インタビュー ノムラ文具店の120年
(写真左)ノムラ文具店[彦根市銀座町、2011年6月撮影]
(写真右)昭和5年の野村商店(後のノムラ文具店)初荷のようす[表紙の写真と同日]

野村善一さん

ヤマノ商事株式会社代表取締役 野村善一さん


野村文具店の位置MAP

滋賀県一の品揃えをめざして

野村 お恥ずかしい話、私、つまり3代目で店しまうんやでな。昔から「売り家と唐様で書く三代目」。そう言いまんねん。これから「売り家」と書きまんねや。まあ、時代が変わるのに、それに乗り切れないというのが3代目の姿でしょうかな。

野村さんご自身は十分時代の変化に乗ってこられたと思いますよ。やはり流通のシステム自体の変化が大きいのでは。

野村 ええ、それもあると思いますけどね。

明治以降の小売業や卸商の変化をすべて見てこられたお店ではないでしょうか。

野村 いやいや。そやけど、6月の30日、店は本当にたくさんの方から惜しまれて閉めましたんでね。いうなれば、商売人冥利に尽きるとは思います。私の生き葬式を見させてもろうた。そう思てます。

今日も「ノムラさんに行く」と言うと、懐かしがる社員が数人いました。高校生の頃に漫画を描いていた者は、枠線を引くカラス口※1を買いに行ったとか。

野村 カラス口、まだ残っていますわ。閉店したのに自慢するのもなんですけど、店の品ぞろえは滋賀県一です。面積からいうても1、2位を争うぐらいのはずです。45坪ほどあるんでね。あのビルを建てたのが昭和47年(1972)。オイルショックの直前で、オイルショックの後あたりが、私どもとしては一番最盛期ですね。やる以上は文具屋のモデルでありたいと私は誇りを持っていましたんで。

 だけど、銀座通り自体がすたれて、お客さまがお通りにならない。30〜40年昔と同じ姿の店を、今まで維持していた方がだいたい間違いなんですね。鉛筆一つとっても、三菱鉛筆以外に、ステッドラーの鉛筆を置くとか、硬度は10Bから10Hまでそろえて。

10Hがあるのも知らなかったです。

野村 三菱鉛筆の出しとる硬度は全部そろえて、バラで販売していました。実際のところは、4H以上の鉛筆は売れやしない。まだBは売れるんですよ。お年寄りが書きはるのにね。色鉛筆でも、水で溶ける色鉛筆の水彩色鉛筆から、紙巻き色鉛筆から、硬軟、全色バラとセットをそれぞれ売っている。よそのお店行ったら、ライバルのくせに、「彦根のノムラに行ったらあります」とお客さんに教えておられた。

 油絵の絵の具、この頃はアクリル絵の具※2、顔彩※3もそろえた。その上、今度は紙。何十色という紙が、全判紙※4で残っています。切ったやつも。

少量多品種にする必要があるわけですね。

野村 さっきのカラス口がそうです。もうCAD※5の時代だというのは僕らもわかってまんねん。今の時代にどう応じていくか、店主が判断せないかなんだ。まあ、大きなところは皆POS※6レジで打って、その商品の傾向をつかんで商品の利益と回転率とで足切りをしていく。回転率の悪い商品は置かない。逆に、回転率の悪い商品だけ置いているのは、私らみたいな文具屋の専門店。製図用品でも、たまたま来たお客さんが、「うわっ、これは珍しい。一つもろうとこうか」といって喜んでくれることがよくあるけど、それでは店はもたない。

 もうこの頃は、新学期の需要があらへんのや。それでも一応、新学期終わって、6月の末で閉めようと決断した。5月半ばに、5月20日から6月末まで閉店大売り出しという新聞折り込み入れて。お客さんは、ノムラがのうなったら買うとこないのがわかったるもんやさかいに、ウワッと来てくれはったんやけんど、40日間やっても売れんものは売れへんねん。洋服とかなら、柄は多少どうでも、値段で辛抱して買わはるけど、文具屋は、黒のものを買いに来てんのに、赤でどうですかとはいかへん。

いらないものはいらない。

野村 そやから、値段をマケてもあかんねん。でも、専門的な人やったらほしくてかなわんものもある。こないだも、午前中に、楕円のテンプレートを買いに来たお客さんがいて、2枚買うてくれはった。今日はもう半値ですわいうて。テンプレート※7でも、非常に特殊なものをいっぱいそろえとるわけや。ボルトやナットの形やとか、人体テンプレートまである。人の体を書くやつ。

 といって、特殊なお客さん相手にしても商売にならん。油絵の具にしたって、うちでみんなそろえてくれるかというたら、絵画教室とかにも京都の業者が全部入っちゃう。先生にリベートを払ってね。だから、うちへ来てくれはるお客さんは、この色がないさかいて1色だけ買うお客さんや。

そこへまた、アスクルやカウネットなどの通販が入ってきて。

野村 それに百円ショップがあるでしょう。それで、学童数は減るでしょう。

まさに今の日本の商業界の縮図ですね。


※1 カラス口 製図用具の一つ。2枚のくちばし状の部分の間に墨汁をふくませて線を引く。

※2 アクリル絵の具 アクリル樹脂の乳化液を練り合わせ材として用いた絵の具。速乾性で、乾くと耐水性にすぐれる。

※3 顔彩 日本画材料の一つ。顔料に、デンプン質と膠分を加えて練り、角皿に入れて乾燥させたもの。

※4 全判 規格寸法(A判、B判、四六判、菊判)の原紙で断裁されていないもの。

※5 CAD computer-aided designの略。コンピューターを使って行う機械や構造物の設計・製図。また、その機能を組み込んだコンピューターシステムやソフトウエアを指す。

※6 POS 販売時点情報管理(英語:Point of sale system)の略称。レジで商品を識別するJANコードを読み取って、単品単位で売上げ実績を集計する方法。

※7 テンプレート 四角形や円などがくりぬいてある定規板。内側の縁にそって図形を描く。


当初は紙屋として出発

時代をさかのぼって、創業当時や野村さんが子供だった昭和初期の頃のお話をお聞かせいただけますか。

野村 明治26年の創業でして、その時の大福帳がうちに残っています。今から120年ほど前、めでたく開店いたしました。

この写真(表紙)はいつ頃になるんですか。

野村 それは昭和5年(1930)。この真ん中の赤ん坊が私やから。昭和4年1月9日の生まれですから。写真はちょうど1年のちの、昭和5年1月の初荷です。

現在のどの位置にあったんですか。

野村 今と同じとこ。もっと間口が広かって、ビル建てる時に30坪売りました。左隣の花屋さんと洋服店さんも、もとはうちの土地です。

店頭には、「王子製紙株式会社和紙部滋賀県代理店」と書かれています。「ノート帳簿製造」ともありますね。

野村 ええ、ノートなどを製造していたんです。「さざ波印」と書いているでしょう。

ああ、あります。「さざ波筆発売元」。

野村 さざ波いうのは、「さざなみの」が近江や大津にかかる枕詞で、まぁ琵琶湖のことです。

メーカーだったんですか。

野村 「さざ波インキ」、「さざ波万年筆」とかいう名前の商品を作って売っていたんです。今みたいに、ブランドの強い時代やないんでね。

 もともと生活に関わる紙というのは、正月用に年末に貼り替える障子紙、お菓子を包んだりする半紙とか色紙、そういうものですね。今みたいな洋紙というのはほとんど需要がない。みんな和紙です。その和紙の仕入れはどこでするかというたら、美濃紙。それから因州和紙。これは鳥取。それから、四国の伊予(愛媛県)・川之江。この辺なら、やっぱり美濃紙。

 みんな当時は手漉きです。水が冷たくなかったらあかんねん。生ぬるい水で漉いたら、ボテ紙しかできない。そやから、一番いい紙は寒漉きのもの。上にボンッと品質保証のハンコを押してね。紙屋は、美濃にある漉き屋まで行って、漉いているところを見て、実際手に取って買うてくるんです。

いつ頃の話ですか。

野村 戦前。買うて来た紙は後から来る。それを入れる倉庫がいる。この倉庫を彦根駅の真正面から左側、丸通(日本通運)の裏に大きな土蔵の倉庫が連棟で並んでいた。そこの一つを借りて、届いた和紙と洋紙を入れて。障子紙は、漉いたままの一枚漉きの大きさで来るから、それを裁断して、継いで、巻いて、障子紙をつくらななりません。

それをお店でやっておられた。

野村 うちでやっていたんです。銀座町にもう一つある文房具屋の正木屋さんも元は紙屋です。戦前はね、障子紙とか、紙の需要は多かった。だから、正木屋さんとは手を組んだりライバルになったりしています。あっちは製造はしない小売屋さんでしたが。

写真を見ると、体格のよい男性従業員さんが並んでおられます。

野村 丁稚や番頭さんは、柏原(米原市)から来ていただくことが多かった。男は全部住み込み。丁稚さんだけでも4人か5人。中堅になって結婚したりすると、通いになる。それと、昔は女中さんが2人はいましたね。2人いないと賄いできひん。当時の店内というのは畳敷きで、帳場には結界※8置いて、後ろに金庫があってね。

昔は大みそかに集金という、一年のサイクルだったとすると、途中はお休みも結構あったんですか。

野村 いや、休みはない。盆と正月しかない。店自体はずっと開店してた。12月はとことん仕事をして徹夜続きなぐらい。ほいで、元日の朝は好きなだけ寝る。その晩が今度はみんなでかるたを取ったり、カロム※9をしたりね。ほんとに正月は、みんなが喜んで喜んで、徹夜して遊んで。

 ところが、もう2日には初売りやったんかな。朝5時頃から、お客さんがバンバン戸をたたかれる。うちの店の間口が9間(約16.4m)ある。そこにレールが3本、向こうまで敷いてある。1本は通しで、2本は柱があるところで切れていて、冬はガラス戸がはまる。一番表の1本は板戸をガッとやると、ビャッと走っていくから、夜の閉店の時は皆でバッと閉めるわけですわ。

 初売りの日は、もう朝の暗いうちから閉めてある戸をたたきやりまんねや。朝一のお客さんは皆、粗品のいい物がもらえるもんだから、それを目当てにね。それぞれの店の開店を待ちわびて、町のあちこちを暗いうちから歩かぁるから、正月早々にぎわうんですよ。

今も「仙台初売り※10」というのがありますね。あれも2日からです。

野村 おもしろいのは、初売りで店に一番に入るのは女性でないとあかんねん。験かつぎです。縁起がいい。一番に男は入れない。一番左手の端に、たばこ販売のウインドーが出っ張って、戸が閉まっていない。そこから何番目に女性がいるということがわかるわけ。「おおい、何番目」と伝えてね。その女のお客さんのいはるとこの戸だけをダッと開けてサッと入れる。

 それからの一年をまとめると、買ってきた美濃紙を加工して、夏にそれを店で売る。8月頃からは小売屋さんへ売る。で、一番よく売れるのが11月の「えびす講※11」。彦根だけでなく能登川やとか各地でえびす講があって、冬の準備として障子紙が皆売れます。うちは、小売り屋さんの売上を大みそかに集金してくる。年いっぺんの回転です。そやから、昔の卸屋というのは、一つの市場を自分でつくる力も持っていたし、同時に、金融的な力もあった。


※8 結界 商家で帳場の囲いとして立てる格子。帳場格子。

※9 カロム 円筒形の玉を指ではじき、正方形の盤面に並べた玉を四隅のコーナーの穴に入れていくボードゲーム。明治末期から大正初期に海外から彦根に伝わり、定着したとされる。

※10 仙台初売り 宮城県仙台市など旧仙台藩領内で、1月2日から3日間、豪華な景品をつけて盛大に行われる初売り。江戸時代からの伝統行事。

※11 えびす講 陰暦10月20日に商売繁盛を祈願してえびすを祭る行事。彦根の場合、橋向町にある蛭子神社の祭礼で、毎年11月23日前後の3〜5日間、商店街の大売り出しが行われる。


マルビシ百貨店のこと

昭和10年頃の彦根繁華街

昭和10年頃の彦根繁華街(『新修彦根市史 景観編』掲載の復元マップに野村善一さんの記憶による修正を加えて作成)


昭和8年には銀座町に県内初の百貨店「マルビシ百貨店」が開店するわけですが、お父様が関わっておられたわけですね。

マルビシ百貨店

昭和8年(1933)に開店したマルビシ百貨店
昭和初期、三越が彦根で出張大売り出しを行ったことへの対抗策として誕生した。彦根の代表的商店20店舗が1区画ずつを賃借して自店商品を販売するもので、百貨店法による百貨店ではなかった。
写真はマルビシ百貨店全景。鉄筋コンクリート4階建て


野村 2代目の親父、善七を含む商店主ら10人が出資して、高島屋(履物商)の宮本寿太郎さんが社長の彦根中央土地という会社をつくって、それがマルビシ百貨店の創業です。子供だった僕は、「ちょっとマルビシ行ってきて」、「これ持って行ってきてな」とか使い走りをさせられてた。

戦前のマルビシ百貨店が遊び場みたいなものだったということですが、何が記憶に残っていますか。

野村 私をかわいがってくれた女店員さん。マルビシはべっぴんさんばっかり。百貨店の真ん中に中央階段がある。その中央階段の下が電話交換室やった。電話交換手というのは暇なんや。電話がかかってくるでしょう。ボタンをポンとこう押すやろう。で、何番て出る。「文具お願いします」と言われると、「はい」と押して、下にあるコードを引っ張って、文具部に指して。ほいで、キュッとやって、ガイガイガイと回すと、向こうがチリチリチリと鳴って、つながるとランプがともって、「はい、どうぞ」。ほんな仕事やで、お菓子くれたりかわいがってくれるから、用がなくても一人で遊びに行ったり。

百貨店に、戦前の彦根のような地方都市でも平日お客さんはいるんですか。

野村 そら、あるわな。今の銀座と一緒にしたらあかんで。うちの場合は、官立彦根高等商業学校※12(現、滋賀大学経済学部)の学生さんが大事なお客さんですわ。彦根高商への納品も、売店も皆、私とこが卸しました。彦根高商について言うておくと、官立やから向こうから来たんかと思てる人が多いけど、彦根の財界人が引っ張ってきたんですよ。

大津・八幡・彦根が手をあげて、地元の寄付金が決め手になったとか。

野村 最初は近江八幡にできかけたんや。明治にできた八幡商業学校※13があったから、その上の高等商業学校も八幡につくるべきやというて。これはいかんと彦根の財界人が、敷地も買収して用意して、うちのような店も含めて、皆で寄付をした(寄付者総数234名、寄付総額44万9075円)。そういう苦労があってできたんです。

当時の高商の学生は、今でいえば東大の経済学部へ行っているぐらいのエリートという意識だったと聞いています。かなり裕福な家の人が多かったそうですし。

野村 そうそう。それはある。

遊郭のあった袋町から学校に通って、卒業の時、お母さんが3年分の付けを払って帰るとか。そういう学生がお金を落とした。

野村 そう。ほやからべっぴんさんの売り子さんをそろえたん。それに写真のとおり、非常にモダンな売り場でしょう。昭和初期に万年筆でもこんだけ並べているんですよ。その文具売り場の一角で、サンライズさんとこの初代・岩根豊秀さんに仕事をしていただいていた。

写真には、「年賀ハガキ名刺印刷承り」「美術謄写及活版」と見えます。

野村 うちは別に活版工場も下請けで持っていました。ノートを印刷したりするために。マルビシ万年筆いうて、百貨店の名前でも万年筆をつくっていたんや。もう1枚の写真は、2周年記念の売り出しのときのパレード。ははっ、あの頃の銀座街のにぎわいというのは、今の人には想像できひん。

仮装行列が町中へ繰り出すんですよね。昔は滋賀大の運動会などでも、こんな感じでした。

野村 学生さんにとっては、ノムラというのは非常に身近な店と感じてもらってたと思います。先生方も、学校も含めてね。「彦根高商の生徒さんへ」と印刷された吸い取り紙※14が残っているんです。生徒らに配ったんでしょう。

マルビシ百貨店の文具売り場

ノムラ文具店が出店したマルビシ百貨店の文具売り場

開店2周年記念パレードのようす

開店2周年記念パレードのようす


※12 官立彦根高等商業学校 全国9番目の官立高等商業学校として、大正12年(1923)4月に開校。昭和24年(1949)、戦後の学制改革で滋賀大学経済学部となる。

※13 八幡商業学校 明治19年(1886)、大津に県立の滋賀県商業学校として開校、明治34年(1901)に近江八幡に移転、明治40年に滋賀県立近江八幡商業学校と改称。多数の企業家を輩出。現在の八幡商業高等学校。

※14 吸い取り紙 インクなどで書いたあと、上から押し当ててその水分を吸い取らせる紙。


戦争の時代、満州へ出店

ところが、時代は戦争に突入していきます。出征する店員の記念写真があります。

野村紙文具店の従業員出征の記念写真

野村紙文具店の従業員出征の記念写真(昭和15年)。中央が出征した横田健造さん、その右が2代目野村善七さん、その隣が当時小学6年生だった善一さん

野村 横田健造さんっていうのは番頭さん。こことここに女中が2人。ここらは全部、丁稚さん。帽子かぶってまっしゃろ。青年学校※15の生徒です。この人は高等科。これが私、小学校6年生。

お坊ちゃんですね。

野村 これは出征祝い用の第一正装ですわ。この人なんかは小学校5年生で、うちに来てるんですよ。6年生の卒業もうちで働きながらでした。この人は高等科1年から。ほて、高等2年まで終わると、今度は青年学校へ入って夜間勉強する。

彼らの仕事は何なんですか。

野村 雑用や販売手伝いです。いわゆる丁稚。この辺が中堅で、この人らが大番頭、これらが番頭。兵隊の格好してる人も番頭、兵隊にいっぺん行っとくで、在郷軍人※16でおったんやな。これが職人さん。紙を貼り継いだり、ノートつくったり。今みたいに機械で作るようなもんやない。紙を断裁して、仕事台の上で折っては木でたたいて、二つ折りして、糸綴じしていく、ほとんど手作業。

紙の断裁も包丁で切っている時代ですね。

野村 包丁で切る時もありましたが、私とこはギロチンみたいな裁断機の大きなやつがありました。まだ譲った先に残ってると思う。こんな、ごっついもんや。グワッと、こう手で回すと、ザッと下りる。職人の定次郎さんの家は芹橋十四丁目の中ほどにあって、普通の家に裁断機を置いてね。

 別に、障子紙に「御障子紙」と印刷する石版※17屋さんがいまんね。わしらの子供の時は、そういうとこへよう遊びに行きまんねや。丁稚の後ろからついて。丁稚さんいうても小学6年生とかの子供やし、わしもいっしょに大事にしてくれてね。

当時の商売はどうだったんですか。

野村 戦争がだんだんと激しくなってくると、商品がなくなり、工場は全部軍需工場に変わる。民需の商品は皆、生産がストップしちゃった。障子紙にしてもそう。紙屋さんがその時分、何を漉いてはったかいうたら、風船爆弾※18を作るための紙を漉いてはるわけ。統制経済の中では、仕入れる商品もない。

それで、昭和18年(1943)には満州支店を出店となるんですか。

満州支店の人々

満州支店の人々。後列で子供を抱いているのが野村紙文具店の大番頭で満州支店の店長となった川崎光治さん

野村 たまたま私の父と小杉合名会社(現、コスギ)という大きな繊維会社の小杉冨三郎さんという人と、八幡商業学校で同級生やったんです。当時の八商は、近江商人の御曹司連中がいた時代で、「布団の西川」の西川甚五郎さんとも同級生。父が同窓会で小杉さんに会ったら、「満州は非常に景気がいいよ」といわれたんです。満鉄は貫通するし、治安もよいし。そんなことで、満州にある牡丹江省東寧の小杉合名の店を譲っていただいた。

 昭和5年初荷の写真で、赤ん坊の僕を抱いてくれてる人が、川崎光治さんといって、中堅番頭やった。この時分にね。昭和18年に満州に店を出す時に、川崎さんが店長で、嫁も子供も連れて行ってもらったんです。

満州支店の人たちの集合写真があります。

野村 写真に写ってるのは川崎光治さん、その奥さんと子供3人。他に男性が3人。戦争中、男は日本におったら兵隊に行くか、徴用で工場へやられるかだった。兵隊に行くのはしようがないけど、徴用に行くのは勘弁してほしいから、「徴用逃れ」を誰もが考えた。満州支店というのはそういう性格も持ってたわけです。

 この写真が撮られた後、さっきの出征写真の横田健造さんが戦地から帰ってきた。いてると、また、戦争に行かんならんかもしれん。ほんで、うちの親父が後から満州店へやらしました。

 満州店は非常に繁昌しました。やがてソ連と満州の国境警備隊、いわゆる陸軍の商舗といって、薪などの物資を納入する店になっていきます。米も売る、衣料品も売る、日東洋行という名前で。


※15 青年学校 昭和10年(1935)、実業補習学校・青年訓練所を統合し、全国市町村に設置された学校。小学校卒業の勤労青年に職業教育・普通教育・軍事教育を行った。昭和14年に満12歳から19歳未満の男子は義務制となり、軍事教育が中心となる。

※16 在郷軍人 平時は民間で働いているが、戦時には必要に応じて召集される軍人。

※17 石版 平版印刷の一つ。石版石の表面に脂肪性インクで文字や絵などをかき、水と脂肪の反発性を利用して印刷する。

※18 風船爆弾 第二次大戦中、アメリカ本土を攻撃するために考案された兵器。直径約10mの紙製の気球に焼夷弾をつるして偏西風にのせて飛ばした。


ぎりぎりで建物疎開による解体をまぬがれる

そんな中、野村さんは昭和20年4月に進学されるわけですが。

野村 本来なら彦根高商に入学するはずが、教育戦時特別措置というので、昭和19年2月に彦根高商は彦根経済専門学校に改称、さらに彦根工業専門学校に変わってしまった。私は、そこの2期生です。それも、入学したらすぐに大津の東洋レーヨンへ学徒動員で行かされた。向こうで午前中勉強して、午後から工場で仕事。7月には東レに爆弾が落ちてね。

いわゆる「パンプキン」、模擬原爆※19というやつですね。東レに落ちたのは7月24日。

野村 東洋レーヨンへの引き込み線のプラットホームの上へ落ちたもんだから、爆風が走って、ものすごい死者が出た。僕らは午後の工場現場やって、午前中は授業やってん。いきなり空襲警報やていうて、先生は授業をストップや。ほの時分、まだ爆撃おうてへんで、怖くないねん。ほんなら、B29の音がした。グワッ。ものすごい音がして、ダーンと来はってね。皆、ウワアッと、山へ向かって一目散。後で教室へ戻ってみたら、出たとこの廊下に、こんな爆弾の鉄の塊が天井をぶち抜いてどおんと居座っとった。
 もうそれからは、みんな戦々恐々や。警戒警報いうだけで、山の奥まで逃げて、仕事なんてする気もない。今度は、空母からの艦載機がどんどん来まんねや。ちっちゃなグラマンていうやつ。逃げた山から見てると、琵琶湖の湖面をザーッとすれすれで向こうの東洋レーヨンの方へ行きよんねや。

一方、彦根では空襲の被害をおさえるために建物疎開※20が始まるわけですね。

野村 銀座の店の周りは、7月から建物が潰されていった。滋賀銀行の周り100mかそれぐらいを空き地にしたのが、第1次建物疎開。続いて第2次建物疎開で、マルビシ百貨店の建物から滋賀銀行の間を空き地にするというので、うちの店も引っ掛かった。7月末に発表があって、8月20日までに潰せというわけ。親父が、東洋レーヨンの寮へ、「男手がいるんで、休暇をやってくれ」と連絡して、私は帰ってきた。商品を全部倉庫に移して、家財道具は多賀町中川原の親戚にあった土蔵を一つ借りて、私がリヤカーで運んだ。
 さあ、今晩でこの店ともお別れやという日に終戦。8月15日は、座敷の畳を上げ、畳板も上げ、床の間に置いたラジオで終戦の詔勅を聞いた。雑音で十分聞き取れぬものでしたが。

ぎりぎりですね。

野村 うちは残ったが、東2軒隣の日の出屋さんまでは潰された。木造やから速いねん。棟のところへロープ掛けて、みんなで「わいわい、わいわい」言うて、揺すって、ほんでしまいなん。帝国館という映画館を壊しよる時に見てたけど、あんな大きな建物やと、倒れたところにブワッと土ぼこりがな、もうすっごい。その印象がある。

その頃、満州店はどうなったんですか。

野村 日本の敗色が濃くなると、ソ連が日ソ不可侵条約を反故にして、満州を占領しちゃった。店主の川崎さんにはすぐその場で現地召集がかかって、みんな、ちりぢりばらばらになって。ハルピンかどこかの鉄道駅の陸橋で奇跡的に再会できたんだけど、食べ物もなく、結果的には奥さんと子供2人が亡くなり、光治さんは長女の手を持ち、遺骨を下げて帰ってこられた。
 横田さんの方は抑留されそうになったんやけど、夜に列車が徐行してるすきに屋根のない無蓋車から飛び降りて、親切な現地の人に助けてもうて帰ってこられた。
 これはうちの店の一番悲しい歴史です。


※19 模擬原爆 長崎に落とされた原爆と同じ形状と重量で、プルトニウムの代わりにTNT火薬をつめた大型爆弾。通称「パンプキン」。原爆投下の訓練として、1945年7月20日から8月14日まで日本各地に計50発が投下された。7月24日の東洋レーヨン滋賀工場への投下による死者は16人、負傷者104人。

※20 建物疎開 空襲・火災などによる損害を少なくするため、都市内部に空き地を設定するもの。彦根市では、昭和20年7月9日から31日まで、第1次として彦根警察署・滋賀銀行彦根支店などの周辺142軒が解体され、7月31日に第2次として京橋筋から市役所周辺にかけて約500軒の家屋解体が設定された。


(2011年7月22日・8月11日、聞き取り)

戦後の混乱期、高度成長期に関する聞き取りも含めて、近日弊社より単行本化の予定です。


編集後記
ノムラ文具店さんには、妻の方が私より思い入れがある。ドールハウスの壁を漆喰風に仕上げる「セラミックスタッコ」という画材を取り寄せてもらったりしたそうだが、今はネットで購入できるので、すべて10年以上前の思い出話。申し訳ない。
 野村善一さんからの聞き取りは、初回が4時間50分、2回目が4時間。ひととおりうかがえたので、話の前後や構成を整えて、追加の聞き取りなどを行い、淡海文庫の一冊となる予定。乞うご期待。(キ)

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