2010年 2月 16日

手話を守り抜いた高橋潔

琵琶湖の西、比叡山のふもとの琵琶湖霊園に「指骨」と大書された墓所があり、ここに手話教育に生涯をささげた高橋潔さんが眠る。建立したのが川渕依子さんとそのご家族。

川渕さんは、父「高橋潔」のこと書くために滋賀作家クラブで文章のイロハを学び、1967年、高橋潔の生涯を伝記小説『指骨』として出版。本書の序文は、聾者を主人公にした「名もなく貧しく美しく」を撮った松山善三監督が飾っている。

その後、1983年には、ご自身の手話通訳者としての立場をも織り交ぜた『手話は心』を出版され、さらに高橋潔氏生誕110年の2000年には『手話讃美-手話を守り抜いた高橋潔の信念-』を当社から発行させていただいた。

『手話讃美』は、たちまちに完売となり、永年増刷を求める方が多いが増刷までには踏み切れないでいた。まことに申し訳ない限りである。ところが、こ の出版記念会席上、手話でご挨拶された山本おさむ氏著の漫画『わが指のオーケストラ』4巻は、この時すでに大きな波紋が生まれており、その後、手話の本場 フランスで翻訳され、より多くの人々の中に手話を守り抜いた高橋先生の記憶が刻まれていくのであった。

そして本年傘寿を迎えられた川渕さんが、高橋潔生誕120年、元大阪市立聾唖学校創立110周年の本年に、「書き尽くしたとは思うが、それでも父のことを最後に記したい」と、このたび『高橋潔と大阪市立聾唖学校-手話を守り抜いた教育者たち-』を出版された。

6歳のころから育ててもらった父が亡くなって3年後、父との思い出をノートにでも綴り残しておきたいと思い、相談した叔父から「高橋潔を除いて日本 の聾教育界は語れない。そこを書くのだ。お前が書かなくて誰が書く」と諭され、本書にも多く引用されている高橋潔著『宗教教育に就いて』を渡された。
さらに「ちゃんとした著作として出版するのだ。そのためには大阪市立聾唖学校の先生方から高橋潔のすべてを聞き、大阪市立聾唖学校がどのような方針で来た かを聞き、日本の聾教育界をよく理解することだ。簡単ではないが、依子が親孝行したいというのなら、これが一番の親孝行になる」と励まされた。
これが、川渕さんの高橋潔氏の信念を著した発端となり、次々著作が生まれた。

皮肉にも、川渕さんが生まれ、結婚後に暮らした滋賀県では、高橋潔氏とは相反する「口話法による聾教育」が採られていた。そして全国各地の聾者の教 育機関が「聾唖学校、盲聾学校であったが、滋賀県では、「聾話学校」が昭和3年に創立され、近江商人の末裔の西川吉之助氏が多くの私財を投入して運営され ていた。

口話法による聾者教育は、高橋潔の手話教育と対峙したものであり、生涯、高橋潔は手話による心の教育の必要性を訴え続けてきたのである。本書では、 高橋氏の手話を貫き続けた様子とともに、高橋の教育信念を支え、ともに聾教育をけん引してきた教育者の実績を紹介している。いずれも東北学院の同窓生で、 英文科専攻というのも、手話がその後、多くの人々の中に溶け込んでいった要素が大きかったという。

米国に渡り、ヘレンケラー女史に進められて指文字を作った大曾根源助、苦労しながら渡仏して本場の手話教育を学び、多くの研究成果を発表し、先進的 に手話劇を上演した藤井東洋男、そして藤本敏夫、松永端、加藤大策らの活躍の様子とともに川渕さんの彼らへの思い出が連なって構成されている。まさしく本 書は、日本の聾教育界の足跡を示したものといえよう。現在、日常的に手話が見られるが、先人の滲むような苦難がうかがえる。
2010年2月15日朝日新聞で、「デフライフジャッパン」創刊、ろう者が編集、という記事が載っていた。相次ぐ雑誌の休刊の中、うれしいニュースである。世界の人々が、手話を通して自由に話せることは、素晴らしく大きなうねりとなろう。
今回の著作では、手話による心の教育を貫いた教育者の素顔が力強くあふれ、大きな感動を呼ぶものとなり、何よりも川渕さんのご両親への感謝の気持ちがあふれている。

3月初旬には、川渕依子さんの出版を祝う会が開催されるが、当日はまた楽しい手話劇が拝見できることだろう。

『高橋潔と大阪市立聾唖学校-手話を守り抜いた教育者たち-』は3月初旬発売

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