新撰 淡海木間攫

其の二十七 やってきた御本尊 ―永正寺 阿弥陀如来立像―

阿弥陀如来立像

 ここにとりあげるのは、栗東市上鈎(かみまがり)にある浄土真宗大谷派永正寺の本尊阿弥陀如来立像です。

 このあたりは長享元年(1487)に、六角高頼(ろっかくたかより)征伐のため室町幕府九代将軍足利義尚が自ら出陣した鈎の陣の故地とも伝えます。しかし、現在の永正寺に直接つながる存在が確認されるのは永正(1504~1521)頃以降のことです。寺伝によると、永正7年(1510)に本願寺第9世実如(じつにょ)より十字名号(帰命尽十方旡碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)の10字を書いた掛軸)等をさずけられ、道場となす許しを得ました。当初は「鈎郷道場」と称したようです。のちに、東本願寺を建立したことで知られる教如(きょうにょ)より寺号(○○寺と名乗ること)と木仏安置(木造の阿弥陀像をまつること)の許可を得ています。

 天下統一を目指した織田信長は、その過程で本願寺を中心とする一向一揆と対立しました。湖南でも金森・三宅(現守山市)を中心に一向一揆が活発な活動を見せます。最終的に一向一揆は平定され、その後、政権側の支援をうけていくつかの寺内町・村の再建が進められました。永正寺のある上鈎寺内もそのひとつです。

 本像について、永正寺に伝わる文書に次のような話が記されています。世は徳川に定まり、寺内としての体勢も整ってきた元和2年(1615)3月15日、ひとりの見慣れぬ僧が当地を訪れ、阿弥陀如来像を授けるといずくともなく去っていきました。皆はこの僧を「応僧」(神や仏が姿を変えた僧)かと思い、像は比叡山の慈覚(じかく)大師(円仁、794~864)の彫刻した霊仏とされたことから、「当寺に因縁あるをもってこれを安置し本尊と為」したというのです。木仏をまつる許しを得ても、いまだ本尊となすべき仏像を用意できていなかったところに、本像が迎えられたのかもしれません。

 さて本像は像高 81.3cm、凛とした顔立ちで、姿のととのった堂々たる作品です。鎌倉時代初頭の高名な仏師である運慶や快慶の流れを引く仏師によって造られたと思われます。製作時期は鎌倉時代の13世紀半ば過ぎ頃と推測されます。慈覚大師とは時期があいませんが、このあたりは平安時代半ばから天台の影響を受けており、天台は宗教風土にしっかりと根付いていたのです 中世末の動乱は、多くのほとけたちの運命をもてあそびました。しかし戦火を生き延びたほとけたちは、やがてそれぞれに場所を得て大切に守られていったのです。 

栗東歴史民俗博物館 学芸員 松岡久美子

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