(昭和44年 福田静二氏撮影)


材木はどこから乗るのが多かったんですか。安曇川などですか。

上田 やっぱりあの辺が多いんでしょうね。山深いから。それを置いておく広い場所があったし。学校のグラウンドみたいな。

村上 和邇駅も材木が多かったですね。

伊庭 だいたい駅のそばには材木屋さんがありますね。

伊庭 浜大津にもけっこう材木が置いてあったね。

上田 駅から倉庫へ下ろすと、丸通(日本通運)。

伊庭 丸通にはベルトコンベヤーみたいなものがあって、下ろしたら、カラカラと転がっていく。駅には、丸通の事務所もあるし倉庫もあった。農協の倉庫もあったな。

上田 そう。農協は江若の用地を利用した倉庫があった。

乗客とのふれあいと駅界隈のようす

利用者の方とのエピソードで何か覚えておられることはありますか。

河合 よく終列車で、顔を知っている人だったら「起こしてくれ」って頼まれたな。それはまだましで、ぐてぐてに酔って抱きかかえて下ろすようなのが一番困った。

村上 そのころは、どのお客さんがどこで下りられるか、ほとんど知っていたものね。だから、「起きや、起きや」って。

上田 地元の人と江若の駅員というのか、職員とは顔見知りが多かったからね。

伊庭 雪が降ってくると、家から駅までは長靴などを履いてきて、駅で靴に履き替えて行かれるんですよね。長靴は駅で預かっている。預かるというか置いておくだけ。

江若鉄道 浜大津駅構内

江若鉄道 浜大津駅構内(昭和44年 福田静二氏撮影)

当時、一番乗降が多かったのは浜大津駅ですか。

伊庭 やっぱり浜大津でしょうね。

上田 ずっと寄せてきて、あそこへ下ろすんですから。

伊庭 堅田もそこそこあったのと違うかな。あそこからバスが伊香立や仰木やらに出ていたからね。そういうバスの起点になるところ、高島に安曇川はそこそこあったはず。

村上 駅前におうどん屋さんが必ずありました。たくさん入っていましたよね。

伊庭 昔は浜大津でも江若鉄道が1時間に1本、和邇までは30分に1本ぐらい、それでかなりの人が駅にたまるから、駅の周辺にはうどん屋さんとかがたくさんありました。昔は大津駅から浜大津まで歩かれたから、あの近辺は店が割に栄えていました。

村上 浜大津の売店も、卵を煮ぬきしたものが冬の間、よく売れましたね。たくさんあるなと思ったら、もうないという。

伊庭 冬になると牛乳を温めたりして、よく売っていましたね。

駅に売店があったのは浜大津だけですか。

伊庭 割にありましたよ。三井寺もあったけど…。

村上 木戸駅にも売店がありましたよね。

運転手は花形、けれど気苦労も多い

10月31日営業運転最終日の近江今津駅。駅員さんとともに高校生が記念撮影をするようす

10月31日営業運転最終日の近江今津駅。駅員さんとともに高校生が記念撮影をするようす(昭和44年 福田静二氏撮影)

やはり、運転士さんというのは花形の職業だったんですか。

上田 花形ですよ、鉄道では最高の花形。

松井 女学生によくもてましたね。声を掛けられるというか、こちらが乗る時間帯を調べておいて、「今日は1時間早引けして帰ってきた」とか言われて、そういうことがあったね。

村上 私も見覚えがあるのは、若い女の子で襞スカートをはいた子が、必ず1回後ろの背中に立たれましたわ。ずっとそこに立っているわけではないけど、2、3人の女の子はいつもそうしていました。

河合 僕でもよく話し掛けられました。普段あんまり話さんほうでしょう。運転しているときにべらべらしゃべりに来られて嫌でした。

村上 あのころは機関車の運転士の後ろのところにちょっと立っていた女子学生は多かったですよ。いまの女性とはまた違う意味があると思うんですけど。

伊庭 あの時分はみんな純情というか。

村上 淡い憧れですね。

気安だった地元の人と駅との関係

松井 機関士もよいことばかりではないですよ。江若在籍11年で、そのうち機関士はわずか5年半ですけどね。いまだに、出勤を遅れる夢、ブレーキのきかない夢、信号無視をする夢を見ますね。それを同じ機関士仲間に言うと、「おまえもやっぱりそうか」「楽しかった夢は見いひんな」と返ってくる。一番多いのはブレーキのきかん夢ですね。人の命を預かっているという意識がすり込まれてるから。

上田 それは職業病ですな。

松井 のんびりした思い出としては、こういうことがありましたわ。お年寄りが線路伝いにこちらへ向いて手を振っている。「待ってくれ」という意味らしい。けれども、発車の時間で車掌が笛を持って、ピピピと吹いている。そこで点検ハンマーを持って下へ降りて、車掌に「ちょっと調子が悪いから点検します」といって時間稼ぎをして、その人が乗られてから黙ってさっと動いた。いまのように、15分間隔で来るんだったら待てないけど、昼は1時間に1本なので。まぁ、若い、それも男だったら待たなかったでしょうが(笑)。

伊庭 いまから思えば、いい時代だった。

上田 いい時代でした。

伊庭 のんびりして。

村上 江若社員はいい人が多かったんですよ。それは感じるわ。

廃線当日の近江木戸駅

廃線当日の近江木戸駅(昭和44年 松本章一氏蔵)

伊庭 だいたい、江若社員は兼業農家が多かったから、みんな融和な性格ができてたんですよ。食べることには苦労していないからね。

村上 そうそう。

上田 僕も百姓をしながらだったから、会社そのものに金銭的には余裕はなかったけど、何かこう、心の上で従業員も丸く。

伊庭 ゆとりがあった。

松井 でも、私は町の人間だから、収入は江若だけしかなかったよ。

伊庭 それはしんどいな。

上田 あの地元の人と駅との関係。気楽に駅へ入ってきて話をされていたでしょう。

それは世間話をしに来るんですか。

上田 しょうもない世間話。われわれが暇なときに、駅にふいと行くと、駅長さんも仕事はちゃんとしながら、地元の人も交えて気安にしていましたよね。

伊庭 在所の祭の日には、駅にごちそうを持ってきてくれましたよね、あの時分。

上田 いまの時代では考えられないけどね。

伊庭 荷物を送りに来たりした人が、心安くされて。

本日は長時間ありがとうございました。
(2012年8月23日、大津市市民文化会館会議室にて)


江若鉄道の思い出募集
 江若鉄道とその駅周辺にまつわるエピソードを募集します。いつ頃、どの駅での出来事かを200字程度にまとめてください。
 お寄せいただいた内容は、2013年3月発売予定の木津勝・山本晃子著『(仮)江若鉄道の思い出』(サンライズ出版刊)で一部を紹介させていただきます。
■応募方法 お名前(匿名可)、ご住所、ご連絡先(電話番号もしくはEメールアドレス)と、思い出をご記入のうえ、下記までおはがき、ファックス、電子メールでお送りください。
サンライズ出版「Duet」編集部
〒522-0004 彦根市鳥居本町655-1
FAX 0749(23)7720
e-mail:info@sunrise-pub.co.jp


編集後記

 廃線の前年、湖北に生まれた私には、江若鉄道にまつわる思い出がまったくないので、平成18年に大津市歴史博物館で開催された企画展「ありし日の江若鉄道」に寄せられた思い出の文章(博物館HP「学芸員のノートから」で公開中)から一つ転載させていただき、後記にかえます。
 盆、正月は父の故郷の朽木ですごす為に浜大津より江若鉄道に乗った想い出があります。階段のある浜大津駅で「りぼん」や「なかよし」を買ってもらい安曇川まで長い列車の旅でした。琵琶湖ぎりぎりを走る時は寝ていても「白ひげさんや」と起こされたように思います。(大津市在住 女性)
(キ)

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