2010年 1月 02日

琵琶湖上で三上山に向かって「バカヤロー」と叫んだ中井正一

 11月のことだが、京都を拠点に活動しているバンド、モーモールルギャバンのファーストアルバム『野口、久津川で爆死』を買ったら、1曲目が「琵琶湖とメガネと君」という曲だった。メロディは全10曲の中で一番今のロックバンド風、キャッチーな曲にあたるのだろうが、歌詞はというと、岸辺にしゃがんで水面を眺めながら、彼女の視力を奪おうとたくらむ男の妄想。アルバム最後の「サイケな恋人」はさらに過激に女の子目線で彼氏を「あなたはゴミ 消えればいい」と歌うアンチ・ラブソング。
 メンバーは群馬出身2人、奈良出身1人とのことだが、京都の住人の創作物に現れた琵琶湖ということで、12月に読んだ本とで、二つまとめて紹介しておく。
 彦根市立図書館の新刊コーナーで見つけたのは、馬場俊明著『中井正一伝説─二十一の肖像による誘惑─』(ポット出版)。その後、アマゾンで購入(3500円+税)。美学者・中井正一の、日本初の帝王切開手術とされる特異な生誕の経緯から、戦後、国立国会図書館の副館長として法整備等に活躍し、52歳の若さで没するまでの生涯をたどった454ページの労作。
 広島県尾道に生まれた中井は、広島県高等師範学校付属中学校を卒業して、1917年(大正7)、京都第三高等学校に入学。ボート部に入部。三高ボート部といえば、「琵琶湖周航の歌」を生んだところ。中井と琵琶湖のつながりが生まれる。
 1922年(大正11)、京都帝国大学文学部哲学科に入学。やはり、ボート部に入部。
 翌年と翌々年には文学部のコックス(舵手)として、瀬田川で行われた同大水上大会に出場。琵琶湖畔にあったダンスホールにも出入りしたモダンボーイ。
 1926年、大学院に進み、結婚。
 1930年(昭和5)、『京都帝大新聞』に「スポーツの美的要素」を寄稿。
 これは、長田弘編『中井正一評論集』(岩波文庫)に収められた主要論文のうちで最初期のもの。
「(ボート競技のクルーが)敵艇の接近を一櫂一櫂とのがれゆく心境は、その進行する一艇に自分が乗れる意味で、蓋然より必然へと自らの艇を引きずる意味において、この外的現象は彼等クリュー(クルーのこと)の内面判断構造を具象化する。内なるものを外に見出す意味で深い象徴である」
といった、中井自身が瀬田川や琵琶湖の上で経験したことから導き出されたスポーツに対する考察は、その後も映画やジャズ、探偵小説、フォード車の最新モデルを率先して対象としていった彼にふさわしいものであるだろう。
 1932年、貴志康一らと前衛映画を制作。巻末年譜によると、同年7月、友人や息子とともに近江舞子(大津市)で水泳をしている。
 1935年(昭和10)2月、同人雑誌『世界文化』を創刊。
 1936年(昭和11)7月、能勢克男(京都在住の弁護士)らと月2回刊の文化新聞『土曜日』を創刊。
 1937年11月、治安維持法違反で中井ら4名が検挙(翌年6月に能勢ら2名も)。
 内務省警保局の記録によると、「(これらの雑誌・新聞は)表面合法を装うも其の真目的は所謂人民戦線戦術に依る共産主義社会の実現を企図しつゝ活動し居るものなること」が判明したので検挙したとなっている。
 1938年、警察の取り調べ。
 取り調べ検事が、検挙者のうち中井と和田洋一の2人は「どう考えてもマルクス主義者ではないので、起訴したのはまちがいだった」と言ったと後に和田は書いているそうだが、では中井は何主義者だったかといえば、いい意味でのモダニストだろう。
 1939年、保釈直前にジフテリアにかかり入院、自宅軟禁(療養)中に、次男4歳が病没。
 濡れ衣といってよい罪で自宅を留守にしていた間にさらなる不幸におそわれた中井は、釈放され保護観察生活を送るようになると、琵琶湖へおもむいた。子供を連れてヨットで琵琶湖に出ては、「遠くにかすむ近江富士(滋賀県野洲市の三上山。標高432m)に向かって、いつも『バカヤロー』と叫んでいた」と書かれている。
[小ネタ二つのつもりで書き始めたのだが、片方が予想外に長くなった。次回にもつづく]

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