2008年 4月 08日

門外漢の近江文学史 その2

 前回で述べた第1次連歌ブームの時に、二条良基と並んでその中心にいたのが、近江源氏・佐々木一族から分かれた京極家の当主、京極導誉(道誉とも)です。足利尊氏の第一の家臣として、室町幕府の要職につくと同時に、一流の文化人としても知られていました。連歌においては、最初の准勅撰連歌集『菟玖波集』編纂の後押しをし、その功績もあって同集には81句もの句が収録されています。
 『菟玖波集』に収録された京極導誉の句をあげてみましょう。
  よその里にも衣うつ音 海士(あま)のすむ芦屋も舟も程近し  導誉法師
 この句は、『源氏物語』の須磨の光源氏の侘住まいを連想しての作品とされています。導誉にとっても、『源氏物語』は当然ふまえておくべき基本でした。
                                                                      それ以外に数が多くて目立つのは、香道の薫物(たきもの)を詠んだ句です。
  煙になりて匂ふ焼きもの その姿富士と伏籠と一つにて  導誉法師
 これは、煙をくゆらせる伏籠(ふせこ)の姿は富士の山のようだとしたもの。
  これはふせこ(伏籠)の下のたきもの 君がためひとり思となるものを  導誉法師
 香道の歴史においても、京極導誉は欠かせない存在です。神保博行著『香道の歴史辞典』によると、導誉の婆娑羅(バサラ)ぶりが、この分野でもきわだっていたことがわかります。「(『太平記』の記述に)両囲の香炉を両の机に並べて、一斤の名香を一度にたき上げたれば、香風四方に散じて、人皆浮香世界の中に在るが如し…とるのは、風狂を超えた振舞いというほかない。普通、香をたく時は、馬尾蚊脚の小片をたくものである。一斤(およそ6800グラム)の香木とは狂気の沙汰である。財による道誉の香木収集は異常であって、石帯、仏座などの銘をもつ香木は、彼がそのものを割ってたいた香木であると伝えられている。仏罰をも恐れぬ所業である。世に道誉所持と称する香木は177種あるが、これは後に足利義政の有に帰している」(同書より)
 ただ、導誉の香木収集は、彼の連歌や『源氏物語』を好む趣味と一体のものだった気がします。香道の形式が整えられた宗祇たちによる第2次連歌ブームの頃には、「香木の鑑賞が、和歌をはじめ古典文学の教養を基礎とするものであり、さらに古典に題材を求め、その主題を香木のもつ味とイメージによって表現しようとする組香の方式が主流」(同書)となるのですから。香がたびたび登場人物の心情を表す『源氏物語』は、『古今和歌集』とともに組香の主な題材になりました。
                                                                      では、導誉はなぜ『源氏物語』を好んだのでしょうか。
 導誉が出家する以前の正式な名前は、「源高氏(みなもとのたかうじ)」といいます。同時代に佐々木惣領家の六角氏当主だった六角氏頼(うじより)も連歌をたしなみ、『菟玖波集』に入集していますが、彼の句には「源氏頼」と作者名がついています。公文書への書名にはすべて「源」姓が用いられました。「佐々木」は荘園の名を、「京極」「六角」は屋敷の所在地を、他の源氏と区別するために名字にしたものにすぎません。
 佐々木氏系図のよれば、宇多天皇の息子である敦実親王の息子、雅信が「源」姓を賜り、その孫の成頼が近江に下ったのが彼ら佐々木氏=近江源氏の祖とされています。『源氏物語』に唯一書かれている実在の人名が「宇多帝(うだのみかど)=宇多天皇」です。その息子「桐壺帝」の第二皇子が、「源」の姓を賜って臣下に下ったのが主人公「光源氏」(光は彼の人相を見た高麗人がつけた通称)。導誉は、『源氏物語』を自らの先祖の周辺を描いた物語と受け取っていたはずです。
 源氏は『源氏物語』好き。
 当たり前みたいですが、今まで聞いたことがないので書いています。
 鎌倉時代の北条氏は「平氏(平家)」、室町時代の足利氏は「源氏」、織田信長は「平氏」、豊臣秀吉はどっちでもないので後陽成天皇から「豊臣」姓を与えられ、徳川家康は「源氏」。
 織田信長と『源氏物語』の接点のなさは、そちらの教養の持ち主も多い戦国武将としては珍しいぐらいなんですが、文芸方面に才能がなかったというだけでなく平氏だからなのでしょうか。前回にも名前を出した北村季吟(近江出身の『源氏物語』注釈書作者)は、徳川幕府に召されて初代の御歌学者となります。
                                                                      話は変わりますが、次のような句も『菟玖波集』に収録されています。
  待てばこそ鳴かぬ日もあれ子規(ほととぎす)  導誉法師
 どうです。この発句。どこかで聞いたことあると思ってしまうでしょう。
  鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす  織田信長
  鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ほととぎす  豊臣秀吉
  鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす  徳川家康
 よく知られた信長・秀吉・家康の句は、江戸時代後期に肥前(長崎県)の平戸藩主だった松浦静山が書いた随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に出てくるもので、贈られたホトトギスに添えた紙に書かれていたとされています。もちろん3人の作ではなく、後世の創作で贈り主が考えたか、聞いたかしたものでしょう(上記の一般に知られている歌は、それをさらに現代風の口調になおしてある)。その作者が『菟玖波集』を読んだわけではなく、おそらく偶然似てしまっただけなのでしょうが、これら3人(に対する一般的なイメージ)に比べると(一番気が長いような家康の句でさえ、「…しよう」という意思が感じられます)、導誉は、より平安貴族的な感性の持ち主だったとはいえそうです。

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