近江旅支度

城下町彦根の建設と鳥居本

小野から旧鳥へ宿場の変更

 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、江戸と京都を結ぶ重要な街道として東海道と中山道の宿駅の整備を始め、慶長7年(1602)中山道に、公用の継立場にあたる伝馬の制度を定めました。この年から400年を迎えた平成14年(2002)には、6つの宿場を持つ滋賀県をはじめ街道沿いの各地で400年記念のイベントが大々的に開催されました。
 江戸から63番目の鳥居本宿は、番場(現坂田郡米原町)と高宮の間に位置し、それぞれ約1里1町、1里半の距離があります。下矢倉村からは北国街道へ、南端の百々村からは朝鮮人街道(彦根道)が分岐し、まさに交通の要衝として発展してきました。
 鳥居本に宿場が置かれた時期については、いままでは小野の宿場が宿駅の機能を長年果たしていたと伝わっていましたが、このほど、彦根城博物館の調査によって、慶長8年(1603)に彦根に地割りをするために江戸からやってきた奉行嶋角左衛門が、小野宿で本陣を務める庄兵衛に、鳥居本に宿を移すように命じたという記述が確認されました。
 慶長7年(1602)7月幕府の命によって奈良屋・屋が中山道宿々の駄賃銭を定めた際には、小野村が伝馬継所とされていましたが、翌年には鳥居本に宿が移され、小野で代々本陣を務めていた寺村家が鳥居本宿の本陣を務めるようになったのです。(右上写真文書)
 鎌倉時代の『実暁記』では、守山・武佐・愛知川・番場・醒井・柏原の6宿が登場し、同じく鎌倉時代の『十六夜日記』には守山・野洲川・鏡・小野・醒井の地名が見られ、いずれも、中世の東山道の宿駅として存在し、中山道の宿駅制定後も宿場機能が続きましたが、高宮と鳥居本には、江戸時代になって新しく宿場が設置されました。
 一旦、小野に宿駅を命じた後に、幕府が鳥居本に宿を移すことを命じた背景には、彦根城下町の建設計画と密接なつながりがあったのです。直政の戦功で、佐和山城を拝領した井伊家では、佐和山城を改修することも視野に置きながらも、湖岸に近く、城下町を形成しやすい彦根山に築城することを決め、築城と同時に城下から中山道に出る脇街道のルートについてもこのとき決められたのです。

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