2008年 4月 01日

門外漢の近江文学史 その1

 去年から…ではなく、もう一昨年からか、ずっと、近江出身の連歌師宗祇(そうぎ)の関連書を読む必要ができて読み続けてきました。けっこう面白いので、仕入れたネタを連載してみます。あくまで素人の私が面白いと思ったことで、国文学を学んだ人にとっては、常識なのでしょうが。
  「連歌とはどういう文芸か?」といったことは、説明し始めると長くなるので、省略。
 大きなブームが室町時代に2回あって、それぞれで以下の撰集が編まれました。
・室町時代前期(南北朝時代)…二条良基らの撰で『菟玖波(つくば)集』
・室町時代後期(応仁の乱前後)…宗祇らの撰で『新撰菟玖波集』
 2度目のブームで中心的役割を果たしたのが宗祇。彼が連歌の作り方を述べた『吾妻問答』は以下のように構成されています。
  1 連歌における上古・中古・当世
  2 本歌の取り方
  3 源氏物語の付様
  4 名木・名草を付けること
  5 名所の句について
  6 付けにくい句
    (7~25 略)
  26 執筆のこと
  27 跋
 3番目に「源氏物語の付様」[付様(つけよう)とは、連歌での句の付け方のこと。『源氏物語』の内容をどのように句の中に盛り込めばよいかを述べている]があるのは、素人目には不自然な感じがするでしょ。
 けれど、当時の連歌詠み(プロアマ問わず)にとって、『源氏物語』は読んでいて当然の一般教養とみなされていたのです。物語の中に詠み込まれている和歌だけではなく、ストーリー全体が(だから、ダイジェスト版も出回っていました)。
 これは、鎌倉時代初期の歌人、藤原俊成が、ある歌合で「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と言ったことに始まったらしく、第1次連歌ブームの中心人物、二条良基も、連歌の本歌とりとして用いる際、『万葉集』の詞では「荒くれた」ふうになる、『古今和歌集』などの詞は優美なものだが「弱々しい」、美しくかつ生気のある『源氏物語』の詞が最善だと結論しました。
 そのため、連歌に親しんだ室町時代の守護大名やその家来らは、みな『源氏物語』を読もうとします。すでに彼らにとっても古典であった『源氏物語』は簡単には読めないものだから、宗祇たちによる講義を受けたりもします。
 応仁の乱や戦国時代を経ても、『源氏物語』が読みつがれたのは、連歌ブームのおかげだったのです。
 宗祇の次の世代、安土桃山時代の第一人者、里村紹巴は、本能寺の変直前に明智光秀がおこなった連歌会「愛宕百韻」に参加したことで有名です。近江国野洲郡北村(現野洲市)には、医者を本業としながら里村紹巴の門人だった北村宗龍という連歌の宗匠がいました。その息子も宗円といって連歌の宗匠となります。さらに、その息子にあたるのが北村季吟、『源氏物語』の注釈書『湖月抄』の作者として、源氏物語普及にたいへん大きな役割を果たした国文学者です。
 北村季吟の門人となった時期もあって石山の幻住庵で『源氏物語』を愛読書としつつ、豊富な古典の教養(=自分の俳句の元ネタ)をオモテにださなかったために「ずるい奴」と言われることもあるのが松尾芭蕉。
 俳諧連歌師として創作活動を始め、『源氏物語』のパロディ『好色一代男』で一躍人気作家となったのが、井原西鶴。
 それまでの先人による膨大な『源氏物語』の註釈をコンパクトにまとめた北村季吟の業績には敬意を表しつつ、宗祇も含めた先人の説教臭い註釈をこきおろしたのが、国学者・本居宣長。
 けっこう、日本文学史がたどれるのです。
                                          (つづく)

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