対談:髙梨純次×寿福滋 滋賀の仏像を語る —写真集『近江の祈りと美』刊行にあたって—

右:寿福滋(じゅふく・しげる)
1953年神戸市生まれ。関西を中心に美術・文化財、風景写真を専門に撮影。滋賀県内の自治体史に関わる撮影多数。

左:髙梨純次(たかなし・じゅんじ)
1953年京都市生まれ。同志社大学大学院文学研究科博士前期課程修了。専門は日本美術史。現在、滋賀県立近代美術館学芸課長。


滋賀県の仏像に関わる道

プロフィールを見ると、お二人とも1953(昭和28)年のお生まれです。何月生まれですか。

髙梨 僕は4月です。

寿福 僕は7月、ほぼ一緒ですね。

髙梨さんは京都、寿福さんは神戸のお生まれですが、滋賀県の仏像と関わりを持たれた、その経緯をまずお聞かせいただけますか。3カ月早い髙梨さんから。

髙梨 高校生のときに京都の国立博物館で「日本国宝展」という展覧会があって、それらの仏像をどういう人がつくったのかということに興味をもつようになりました。もともと歴史好きだったので、大学は文学部へ入ったんですが、僕は机の前に座って考えるよりも、外に出て体を動かすことの方が好きだったようで、ちょうど当時、同志社大学で講師をやっておられた宇野茂樹※1先生が、滋賀県の寺社仏閣を訪れて調査なさっていることを知り、参加したんです。そこで現場監督をしていたのが、いま栗東歴史民俗博物館館長の佐々木進さんでした。佐々木さんの後ろをひょこひょこ荷物持ちをしてついて行く、思い返すと丁稚奉公みたいな感じで始まったのが滋賀の仏像調査でした。

 それが大学から大学院に行くころの話です。当時、井上靖さんの小説なども出て、向源寺(長浜市)の十一面観音像などはメジャーになりつつありましたが、一方で、延暦寺にどういう仏像があるのかというと、ほとんどの人は知らないという状態でした。若者からしてみると、何か無限の地平が広がっているような気がして魅力的だったのです。運よく、大学院で留年しているときに、「琵琶湖文化館に空きがあるんだけど来ないか」と声をかけてもらい、アルバイトから始めて、昭和54年に滋賀県立琵琶湖文化館に学芸員として入ったかっこうです。

髙梨さん執筆の解説部分を読んで、私は考古学みたいだという印象を受けました。

髙梨 はい、そうかもしれませんね。

寿福 手法がね。

美術史では画家の生涯など作品自体以外で語る部分がありますが、モノしかない状態の中で、それぞれの類似などを頼りに筋道を探るというか。

髙梨 例えば今度、県立近代美術館で展覧会(10ページ参照)をする白洲正子さんのように、随筆で「美しい」といった印象を述べる方法もあるわけですが、僕らは、残されたモノを頼りに歴史の中で何が証明していけるかを目指してやってきました。手がかりは仏像だけではなく、お経や図像などの規則書なども参照しながらですが。

 近江の村々は中世以降だと非常に多くの文書を保存していたことで知られていますが、さすがに古代の文書というのは、ほとんどないんですね。そういう中で、滋賀県の仏教の歴史、お寺の歴史を構築していくためには、滋賀県に伝わっている仏像というのは非常に有効な素材であると思います。動くことのない考古学の遺構とは違い、仏像はあちらの寺からこちらの寺へと移動することもあるので、その辺の論証が難しい点ではありますけれど。

 だから、おっしゃるように、美術史と言うよりは…、しゃれみたいですけど、技術史。どういうふうにものをつくるのかとか、どういうふうにそれを置いて、それの周りでどうするかとか、そういうことの方に興味があるのかもしれませんね。

 ただし、中には現代でも通用するような造形性のものがありますし、まさにトップランナーを走っている単独でもすばらしい造形のものが滋賀県の場合はありますが、一つずつでは語れることも限られてしまう。

今回の写真集のように大量に集まった時、とても有効な方法だというのがわかります。

髙梨 そうですね。いままで、滋賀県の場合、こういう本がなかったから。この本を見た方が、僕なんかとは違う、新しい視点で比較検討をしてもらえれば、非常にありがたいし。その場合、寿福さんの写真は、ちゃんとディテールを出してくれている、研究にも使える写真ですし。

「模刻」と呼ぶそうですが、基になる仏像を模したものが、別の複数のお寺でも本尊とされていたり。

髙梨 失礼な言い方ですが、1体ではあまりパッとしないなという仏像でも、他との比較でみれば意味はあるんです。比較検討することで新たな視点で見ることができたり、いろいろな可能性が滋賀県の仏像にはあります。

続いて、寿福さんは滋賀の仏像との関わりはどの辺からということになりますか。

寿福 私は、そもそも埋蔵文化財の撮影が専門で、博物館や美術館へ出入りするうちに、仏像や絵画など美術品の文化財も撮影するようになったんです。生まれは神戸ですが、物心がついたときには大津市の坂本にいて、そこは朝鮮半島から来た渡来系の人たちのお墓とされる古墳群がたくさんある地域でした。やがて、江若鉄道※2が国鉄の湖西線になり、あちこちに県道ができたりと開発が進み、それに並行して古墳などの発掘がどんどん行われました。私が中学生の頃です。いわゆる「考古ボーイ」というやつになって、それから病みつきですね。

 もう一つ、藤森栄一※3さんの『銅鐸』という本の一部が、たまたま中学か高校の教科書に収録されていて、その文章が好きになったというのもきっかけです。当時、滋賀県は銅鐸が一番たくさん出土した地だったし。とりあえず、高校生の夏は湖西線の発掘現場へバイトで行っていました。

当時は、高校生でもそういうバイトで働けたんですか。

髙梨 昔は中学生でもやっていたものね。

寿福 実は、中学から行っていました(笑)。ちょうどあのころは六十年安保と七十年安保があって、学校に行くのが嫌になった学生なんかが発掘現場にはいっぱい集まってきたんです。ただで飯が食えて、宿舎もあったから。人間の根源的な性分なのか、地面の土をさわりだすと面白いんですよ。いま、その頃の人たちがトップとなり考古学界を引っ張っています。そういう時代に私は中高生だったんです。

写真の撮影技術はどこで学んだのですか。

寿福 その湖西線の発掘現場に森昭※4さんという考古学専門のカメラマンがいらっしゃったんです。土門拳みたいな風貌の独特の人でね。若くして亡くなられたんですが、私は森さんのかっこよさにひかれて写真の世界に入ったんです。発掘用に立てられた櫓の上で絶対に動かない。きれいになるまでどんなことがあっても、シャッターを切らない人でした。森さんが、その後は横浜市港北区の発掘へ行ったんです。それに、私もついて行って…。

弟子入りですね。

寿福 といっても、自分の食う分は自分で稼がなくちゃいけないから、横浜市教育委員会に嘱託で入って、遺跡を撮影しました。その辺が写真仕事の初めです。昼間は自分の仕事、夜は大将の食事などの世話。大将は濃いコーヒーが好きでね。

 いまから思うとですが、仏像とのかかわりでいえば、もう一つあります。僕は坂本の盛安寺が経営している保育園に通っていたんです。何十年ぶりかで訪れたのですが、あそこに寺の鐘があってというようにわりに覚えていました。だから、今回の写真集にも掲載した御本尊の木造十一面観音立像を、園児の頃に見ているんじゃないかと思うんです。年に1回ぐらい御開帳か、何かのときに園児に見せてくれたんじゃないか。そんなことも思って、妙にこの御本尊が好きなんです。これは髙梨さんと二人だけで、改めて撮影に行きましたね。

髙梨 そうだね。

寿福 本来は大津宮と関わりの深い崇福寺にあったというのも、考古学好きには特別な思い入れができるし、幼少期の刷り込みなのか、不思議なご縁がある仏像です。


※1 宇野茂樹 1921年滋賀県生まれ。國學院大学卒業。滋賀県重要美術品等調査事務取扱嘱託、滋賀県立産業文化館文化係長、滋賀県立琵琶湖文化館学芸員などを務め、戦後滋賀県の文化財研究を牽引した。栗東歴史民俗博物館名誉館長、小槻大社宮司。著書に『近江路の彫像』(雄山閣出版)、『日本の仏像と仏師たち』(雄山閣出版)など。
※2 江若鉄道 浜大津─近江今津間53.2㎞を走っていた私鉄。国鉄の湖西線着工を契機に昭和44年(1969)に廃止された。湖西線は、昭和42年に着工、山科─近江塩津間74.1㎞を結び、昭和49年に開業した。また、昭和45年に西大津バイパスの工事も始まっている。
※3藤森栄一 1911年長野県生まれ。長野県に諏訪考古学研究所を設立。井戸尻遺跡群などを発掘し、在野の立場から縄文中期農耕論などを提唱した。『銅鐸』(学生社)で毎日出版文化賞を受賞。1973年没。
※4森昭 1942年満州生まれ。高校生の頃に大阪府船橋遺跡の発掘に参加、東京写真短期大学卒業後、主として考古学写真家として活躍。1999年没。『歴史公論』連載「古代の顔」の写真を主体に構成された『人物はにわの世界』(文/稲村繁、同成社、2002年)がある。


指定文化財台帳写真撮影事業の成果

お二人のおつき合いは、いつぐらいから始まったんですか。

髙梨 僕が県立近代美術館に来てからでしょうね。あの当時は、展覧会の経費に今より余裕があったから、県外にある作品を撮影に出かけたんです。「近江八景」をテーマにした展覧会で、川合玉堂さんの作品を撮影しに玉堂美術館(東京都青梅市)へ行ったり、あの頃は二人で、よくいろいろなところに行きましたね。

寿福 よく行ったね。

髙梨 仏像を撮影する仕事に関しては、県教育委員会文化財保護課の宮本忠雄さんが…。

昨年まで琵琶湖文化館の館長だった方ですね。

髙梨 もう20年以上前になるのか、平成元年度から宮本さんが、仏像の基礎的なデータを集める取り組みを始められたのです。「指定文化財台帳写真撮影事業」といって、盗難も多いので管理面での必要性も当然ありますが、今後の研究のためにまずどういうものがあるかということを記録して残さなければいけないという考えからです。

 作業としては、お寺の仏像を燻蒸して虫やカビを殺すために下へ降りていただく。それと合わせて、寿福さんが写真を撮影する、僕も含めた何人かで像高などを計測して記録していく、それをずっと続けていたんです。まさにその継続の成果が今回の写真集だと言った方がいいかもしれない。

寿福 燻蒸という機会で、秘仏が出せたわけです。単なる調査というだけでは、外に絶対出してもらえなかったような仏像も撮影させてもらえました。

今度の本へ掲載されたものの中では、金剛輪寺(愛荘町)のご本尊(秘仏)である聖観音立像など、驚かされました。写真集をつくるからといって撮影させてもらえるものではないでしょうね。

髙梨 その仏像調査で、非常に大切にされている仏像や巨大な仏像を動かす中で、僕たち学芸員が育ったんですね。県内にいろいろな館ができ、そこで働き始めた若い学芸員がこの調査を通じて成長したと思っています。そういう意味でも、非常に画期的な事業でした。実際、文化庁などから非常に評価してもらいましたし。

寿福 レプリカを使って学習・実習をするのではなく、国宝や重要文化財の本物を現場で身近に接することができるというのは、ものすごい体験だと思う。

髙梨 1カ所に3日ほどかかるんです。最初は善水寺(湖南市岩根)だったかな、大雪の日だったのを覚えています。降ろして、まず最初に調査して、その後、燻蒸して、2日ほどそのままガスを入れて、後、戻しに行く。善水寺さんだと、本堂の中だけで重要文化財が15体ぐらいあるから。

寿福 本堂自体が国宝だからね。

髙梨 別の所ですが、仏像を梱包して担架に積み、山道を下ってトラックまで運ぶ間、道の脇におばあさんが並んで手を合わせて、もちろん僕を拝んでいるわけじゃないけど、真剣に見送ってくださる。日通の人たちも、「いまどきこんなところがあるんですね」と驚いていたこともありました。

作業中に大発見といったことはありましたか。

髙梨 仏像の胎内から銘文が出てくるといったこともたまにはありますが、もっと初歩的な話で、「何の木でつくってあるか」ということも、触ったり、虫眼鏡で見たりして初めてわかるんですよ。そういう意味から言えば、地味かもしれないけど、日々発見でした。

 お寺のご住職や寺守の人も疑問に思っていたことを質問してくださるから、わかる範囲でお答えすると、「へぇ」と感心してもらえたり。〝村の宝〟ということを再認識していただける機会にもなりましたね。

寿福 もうそれから年賀状をずっとやりとりしている人もいっぱいいますよ。

 それから忘れていけないのは市や町の博物館・資料館の活動です。ある程度文化財をまとまって有している自治体の館は、お寺さんとも非常に密接な関係を築いておられます。例えば、金勝寺(栗東市)の軍荼利明王立像など、4m近い巨大な像を移動させたんですが、栗東歴史民俗博物館の存在がなければ撮れなかったと思います。

髙梨 そうなんですよ。本当に地域の博物館として、立派な活動をなさっていると思います。館長が自分の先輩だから言うわけではなくね。

仏像に即、入っていける光の当て方

仏像の撮影は、埋蔵文化財の撮影と何か技術的な違いなどがあるのですか。

寿福 仏像も考古も一緒かもしれない。というか、すべて光をどう当てるかなんです。例えば埴輪なんかは素朴な造形で難しいですが、表情がどこかにある。昔は前方後円墳の上に立っていたわけですね。朝日か、夕日か、正午ごろか、光の加減で表情が変わるはずです。

 だから考古も、仏像も光線具合だから、ものすごく自然の中に身を置いて撮影したら発見があるんじゃないかなと、このごろ思います。最近は、石仏でそれに挑戦しています。

丸一日眺めている必要がありますね。

寿福 そう。本当に丸一日なんです。朝日が当たって、昼日が当たって、夕日が当たって、夜が来て、ろうそくを立てて、下から光が当たったらどんな顔になるかとか、狛坂磨崖仏(栗東市)でやっているんです。怖いんですよ、真っ暗なところで気色悪くて。でも昔の人は絶対にそういう姿を拝んでいた。

見ているはずですよね。

寿福 ただし、今回の写真集に収録された写真の撮影は、上から光を当てている一般的な博物館の展示と同じようにしています。ちゃんと計測してデータを出していくものなので、光は、左右どちらかの斜め45度上から当てて、立体感が自然に出るようにしています。ただ、最後の1枚は気持ちで撮らせてもらったりするわけです。

基本、あまり自分を出さないように。

寿福 自分というのは、たぶん「光」だと思うんですけど、光をここから当てたなというのがわからないように撮っています。光のことを気にせずに、仏像に即、入っていけるような当て方です。

 アングルの高い、低いによっても印象が変わるというのは一般の人にもわかりやすいと思うんですが、僕はレンズの画角によって時代観が変わってくると思っているんです。極端に言えば、同じ仏像を撮っても画角で時代の印象が一世紀ぐらいは変わると。つまり、広角レンズで撮った仏像と、望遠レンズで撮った仏像の写真を並べた場合、絶対に望遠レンズで撮った方が重量感が出て、歴史を感じさせます。逆に広角で撮ると江戸時代ぐらいの洗練された感じになります。ですから、なるべくひいて望遠で撮っています。仏像から離れていれば、もしカメラが倒れても大丈夫という、安全のためでもあるんですが、できるだけ「長い玉」(望遠レンズ)で撮影しています。

これは撮影が難しかったというものは、どれですか。

寿福 全部難しいですが、技術的には表面に金箔をのせたものが難しい。金の反射は激しいですから。けれど、やさしいか難しいかといったら、全部難しい。

髙梨 昔に撮ったものを、その後また撮り直しに行くね。別の仕事に便乗するかっこうで。論文に以前の写真を使わせてというと、「いや、今度撮ったさかいに、これを使って」と差し替えさせられることがよくある。

毎回満足していないということですか。

寿福 それと、仏像って、そもそも変わるんじゃないかなと思う。

髙梨 うん、変わるよね。

寿福 生きているわけじゃないんだけど。風景と同じで、同じ季節に同じお寺に行っても変わっちゃう。だから、結局は一番最初に撮ったやつが一番いいんです。本当に素直に撮っているからね。2回目、3回目に行くと、1回目よりもシャープには撮れるけれど。自分のその時の気分や天気、同行者もそれぞれ目的とするものが違うし。

髙梨 一緒に来た学芸員、研究の対象も違うし、厄介なことばっかりしよるしね、タバコばかり吸いに行って。

寿福 昨日も阪神負けよったし(笑)。

髙梨 すんません。私のことです(笑)。

寿福 でも本当に心の何かがいっぱい出てくるんですよ。だから、なかなか同じものは撮れないですね。同じように撮ろうと思ったら余計に撮れなくなってしまう。

まだ無尽蔵の滋賀の仏像

ところで、近年、仏像ブームといわれる状態が続いていますが、直接的に実感なさることもありますか。

髙梨 東大寺の三月堂にある執金剛神立像(国宝)が毎年12月16日に開帳するんですが、僕が学生の頃は、とにかく寒さを我慢しながら、ほとんど人もいないなか丸一日見てるという感じでした。それが10年ほど前、久しぶりに行ってみると、いろいろな大学の先生方が、学生や大学院生を連れて来ていて人だかりでした。だから、昔に比べると興味を持つ学生は増えたんだなという印象ですが、逆にこの世界でみんなが飯が食えるかというと、そうでもない。

仏像などの文化財調査がずっと継続されればいいですが。

髙梨 そうですね。実際、滋賀県の仏像の調査は、ある意味、まだ無尽蔵です。我々が調査できたものは、ほとんど鎌倉時代ぐらいまでですから。

 今回の写真集でも室町時代の像を少し入れさせていただいたんですが、室町から江戸時代にかけての像でも調査をするべきものは大量にあるんです。失礼な言い方ですが、例えば関東地方のある市の仏像を調査するというのであれば、幕末の仏像まで含めた悉皆調査ができて、全部報告書に記載できます。ところが、滋賀県では数が多すぎてそんなことは不可能なんです。

 江戸時代は非常に世俗を謳歌した時代だという言い方がされますが、人々の信仰心が消えたわけではなくて、いま滋賀県で一番たくさん残っている仏像はいつの時代のものかというと、江戸時代のものなんです。

やはり、数の上ではそうなんですね。

髙梨 在家のお宅からお寺の本堂に移されたものなども結構あります。実のところ、江戸時代にまで下ると大量生産の極みみたいになるので、美術史の点からはあまり見るべきものはありません。けれど、近世の仏教史という観点からみれば、やはり無視するべきではないはずなんです。例えば、関西大学の長谷洋一教授などは、それまで未開拓だった江戸時代の仏像を研究なさって優れた成果を出しておられます。

 時代を越えた影響関係を考えると、江戸時代の仏像を研究することは、江戸時代だけにとどまらないんです。ひょっとしたら、われわれが知らない奈良時代の仏像の形が反映されている可能性もある。そう考えれば、江戸は無理にしても、少なくとも室町時代か桃山時代ぐらいまではカバーする必要があります。

寿福 大きなお寺に行くと、江戸時代の仏像が後ろの方にいっぱいあっても、みんな注目しませんね。寄進した人の名前までわかるものもあるのに。

髙梨 江戸時代の像だと、銘文が残されているものも多いんです。誰が何を祈願してつくらせたかといった、その像についての情報は圧倒的に多いんですよ。

 それに平安時代の仏像といっても、「後補」といって、後から修理された部分がかなりあります。中には、極彩色に塗ってあったりとんでもない表現もあるので、現在、修理するとそれを落としてしまいます。ところが、江戸時代の研究をしている人間にとっては、そのときの極彩色が意味があるんですよね。でも、我々は、それを除外して考えてしまう。

時代を経る中で姿が変わったというものだと、今回の写真集に掲載されたものでは、鶏足寺(長浜市)の菩薩形立像は…。

寿福 普通には、「魚籃観音」といった方が通りがいいよね。

髙梨 ふだん世代閣という収蔵庫で拝観する時は、魚の入ったビク(魚籃)を左手にさげているんです。これは後の時代になって加えられたものだと思われるので、取り除いた写真の方を掲載しています。

 別の千手観音さんでも、普段は持っている錫杖が新しいものなので取り除いて撮影したとかあります。なるべく、造られた当初の姿を想定できるようにというのが、今の我々のスタンスなので。でも、やっぱりご住職の中には、「ちゃんとつけて撮ってください」と言う人もいるので、普段の状態の写真も1枚撮らせていただいたり。

仏像は場所の記憶と一体

読者が仏像の写真を見る際に、こう見ると面白いよというアドバイスはありますか。

髙梨 仏さまというのは、当時の人が考えていた人体表現の理想型なんですね。それは美男美女の基準というのとも違っていて、ずんぐりむっくりに見える像もお経に「如来は丸い」といったことが書いてあるからで。そういう意味で、古代の日本人が、いったい何に神々しさを感じたか、理想的なものを見たかを考えてはどうでしょう。ギリシャ彫刻からの系譜にある西洋美術のリアリティとは違ったものとして。

様式化が進んだせいで、とてもモダンな印象になっている仏像もありますね。

髙梨 うん、あります。逆に。

寿福 来迎寺(野洲市)の聖観音立像の横顔など、デザインとして優れていますよね。

オリエンタルな感じもあって。

髙梨 同じ時代でも、快慶の像、運慶の像は違うんですよね。鎌倉彫刻というと、イメージとしては運慶的な、ものすごく豪快な感じでと言うんだけど、一方で、快慶みたいに非常に丹精で整ったものもある。後者は、平安時代後半の貴族文化の到着点だったのかもしれない。

寿福 改めて質問するけど、髙梨さんが一番ほれている仏像はどれなんですか。

髙梨 友人で、いま同志社大学教授(近世芸能史)の西岡直樹さんの実家が旧びわ町(長浜市)にあって、学生時代、その家に泊めてもらいながら、湖北のお寺を何日もかけて回ったことがあったんです。向源寺の十一面観音、鶏足寺や充満寺の仏像、西野薬師堂(充満寺)、石道の…。京都のお寺みたいに拝観料を払ってではなく、村のおばあさんに聞くと、「今日は誰が当番かいな」といってお堂の鍵を持っている人を探してくれる。西野の薬師堂を訪れたとき、大学の同級生が運転していた古い車がエンストして動かなくなってしまって、薬師堂の管理をしている人がバイク屋さんを呼んできてくれて、その人が、配線をきゅきゅっと触ってすぐに直した。そういう変な思い出がたくさんあるので、やっぱり湖北の仏像が、僕にとっては原点なのと違いますかね。

他との比較でこれこれが技術的に優れていてという話になるのかと思ったのですが、場所にまつわる思い出ですか(笑)。

寿福 僕の場合も、何が楽しいというと、やっぱり、その土地の空気に触れるのが楽しい。その土地のおばちゃんが話す言葉で聞いて、国宝級のものを守ってきた村の人の姿を見て、そういう全体に触れているときが一番楽しいかな。

 撮影自体は、決して楽しいものではない。だって、鑑賞して撮っていることは、実はほとんどなくて、ピントは、露出は、このフィルムとは相性が悪かったなとか、背景紙の色を変えたかったとか、そんなことばかり考えていますからね。特にこの頃は収蔵庫での撮影が多いんですが、できれば本尊さんを本来の場所に置いて撮影してみたいですね。例えば、野洲市にある仏性寺の阿弥陀如来坐像はいわゆる丈六※5の大きな像なので、もともと置いてあった位置の屋根の背が一部ポコッと高い、像に合わせて作られた特殊な建物だったんです。今度の本に掲載している写真は、別に設けられた収蔵庫の中での撮影なんですけどね。

最後に、今回の刊行について何か。

髙梨 正直いうと、僕は、「遅きに失しているのかな」という気もします。でも、なかなかできないよね、今の世の中。そういう意味では、今は危機なんじゃないですか。ずっと仏像を造ってきて、守ってきて、当然、戦争などで失われたものも多いんだけど。今はそういう危機はないにもかかわらず、若い学芸員が本物に緊張感を持って触れる機会がないとすれば、問題です。

寿福 とにかくフィルムが変色するぎりぎり前でよかった。もう20年ぐらい経っているものもあるから危なかった。

髙梨 この仕事を一緒にしている者は、皆それをものすごく気にしています。

寿福 デジタル化されて保存の方法も変わってきますが、アナログの味わいが表現できた今回の出版にとても感謝しています。

(2010年9月16日、滋賀県立近代美術館にて)


※5 丈六 1丈6尺(約4・85m)の仏像。釈迦の身長が1丈6尺あったとされることにちなむ。坐像の場合は、半分の8尺に作るが、これも丈六という。


編集後記
 めくってもめくっても重文、重文…。3分の1ぐらいで満腹になり、いったん閉じて明日に回さざるをえない。そんな贅沢な写真集が出来上がりました。
 今現在の私のお気に入りは、本文記事で「驚かされます」と言っていた金剛輪寺のご本尊(秘仏)よりも、その次のページに載っている前立の木造聖観音立像。重厚な像の多い中、よい意味での軽みが感じられるお姿です。(キ)

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