新撰 淡海木間攫

其の二十八 日吉山王二十一社本地仏(ひえさんのうにじゅういっしゃほんじぶつ)

小禅師宮 彦火々出見尊

  「あなたは日本の国教をご存知ですか?」

 こう尋ねられて、即座に明快に正解を答えられる人は少ないのではないでしょうか。今、日本に国教はありません。憲法で「信教の自由」を認めているからです。江戸時代は仏教が国教でした。寺檀制度は幕藩支配体制の一翼を支える役割をも果たしていました。

 かわって明治政府は伊勢神道を頂点とする神道国教化政策をはかり、明治元年(1868)以降、一連の神仏分離令を発布しました。これは神社の中から仏教的色彩を排除することを目的としたものです。「別当」「社僧」と呼ばれた神社にいた僧侶はいったん還俗し「神主」「社人」に名称変更すること、神社から仏像・本地仏*・鰐口・梵鐘を取り払うことなどが命じられました。しかし、それにとどまらず廃仏毀釈運動につながり、堂塔・伽藍や仏像・仏画・経典などが破却や焼却されました。本県においても、坂本の日吉大社では仏像・仏具などおびただしい数のものが取り上げられ焼却されるなど、各地で数多くの貴重な文化財が失われる残念な結果となりました。

 さて、今回紹介する資料は、廃仏毀釈の時代をくぐり抜けてきた「日吉山王二十一社本地仏」(室町時代、高月町井口・日吉神社所有)です。中世の本地垂迹思想により造られた小像群で、21躯のうち19躯が伝存します。

日吉山王二十一社本地仏 彫像としてあらわされた「日吉山王二十一社本地仏」は全国的にも例がなく、これをほぼ揃えた本小像群は学術上貴重であり、数少ない神仏習合時代の遺品として、また湖北地方の中世史を考える上でかけがえのない資料といえます。

 写真の童子の姿の像は「小禅師宮 彦火々出見尊」です。袍衣を着て髪を角髪に結い、左手に宝珠をかかげ右手には錫杖をもちます。約20cmの小像ながら、明るくあどけない可憐さと神々しい森厳さをあわせもつすぐれた彫刻といえます。

*「本地垂迹説」は、「日本の神は、仏教のホトケが人々を救うため仮に神の姿をとってあらわれたもの(垂迹身)であって、

  各神々にはそれぞれ呼応する本地(本体・本来)の仏教尊がある」というもの。
 「本地仏」は、この思想によって造像された各神々に対応する仏像。

高月町立観音の里歴史民俗資料館 学芸員 佐々木悦也

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