新撰 淡海木間攫

其の二十五 羽柴秀吉朱印状 長浜町惣中宛 秀吉も食べた鮒鮓

秀吉朱印状

 この秀吉朱印状は、長浜町衆が贈った陣中見舞の食品への礼状である。年号はないが、「筑前守」という受領名と、秀吉の署名の下に押された鮮やかな朱印から、天正十二年(一五八四)四月十五日に記されたものであることが判る。この時秀吉は、楽田城(大垣市楽田町)に滞在していた。この年の三月に始まった小牧合戦のために、小牧城(愛知県小牧市小牧町)一帯に布陣していた徳川家康・織田信雄連合軍と対峙していたのである。長浜町衆は、この対戦中の秀吉に陣中見舞として、近江名産の「鮒鮓」一折を贈った。

 鮒鮓は、腹開きにして浮き袋などを出した雌のニゴロ鮒を、塩漬けの後に酢飯に漬けて長期間熟成して自然発酵させたなれずしである。一種独特の臭気があり、好き嫌いが分かれる食物でもある。奈良時代の『養老令』(七一八年)の賦役令の中に税として納めるべき、近江鮒の量 が規定されており、これが鮒鮓の最古の資料であるといわれる。その製法は、古代からほとんど変わることがない。

 鮒鮓は、徳川家康からの礼状も残っており、贈答品として使用されているため、貴重な蛋白源の保存食として、戦国大名をはじめ当時の人々の食卓に上ったと推定される。

 また秀吉が贈られた「一折」は、薄く削った板を折り曲げて作った折箱「一箱」ではなく、檜の薄板を折り曲げて作った「折櫃」一合と推定される。形は四角形・六角形・円形・楕円形とさまざまで、檜葉を敷いて魚などを入れ、隅に作り花などを立てて飾りとしたという。

 この朱印状は、本文は右筆という秘書官が書いたものだが、「秀吉」の署名は秀吉自身が書き、自ら朱印を押したものであろう。秀吉と長浜町衆の密接な関係がよく伺える。

 もと長浜町年寄保管文書と推定され、明治時代に長浜町長をつとめ、汽船「湖龍丸」と「長運丸」の船主で、長浜小船町に居住した「尾板家」に伝来したもの。

市立長浜城歴史博物館 学芸員 森岡栄一

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