新撰 淡海木間攫

新撰淡海木間攫 其の六十二 大津算盤

大津市歴史博物館学芸員 高橋大樹

大津算盤(宝永2年 個人蔵 大津市指定文化財)

 時は慶長17年(1612)、ある一人の男が、新たに長崎奉行に就任した長谷川藤広に同行して長崎に旅立ちました。その男の名は、大津一里塚町(現、大津市大谷町)の片岡庄兵衛。このとき庄兵衛は、長崎に舶来していた明国の商人から一つの算盤を入手し、あわせてその製造技術を伝授されたといいます。その後、帰郷した庄兵衛は改良を重ねて日本型ともいうべき算盤を初めて開発しました。「大津算盤」の誕生です。

 大津算盤は、裏小板をはめ込み、釘や金具を使わず、上2つ・下5つの玉は弾きやすいように菱形に削るなど、高度な技術・製法をもって製造されました。また、その需要は、片岡庄兵衛が幕府勘定方の御用を務めるなどして増加していき、一里塚町周辺には片岡家だけでなく多くの算盤屋が立ち並ぶようになりました。そして、江戸時代を通じて東海道は大谷・追分付近の土産物としても広く知れ渡りました。

 写真は、片岡庄兵衛が製造したものではありませんが、同じく一里塚町で大津算盤製造に携わっていた美濃屋理兵衛製作の算盤。現在確認されている大津算盤の中で、最も古い宝永2年(1705)の銘が刻まれています。美濃屋には、大津算盤製作道具も伝わっていて、その分業工程が、『滋賀県管下近江国六郡物産図説』などにも描かれていてよくわかります。

 そうした大津算盤職人たちの画期は、嘉永7年(1854)にやってきます。株仲間の結成です。この時、片岡庄兵衛は、算盤屋や職人を統制する取締役に就任しました。もちろん、結成以前から庄兵衛は算盤屋を主導する位置にありましたが、このとき改めて、仲間の名前や所在地、庄兵衛による算盤製作や買い入れ算盤のチェック体制、さらには職人や弟子の統制までもが仲間内で確認されました。

 その後、明治時代には内国勧業博覧会に出品されるなど、大津算盤が改めて注目されますが、東海道線敷設にともなって一里塚町の一部も用地買収の対象となり、大正初年頃には製造されなくなり廃れていってしまいました。
 読み・書き・そろばん、算盤パチパチの歴史の裏に、その製造にかかわった大津一里塚町の片岡庄兵衛をはじめ算盤職人たちのドラマが見えかくれします。


●片岡家に伝わった古文書・算盤等は、当館で平成28年3月6日㈰まで開催されるミニ企画展「大津算盤をつくった人々(大津の古文書9)」で展示中です。

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