2014年 5月 25日

小波の世界――石井桃子と中野重治

 前回、曖昧な予告をした石井桃子の本について。
 最初に断っておくと、私は子供時代をテレビと漫画ばかりで過ごしたので、絵本や児童文学について語るものを持っていない。そもそも、私が小学生の頃に『くまのプーさん』を読んだとしても、あのプーたちの会話のおかしさをおもしろがることができたかは怪しい。石井桃子を読んだのは成人して以降だ。私が石井の生地である浦和に住んでいた頃。彼女の文章で繰り返し中山道の旧宿場の「北のはずれ」と書かれる生家があったあたりは、私がいた頃には市の中心部といってよく、私が暮らしたアパートはさらに北、もとは別の村の、たぶん麦畑だっただろうところ。
 石井が幼時を回想した『幼ものがたり』(福音館書店 1981年)が手元にある。1990年の9刷。ぺらぺら拾い読み。母に抱かれている自分の顔だけがぶれている家族写真を撮った時、函型のカメラの横に立つ「知らない男の人」が幼い彼女に「ほら、ここから、とと〔幼児語で鳥の意〕が出てきますよ」というようなことを盛んに語りかける。前々回の当ブログで書いたフランス語cui-cuiの使用法に近いではないか。彼女だけ動いて顔がぶれたことは覚えていたが、こんな部分は忘れていた。
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 さて、去年の夏に公開された宮崎駿監督『風立ちぬ』を観たら、石井桃子の小説『幻の朱い実』(岩波書店 1994年)が思い出されたので、再読した。
 両者とも時代設定は昭和初期、若い女性が結核で死ぬ物語。
 後者が前者の女性の側からのアンサーソングともとれる。
 「アンサーソング」なる言葉は、小説や映画の場合にも使ってよいものか自信がないが。
 かたや夫の負担にならぬよう告げもせずサナトリウムにもどることを選択する女性。
 かたや女友達の来訪を受けながら、恨み言もふくめた長い長い手紙のやりとりを続ける女性。
 『幻の朱い実』は20年近く前の作品だから、前後が逆だ。なら、堀辰雄の小説『風立ちぬ』の方はというと、主人公の一人称の語りはあまりに「彼女」の存在がおぼろで(この場合は否定的な意味でなく)、それはそれで結びつかない。
 ちょっと脱線して、二つの『風立ちぬ』について。宮崎駿版は、堀の小説を「原作」とうたっていないが、小説の読者で好きな人は多いであろう「ただ彼女をよく見たいばかりに、わざと私の二、三歩先きに彼女を歩かせながら森の中などを散歩した」という一節は、シーンとして取り入れればよかったのに。
 2、3歩ひいた位置から女性をしげしげ見たいという欲求を実行すると、多くの場合、彼女に気持ち悪がられるから、やむを得ず間にキャメラを置いたのが映画である……と定義してもまったく嘘ではない。似たことを当サイトの「義仲寺には参ったのか?」の回でホセ・ルイス・ゲリン監督の言葉として引用したと思う。
 避暑地で再会した二人が歩く。菜穂子の顔かたちや手足の動きに見とれた(小説版の主人公ほど擦れていないから、自分の反応に自分で驚きつつ)二郎が少し距離を置いて、彼女を観察する(彼女にはいぶかしがられつつ)というふうであれば、キャラクターの性格上も可能だったのではないか。木漏れ日の下、二郎目線で菜穂子の表情と動きを追うカットを若手のアニメーターに好きに描かせたら記憶に残るシーンになったと思う。
 『幻の朱い実』でも、蕗子が明子の後ろ頭に見とれていた。冒頭の二人の出会い(正確には再会)の場面。蕗子は明子の髪に指を入れながら、「いつかこの髪にさわってみたいなあと思っていたんだ」と笑い、女子学生時代、校庭での朝の合同体操の時に、明子のとけた髪がゆっさゆっさゆれるようすが好ましく、見学組の席から「いつほどけるか、いつほどけるか」と楽しみにしながら眺めていたことを明かす。
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 去年の6月頃から3カ月おき程度の間隔で、河出書房新社から石井桃子の随筆集が計4冊出た。『家と庭と犬とねこ』、『みがけば光る』、『プーと私』、『新しいおとな』。単行本初収録の文章も多いので、読まざるをえない。
 石井桃子について、一般的な関心をひくなら、太宰治が死んだあと、井伏鱒二に「太宰君、あなたのことがすきでしたね」と言われて、「私なら、太宰さん殺しませんよ」と答えた女性ということになるのだろう。先の随筆集の中では『みがけば光る』に「太宰さん」という一文が収録されている。
 しかし、私は太宰治に興味がない。石井桃子もそうであることは、先の一文を読めばわかる(好意をいだいていたとすれば、井伏と太宰の関係に対してである)。小説の『幻の朱い実』でもわかる。同棲していた新進作家を評して蕗子が「訛(なまり)のあるひとって、同郷の人にしか恋がささやけないと思わない?」と言い、明子が大笑いする場面がある。この新進作家は横光利一がモデルとされるが、この口さがない女友達同士の会話のエピソードに関しては太宰をネタにしたものだろう。
 生涯(101年!)独身だった石井は、ある日出会ったバスの車掌(女性)について、「私には、その人の身のこなしや、話しかたが、――そして、顔が――あまり魅惑的に見えたものだから、ほかの人が、私とおなじように、その人に見とれていないのがふしぎだった」「私が、男なら、その人をおよめさんにもらいたくなったところではないかと考えると、おかしくなる」(『家と庭と犬とねこ』収録「思い出の車掌さん」)とも書いているが、そうした性的嗜好が理由でもない。
 私の頭の中で、石井桃子とつながる作家は中野重治だ。これは特段変わった見方ではなく、石井自身が「ある機縁」(『中野重治全集』月報に寄稿。のち『石井桃子集』「7 エッセイ集」に収録)という文章で、「中野重治さんは、私が、これまでに、自分から押しかけていってお会いした、ただひとりの作家である」とし、自分が訳した『クマのプーさん』(当時の題名は『熊のプーさん』)など数冊を渡すまでの経緯を書いている。
 その訪問のすぐあと(1941年)、中野は「子供の本雑談」という文章で、『熊のプーさん』など数冊の児童文学の書名と作者名、挿絵画家名をあげて、自分の素人目にも西洋の挿絵の方が質が上のように思えるから、日本の童話作家と挿絵画家に支払われる稿料をあげるべきだと書いた。
 今度の石井の4冊の随筆集でも、中野重治(のクセのある文体)が感染っている文章にいくつか出会う。それなのに、「ある機縁」が収録されていない。現在、『石井桃子集』「7 エッセイ集」は、岩波書店のホームページを見ると、「品切」(全7巻のうちで一番売れたからだろうが)で「重版未定」扱いになっている。かなりの割合で河出書房新社版4冊に再収録されてしまっているから、岩波はもう重版しないだろう。
 岩波少年文庫『クマのプーさん』の今も書店で出回っているはずの版の巻末には、1985年に加えられた〔付記〕で、挿絵を描いたアーネスト・H・シェパードが1976年に亡くなったことが報じられると、「シェパードの挿絵を愛していらしった故中野重治氏」から石井に便りがあったことが書きそえてある。
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 私が中野重治を読んだきっかけは、榧野八束著『近代日本のデザイン文化史 1868-1926』(フィルムアート社)に引用されていた中野の小説の文章を気に入ったからだ。同書の奥付を見ると発行は1992年(ついでに、ネットで著者の「榧野八束」を検索すると2年前に亡くなられていた。1927年以降の続編を待っていた時期もあるのでショック)。
 引用されていたのは中野の自伝的小説とされる『梨の花』(1959年)で、主人公の良平が一升徳利を下げて酒屋から帰る道すがら、彼の暮らす村の中が描写される冒頭。良平は、村のはずれに立つ板塀に貼られた広告看板を見つめる。人の顔の絵が入ったものが三つある。「仁丹」と「大学目薬」と「ダンロップタイヤ」の広告だ。良平には三つの顔のうちでダンロップタイヤの「おんさん〔おっさん〕が一番偉いような気がする」。
 こう要約してしまうと伝わらないが、広告看板に描かれた顔を子供の目線で仔細に説明しているのがおかしかった。時代は明治40年代、タイヤは自動車用ではなく自転車用である。
 例えば、先の『幻の朱い実』のゆれる髪や女性車掌に目を奪われる石井の文章から、私は中野の「髪の毛と愛人」という短文を思い出す。「愛人」は中国語で、恋人の意。
 1957年、文学者の中国訪問団に加わった中野は、オサゲの本場(?)中国で、美しいオサゲを見た。ここでも、まず列挙がある。草野心平、桑原武夫、中島健蔵の著書名とそれぞれに掲載されたオサゲの写真の撮影地をあげて、それぞれに美しいが、それ以上の美しいオサゲを見たという。「いったい、彼らには、それをひと目見るだけの仕合わせさえあたえられなかったのだろう。それをこの私が見た。いいことはしておくものだとさえ言いたくなる」とまで書くので、読むたび笑ってしまう。
 昼の街の通りをひと組の恋人たちが歩いてくる。19歳くらいに見える女性は2本のとても長いオサゲにしている。ふっさりしたそのオサゲが歩きながら揺れ、1本が男性の方へなびく。その端を「青年がつまんだ。つまんだが、つまんだことを青年は意識していない。娘の方も、つままれたことを、ほとんど意識しない」。「ふたりとも前向きのままで、青年はその弧の先をつまんで保って、そうやってふたりは話しながら歩いてきて、すれちがってから私はふり返った」。
 同じ頃に、それぞれ別の入口から読むようになって近しいものを感じていたら、本当に近かった二人なのだが、並べて語られた文章を読んだことがない。孤独になった時のgoogle検索。名前をスペースあきで入力して検索すると、東京子ども図書館の機関誌「こどもとしょかん」のバックナンバーがヒットした。同類を探そうと思ったのだが、直接の関わりが見つかる。
 『幻の…』で結核を患う蕗子のモデルとなった友人の死後、彼女が住んでいた家を譲り受けた石井は、そこを子供たちに読書の場として開放(「かつら文庫」)した。それら都内の4つの家庭文庫を母体に1974年に発足した「私立」図書館が、東京子ども図書館。
 「こどもとしょかん」1980年春発行の第5号と夏発行の第6号に「中野重治氏にきく」1と2が掲載されている。「在庫あり」の記号はついていないので、滋賀県立図書館のホームページで県内図書館蔵書の横断検索をかけてみる。県立図書館には、1985年秋発行の第27号以降しかない。県内で唯一、東近江市内の図書館のひとつ、湖東図書館に創刊号からすべてそろっていた。
 1の副題が「子供はけちな人間に育たねばならぬ義理はない」、2の副題が「子供に真実を与えるやり方にあんまり愛敬がなさすぎる」。1回目冒頭に「これは一九七七年六月十七日、東京世田谷の図書館会館の一室で、中野重治氏が約五十人の図書館員、編集者を前になさったお話の記録です」とある。中野は1979年8月没。2回目の記事の最後には、筑摩書房の『中野重治全集』全28巻から、子どもの文学や国語教育について書かれた文章27篇の巻数とページ、発表年月をつけた詳細な目録がついている。全集完結を待って、作成・掲載されたかたちだ。
 まず、講演前に図書館側から手渡された最近の児童書を読んで、それに対する感想を述べている。これが中野の鴎外や茂吉に関する書き物を読んだことのある者にはわかるだろうが、文章の一節ごとに気になるところをあげていくやり方なものだから、非常にまとめづらい。結論部分の発言をあげる。
 「子供がこういうふうなものを読んで育つことに、私は反対せざるを得ない。子供というものはもっと大きな可能性を持っているもので、非常にけちな人間に育たねばならん義理はないんだ」「この頃のけちな大人が並べる屁理屈なんてものは、まあたかが知れたものですよ」「子供にはもっと大ぼら話とか、大うその話とか、(中略)そんな話を聞かせてやりたいですね」。
 児童文学の研究書などにはすでに「歴史」として書き込まれているのかもしれないが、抽象的・情緒的でユーモアのない小川未明以降の児童書を嫌っていた石井は中野と共闘しようとしていたのだと思う。
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 話変わって、というか、ここからが今回タイトルに関わる滋賀がらみの本題。
 石井の随筆集4冊のうち、最後に出た『新しいおとな』収録の短文の一節に、
「〔小学校にあがると〕私は小波の世界のお伽噺などにうつつをぬかした」
とある(初出は東京子ども図書館発行『おしらせ』)。
 巻末には今回新たに読みにくい漢字にはふりがなをふったとあったが、「小波」にふりがなはない。若い読者に意味が通じるのか。「小波の世界」なる言い回しがあると了解して先に進みそうだと思ったあとで、「コナミ」でも意味が通ってしまうところがおかしくもある。けれど、石井が小学校に入学したのは1914年。
 小波は「さざなみ」と読み、巌谷(いわや)小波という人物をさす。つまり、「私は巌谷小波が著した『世界のお伽噺』という本などを読みふけった」ということだ。
 最初に紹介した『幼ものがたり』も石井は、小学校にあがると学級文庫の中にあった「小波山人(さざなみさんじん)〔小波の初期のペンネーム〕の再話になる『日本昔噺』や『世界昔噺』、また『アリス』の再話や『アラビアン・ナイト』」に出会ったところで終わらせている。
 巌谷小波は、本名巌谷季雄。近江国水口藩の医師で、維新後、明治政府の役人になった巌谷一六の三男として明治3年に誕生。明治24年、日本児童文学のさきがけとされる『こがね丸』を発表。3年後、雑誌「少年世界」主筆となり、『日本昔噺』全24篇の刊行開始――水口町(現、甲賀市)の教育委員会が編集・発行、弊社が制作・印刷を請け負った『日本のアンデルセン 巌谷小波』(2003年 非売品 町内の小中学校に配布)が手元にあるので、まだまだ書ける。
 生まれも育ちも東京だが、父祖の地にある琵琶湖にちなんでその別名を筆名とした。
 「さざなみ」は枕詞でもあって、
  さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
という平忠度(たいらのただのり)の歌が頭に浮かぶのはお定まり。
 ここに至って、『幻の朱い実』を読んだことのある者は驚かざるをえない。
 主人公・明子から結核療養中の慰めにと「愛すべき幼い動物たちの『お話』」を翻訳した原稿を与えられる親友・蕗子の姓が、遷都から壬申の乱までわずか5年の短命に終わったために往時をしのぶ歌がくり返しつくられた「志賀の都」と同じ「大津」であることに。
 山桜ならぬ家の門口にからみついた蔓からぶらさがるカラスウリの実に目をとめたことから、明子は大津蕗子と出会い、その死後も鈴なりのカラスウリの実とともに彼女との日々を思い出す。
 と、書いたそばから恐縮だが、以上は書かないのも惜しい気がするので書いた法螺話にもならぬ与太話。大津は、モデルとされる女性の姓、小里(おり)をひねったものだろう。
 一方、中野重治の『梨の花』では、10歳の時点の良平が巌谷小波のお伽噺と彼に関して書かれた記事を相手に長々と(文庫本で5ページほど)頭を悩ませ、時に怒る。村の大地主の家の三男から借りた『少年世界』のその号では、巌谷小波が腸チフスで入院したことが報じられ、全国の子供らからのお見舞状とそれに対する小波のお礼が掲載されている。良平には、子供らが「小波おじさん」という書き出しで、見舞状を書く感覚がわからない。それに対して、小波が「地獄の門のところまで行ったけれど、閻魔大王が、まだまだ、もう一ぺん帰って、坊ちゃん嬢ちゃんのお相手をしろということだったので、帰ってきました」と書いているのを読んで、「なんじゃい。嘘じゃろう……」と思う。10歳男子の反応として正しい。
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[追記]2014.7.5
6月末に尾崎真理子著『ひみつの王国 評伝石井桃子』(新潮社)が出た。
書店で手にとって、まずは巻末の人名索引で「中野重治」の項をひいた。
カバーに使われているヘンリー・ダーガーは、石井と中野の趣味じゃないだろう。
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[追記]2014.11.24
 普通に考えて、プーさんの挿絵画家E.H.シェパードやピーターラビットのビアトリクス・ポターの系譜といえば、日本だと林明子(ある時期以降の)だろう。
 プーと仲間たちの姿について、ミルンが「(シェパードは、子ども部屋にあった)実物のモデルをもとに、動物たちを絵にしたわけです。(中略)この動物たちを発明したというより描写したのです」(『ぼくたちは幸福だった―ミルン自伝』研究社出版)という言葉に、律儀にしたがうかのように、林は『こんとあき』(福音館書店)の挿絵を描くにあたって、ぬいぐるみの「こん」を製作している。
 林には、瀬田貞二作で画を担当した『きょうはなんのひ?』があるし、宮崎駿はずっとファンだと公言している。
 林と宮崎の対談が収録されている『素直にわがまま』(偕成社)では、もう一つの対談の相手、五味太郎の「写生というのをしたことがない」という発言に対して、林は「その姿をうっとり視線でなぞるということもないわけ? たとえば、その首のなんと細いことか、あのふくらはぎの線のなんと美しいことか、とか……」と返す。
 そこから私は、先に引用した「髪の毛と愛人」という文章で、中野重治が中国滞在中に見た美しいオサゲについて「私はほんとは描きたいのだ」と書き添えていることを思い出す。
 『ひみつの王国 評伝石井桃子』によって、中野重治ファンだったことを知った瀬田貞二に興味がわき、非売品の『旅の仲間 瀬田貞二追悼文集』(1980年)を、古書店のネット通販で購入(「旅の仲間」という書名が、瀬田の翻訳した『指輪物語』に由来することぐらいはわかったが、私は『ナルニア国物語』も含めて、瀬田訳のファンタジーを読んだことがない)。
 『ひみつの王国』によれば、「センチメンタルな書き方をしている人が多かったから」、石井はこの追悼文集を「気にいらなかった」そうで、「私が死んでも、こういう文集は絶対に作らないように!」と周囲に申し送りしたという。それは事実なのだろうが、実際に『旅の仲間』を読んでみると、「センチメンタルな書き方」が鼻につく文章は思いのほか少なく、執筆者個々が接した瀬田にまつわるエピソードの数々によって、文集全体の印象はとても明るい。
 例えば、陸軍病院の衛生兵となっていた頃、定時制中学の教え子たちが訪ねていくと、屋外で談笑の最中、瀬田はむしった一本の草を両手で曲げたり引っ張ったりして離さない。理由をきかれると、ニコリと笑い、「軍隊ではね、両手に物を持っている時は、敬礼をしなくてもよいのだよ」と答えたとか。
 瀬田が愛唱していたという中野重治の詩「あかるい娘ら」を、平凡社勤務時代の後輩が引いている。「わたしの心はかなしいのに/ひろい運動場には白い線がひかれ/あかるい娘たちがとびはねている(中略)そのきやしやな踵なぞは/ちようど鹿のようだ」。
 今月下旬、石井桃子が1950年代に発表した童話と少女小説をまとめた『においのカゴ』(河出書房新社)が出た。収録作の一つ、「心臓に書かれた文字」(1958年)は、長編『幻の朱い実』のプロトタイプだと誰もが思う設定だ。次のようにある。
  だれが若い日に、美しい少女を快くながめなかったろう。
 もちろんながめました。――というわけで、若い女性に見とれるのはよいとして、ヘンリー・ダーガーではないだろう。描かれた対象が幼女であることを問題にしているのではない。新潮文庫の『中野重治詩集』に詩人の小野十三郎が寄せた解説の中にちょうどよい一節があった。「(中野の詩に希薄な)非情とか冷酷さということもセンチメンタリズムの一変態である場合が多い」。ダーガー本人については知らないが、その作品にはこの手合いをひきつけるところがある。

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