2007年 1月 28日

あなどるなかれ、琵琶湖の汽船

 例えば、一番手ごろな県の通史である『県史25 滋賀県の歴史』(山川出版社)には次の「 」内のように記されている。

 明治2(1869)年3月、「日本で最初湖上汽船一番丸が進水したのである」。

 明治16(1883)年9月には、大津―長浜間を結ぶ「鉄道連絡船として第一太湖丸(516トン)・第二太湖丸(498トン)を就航させている。わが国最初湖上鋼鉄船であった」。 両方とも威勢よく「日本初」とうたっておいて、すぐさま「湖上」と但し書きが入るもんだから、喜んでいいんだか何なんだか。「……まぁ、ローカルな話題なのだ」と了解せざるをえない。

 なので、中岡哲郎著『日本近代技術の形成 ―〈伝統〉と〈近代〉のダイナミクス』(朝日新聞社)の第七章「近代造船業の形成」は、まさに目から鱗。 曰く「汽船は川で誕生しました。当時の蒸気機関は大型で熱効率が悪く、船にのせても静かな川や湖で短距離を走るのがやっとだったのです」。そう初期の汽船は「淡水向き」なのだ。琵琶湖につながりそうでしょ。以下、長くなるけどつきあっていただきたい。

 外洋(海上)を走る蒸気船は、帆船に補助動力として蒸気機関をのせる形で始まる。アメリカのペリー艦隊も蒸気機関付き汽船であって、航海中に蒸気機関を使うのはわずか数日、途中に燃料である石炭の補給基地がなかった太平洋は渡れず、大西洋側から日本へやってきたわけである。1868年の時点でも、イギリス・フランス・ドイツの外洋船の大部分は帆船であり、船の積み荷のほとんどは石炭で、ごくわずかに人間や貨物をのせられるだけの汽船では、帆船には運送コストの面で太刀打ちできなかった。採算を度外視できる軍事輸送と、補助金付きの郵便船事業だけが何とか汽船利用を維持した。(以後、欧米の先進地では効率的な蒸気機関やディーゼル機関の改良が進んでいくが、後発国日本がすぐさまそれに飛びつけるわけはない。)

 明治3(1870)年1月、新政府の主導で始まった東京―大阪間の定期航路運航も、経営不振で翌年2月には多額の借金を残したまま解散。その翌年、半官半民の日本国郵便蒸気船会社が財政援助を受けて開業するが、3年後には解散。まだまだ外洋では、運送コスト面で江戸時代以来の菱垣・樽回船の方が有利だったのである。 一方、波がおだやかな瀬戸内海では輸送距離の短い小汽船海運が民間によって発展する。琵琶湖の一番丸より11カ月早い慶応4(1868)年4月、神戸―大阪間の定期汽船航路が開業(いや一番丸、けっこう早いよ)。1887年に姫路、1901年に下関へ鉄道が延びるまで民間海運業各社の発展が続く。 そして、同様の発展が起こったのが琵琶湖だった。一番丸就航から5年後の明治8年には複数の民間業者が林立し汽船は15隻に増える。船は徐々に大型化して50トン前後、最大は鉄道局が就航させた長浜丸114トンにまでなったが、大津―長浜間の鉄道連絡船には、鋼鉄船で約500トンという当時としてはケタ外れの汽船が2隻も必要とされた。そう、「わが国最初の湖上鋼鉄船」(名は「第一太湖丸」と「第二太湖丸」という)は、海上を含めても当時としてはすごい船だったのである。

 受注したのはE.C.キルビーというイングランド出身の人物が所有する神戸鉄工所。製造が着手された明治14年の段階で、このような船を造れる造船所は神戸鉄工所しかなかったから。
 以下は余談ながら、技術者や経営者の個人史的な部分も丁寧にすくいとっていることが、本書の面白さの一つでもあるので。

 キルビー本人はまったく造船技術は持たず、横浜と神戸に最初の食肉処理場をつくった人物として知られる実業家で、他の来日外国人が外国人技術者とともに経営していた造船所を買い取ったものだった。
 キルビーは、第一・第二太湖丸の成功をきっかけに、海軍から軍艦を発注される。キルビー側からの働きかけもあってのものだったが、2隻目の軍艦建造中に彼は多額の負債を残して自殺。海軍は神戸鉄工所を接収し、民間最高の造船設備と職工(外国人技術者は解雇)を手に入れた。
 この過程を著者は、「後発国における技術跳躍の困難のモデル」とみている。当時の日本の技術水準にあって大型鋼鉄船の建造には多額の資本投下が必要で、その消却のために以後も高価な製品の継続受注と設備のフル稼働を維持しなければならない。つまり、綱渡り的な経営をしいられつづけたなか、キルビーは不幸な最後を遂げてしまったわけである。

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