2016年 7月 4日

武将といえば石田三成

発信力に乏しい、素材を生かし切れていないなどと、これまで滋賀県は情報発信力がうまくないといわれてきた。ところが本年3月から県がユーチューブで配信している武将コマーシャル「石田三成」には100万回ビューという驚異的な人気が集まっている。意を強くした滋賀県は、たちまち第2弾を制作し、これもさらなる人気を集めているという。

これまで、石田三成ゆかりの長浜・米原・彦根の3市が三成の魅力を全国に発信しようと、情報誌「MEET三成」やFB「三成会議」で全国の三成ゆかりの地に参加を呼び掛けてきた。そして昨年春には、地元観光業者の協力で三成のイラストをラッピングした「三成タクシー」の運行も始まっている。
このタクシー乗務員は特別な講義を受け、一定水準の基礎知識を持ったことが条件という厳しい資格試験があり、向学心いっぱいの利用者の満足を売ることに腐心していると聞く。
 
世界初の武将の宣伝という触れ込みで始まった第1弾のCMは昭和の雰囲気が漂いながら「武将といえば石田三成」の連呼に終始していたのだが、第2弾では、三成の実績についても詳しく紹介している。これまで、石田三成について論じた著作は実に多いが、ほとんどが、江戸時代、徳川によって作られた三成の悪人説を払拭するべくものであり、三成を「忠義の臣」としてとらえている。

ところが、こうした三成論に異を唱えるのが長浜城歴史博物館館長の太田浩司(ひろし)さんで、著書『近江が生んだ知将 石田三成』には「私は彼を『忠義の臣』として捉えるるのは、正しくないと思っている。(中略)三成が有能な政治家であり、官僚であれば、新たな日本の国家像について、明確な方針をもっていたはずである。高い志を掲げる政治家や官僚が『忠義』という二文字だけで果たして行動するであろうか。私は三成を、そんな姿に矮小化したくない」とし、「三成は戦国という世が持っていた社会構造を打破し、その上に新たな政治・経済システムを構築した政治家として評価したい」と述べられる。そして著書では、とくに三成が目指した改革とその精神に言及されている。

武将CMの制作者が本書を参考にしたかどうかは承知していないが、東軍メガネをはずして三成を見ようではないかと訴えているのは、大変うれしい。CMでは、江戸時代に作られた「ずるい、つめたい かたい」イメージではなく「やさしい かしこい あったかい」が見えるでしょうと迫る。構成は現代的な訴え方であるが、戦国武将のイメージ戦略を追求している。判官びいきではなく、三成の実績を真正面に取り組んでいるのは特別なファンならずとも痛快である。

三成人気は圧倒的に女性が支えており、関連イベントも女性の来場者が多い。地元佐和山城研究会の田附(たづけ)清子(すがこ)さんは、三成命というべき信奉者で、永年三成を追い続け、多くの関連著作を持つが、大河ドラマ「真田丸」に三成が登場してくると「私だけの三成がいよいよみんなの三成になる」とつぶやく。

一方、作家の松本匡代さんは三成と大谷吉継の友情を『石田三成の青春』として上梓。カバーイラストは漫画家もとむらえりさんが描いた。三成タクシーの利用者の多くが女性だとも聞く。一過性のブームに終わることなく、三成が求め続けてきた社会構造改革の意思を、現代に即した手法で引き継ぎたいものである。
(2016年4月19日京都新聞夕刊「現代のことば」より)

2010年 2月 16日

手話を守り抜いた高橋潔

琵琶湖の西、比叡山のふもとの琵琶湖霊園に「指骨」と大書された墓所があり、ここに手話教育に生涯をささげた高橋潔さんが眠る。建立したのが川渕依子さんとそのご家族。

川渕さんは、父「高橋潔」のこと書くために滋賀作家クラブで文章のイロハを学び、1967年、高橋潔の生涯を伝記小説『指骨』として出版。本書の序文は、聾者を主人公にした「名もなく貧しく美しく」を撮った松山善三監督が飾っている。

その後、1983年には、ご自身の手話通訳者としての立場をも織り交ぜた『手話は心』を出版され、さらに高橋潔氏生誕110年の2000年には『手話讃美-手話を守り抜いた高橋潔の信念-』を当社から発行させていただいた。

『手話讃美』は、たちまちに完売となり、永年増刷を求める方が多いが増刷までには踏み切れないでいた。まことに申し訳ない限りである。ところが、こ の出版記念会席上、手話でご挨拶された山本おさむ氏著の漫画『わが指のオーケストラ』4巻は、この時すでに大きな波紋が生まれており、その後、手話の本場 フランスで翻訳され、より多くの人々の中に手話を守り抜いた高橋先生の記憶が刻まれていくのであった。

そして本年傘寿を迎えられた川渕さんが、高橋潔生誕120年、元大阪市立聾唖学校創立110周年の本年に、「書き尽くしたとは思うが、それでも父のことを最後に記したい」と、このたび『高橋潔と大阪市立聾唖学校-手話を守り抜いた教育者たち-』を出版された。

6歳のころから育ててもらった父が亡くなって3年後、父との思い出をノートにでも綴り残しておきたいと思い、相談した叔父から「高橋潔を除いて日本 の聾教育界は語れない。そこを書くのだ。お前が書かなくて誰が書く」と諭され、本書にも多く引用されている高橋潔著『宗教教育に就いて』を渡された。
さらに「ちゃんとした著作として出版するのだ。そのためには大阪市立聾唖学校の先生方から高橋潔のすべてを聞き、大阪市立聾唖学校がどのような方針で来た かを聞き、日本の聾教育界をよく理解することだ。簡単ではないが、依子が親孝行したいというのなら、これが一番の親孝行になる」と励まされた。
これが、川渕さんの高橋潔氏の信念を著した発端となり、次々著作が生まれた。

皮肉にも、川渕さんが生まれ、結婚後に暮らした滋賀県では、高橋潔氏とは相反する「口話法による聾教育」が採られていた。そして全国各地の聾者の教 育機関が「聾唖学校、盲聾学校であったが、滋賀県では、「聾話学校」が昭和3年に創立され、近江商人の末裔の西川吉之助氏が多くの私財を投入して運営され ていた。

口話法による聾者教育は、高橋潔の手話教育と対峙したものであり、生涯、高橋潔は手話による心の教育の必要性を訴え続けてきたのである。本書では、 高橋氏の手話を貫き続けた様子とともに、高橋の教育信念を支え、ともに聾教育をけん引してきた教育者の実績を紹介している。いずれも東北学院の同窓生で、 英文科専攻というのも、手話がその後、多くの人々の中に溶け込んでいった要素が大きかったという。

米国に渡り、ヘレンケラー女史に進められて指文字を作った大曾根源助、苦労しながら渡仏して本場の手話教育を学び、多くの研究成果を発表し、先進的 に手話劇を上演した藤井東洋男、そして藤本敏夫、松永端、加藤大策らの活躍の様子とともに川渕さんの彼らへの思い出が連なって構成されている。まさしく本 書は、日本の聾教育界の足跡を示したものといえよう。現在、日常的に手話が見られるが、先人の滲むような苦難がうかがえる。
2010年2月15日朝日新聞で、「デフライフジャッパン」創刊、ろう者が編集、という記事が載っていた。相次ぐ雑誌の休刊の中、うれしいニュースである。世界の人々が、手話を通して自由に話せることは、素晴らしく大きなうねりとなろう。
今回の著作では、手話による心の教育を貫いた教育者の素顔が力強くあふれ、大きな感動を呼ぶものとなり、何よりも川渕さんのご両親への感謝の気持ちがあふれている。

3月初旬には、川渕依子さんの出版を祝う会が開催されるが、当日はまた楽しい手話劇が拝見できることだろう。

『高橋潔と大阪市立聾唖学校-手話を守り抜いた教育者たち-』は3月初旬発売

2008年 8月 29日

用田政晴さんの受賞

大津市のハン六財団は、毎年学術・文化・スポーツに多大な貢献を行った人々を顕彰し表彰しています。
オリンピックイヤーの本年は特別賞にフェンシングで日本発のメダルを獲得した太田選手が受賞。
そして学術部門では、
『琵琶湖をめぐる古墳と古墳群』
『信長船づくりの誤算-湖上交通史の再検討-』
『丸子船物語』
の著作のある用田政晴さんが受賞。おめでとうございます。

琵琶湖博物館開設準備室時代から現在にいたるまで、まさに琵琶湖博物館の誕生から係ってこられた新鋭の研究者です。
さらなるご活躍を祈念申し上げます。

2008年 6月 12日

趣味の集大成を本に

大津市在住の澁田義行さんの著書『近江の山野草』が瞬く間に完売。
定年後、山野草写真入門講座や里山自然観察会で植物のことと撮影についてを学び、その間、山行きは400回を超え、撮影した500点をこのたび『近江の山野草』として出版された。
関西一円に配布される情報誌に紹介されたことも大きく影響し、めでたく昨日で在庫切れとなった。もう少し出るかとは思うが、増刷は少し困難だと判断し悩みながら澁田さんのご連絡したところ、「初期の目的が達成したのですから」とすこぶる謙虚なご返事をいただき安堵する。
そして本日、ご来社され、さらに今後の計画をお話いただいた。澁田さんの山歩きと山野草撮影はまだまだ続くようである。

2007年 10月 4日

京都 美山に魅せられた山崎昌伸さん

京都美山のかやぶきの里の風景や芦生の自然に魅了されて絵を描くことを決意された山崎昌伸さんの詩画集『心の詩(うた)』が完成した。

繊維会社を退職後スペイン各地を旅し、その後に訪れた美山に大きな感動を受けたといわれ、野山の植物を描き続け、知人らに送った絵手紙は2600通に及ぶといわれる。

そして、『里山百花』を通じて作者の江南和幸さんとの出会いがあり、このたびの発行となった。

自然に風情が漂う植物に添えられた温かいメッセージが全体にやさしい雰囲気になり、作品展会場で、お願いすれば、好きな植物を描いてもらえることも多くのファンに支えられている原因のようである。

10月12日から美山かやぶき交流館で、作品展が始まり、ここで発売される。
ようやく秋めいてきた今日この頃、さぞかし美山の秋は美しいことだろう。

2007年 4月 11日

滋賀県産業支援プラザHPで紹介

滋賀県産業支援プラザのホームページでは、近江商人の共通の理念である「三方よし」を実践している企業を紹介しているが、このたび当社もここで紹介されました。
三方よし実践企業紹介
お暇なときにご覧ください。

サンライズ出版ではNPO法人三方よし研究所の事務局があり、5年前から、NPO法人のメンバーのみなさんともに、近江商人の企業理念の普及に努めていますが、自分からこのように実践しているというのはどうにも気恥ずかしい。

このところ「三方よし」を企業理念に掲げる企業は激増していることは嬉しいことではあるが、言葉倒れにならないよう、日常の仕事の中で常に地域の中で企業も一市民としてどうあるべきかということを実践するべきであることを改めて肝に銘じているしだい。

2006年 12月 9日

乾憲雄さんおめでとうございます

淡海文庫①『淡海の芭蕉句碑』の著者の乾憲雄さんが、中日社会功労賞を受賞され、今朝の新聞にはにこやかな乾先生の受賞談話が掲載されていた。
やさしいお話しには定評があり、先生が主宰される歴史散歩はいつも盛況である。それがなんと300回以上も継続開催されていたという。
こよなく芭蕉さんを愛し、自坊を芭蕉さんの寺と自認されるほどのほれ込みようである。
平成3年、滋賀県人会発行の「全滋蓮」という機関紙の創刊と同時に乾先生にご執筆いただいた「淡海の芭蕉句碑を歩く」が、芭蕉没後300年の年、淡海文庫の創刊を飾っていただいた。

先生の熱心なご推挙と乾先生のファンの温かいご指示で、淡海文庫の存在が世間に知れるところとなり、おかげさまでシリーズ36号まで発行が続いている。
ますますお元気で楽しいお話をお聞かせいただきたいものである。

2006年 11月 16日

浅見素石さんを偲んで

本年5月にお亡くなりになった浅見素石さんを偲ぶ会が催された。
「葬式は不用」「戒名もいらない」「納骨をしないで散骨して欲しい」ただし「残した作品の展覧会だけは開催してもらいたい」というご遺志によって、「びわこ疏水とさざなみの会」の皆さんのご尽力で15日から23日まで、大津市歴史博物館で「浅見素石遺作展」が開催されている。
昨日夕刻にはNHKですでに遺作展の様子が伝わり、今朝の朝刊にも報道されていた。

博学、博識な方で、物欲は少なく、探求心が旺盛、そしてこよなくお酒を楽しまれた浅見先生にふさわしく和やかな「偲ぶ会」であった。昨年には、びわ疏水とさざなみの会の設立20周年を記念して発行された『よもやまばなし琵琶湖疏水』が最後の著作となった。

すでに当時腰痛に悩まされおられたが、とにかく話を始めるととめどなくお続けになる方だけに、出版までの間の期間、先生のお話を伺うことができる多くの時間をいただいたことを心から嬉しく感謝している次第である。

以前に『近江の玩具』でも大変お世話になったが、10数年前に取材に伺ったことが始めての御出会いである。大津市が北緯35度線上にあることから35度線上の都市を訪問しようという企画がもとあがっていた当時である。そして淡海文庫が誕生したときでもあった。「淡海文庫」生みの親のお一人である池内順一郎さんがこの時の取材に同行されていた。つい先日のように思える野田が池内先生も彼岸の人、ちちのようなやさしさと厳しさでご教示いただいた方を失ったことの寂しさと同時に、過ぎ去った時間を懐かし区感じたものである。

言葉に表しようのない画然かつ稜々とした浅見先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

2006年 9月 1日

秋口保波

一向に機運が高まってこない彦根城築城400年祭のイベントではあるが、関心の高い市民も多く、先月末から10月1日まで、彦根市が誇る洋画家「秋口保波」さんの彦根城に集中した絵画展が開催された。

今回、展示された作品には、はじめて見る作品も多く、30年以上前の彦根の風景を懐かしみながら楽しんだ。父や中島正治(崖山)先生と同様に彦根城の遠望が多い。
どうにのもこのお城は天守閣が主役ではなく、彦根山と一体に周辺の景色や季節のうつろい、そして周辺の櫓群などの集合体としての魅力が大きいようだ。
小学生の頃、恐れ多くもこのえらい先生に絵の指導を受けていた。生来の才能のなさや絵に対する興味が少なかった性で、折角のご指導が浮かばれていないが、アトリエの雰囲気は今も鮮明に記憶に残る。

会場に掛かっていた、金属製の火鉢を前に和服を着込んで絵筆を走らす秋口先生の写真がことのほか懐かしく感じたものだ。先生お気に入りの明るい朱色が、どの作品にもスパイスのような雰囲気が感じられ、帰宅するや我が家のかかる、ケシの絵と新たな感激で対面したのであった。

秋口保波(あきぐちほなみ)
 明治30年彦根市芹川町生。昭和51年享年没80歳。大阪信濃橋洋画研修所に入り、小出楢重、黒田重太郎らに指導を受け、野口謙蔵らとも親交。春陽会審査員。滋賀県を代表する洋画家の一人。

2006年 7月 6日

嘉田由紀子さん滋賀県知事に

開票が始まるやぐんぐん得票数が伸び、10時過ぎには当選確実。

誰もが予期しなかった事実だというが、支援者は堅く信じていた。しかし、決して万全な戦いぶりではなかった。それでも多くの人の心に響いた「もったいない」

最終日は県外に出かけていたので気がかりであったが。翌日早くに帰彦。
彦根事務所では、開票に向けて準備態勢づくりの最中。
「どうやらいけそうよ」「いいムード」になってきたよ」
皆の顔がほころび深刻さはほとんどない。
確証はできないが、いい風の流れがかんじられていた。

朝からの大雨で投票率は伸びていないのが気がかりであったが、前回より多く、
そして当選。
とにかくよかった、県民の気持ちが大きく動いたのだ。

かつて、琵琶湖での赤潮の発生とともに大きなうねりが市民の中から生まれた時と同じような小さな声が大きなうねりになったような感じがする。

一夜明けた今日、嘉田さんは各地への挨拶周り、昼前には彦根事務所にこられた。
激戦の疲れも見せず、いつもの嘉田さんの笑顔。
事務所のご近所にもくまなくお礼に走る。
講演会事務局長のKさん、ともに戦った各地の女性議員の皆さんも皆いい顔をされている。

勝負はついたが、本当の勝負はこれから、
嘉田さんのこれからは誰もが心配する。

新幹線は起工式を済ませ、工事業者も決定している。
議会の大半が現職を支持した選挙
どれひとつとっても克服する課題が山積する。
長野や徳島のようにならないことを願うばかりである。

組織がない中、自然発生的に誕生した選挙運動であっただけに、頼まれたのでもなく集まった支持者。
嘉田さんの長年の琵琶湖での活動の成果の結集であったといえよう。
おめでとう嘉田さん。そして皆様ありがとうございます。

1 / 212

最近の記事

カテゴリー

ページの上部へ