新撰 淡海木間攫

其の十五 近江商人の社会貢献「塚本兄弟の頌徳碑(しょうとくひ)」

塚本兄弟の頌徳碑

 今からわずか百年ほど前、琵琶湖の周辺には荒れ果てたハゲ山がひろがっていました。その最大の原因は、江戸時代の後期以降に激化した燈火用の松根の乱掘にあると考えられています。こうしたハゲ山は、降雨のたびに山肌が洗われて大量の土砂を流出したことから、滋賀県の河川の多くは、川底が周囲の平野部よりも高い天井川となってしまいました。天井川はふだんは伏流水化して田養水を得にくくする一方、いったん豪雨になれば、たびたび堤防が決壊して、人々の生活を重大な危機にさらしていたのです。

 こうした状況が深刻化した明治時代の中期、これを大いに憂い、その解決のために莫大な私財を投じた近江商人があらわれました。塚本合名会社(現在のツカモト株式会社)の当主定次と弟の正之こそ、その人物です。兄弟は神崎郡川並村(五個荘町)の出身で、湖東の秀峰・観音寺山を見て育ったことから、治水の肝要は治山にあると確信し、砂防・植林の費用として滋賀県に莫大な寄付をおこなったのです。それは明治二六年から大正時代にまでおよび、寄付額は滋賀県の当該事業費の半分にも達しました。

 塚本兄弟は治山治水はもとより学校の建設や道路の改修等の公共事業にも、莫大な私財をなげうちました。こうした社会貢献を惜しまなかった多くの近江商人の活躍こそ、今日の豊かな滋賀県を築き上げた、重要な原動力のひとつであったことは疑いありません。忘れ去られるには、あまりにも惜しいではありませんか。

安土城考古博物館 学芸課学芸員 北村 圭弘

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