2011年 9月 14日

昭和5年頃のベースボール

 星野博美著『コンニャク屋漂流記』(文藝春秋)は、東京・五反田でバルブ加工の町工場を営んでいた祖父が残した手記(自分史)を読むことから始まった、著者自身のルーツ探索の旅を記した本。「コンニャク屋」は先祖が一時、コンニャクを売る商売もしていたからついたらしい屋号で、祖父の前の代までは房総半島の漁師、その前をたどると、紀州(和歌山)から移住して来た漁師の一団があったことがわかり…。
 オビには「よその家のルーツ探しが、どうしてこんなに面白いのだろう。全国書店員も絶賛!!」とある。
 いっそ、ルーツ探索本ブームでも巻き起こしてくれると出版社としてはありがたいのだが、読んでるとイラッと来る部分がある。
 例えば、生業(なりわい)による人物の類型化。「はじめに」の中で、著者は「漁師」と「農民」を対比して、「大胆と臆病。楽観と悲観。おおらかさとせせこましさ。反抗と従順。挑戦性と保守性。開放と閉鎖」と、それぞれの性質を列挙(著者がどちらにシンパシーを抱いているかは、一目瞭然)したうえで、農家出身だった祖母が、もったいながって客の吸いさしの煙草を吸っていたエピソードを紹介する。身内だろうと嫌いなら嫌いでかまわないが、それを生家の職業のせいにしてどうする。去年までコメの兼業農家だった私は腹が立ったぞ。
 著者は、『転がる香港に苔は生えない』で第32回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したというが、どんな目で外国人を見てるんだっていう話でもある。
 こんな一文もある。「県史や町史というのは、これまでの人生でまったく縁のない書物の類だったが、興味を持って読み始めると実におもしろい読み物だとわかったのは小さな発見だった」(276ページ)。土地の歴史ぐらい調べて当たり前。ノンフィクションライターというのは、そんな楽な商売なのか。
 私が興味を持った部分も深みがなかったので、補っておきたい。
 第2章「五反田」の「五反田の赤い星」という節で、祖父・星野量太郎さんの手記からの引用がある。
 「その頃[昭和5~6年]、素人野球が流行しだした。工場とか商店或は町会等でチームを造った。私の工場でも人数は九人ようやくでしたが、チームを造れる様になった。」「然し試合場所取りに一苦労でした。朝早く起き、品川や芝浦埋立地迄行きネットを張って待機しなければならないのです。少しでもおそいと場所がなくなるのです。」
 アルバムに残されていた当時のユニホーム姿の写真も掲載されている。
 さて、私は大学生の時に、大正時代後期の埼玉県入間郡富岡村(現在の所沢市北部)青年団がどんな活動をしていたかを調べたことがある。都市近郊で野菜やサツマイモの栽培に勤しんでいた勤労青年たちは、陸上競技をしていた。年間事業費の約7割は体育部費で、団員の4分の3が参加、郡運動会の前には3週間の合宿まで行っていた。若者の間では、スポーツブームだったのである。最終学歴で考えると見逃すが、クラブ活動が勤労青年にまで広がっていた。
 国もこれを政策的に後押しする。大正13年(1924)には、11月3日が「全国体育デー」になる。同年から、明治神宮競技大会が開催される。競技者は、青年団、一般(学生含む)、軍人、女子のそれぞれから選出、種目は陸上競技、フットボール、ベースボール、バレーボール、バスケットボール、ボートレース、テニス、ホッケー、水泳、剣道、柔道、弓道、相撲、乗馬など。
 この流れは昭和に入っても引き継がれる。
 昭和5年(1930)には、政府が次のような行政指導まで行っている。
 一 工場、鉱山、会社、商店、官庁等の勤労者に対する体育運動を奨励すること。
 一 官庁、会社、銀行、工場等に体育指導者を置きかつ運動場を設けて運動実行の
   機会を多からしむること。
 一 体育運動に関する会やクラブ等の発達を図り、老若男女の運動に親しむ機会を
   多からしむること。
 一 各種屋外運動場、屋内運動場、武道場、山小屋等の体育的施設を奨励しかつ
   必要に応じてこれを助成すること。
 ここには、国民の健康を向上させようとする福祉国家的政策と、「過激思想に感染せしめざる」ための思想統制とが混在していた。企業の側も、社員の健康維持と不良化防止のために歓迎した。何より勤労者の側は、現代的な余暇の過ごし方としてこれを楽しんだ。
 以前、当ブログ(琵琶湖上で三上山に向かって「バカヤロー」と叫んだ中井正一)で書いたとおり、京都帝大生だった中井正一が瀬田川(大津市)でのボート練習の経験をもとに「スポーツの美的要素」を書いたのも、この年。
 東京は、2年後の昭和7年(1932)、オリンピックの1940年大会の開催地に立候補する。
 先の祖父のユニホーム姿の写真について、中国好きを自認する著者(中国ルポの著書もある)は、「左胸のあたりに大きな星のマークがついている。『星野』にひっかけたのだろう。星の大きさが、なんとなく社会主義国家のナショナルチームみたいだ」と書いているが、我田引水もいいところ。
 当時の東京に暮らす日本人勤労者の典型である。
 だいたい昭和史の概説書などには、昭和初期、全国中等学校野球大会や東京六大学野球が人気を呼んだといったことが試合写真をそえて書かれているのだが、それでは大学進学率が5%にも満たない時代に、一部エリート層だけがスポーツを楽しんだかのように受け取ってしまう。すそ野はもっと広がっていたことを示すために、こういう工員による草野球チームの集合写真でも掲載するべきなのだ。
 野暮を承知で説明しておくと、『コンチキ号漂流記』をもじった『コンニャク屋漂流記』という書名にならって、今回タイトルは、大江健三郎の『万延元年のフットボール』、村上春樹の『1972年のピンボール』、それから小田嶋隆の『1984年のビーンボール』を意識している。

コメントはまだありません

コメントはまだありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード。

最近の記事

カテゴリー

ページの上部へ