2008年 10月 10日

連歌師と『のぼうの城』―門外漢の近江文学史 その4

 前回6月16日以来、間があきましたが続きの「その4」です。
 まず、前々回にあたる「その2」で書いた「信長・秀吉・家康のホトトギスの句に似たのが京極導誉の連歌の発句にありますよ」の件で、出典とされる『甲子夜話』全6巻(平凡社の東洋文庫に入っている)を図書館で借りてきて、ザーッと目を通しました。
 連歌関係では、巻三の21にこんな話が記されています。本能寺の変の直前に愛宕山で明智光秀がおこなった連歌の時の懐紙は、その山房に伝来していた。ところが、今年、幕府付きの連歌師・阪昌成に尋ねてみると、寛政の末に焼失してしまったと言っていた。 「貴むに足ざるものなれど、旧物なれば惜むべきなり」と感想を記しています。
 それから、巻三十五の8に、知人が「北村氏は流石、今江戸の宗匠ほどありて朗吟す」と言ったといって、北村季文の和歌が2首記されています。
 ふみも見ぬをどろがおくの住かたに
   おやにつかふる道はありけり
 露さむきさゝのしのやのおきふしも
   おやをぞ思ふ身をばおもはず
 北村季文は、近江出身の国学者・北村季吟の5代後(季吟―湖春―湖元―春水―季春―季文)にあたります。
 そして、巻五十三の8に例の話が記されていました。全文引用すると以下のとおり。
                                                         
 夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く?[りっしんべんに力3つ](表示できず、読みも不明)へりとなん。
  郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
  なかぬなら殺してしまへ時鳥   織田右府
  鳴かずともなかして見せふ杜鵑  豊太閤
  なかぬなら鳴まで待よ郭公    大権現様
 このあとに二首を添ふ。これ憚(はばか)る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
  なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
  なかぬなら貰て置けよほとゝぎす
                                                         
 後の2首はあまり面白くないですが、当時の役人の名前をあてて無能さを揶揄したものだったのでしょうか。
                                                         
 話は変わりますが、ベストセラーとなっている和田竜さんの小説『のぼうの城』に登場する、のぼう様こと主人公・成田長親の従兄弟で、成田家当主・忍(おし)城城主だった成田氏長は、連歌好きなのですね。といいつつ、新聞の一段取りの広告欄で書名をよく目にするだけで、小説自体は未読です。『ビッグコミックスピリッツ』で連載が始まった漫画版の方の、第1回最終ページのセリフで知って書いています。
 これは歴史的な事実で、HP「家紋World by 播磨屋」で「成田氏」を見ると以下のようにあります。
                                                         
 氏長は連歌に親しみ在京の連歌師(里村)紹巴に連歌の合点を請い、『源氏物語廿巻抄』を贈られている。また、和歌を冷泉明融に学び、古今伝授を受けるなど、かなり教養の深い武将でもあった。氏長の連歌の友に豊臣秀吉の右筆山中長俊がいた。天正十八年(1590)、小田原籠城中の氏長に長俊が再三開城を促す書状を送ったことは有名である。
                                                         
 前述の『甲子夜話』でも話題にのぼった明智光秀の愛宕百韻に、宗匠として招かれた連歌師が里村紹巴です(この連載「その1」でも書いたとおり)。
 冷泉明融は、『源氏物語』の藤原定家による自筆本を文字の配列や字形に至るまで忠実に写し取った臨模本を残した歌人として知られているそうです。
 氏長の妻は太田資正(太田道灌の曾孫)の娘だそうですが、最近出た小川剛生著『角川叢書40 武士はなぜ歌を詠むか』(角川書店)[こちらは一応ザッと読みました]には、太田道灌が東国にくだった冷泉為和(明融の父)を師匠として和歌を学んだことが書かれています。
                                                         
 要するに、公家文化に憧れる関東の戦国大名たちも連歌や和歌、その基礎として源氏物語を愛好したというわけです。

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