(写真左)滋賀県長浜市高月町柏原のケヤキ。毎年8月16日に「野神祭」が行われる。近くの高時川が氾濫したさいには、枝を切って堤防を守ったとされ、枝を切った後にできたコブが多い。
(写真右)ソウル市松坡區文井のケヤキ。毎年1月15日と端午節に祭りがある。

李春子顔写真 李春子(イ・チュンジャ)
韓国・釜山出身。関西大学・神戸女子大学非常勤講師。台湾大学卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。
大谷一弘顔写真 大谷一弘(おおたに・かずひろ)
近江八幡市立安土中学校教員。滋賀植物同好会幹事。同会編『近江の鎮守の森』『近江の名木・並木道』『近江植物風土記』などの著書がある。滋賀県近江八幡市在住。
北村正隆顔写真 北村正隆(きたむら・まさたか)
有限会社景樹園代表取締役。樹木医・一級造園施工管理技士。滋賀県米原市在住。
地図

李さんの主な調査地

東アジアに共通する自然に対する信仰

▽まずは、日本、韓国、台湾の鎮守の杜についての調査に至る経緯を、自己紹介も兼ねてお話しいただきたいのですが。李さんは来日なさるまでは…。

李 私は釜山女子大学を出て、大韓航空に4年半ほど勤めました。地上での秘書の仕事だったのですが、その間にちょうど金賢姫による大韓航空機爆破事件(1987年)が起こったり。そんな時に、やがて中国の時代が来るのではないかと思い、中国語の勉強を始めました。仕事に疲れて、「何か、勉強したい」と思い始めた時期でもあり、思い切って会社を辞めました。

▽大学に入り直されて。

李 一番の目的は、中国に行きたかったのです。けれど、当時は両国に国交がなくて(韓中国交正常化は92年8月)ビザが出ない。とりあえず、中国語を学ぶために台湾へ行ったら、長く滞在することになりました。以前から興味のあった人類学を勉強するため、台湾大学に入学したからです。台湾は韓国と同様、日本の植民地となった歴史がありますが、人々は韓国とまったく違う日本人観をもっていることを知りました。

▽台湾は、親日的ですね。

李 同じ経験をしていても政策や見方が違うことから、東アジア全体を勉強する必要性を感じて日本に行くことにしました。釜山女子大の頃に日本語学科を選択していましたし。来日したのが、1997年(平成9年)、14年前ですね。

 鎮守の杜の研究のきっかけは、当時、京都大学におられた薗田稔※1先生のところにうかがったことです。通常の宗教学は、概念的、精神的な面を研究しますが、杜というのは、そこにある実体、生きている対象でありながら、宗教としても研究ができる。これはすごい。なおかつ、韓国も、日本も、台湾にも同じように自然の信仰があることに気づきました。

 東アジアの国々の関係を語る場合、歴史や政治的な問題がありますが、対象がどの国でも共感できるものであれば、そうした問題を越えてお互いわかりあえ、これからの平和につながるでしょう。まあ、私の研究は極めてローカルなもので、どのぐらい意味があるかはわかりませんが。

 修士課程のテーマには、福井県の大島半島にある「ニソの杜※2」を扱いました。いま関西電力の原子力発電所がある、小浜湾に面した大飯郡おおい町というところです。そこの、24のご先祖の神様の杜に対する信仰を調べました。ただ、1970年代に原発の建設が始まり、建設地内にあった神様の杜の木が切り倒されたり、信仰が途絶えるなどの大変化があった後でした。そこで、そうした変化と今後の神社の保全がどう結びつくかを研究しました。

▽滋賀県内の鎮守の杜調査で、大谷さんに声をおかけになったのは、どういう経緯で。

李 大谷さんとお知り合いになれたのは、サンライズ出版の淡海文庫『近江の鎮守の森』という本がきっかけです。あの本は5冊も注文して配ったりしました。

▽大谷さんは、人間と植物との関わりにもご関心がおありなのだと思いますが、中学校でご担当の教科は?

大谷 理科ですが、好きなのは社会科です(笑)。なかでも、地理や歴史の分野、要するにフィールドが好きなのです。子供の頃から植物は好きだったのですが、きっかけは宮沢賢治の「虔十公園林」というお話です。ある少年が荒れ地に木を植えて、そこがやがて子供たちが憩う場になるという短編です。小学生の国語教科書に載っていたものですが、非常にひかれて、それからは、山へ行って木に関心を持つようになりました。

 もう一つは、学生時代に出会った『植物と人間』という本です。近年、「木を植えた男」と呼ばれ、世界的に有名になっておられる宮脇昭※3さんが書かれたもので、植生について教えられました。日本で、何のお化粧もしていない、素顔の本物の植生が残されているのが鎮守の杜なのだと書かれています。その辺りから、特に鎮守の杜というのを意識して観察を続けてきました。

▽鎮守の杜といった場合、神社の境内に加えて、今回の調査では、「野神」と呼ばれる巨木なども含むわけですね。

大谷 はい。ほとんどの神社にある注連縄を張られたご神木に限らず、田んぼの一角の道端にある一つの木にも小さな祠があって、信仰の対象になっていたことに気づき出すと、どんどん広がっていきました。

 李さんのお話でも、東アジアには、自然に一つの神を認める共通する考え方があるとのことでしたが、例えば、奈良県の桜井市、ここは大神神社という、山そのものをご神体としている神社があることで有名なのですが、もう一つ、天一神社という神社も変わっていて、囲いの中に、スギの木が1本あるだけなのです。

▽社殿などは何もなくて…。

大谷 スギの木しかないのですよ。その木がご神体なのです。また、三重県の熊野にある花窟神社、滋賀県でも東近江市の太郎坊山は、巨岩がご神体になっている。有名な那智大滝(和歌山県)は水の流れがご神体になっている。李さんによると、こうした信仰は日本だけではなく、韓国や台湾でも共通した部分があるということで、非常におもしろいと思っています。

▽では続いて、北村さんは、李さんとの関わりはいつ頃のことになりますか。

北村 1、2年前ですか。福井県のある神社の木が切られるのをやめさせたいからと、突然訪ねてこられたんです。

李 思いついた次の日に動きました。

北村 李先生は非常に行動派で(笑)。僕の肩書きである樹木医という職業の場合、逆に、「危険なので、この木を切ります」という証明書を出すことも重要な役割の一つです。それが、あの木の場合は逆で、しかも、地元の樹木医さんお二人は、「これはもう危ないので、切るべきです」という判断をくだしていた。ですから、かなり戸惑いました。

 もう片方の肩書きである造園業者として、景観の材料としてあの木を見るなら、非常に姿が面白いという見方もできます。それから地域の信仰対象といった見方もできる。そもそも、日本庭園は三尊石※4から始まるもので、これは完全に浄土の世界に対する信仰です。毎日の造園業者としての仕事は、大型機械を使って木を起こし移植する作業が多いのですが、韓国も含めた今回の調査に同行して、なぜ枯れていくのか、枯らさないにはどうすればよいかという問題を考える機会になりました。

 例えば、多賀大社の近くにあるケヤキの巨木として有名な飯盛木(いもりぎ/いもろぎ)2本は、それぞれ田んぼの真ん中にぽつんと1本ずつ立っています。ケヤキという木が、本来どういう場所に育つのか考えると、もともとは、そこに蛇行性の川に沿って森があったものが、田んぼが開かれ、最終的に1本だけ残ったという歴史があるのかもしれない。

 こういった歴史を考えることは、地元住民に、なぜこの木を守らなければならないのかを語るうえでも重要なことです。


※1 薗田稔 1936年埼玉県生まれ。宗教学者、京都大学名誉教授。現在、秩父神社宮司。
※2 ニソの杜 おおい町大島地区の開発にあたった先祖をまつると伝わる聖地で、11月22日もしくは23日に祭祀を行う。この習俗は、国の選択無形民俗文化財。
※3 宮脇昭 1928年岡山県生まれ。生態学者、横浜国立大学名誉教授。ポット苗を用い、土地本来の植生に適した森造りを、国内外で実践。
※4 三尊石 日本庭園の石組の基本パターン。仏像の三尊仏のように、中央に大きな石を、その左右に小ぶりの石を組む方法。


韓国─風水思想に基づいた堂山信仰

▽では、韓国の調査地について、お話しいただけますか。まず、慶州。

李 北村さんも、慶州とソウル、それから釜山も行かれました。

北村 文化遺産、遺構が非常に多い地域で、郊外と言った方がいいと思います。

▽京都や奈良の感じですか。

北村 いや、もっと離れている感覚です。

李 奈良よりも滋賀に近い感じ。

北村 最も近いのは滋賀かもしれません。いわゆる田舎なのですが、よく知られた地域は、お寺ばかりです。信仰の対象となっている木は山手にあるものと、平地のものと両方あります。山のものは、ほぼ自然の中で、日本の野神に非常に似た感じでした。

慶州望星のケヤキ

▲慶州望星のケヤキ。望星村を開いた祖先をまつる。すぐそばに小川が流れ、「杜洞」とも呼ばれる。保護樹に指定。

李 韓国では、李氏王朝の時代に、「鎮山」という風水思想が盛んに実践されました。もとは山の信仰なのです。いまも、ソウルの景福宮(朝鮮王朝の王宮)のすぐ後ろには鎮山があるように、都市や集落の後ろには必ず山がある、というか山を背にするように町が造られたのです。山がない平地の場合、わざわざ山を造る。同様に集落の前に風水で必要な「モリ」がなければ木を植えて「モリ」を造った長い歴史があるのです。

▽自然というより、人工的なものですね。

李 そうです。造る山、「造山」という言葉もあります。ある場所へ開拓に入った場合、山が遠い平地だったら、防風林などの役に立つ木を植えなければいけない。その人工的な林が神様と結びついたのは、韓国の特徴かなと思いますね。

▽祠がある場合もあるのですか。

李 慶州はほとんど祠はありません。祭壇のような石が木の根元に置いてあるだけ。

北村 日本の野神も、行事の時だけ祭壇を置く、もしくは注連縄を張る形が多いです。

李 日本の野神と韓国の堂山信仰はとても近いと感じます。ただ、日本の野神はだいたいお盆の8月15日なのですが、韓国は旧暦の1月15日です。昔は年2回、ソウルでは春と秋にあったのですが、だんだん1回になっています。

▽先日、北村さんにお会いしたときに、韓国は木が少ないとおっしゃっていましたが。

北村 日本に比べると少ないですね。それと、木が日本よりは小さい。いわゆる巨木と言われるものでも、400年以上経ったものというのは、見あたりません。中国の場合だと、もっと木は少ない。本来の人間生活では、薪として切ってしまうから。滋賀でも、野洲市の兵主大社へ行ったときにうかがったのですが、昔は境内の木々を絶えず薪にして売っていたそうです。そうやって循環させることで、境内はいつもきれいだった。

 だから、僕は、先ほどの大谷さんのお話の中で出た説とは異なる感覚を持っています。鎮守の杜といっても、その木は本当にそんなに昔からあったのかどうか。300〜400年経ったご神木は別にして、それ以外の木々は絶えず切られて、また生えてをくり返していたのではないかと。

李 韓国に巨木が少ない理由は、文化的に、韓国では、ご神木を単木で植えることが多く、単木のままでは巨木として生き残れないというのがあると思います。

北村 ソウルは、風があまり吹かない。台風もめったに来ず、地震もない地域です。現在でも、ビルの間に10m以上もあるアカマツを植えています。日本だったら、完全に倒れますね。それが簡単な支柱だけで立つのがソウルの風土です。けれど、李先生が言われたように、基本的に単木では生育ができない。

▽1本だけだと何が違ってくるのですか。

北村 例えば、ペンギンにしても1頭が立っているのではなく、みんな寄り集まって寒さに耐えるわけですね。それと同じ。

▽風、寒さ、気温などすべて、群れであるかないかで変わってくるわけですね。

李 台湾などの場合は、ガジュマルなどが単木でも十分に。

北村 いけます。幅があるから。

大谷 そして、韓国の巨木は、ほとんど落葉樹、あるいはマツです。日本は常緑樹が結構あるのですが、韓国は植生帯的には難しいのですかね。タブ、シイ、カシ、クスは、おそらく緯度から考えて、育たない。

北村 比較的少ないですね。ソウルは常緑樹がほとんどなかった。

李 だから、神様のご神木、鎮守の杜の樹種はほぼ決まっています。ケヤキ、マツ、イチョウ、エンジュ※5の4種。研究当初、ご神木は「緑であること」が条件であると考えました。台湾でも、常緑で生命力の強い樹種が多いのですが、韓国の場合はそうではない。常緑樹が少ない地理条件の中で、一番強くて、夏に最高の緑をくれるのはケヤキで、8割以上を占めます。

▽4種のうち、エンジュの木というのが、私にはなじみがないのですが。

李 完全にエンジュは、文化で植えているのです。「エンジュの木を植えると学者が出る」という言い伝えがあって、韓国では科挙の試験に受かって立身出世する者が現れることを願い、必ず村にはエンジュの木が植えられました。ところが、エンジュは中国の原産で、本来、韓国には少なかったため、エンジュに似たケヤキを代用として植え続けてきたそうです。

北村 木が枯れない条件として一番大事なのは伏流水があることです。韓国の鎮山における「裏山がある」というのは、必ず伏流水の水が出る地だということで、そういう場所ならケヤキも育ちます。

▽山から流れ出た川沿いに木を植えたわけですか。

北村 川というよりも、伏流水。地面の下の地下水がやっぱり一番。日本でも圃場整備で巨木が弱ったのは、周りに溝を掘ってしまったためです。例えば、地下2mまで地下水がある場所でも、ある面をずばっと切ってしまったら、水が断たれてしまいます。韓国でも、下水道が設置された地区で、木が弱ったという例がありました。

李 韓国では、昔から、ご神木が枯れたり、鎮守の杜が枯れたりすると大騒ぎになるのです。村の危機だとして、すぐに植え直したり、祭りをやり直したりします。それは、おそらく、伏流水が減ったことは、米や麦の凶作に結びつくので、木の異変からそれを感じ取ったのだと思います。


※5 エンジュ マメ科の落葉高木。夏に黄白色の小花が群生して咲き、くびれたさやのある実がなる。花と実は薬用、木材は建築・器具などに用いる。


韓国─保護樹によって都市に緑を

▽ソウル市内の木々は、ビルの谷間のような場所でどう守られているのですか。

李 ソウル市の場合は、保護樹に指定しています。立法で、韓国の法律で守られている木なのです。その法律は、1967年、朴正煕大統領の高度成長期に制定されました。その時期によくそんな法律をつくったものだと思いますが。その結果、ソウル市内に200カ所ぐらい巨木が残されました。行政は信仰よりさらに強かった(笑)。

▽日本でも保護樹はありますよね。

大谷 法律とまではなかなか。できているのは、各市町村の条例のレベルですから。

北村 弱いですよ。

李 韓国のものは、本当に強いです。

北村 日本は、市町のレベルで保護樹を指定していますが、リストアップして看板をつけるだけ。もう今の日本では、巨木は切られることもほとんどないからですが、それは保護する体制ができていないということでもあります。

李 韓国の保護の仕方をご覧になって、どうでしたか。

北村 せっかくかなりのお金をかけるなら、別の方法もあるなと感じる場面もいくつかありましたね。ちゃんと木道を敷いて、人間がさわれない形にしておられるところなどは、なるほどなと思いました。住民の憩いの場所にもなっていますし。

李 すべて専門家が関わっているとはいえません。台湾でもその辺が課題で、昨年9月に大騒ぎになった場所は、ちょうど私たちも調査に行ったところでした。李登輝元総統が命名した有名な木があるのですが、まったく知識のない人が、それに石灰か何かを大量に散布したのです。

北村 石灰は中和剤としては使いますが…。

李 韓国ではそこまでは行きませんが、保護樹に対してつく3億〜4億ウォンぐらいの予算が適切に使われているかというと…。

大谷 お金は主にどう使われるのですか。

北村 囲いを設けたりして、ポケットパーク化されるのです。保護しながら、みんなの憩いの場所にする。かなり立派なもので、日本で造れば、1カ所が2000万〜3000万円の工費にはなるでしょうね。

李 そういう場所を25カ所つくって、土地自体を買収して公有地化したのです。土地の所有権が個人や自治会にあると、売られたり、切られたりしやすいから。ソウルで一番大きいイチョウは、買収金額が500億ウォン=50億円ぐらい。これを枯らしたら大変です。

大谷 国民は納得しているんですか。

李 みんな大好きですよ。そこが憩いの場所になるのだし。

大谷 そういう国民性があるのでしょうか。

李 国民性というか、昔、新幹線(KTX)を建設するときに、木を伐採してしまった反省から、いまの方向性は、「都市に緑」なのですよ。清渓川※6のように。

大谷 なるほど、その方向性ですね。

ソウル市松坡區文井のケヤキ

▲ソウル市松坡區文井のケヤキ。近くの役場の新築計画で伐採されそうになったが、地域住民の反対運動で計画が撤回されたことで有名。

李 緑に関する事業は、みんな大好きです。

北村 だから、現時点で木に対する思いは、日本より韓国の方が進んでいると思います。

李 ただ、韓国でも課題は多いです。専門的な樹木医制度もなく、やり過ぎて、木にとっては悪い場合もある。

北村 ソウルでも慶州でも、木の横に、あずまやみたいな休憩所を必ず建てますね。

李 あれは、よくないでしょう。

北村 よくない半面、基礎は簡素ですからあまり地中にも影響はないし、とにかくよい所はそこが老人の憩いの場所になっていることです。中にはテレビが置かれている所もあったし、近所の住民5〜6人が集まってニンニクをむいている姿も見ました。

李 夏になると、大量にニンニクをむくんですよ。ソウルのど真ん中でも。

ソウル市瑞草區盤浦にあるイチョウの周りに設けられた公園内

▲ソウル市瑞草區盤浦にあるイチョウの周りに設けられた公園内。近隣住民が集まってニンニクむきをしていた。

北村 それはそれでありだなと思いました。

大谷 日本では、昔から神社が一つの地域のコミュニケーションの場であったでしょう。韓国でも都市化が進む中で、そういう新しい場所で再現されているということでしょうか。

北村 もともと鎮守の杜は、お祭りなどのいろいろな行事をすることもあるし、非常に多目的な場所だったのですね。

大谷 そうですね。やっぱりその地域、共同体の一つの中心になっている場ですね。ですが、日本では今、子供もお年寄りもいない、誰もいない神社が増えていますね。

李 韓国では夏、人々がよく木の下に集まります。そういう文化なのですね。一人、クーラーのきいた部屋にこもるよりは、木陰で涼む。ソウルの調査の時、中華料理店からジャージャー麺を木の下まで出前してもらって。

北村 ああ、ありました。携帯で電話して頼むと、木の下へデリバリーが来るんです。数を見て歩くと、いろいろな場面に出会えて、おもしろかったですね。


※6 清渓川 ソウル市内を流れる川。1960年代に水質汚濁が進み、1971年、暗渠化した上に高架道路が完成した。しかし、2000年代には元の川に戻したいとする世論が高まり、老朽化した高架道路を撤去し河川を復原、水質浄化と親水施設の整備が行われ、現在は市民の憩いの場となっている。


台湾─土地公・大樹公は、“俗の中の聖地”

▽では、次は台湾に移りたいと思います。台湾に行っておられるのは、李さんだけですが、どんな特徴がありますか。

李 一番特徴的なのは、9割近くが単木であることです。林や森はほとんどない。気候からいって植生も違うし、樹種はほとんどがガジュマルです。

台中市松竹路のガジュマル

▲台中市松竹路のガジュマルは道路の真ん中にある。1982年、道路の拡張工事で伐採される予定だったが近隣住民の陳情により残された。

▽その差は、南国の植生によるものですか。

李 本来、中国の社は、それぞれ地域に適した木を植えたものです。漢民族が開拓する場合、平地を拓いて村をつくるとき、水の流れに沿って「土地公」という神様を設けるために植樹をします。台湾の気候では、一番適していた樹種がガジュマルだったのでしょう。1本でも林を成すまで成長し、木陰をつくり、憩いの場となる。本来、農作業の時に休憩する場なのですね。水の守りとしての信仰プラス憩いの場と、さまざまな機能があっったのです。

▽日本でも公開された、『冬冬(トントン)の夏休み』(侯孝賢(ホウシャオシェン)監督、1984年)という台湾映画があります。台北に住んでいるきょうだいが祖父の住む田舎(銅鑼)に行くお話なのですが、主人公のもっているおもちゃと交換するために子供たちがカメを競争させる場面は、巨木の前に祠がある広場です。

李 それです。おそらく漢民族の中でも、客家人※7の系統だと思います。他に先ほど説明した「土地公」の福建省系統などいろいろあるのです。これは「大樹公」と呼ばれますね。昔は、祠なしで石を三つ置くだけでした。東アジアに共通する木の前に祭壇を設ける形ですね。それが巨大化して、いまは大きな廟のようなところもあります。

 ガジュマルは榕樹公(ロンシューコン)と呼ばれ、日本の「村の鎮守の神様の」みたいに、「川のそばの一本の榕樹公」という歌もあります。

▽その木の根元は、台湾の人たちにとってとてもなじみがある場所なのですね。

李 そうです。遊び場であったり、コミュニティーの場であったり、信仰の場であったり。私はずっと「俗の中の聖地」という言い方をしています。日本は聖地としての位置づけが強いのですが、韓国と台湾は、俗とあまり区別がありません。

▽日本だと、集落から離れて神社があったりしますが、台湾ではすぐ横に大きい飲食店街があったり。まさに生活の中にある。

李 その木の下で、マージャンを楽しんだり、お茶を飲んだりするんです。年配の方は、ほとんど日常をここで過ごす。寒くないし、年がら年中、人がずっといるのです。


※7 客家 かつて華北から移住してきた漢民族の一派。中国の他、台湾・東南アジアにもひろがる。


沖縄─木が浅く、巨木がない理由

▽それでは、次に沖縄です。日本よりも台湾に近いイメージを持っていますが。

李 気候はそうです。文化も台湾同様、風水などさまざまな面で、中国の影響を強く受けています。けれど、独自の文化もあります。沖縄本島の都市である那覇の御嶽と、石垣島・竹富島の両方を調査しています。

▽沖縄本島と石垣島や竹富島では、かなり違うのですか。

李 違いますね。沖縄本島は、まず戦争の影響を受けています。多くの御嶽にはリュウキュウマツがあり、ずっと誰も手をつけなかったのですが、戦争になると、市街地の御嶽にあった巨木は防空壕をつくるための木材になり、ほとんどなくなった。海岸沿いでは、米軍の船が上陸するのを防ぐために、切り出して積まれました。

 戦後に都市化が進むと、保護樹とするなどの条例も何もないから、とことん切られました。日本軍の基地があった地域の御嶽で戦闘が一番激しかったところは、米軍が全部爆撃して、戦後には草一本残らなかったものもあります。だから、沖縄は本当に木が浅いのですね。巨木がない。初めて訪れた時、なぜこんなに樹齢が少ないのだろう。台風でみんな倒れたかなと思ったら、そうではなく、戦争で全部火の山になったからだというのです。

大谷 ベトナム戦争での枯れ葉作戦と一緒でしょう。隠れる場所を徹底的に破壊した。

小浜御嶽

▲沖縄県石垣市宮良の小浜御嶽。八重山地震後、小浜島から石垣島へ移住した人々が、小浜島の御嶽の分神を勧請した。入口にアコウの巨木がある。

李 そうです。那覇市も全部焼かれたのです。那覇市では、焼き物が盛んだった壺屋という地域だけが幸い残されました。数百年の歴史をもつ窯の所だけ、こんもりした神様の森が無事でした。ここは、歩いていて偶然見つけました。市街地のど真ん中に、突然、森が現れたのです。

 近年、沖縄本島で問題になっているのは、カミキリムシが爆発的に増えていることです。台湾でも私が調査したうち7割近くのご神木が感染しており、大問題になっています。老木は虫がつきやすいですし。

北村 カミキリは、幼虫が穴を開けて中にいるんです。ただ、穴を開けただけでは、簡単に枯れるようなことはありません。今のは、それについている菌が問題となっているもので、カシやナラも被害にあいます。

李 沖縄で最も感動した場所は、石垣島の小浜御嶽です。サンゴ礁の白い砂の上に参道として、神の道がつくられていて、周りは原生林に近いような豊かな植生が残っています。

滋賀─長寿の木はその地が長くよい環境であった証拠

▽それでは、最後は滋賀県です。滋賀は、何カ所ぐらい回られたのですか。

李 20カ所ぐらいですか。メーンは長浜市高月町の野神と犬上郡甲良町の巨木です。

▽どういう理由で選ばれたのですか。

大谷 高月のツキの字は、いまはムーンの方の「月」になっていますが、元は大阪の高槻と同じ字で、「槻」は要するにケヤキのことです。滋賀県でも、南部はどちらかというと照葉樹であるシイやカシの多い植生ですが、北の方にいくほど、常緑樹が少なくなって落葉樹が多くなります。山の裾や平地の辺り、特に川沿いには、昔からケヤキやエノキを中心とした植生が形成されました。高月町とその周辺には、ケヤキの巨木が非常にたくさん残され、それが野神などの形で信仰の対象になっているのです。特に柏原の八幡神社のケヤキのご神木を李さんと韓国の研究者の方が調査されて、「これはすごい木だな」と皆さん驚かれて。

 甲良町の方は、歯痛に効くなどのいわれがあるヒイラギが、ご神木として非常に珍しいということで調査の対象としました。

李 十数回、滋賀に通っていて、不思議に思っていたのですが、日本ではなぜエンジュが少ないのですか。

大谷 エンジュはイチョウと同じく中国原産で、古い時代に日本に入ってきました。エノキやケヤキの場合は、日本にもとからあった自生の木ですね。

北村 鳥が運ぶというかたちが多いですね。

大谷 そう、鳥が多いですね。ムクの木なども、鳥が運んできますし。

北村 ほとんどの場合、あの辺の木は実生※8だと思います。

大谷 エノキは本当に実生が多いのです。植えたのでなく、種から芽が出て大きくなる、要するに自然体ですね。こういう平地で、特にケヤキなどが大木にまで生長できたということは、その木をめぐる土や水、光、空気などさまざまな環境要素と、人為的な要因の両方が、非常に良好な状態で長年保たれてきたということです。樹齢500〜600年の木が生き抜いてきたことは、その地域が素晴らしい環境であったことの一つの象徴と考えることもできます。

李 その土地で強い木ということですね。

大谷 そうです。逆に環境に合わない木を植えれば、生き永らえさせるために、かなり手間も費用もかかるというのは当然です。

写真を並べて見ていて思い出しました。石垣島は1771年の八重山地震※9による大津波で、島が3分の1ぐらい呑み込まれる大打撃を受けたそうです。その津波後に大事な四つの御嶽の木を新たに植えたという記録が残っています。大きな災害があって倒れても、また植えたりして地域の人たちがすごく関心を持って守ってきたのです。

北村 それは神が宿る聖地だったからこそでしょうね。無闇にふれてはいけないという禁止とともに、地域に不可欠のものと考える両面があった。神抜きでは難しいかもしれません。

▽その木に関する伝説や言い伝えがあるのとないのとでも、変わるでしょうね。

大谷 精神的な面も大事にしながら、それプラス自然科学的な環境の面、鳥などの生息の場になっているとか、生態系という見方。それらをミックスさせた形で訴えていくことが大事ですね。

▽そろそろ時間です。本日はお忙しい中お集まりいただいきありがとうございました。(2011年1月15日、サンライズ出版にて)


※8 実生 種子から発芽して生じた植物。挿し木・取り木に対していう。
※9 八重山地震 明和8年(1771)4月24日(旧暦3月10日)、石垣島南東沖を震源として発生した地震。マグニチュード7・4と推定され、石垣島南東部を30mの大津波が襲った。死者・行方不明者は八重山諸島と宮古島で約1万2000人。



編集後記
特集座談会の中で地震による大津波のことが語られていますが、これは東北関東大震災発生よりも2カ月近く前の発言で、まったくの偶然です。
各地の巨木を写真でなるべく多く紹介したかったのですが、わずかしか掲載できませんでした。調査地の巨木の写真と、それにまつわる伝承などを紹介した李春子さんの本が、弊社より近日発行予定ですので、しばらくお待ちください。(キ)

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