2008年 11月 11日

単なる木切れと思っていた木簡、実は……

来月発行する『地方木簡の世紀』。
夏に安土城考古博物館での展示と講演会の記録を1冊の本にするお仕事で、
担当者から「いやぁ、展示は木が並んでいるから地味ですよぉ」と言われていた通り、
木簡のことをほとんど知らない私にとって、展示はホントに木切れが並んでいるだけで、
「フーン、こんなに大きいのやら、切り込み入れた棒切れなんや」という感覚でしか
ありませんでした。

でも、講演を聞き、そして仕事に取り掛かって少しだけですが、理解できました。
まず、木切れは要件を書きとめて、用が終われば、折って捨てられたりするもの、
再利用したり、字を書く練習をするために、木を削って何度も書いたりしていたりしていた
のですね。だから、発掘をして出てくる木簡は棒状のものから削りかすまでいっぱいある
わけですが、それをひとつひとつ読んでいくわけらしいです。

かすれて読めない字は□□となるわけですが、赤外線テレビカメラで見ると、かすれた文字が
解読できたり、パズルを解くようにして文字を読み説いたりして、ひとつずつ古代の歴史が
解明されていく大事な史料なんですね。

そこで、西河原遺跡群から出土した木簡はどんなものがあるかといえば、
まず稲の運搬を馬で運ぶ予定を舟で運んだという木簡があります。
荒神山の麓・平留(彦根市石寺)から中主の西河原まで
琵琶湖を丸木船で運んだのですね。
また、「出挙」(すいこ)をあらわす「貸稲」の文字が書かれた木簡があるということも
知りました。「貸稲」というのは、農民に種もみを貸し付けて、
収穫時に利息をつけて返してもらうというもので、
当時、木簡は借用証書でもあったわけです。

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