まちづくりのための何かがほしい

▽まずは、皆さんが鈴木儀平さんにお話を聞く儀平塾がどのような経緯で始まったのかをお教えいただけますか。

木本 鈴木儀平さんと初めてお会いしたのは、新興住宅地で発行していたミニコミ誌に、菩提寺の歴史について書い ていただいた時で、もう20年以上前のことです。まだ私も現役だったこともあり、菩提寺の歴史にそれ以上関わることはなかったのですが、その後も何か催し があれば、鈴木さんに歴史の話をお願いしたりしていました。
それが平成20年(2008)の春頃、儀平塾という場をつくり、地域の歴史をまとめようということになったんです。菩提寺の歴史について関心のある住民 への講演をテープに録音して、それを原稿に起こすという形でです。その時点で、録音のテープ起こしを手伝える方はいませんかというお願いをして、集まった のが、儀平塾のメンバーなんです。今日は参加できなかった方も含めて、約10名います。

▽今日、集まっている鈴木さんのお宅でやっておられたわけですね。

西山 あの時にタイミングがよかったのは、その前年(2007)、湖南市の提唱で市内七つの学区ごとに「まちづくり協議会※1」をつくろうという動きが起こったんです。今、塾のメンバーである田中宏明さんが当時菩提寺学区の学区長で、まちづくり協議会をつくるにあたって、「やっぱり歴史というのは大事やで」ということをあちこちで非常に熱心に言われたんですね。

木本 私もその時に田中さんとお会いして、田中さんを通じていろいろ声をかけていただいて。まちづくり協議会でも地域の歴史に目を向けようという形になったので、よかったかなと思います。

田中 湖南市だけでなく、全国的に取り組まれていることだと思いますが、今までの区、自治会という区切りではで きることに制約があるというので、範囲を広げて学区のレベルで地域づくりをやっていこうという動きです。菩提寺学区には七つの自治会(区)、二つの小学校 があるんですが、その七つの自治会は、もともとの菩提寺という在所が一つと、後の六つはすべて昭和40年代後半にできた新興住宅地なんです。つまり、成り 立ちや構成員にいろいろな面で違いがある自治会が一つになってまちづくりをしようというわけです。その際に接着剤というか、一体にするための何かがほし い、地域の歴史はその一つになるんじゃないかと考えたわけです。

▽地名とすぐそばにそびえる山の名前にもなっている少菩提寺※2は、奈良時代から室町時代にかけてかなりの大寺院で、国史跡の多宝塔や石仏※3も残されていますからね。

田中 鈴木さんにお会いしたのは塾が始まった時が初めてでしたし、それまでは歴史なんか興味なかったんです(笑)。ところが、ちょっと足を踏み入れてみると、本当に面白い地域だなと思うようになりました。


※1 まちづくり協議会 平成19年(2007)、滋賀県湖南市によって市内七つの学区に対して設立が提唱された組織。市民自らの参画と協働のもと、「地域でできることは地域で」実施し、広域コミュニティとしての役割を担う。
※2 少菩提寺 天平3年(731)、良弁僧正によって 菩提寺山東麓に開基されたと伝わる寺院。大菩提寺とも称された金勝寺(栗東市)に対して名づけられた。30以上の建物をもつ大伽藍があったと伝わるが、元 亀年間(1570〜73)に織田信長と六角氏の戦乱に巻き込まれて焼失、廃寺となった。
※3 国史跡 廃少菩提寺石多宝塔および石仏 少菩提寺の遺構とされる左記の石造物で、一括して国の史跡に指定されている。
石多宝塔(写真下)…高さ4.5m。鎌倉時代の銘文が刻まれている非常に貴重なもの。
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地蔵菩薩像3体(写真下)…中央の1体が鎌倉時代、両側2体は南北朝時代の作とされる。
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閻魔像(写真下)…新撰 淡海木間攫其の45参照
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メンバーの出身地はいろいろ

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▽つづいて、儀平塾の塾生の皆さんの自己紹介をお願いできますか。先日、初めてうかがった際、木本さんは四国のお生まれで、他の塾生の方も出身地は いろいろで、この地に移り住んでこられた方がほとんどです。菩提寺は、もともと200戸ほどの集落だったのが、昭和40年代以降の住宅団地の造成によっ て、現在約4000戸、人口は1万人以上になっています。つまり95%は新住民だという地域で、通常の字史とは違う特徴だと思います。簡単で結構ですの で、それぞれのご経歴を。まず木本さんは、先ほどのお話でミニコミ誌をお作りになっていたということですが。

木本 「みどりの村」(4ページ航空写真参照)ができたのが……昭和47年(1972)ですか。私は製薬会社に 勤めていたのですが、昭和52年(1977)に来たんです。ミニコミ誌は、息子が小学校5年生の時にPTAの会長になったことがきっかけでした。翌年が菩 提寺小学校創立10周年にあたっていて、その記念事業などのために役員として残ってくれと言われて。京阪神から移り住んでこられた芸術家の方なども多かっ たので、その作品などを展示させていただき、何とか成功裡に終えることができました。
その時に、地域のコミュニケーションを深めるためにミニコミ誌があってもいいんじゃないかという意見が出て、有志の方たち、これもやはり10人ぐらいが編集委員を務めて地域の出来事などを紹介する誌面で、6、7年続きましたかね。隔月で40号ぐらいまで発行しました。

▽ええと、年表によると、菩提寺小学校の開校が昭和55年(1980)。お子さんの入学が開校してすぐくらいにあたるんですか。

木本 息子が小学校入学の2年前に菩提寺小学校ができたんです。それまでは今の保育園がある場所に町立岩根小学校の分校があって、そこに通っていたようです。いろいろ変わったんですが、当時は小学2年生までは分校に通って、3年生以上は4㎞ほど離れた岩根の本校に行く形でした。

▽さらに、平成7年(1995)、名神高速の北に菩提寺北小学校も開校しています。

岡本 私は昭和56年(1981)に京都府から北山台(航空写真参照)に移ってきました。京都にあった勤務先はそのままで。
特にここ菩提寺の歴史に関心があったわけではないんですが、たまたま儀平塾ができる時に、そちらにおられる廣瀬さんが、ぶらっと家に遊びに来られて、 「こんなんやるんだけれど、入らないか」と。私は、メール友達と古代史のことでやりとりをしたり、歴史好きではあったんです。現在体調をくずしているんで すが、この儀平塾のお手伝いぐらいだったら何とかできるんじゃないかという思いもあって。今は毎週日曜日を楽しみにしている状態です。

岡島 私は、名神高速道路と山に囲まれたサイドタウン(航空写真参照)という、この辺の団地では一番先にできた所に住んでいます。

▽一番奥の方が先に造成されたんですね。

岡島 もともとは別荘地として売り出された地域で、三角屋根のバンガローというか別荘風の家に自家用車をつけて 売り出されたんですよ。だからサイドタウンの自治会のマークは三角屋根に森をあしらったかっこいいデザインのものです。私自身が移ってきたのは、平成2年 (1990)、ちょうどバブルの時で、大阪のマンションに住んでいたのですが、趣味が花づくりだったせいもあり一戸建てを探したところ紹介されたのがここ でした。しばらく大阪の製薬会社へ通勤しましたが、合併や移転があって、この近辺の製薬会社に転職しました。

▽岡島さんだけ、まだ現役なんですね。

岡島 きっかけとして、菩提禅寺の安部正毅住職を案内役に地元を歩く催しに参加して、この菩提寺自体もなかなか 歴史が深いなと思ったことがあります。ちょうどそういう時に「儀平塾があるよ」というのを聞いてきた妻に、「参加してみたら」と言われて。最初は妻にもつ いてきてもらいまして(笑)、いっしょに鈴木さんのお話を聞いてたんです。仕事もあるので、続かないかなとも思ってたんですが、やっぱり知ることで刺激を 受け、さらに知りたい気持ちも起こるので続いてます。

西山 私は北山台に住んでいます。昭和51年(1976)に来ました。北山台が開発されてすぐ、第1期生の入居 の時だと思います。それまで大阪に住んでいましたが、娘が小児ぜんそくだったので、「転地療法をしなくちゃいかん」と医師に言われて。候補地になった三重 県とここを比べた時に、こっちが安かったんです(笑)。
現役時代は単身赴任も含めていない時期が多かったもので、地元のことについてはほとんど知らない状態でした。それが定年後、借りた畑で家庭菜園をするよ うになると、農家だったおじいさんらが、何百年か前に大変な洪水があって、たくさんの家が流されたといった話をしてくれるんですよ。そんな頃に、木本さん から儀平塾の話を聞いて、当時の田中区長からまちづくりについての話もあって、入ったんです。

田中 もう一つ言っておいた方がよいと思うんですが、まちづくり協議会は、菩提寺山(龍王山)に「歴史の小径」※4というのを整備中で、丸太の橋や階段、立て札などの整備や周りの花樹の植樹などが、地域の皆さんのボランティアの力を借りながら進められています。立て看板や配布物の制作には、「儀平塾」としても協力しています。

▽菩提寺山の東側の「室ヶ谷」から登るのが普通になっていて、南側からの登山道は廃れていたんですね。

西山 それが今では子供たちでも簡単に登れますし、案内板でそこがどういう場所かというのもわかるようになったので、歴史に親しむという点で、具体的に一歩も二歩も進んだと思います。

田中 僕も北山台の1期で、昭和50年(1975)の入居です。もとは木がいっぱい生えた丘陵地だった所で、昭 和48年ぐらいから開発が始まったそうです。勤め先は京都にあった製造業の会社で、ずっと通っていましたが、50歳代半ばでリストラにあい、その後8年ぐ らいこの近くの工場にいました。現役の間は会社人間で、自治会のことも、子供の教育も、全部嫁さん任せでした。そうはいっても、自治会の役員が3回ぐらい 回ってきて、男手のいる仕事などに出ていましたが。
会社を退職してからは、これまで家族ぐるみで地域にお世話になったお返しとして、地域のことには積極的にいろいろやらせてもらっています。

廣瀬 私も北山台です。それまでは大津の石山に住んでいて、昭和55年(1980)に移ってきました。ちょうど今年で30年ですね。勤めは大阪で、毎日通っていました。ここからだと、野洲駅か石部駅に出て、毎日往復4時間の通勤でした。

田中 ほんとに便利の悪いところですよ。

▽ベッドタウンになっているわりには。

廣瀬 そんなことで、ほとんど地元のことには関わったことがなかったんですが、定年になったので何かやろうと。この儀平塾にも入ったんですけど、歴史はまったく興味ないんですよ(笑)。パソコンの入力だとか、写真を撮ったりだとかは少しはお手伝いできるかなと思って。

木本 古絵図の上に文字を打ち込む作業などをしていただいています。

植中 私も北山台なんです。来たのは昭和52年(1977)の今ぐらいの季節でした。うちは子供の一人が障害児だったもので、できるだけその子が生きやすいまちに住みたいと、子供が1歳半の頃に大阪の南河内の社宅からこっちに来ました。
この8年ほど、「生涯学習ボランティアまなびすと」という、教えたい人と学びたい人を結びつけて講座を開くなどのボランティアサークルで活動しています。そこで菩提寺にある正念寺の乾憲雄※5住職や鈴木先生の歴史講座を聞きました。
それとは別に、奈良の橿原神宮の近くに住んでいる私の姉は、夫を亡くしたことで鬱状態になり、月の半分ぐらい我が家に来ていたんです。その姉も歴史が好 きで京都巡りをしていたりしたんですが、地元でこういう会があるというので、姉といっしょに参加したのが儀平塾のきっかけでした。最初は、パソコンを使っ て原稿を作る作業に自分がついていけるか心配だったんですが、まぁほとんどの方は同じようなレベルだったので(笑)。


※4 「歴史の小径」 国史跡「廃少菩提寺石多宝塔」か ら山頂へ向かうルートは、ずっと地元住民も使わないケモノ道となっていたが、平成21年(2009)2月から菩提寺まちづくり協議会が整備に着手、「歴史 の小径」と名づけたハイキングコースとするため生い茂った木々の伐採や丸太の階段の設置などが行われている。
※5 乾 憲雄 真宗大谷派正念寺第19世住職。滋賀県俳文学研究会会長。平成19年度地域文化功労者文部科学大臣表彰を受賞。『淡海の芭蕉句碑(上)(下)』(サンライズ出版)、『近代の俳画と俳句』(京都書院)など著書多数。
正念寺は、文明14年(1482)、少菩提寺の一坊だった東光坊の跡地に、本願寺蓮如に帰依した乾秀盛が開基した。


調査地は危険地帯

▽それでは、鈴木儀平さんについての想い出、ご存じのことをお話いただけますか。

田中 この部屋で初めて鈴木先生のお話を聞いて、まずは記憶力にびっくりしました。年代から何から全部覚えておられるから。でも、郷土の歴史を調べるようになられたたのは、かなりの歳になってからだそうですね。

木本 郷土史に関わるようになられたのは、60歳過ぎてからとお聞きしています。その後、県の城跡調査などに参加なさいました。

▽略歴によると、65歳から10年間、県の中世城郭分布調査員をなさっていますね。

木本 それから、石碑の拓本を※6とるという仕事もやられて、拓本の公募展で文部大臣賞を受賞なさったりしています。鈴木さんに拓本の技術を教えてもらいに通ってこられる生徒さんもたくさんおられました。

西山 拓本を一つとるのでも、足場を組む必要があるので、手間も費用もかかりますよね。

岡島 県立図書館にもよく通っておられたというのを聞いてますね。いっぱい写真を複写してこられています。

木本 ハゲ山に植栽している写真などでも、地元の菩提寺には残っておらず、県立図書館所蔵のものを見せてもらう必要があったんです。
とにかく鈴木先生は、実際に歩いて調べるということをなさっています。口で言うのは簡単ですが、古墳の跡や、鼻白岩と※7呼ばれる岩など、ご存命の間に連れて行ってもらう機会はなかったものですから、自分で探しに行ってみたんですが、わからないんですよ(笑)、木がいっぱい生えていて。葉が落ちた冬場に行ってもわからない。波岩や※8、仏足石※9など、どれもこれもかなり険しい場所なんです。波岩は、そばまでは行けず、対岸から見たんですが、シダなどが繁ってあんまり見えないんです。化石燃料を使う時代になってからは山に入らないので、荒れ放題ですね。

▽それで、鈴木さんが健康で体力のある方だったのかと思うと、62歳で心臓のバイパス手術をなさってますね(略歴参照)。

木本 山間部の調査にはお一人で行かれる場合もあるし、奥さん同伴で行かれた場合もあったそうです。心臓を患われていて、ペースメーカーも入れておられたんです。何か無理をすると倒れる可能性もあったので、奥さんにつきそってもらわれたんです。

▽胸にペースメーカーを入れておられたんですか。

木本 そうです。普通だったらやらないですよね(笑)。それぐらい執着があったということなんでしょう。

▽今の段階での原稿を読ませていただいて、テープ起こしから始まっているせいで、語り口調の部分も多くて親しみやすいと思いました。同時に説明の中に、たまに鈴木さん個人の記憶が挿入されている箇所があって生々しいですね。
菩提寺山の南麓にある石灰岩でできた合陳山には、生石灰を生産するための大きな焼成窯があって、「それを覆うバラックの屋根の大きかったことにびっくり し、そこで働いておられた人たちが小さく見えたのを、子ども心に覚えています」とあります。あるいは、「共同墓地と火葬場」の説明では、昔の火葬の仕方な どに続いて、一度に一番たくさん火葬したのは、昭和26年(1951)5月に甲西中学校に通っていた生徒が事故で亡くなった時だとおっしゃっています。
「棺を3基ずつ2列に並べて6人を同時に火葬しました」とあるのはその場にいた人でないと知らないことで、数十年前に引き戻されたような強い印象が残ります。


※6 拓本 木・石・器物などに刻まれた文字・文様を紙に写し取ったもの。また、その技法。紙をあて、刷毛で湿らせて密着させたのち墨をふくませたタンポで上からたたくやり方が一般的である。
※7 鼻白岩 菩提寺山の南東部にある巨岩。ハゲ山だった時代には、遠くからでもよく見えたと伝わる。
※8 波岩 菩提寺山の南麓の小山「合陳山」にある地殻の褶曲作用によって波形の模様が生じている奇岩。古絵図にも記載される。
※9 仏足石 石灰岩の表面に足跡形の凹みが生じている奇岩。江戸時代の博物学者・木内石亭の『雲根志』に記載されている。


地域の歴史を教わってみて

▽ではもう一度、木本さんから順番にお聞きしたいのですが、地元の歴史を知ってみて、何のお話が一番面白かったですか。

木本 鈴木さんが撮影してこられたスライドを見ながらのお話を10回ぐらいやっていただき、すべてをテープに録 音しました。その1回分ずつを塾生それぞれがテープ起こしを担当して原稿整理や校正もしていくという形をとったので、自分が担当した所が一番興味があると いうことになるんじゃないでしょうか(笑)。
私の場合は、神社・仏閣の部分を担当したのですが、皆さんもおっしゃっていたとおり、ほとんど知らないわけです。それを改めて認識できたというのは収穫 でした(笑)。例えば、神社の一つである斎神社なども単に一つの神社としてだけでなく、少菩提寺があった当時にどんな役割をしていたかということがわかっ たりしました。

岡本 私は、全部が面白かったですね。よく、歴史を忘れた国、国民が発展した試しはないとすら言われるわけです が、元禄時代の学者の荻生徂徠は、「見聞を広めて歴史を究めることが学問である」とまで言い切ってますし。それから、こないだ滋賀県の郷土史家であった中 川泉三の業績を紹介した「史学は死学にあらず」というタイトルの展覧会が栗東や長浜の博物館でありましたが、儀平塾に来るようになってから、その言葉の意 味がわかってきたというか…。

一同 おっ、それはすごい(笑)。

岡本 (笑)ほんとに温故知新といったことの意味が少しわかってきた気はします。もう一つ、私の田舎は丹後なん ですが、そこで出された村史を父が送ってくれたことがあって、読むとものすごく懐かしかったんです。ですから、菩提寺から出ていった子供たちにも親御さん が送ってくださったらいいだろうなと思っています。

岡島 私の場合は、住んでいるサイドタウンに昔あったとされる八王子神社はどんなものだったのかが、今でも気に なったままです。山崩れがあって、神社が埋まってしまって現在は北山台の入口の場所に移っているんですが、石林村という村もやはり山崩れで埋まってしまっ て、住民たちは今の菩提寺小学校の近くに移り住んだという歴史もあります。今回鈴木さんのお話をもとにした文章をまとめ、現地を実際に歩いてみて、高台の この辺にあったんだろうなと想像しては楽しんでいます。

西山 私は、担当した龍池藤兵衛※10さ んの事績ですね。立命館大学で昨年1年間、社会人と学生とのボランティア・コーディネーター養成講座というのを受講していまして、そこで、「ボランティア とはなんぞや?」ということから教わったのですが、外国はこれこれで進んでいて、日本はまだまだ…という言い方ばかりする先生がおられるわけですよ。で も、僕は、菩提寺では龍池藤兵衛さんがハゲシバリ※11の苗を植えて土砂崩れを防いだ例がある、社会に奉仕する行為は日本で実践されてましたよ、先生方も日本の昔にまでさかのぼってお調べになったらどうですかと言ったんですよ(笑)。
藤兵衛さんが生きたのは、江戸から明治への変わり目で、日本にもお金がない時代です。特に土砂崩れなどの被害を受けていたこの地域は貧しかったから、ああいう人物が出てきたんでしょうが。

▽明治後期に、野洲川の渡し船を私費で運営した井上嘉吉さんの事績も詳しく紹介されていました。こうした山や川などの自然環境との関係は、今では想像もできない面がありますね。

西山 菩提寺の東を流れる高田砂川も、名前のとおり水といっしょに土砂が流れてくるから住民は川底の土砂をすくって横に積み上げる必要があったそうです。流れてくる、底を掘る、積み上げる、この作業が戦後コンクリートで固められるまではずーっと続いていたそうです。

田中 私の場合、先ほどの話にも出てきたように、鈴木先生は調査の山歩きに奥様も連れていかれたそうなんです。 合陳山にすごく急な斜面があるんですが、そこを調べる時には、命綱のロープを奥様に持ってもらって、「軽くなったら、わしはもう落ちたのだから、お前は一 人降りてくれ」と言っておられたそうで、本当に身の危険も顧みずという感じだったわけです。そこまで先生を突き動かしたものは何だったのかぁと思います。 かなりの年齢になってからというのも含めて、普通の努力じゃないですね。その辺のことを、生前直接お尋ねすることができなかったのは残念だなと思います。

▽鈴木儀平さん自身に、一番驚いたということですね。

木本 少しだけふれてなかったかな。戦争へ行ってる時に、お母さんから手紙で故郷のいろいろなことを知らせてくれたと。それで帰郷してから故郷のことを調べるようになったと、そんな話が、テープ起こしの中にも入ってなかったかな。

廣瀬 さっき岡本さんが言ったように、菩提寺出身の人は外に出てから、菩提寺の偉大さがわかると思うんですよ。 私の従兄弟が長浜の国友に住んでるんですが、外に丁稚奉公に行って、「国友」という地域は火縄銃を作っていたところだということを知ったそうなんです。そ の後、火縄銃を集めて、研究会を立ち上げ、今は自分で火縄銃を作ったり、江戸時代の科学者として知られる国友一貫斎の天体望遠鏡を京大の先生方にも協力し てもらって復元したりしています。

植中 私は、「暮らし」と章立てされた「菩提寺蹟の変遷」という部分を担当したんです。この近くにお住まいの戦 後に入植したという知り合いがおられるんですが、そのお話からすると、先達のしてこられたことは、すごいなぁと思っています。本当に昔の方のあれこれが あって今の状態があるんだなぁというのを思いました。
それと、今の小学生たちに、地元の歴史、ふるさとのことを教えてほしいですね。娘の一人は北海道にいるんですが、北海道は多くが明治以後の開拓で、歴史 は浅いけれど、人口数千人ほどの小さな町でも、町史などで自分たちの歴史を大事に記録なさってるんですね。今、孫もいますが、その孫に母親のふるさとはこ んな所だったんだよというのを伝える意味で歴史散歩が完成したら送ってやりたいと思いますね。

▽今の時点では、今年秋には完成を予定なさってるんでしたか。

田中 その前にPRのチラシを作って、予約を回してみてはどうかな。どのくらい読みたいと思う人がいるのか、わからないし。

▽完成を楽しみにしております。本日はお集まりいただき、ありがとうございました。
(2010年4月25日)


※10 龍池藤兵衛 天保11年(1840)、甲賀郡菩提寺村に生まれる。明治5年(1842)戸長(村長にあたる)となって後、菩提寺山の治山事業にあたる。約300haのハゲ山の植林を計画し、失敗をくり返しながら、全山緑化に成功した。
※11 ハゲシバリ カバノキ科の植物ヒメヤシャブシの別名。根に根粒菌が共生していてやせ地でもよく育つため、ハゲ山の緑化に用いられた。龍池藤兵衛が、明治17年(1884)水田を用いて栽培に成功、菩提寺とその周辺で大量生産が行われ、他県にも輸出された。


編集後記
101号を記念して、カラー印刷です(次号以降もその予定)。前号の発行から9カ月近く間があいてし まい、新刊がたまったため展覧会などの催しを紹介するインフォメーションコーナーはお休みしました。情報をご提供いただいている博物館等各位、誠に申し訳 ございません。なるべく季刊での発行を心がけますので、今後ともご愛読のほどよろしくお願いいたします。(キ)

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